第七話「無視された呪い」
トントントントン。ノックが響く。幾ら昼間に眠ってるからと言っても、単調なその音は酷く耳障りに、何時までも夜の闇の中に響く。
「キリクス。キリクス、居るんだろう?」と、二週間無視し続けられた声は、焦ったように呼び掛けてくる。「返事をしてくれるだけで良いんだ。そら、声を出して」
僕は、キリクスに「あの声に何を言われても、絶対に返事を返しちゃいけない」と言い含めていたので、キリクスは何も言わなかった。
筆談と身振り手振りで会話をして、二週間目の後半のほうになると、声を警戒するでもなく僕は至って普通に執筆活動をしていた。
キリクスのほうは、お茶を淹れたり軽食を作ったり、郵便物の仕分けをしたり、古新聞を整えたりしていた。
日常的な物音がするのに、全然返事をしない標的に、「声」は業を煮やしたらしい。
「キリクス・フォークリッド! 居るのは分かっているぞ!」と、きぃきぃ声の叫びが聞こえた。
それでも、僕とキリクスは顔を見合わせて、口の前に一本指を立たせて見せあった。
やがて、三週間もかかる頃、声は虚ろになり、ぼんやりとした小さな囁きに成り、消えて行った。
その後も、僕は用心して、夜間の間はキリクスに喋らせなかった。
夜中に謎の声が聞こえると言う異変が起こってから四週間目。
ヴィノ氏が、アナントを返しに来た。アナントは、すっかり体調も回復したみたいで、預けられた時より少し太っていた。
「アナント。だいぶ食べたみたいだね」と、僕が声をかけると、「エリスは、アランより太っ腹だったからね」とアナントは答えた。
「キャットフードの既定の量を間違えてたんだ」と、ヴィノ氏は自分の失敗談を語ってくれた。
「目盛りの二百五十と三百を見間違えててね。ちょっと食べさせ過ぎてた。ダイエットのほうはよろしく」
「それは請け負った。だけど、僕達の方も、ちょっと変な事が起こってて」と、僕が話し出すと、ヴィノ氏は興味深そうに耳を傾けてくれた。
話し終わった所で、ヴィノ氏は「返事をしなかったのは正解だね」と感想を述べた。
「しかし、呪いに対して『無視』で勝つって言うのは、初めて聞いた。その声を気味悪く思ったりはしなかったのかい?」
「最初は不気味だったけど」と、僕は言葉を返す。「何が何でも、その状態で日常を送らなきゃならないって成ると、割と無視できるようになるよ」
それから、話を変えた。
「それより、アナントを追っていた『影』と『歪み』が何であるかは、分かったのかい?」
「ああ。その顛末も話そう」
そう言って、ヴィノ氏は久しぶりの「物語モード」に成った。
昔、この星には「洞の水」が溢れていました。生命エネルギーが過剰だったのです。最初にそのエネルギーを求め始めたのは、「蟲」達でした。
蟲達は、洞の中に潜り込み、「洞の水」を啜りました。まず、爆発的に蟲の数は増え、種類も増えました。
延々と「洞の水」を啜っていた蟲達の間で、やがて生存競争が始まりました。たくさんの洞の水を抱えた個体に、洞の水が足りない個体が襲い掛かり、食い殺したりもしました。
そして今存在する、「羽」達以外の蟲は存在しなくなりました。「羽」はこの星のシステムの一部に成りながら、今でも生命エネルギーを啜り続けています。
その一方で、食い殺された「蟲」達の持っていたエネルギーは、何処へ行ったでしょう。単純に考えれば、「羽」達に吸い込まれたと思っても良いのですが。
「羽」達の持っていたエネルギーは、黒い影のようになって、虫の住む洞の周りを覆うようになっていました。
最初は、自分達のされたように、影は蟲達を狙っていました。ですが、地上に動物や人間住むようになって、その内の一部が「蟲」や「洞の水」を操れるのだと知ってから、影達は地上の「力あるもの」を狙うようになりました。
そのため、霊力を持っているルシアの家の一族や、アナントのような猫達は、用心しないと「影」に付き纏われるようになるのです。
ヴィノ氏は其処まで話してから、「ルシア達は、生まれ持っての血筋と、『修行』に寄って能力を得るようだ。基本的には、あの家系は『触れて吸い取る』事が出来るだけだけど、大人になるまでに『やみくもに吸い取らない方法』を覚える。
それによって、子供の頃より『簡単に吸い取る』事は出来なくなる。けど、『影』から身を守るにはどうしたって能力をセーブする方法は必要だからね」と、纏めた。
「あのお坊さんは、『触れる』事は出来るみたいだったけど」と、僕が口をはさむと、「うん。それも、能力を使い分ける方法を学んだからだろう」と、ヴィノ氏は答えた。
ヴィノ氏が帰って行った後、僕は「アナントを追っていた『影』は、『蟲』達の怨念で、キリクスを追ってきた『声』は、恐らく『呪いを操る者』と言う事」と、手書きのノートに記した。
「どっちにしても迷惑な連中である」と、僕は結論を綴る。
一時的にであれ、危険は去ったと考えても良いだろう。
そう記して、ノートを閉じた。
そして数日以内に、それが本当に一時的であった事を知るのだった。
ある日の夢の中で、僕はアナントと一緒に、あの寺院に向かって散歩をしていた。灰色の、四角い街の中を。
「此処が、アナントが『影』に追いかけられてた町かい?」と傍らの相棒に聞く。
アナントは尻尾をピンと高く上げて、僕の数歩先を歩き、「そう。だけど、今日は『影』の気配はしないな」と答える。
「あんまり良くないもののようだから、追いかけられないのは良い事だね」と、僕は言う。
「まぁ、それもそうだ」と、アナントは相槌を打った。「それで、ルシアの居る寺院には、何の用事があるの?」
僕は答えた。
「影と歪みがあの寺院から来たと考えると、影と歪みを寺院に返す方法も分かるかもしれないと思って」
「そうかぁ。確かにその可能性を忘れていた」と、アナントは人間ぶって応じる。「ルシア達は、どうやって『影』や『歪み』を退けているんだろう」
僕は何と説明しようかと、当時に撮影した写真を思い出した。
「前に、写真を撮らせてもらった時は……」
そこまで言いかけると、アナントの尻尾がすっと下がり、耳と髭を一方向に向けた。
「噂をすれば『影』のお出ましだ」
アナントが言うように、彼の耳が向いた方角から、何やら黒い影が広がってくる。町中を黒く染めながら。
僕は、年齢には見合わない疾走を強いられた。アナントは僕よりさらに素早く、寺院へ向けて走る。
彼はちらっとこちっを見た。
「アラン! 急いで!」
その言葉の通りに、僕の背後には「影」が迫っている。
運動不足のせいか、ガクガク言う脚を必死に回転させて、僕は寺院の中に転げ込んだ。
先に到着してたアナントは、本当に地面に転げている僕の踵を、ちょっとだけつついた。靴の其処に一点、黒いシミがある。
「少しだけ持って行かれたね」と、アナントは言う。
僕は実際に革靴を脱いでみた。影の触れた部分は、靴を浸透していないようだ。
「靴だけで済んで良かった」と、僕は述べて、片方だけ脱ぐのも間抜けなので、両足から靴を引っぺがした。
寺院の中をよく見てみると、灯篭の他に、頭の丸い子供のような姿の、小さな石像がたくさんあった。
「なんだろう」と、僕は声に出してみたけど、生憎、相棒は全然違う方向に歩いて行っていた。「アラン。置いて行くよ」と、アナントは声をかけてくる。
僕は自分の疑問は然して重大な問題ではないと察して、アナントの歩く方向に従った。




