第三話「猫にマタタビ服用すかな」
春も近くなって来た。そして、アナントの様子がおかしい。ずっと、落ち着かない様子で部屋の中を歩き回って、顔をあちこちに向けて、耳の方向をキリキリと変える。
猫が挙動不審って言うのは、どう言う事だろう。発情期の雌猫を見つけたわけではないし、そもそもアナントはちゃんと去勢してある。
モフモフの毛皮に包まれていた、自分のお尻について居た丸い物が無くなっている事に気づいたときの、彼のリアクションは面白かった。
目をぐりっと開いて、瞳孔を真っ黒に広げた彼の緊張した顔は、「無い」と言っていた。
そんな事を面白がってたけど、落ち着かないって言うのは良い気分じゃないだろうと思って、僕はなるべくアナントに構ってみた。
いつも分けている茹で卵を、気持ち多めに渡してあげたり、何時も通りに体中をブラッシングしたり、赤ん坊みたいに抱きかかえて、あやし言葉をかけたり。
だけど、「赤ちゃんをあやす言葉」の類は、育児の経験が無いので全く思い浮かばない。
それに相手は猫だ。
なので、「ほーいほいほい。よーしよし」とか、「いーこだいーこだ。よーいよい」とか、本当に適当な声をかけた。
アナントは、「良し」や「良い子」が、褒められている言葉である事を知っている。
だけど、その時は全く落ち着く様子が無くて、僕の腕からも早々に逃げ出そうとする。そして何もない壁に近づいて、耳を澄ますのだ。
「何かあったのか?」と聞いてみても、アナントは忙しなくあちこちを見回すだけだった。
週末に、ヴィノ氏がまた僕達の家に来ました。その時のアナントの「狂いっぷり」ったら、ありゃしません。
愛しい恋人を呼ぶように、「みゃーおみゃーお」と鼻にかかった声で甘えて、自分の頭の天辺の臭腺を、ぐりぐりとヴィノ氏の仕立ての良いスーツに押し付けていました。
ヴィノ氏が困ったように抱き上げると、アナントはヴィノ氏の耳の裏の匂いを嗅ごうとします。
「人間の体臭は耳の裏からするらしいけど」と、僕は言いました。「耳の裏は洗ってる?」
「洗ってるよ。だけど、何だろう……。アナントの様子はずっとこんな感じ?」と、ヴィノ氏は聞き返してきます。
「ああ。ちょっと前から、落ち着きが無いんだ」と、僕は説明しました。「何かを探し回っているような様子を見せてる。何も居ない壁を見つめたり、耳をあちこち、変な方向に向けたりして」
「耳をねぇ……」と呟いて、ヴィノ氏は僕の部屋を眺めて回りました。そして、壁に触れようとする仕草をしてから、手を引っ込めました。
それから、彼はこう言いました。
「羽のついたアリが飛んでくる事はなかった?」
「いいや」と、僕はきょとんとして答えました。
ヴィノ氏は、アナントと一緒にあちこち見回しながら言います。
「じゃぁ、まだこの部屋は大丈夫なのかも。だけど、時間の問題だ。すぐに、新しく住める家を探したほうが良い」
理由を聞いたのですが、「その話は引っ越しの後で」と言われてしまいました。
そんなわけで、僕は長く住んでいたアパートメントを離れ、郊外からも離れたさらに郊外の、田舎の戸建ての家に住むことになりした。
幸い、僕は自動車の免許と、中古で買った車を一台持っていたので、公共交通が通って無くてもそんなに困りませんでした。
ヴィノ氏は運送業者を探してくれた他、荷物の運び出しまで手伝ってくれました。
そして、新しい家に少ないながらの家具を収めてから、ようやく種明かしをしてくれたのです。
「シロアリって知ってるかい?」と言う問いかけから始まり、僕が「聞いた事はある」と答えると、ヴィノ氏はこう言いました。
「あのアパートメントは、もう少しで丸ごと崩壊する所だったんだ。シロアリに柱と壁を食われてね」
僕はそう聞いて、「だったら、あのアパートメントの大家さんに報告すればよかったのに」と言ってしまいました。
ヴィノ氏は何時もの、目を閉じて、歯を見せずに微笑む表情を作ってから、「報告しても、結局は屋移りをする事になっただろうね。それより、アナントの様子は?」と聞いてきます。
その時は、アナントは新しい家に自分の匂いを付けるために、あちこちの壁に頭を擦りつけに行っている所でした。
「何時もの調子が戻って来たみたい」と、僕は報告して、溜息をつきました。
それからも、ヴィノ氏は僕達の家を訪れました。
彼は何時も、手頃なトランクを片手に持っていて、どうやら車には乗らないようでしたが、周り一面に小麦畑の広がる田舎でも、平気で遊びに来ました。
そして、ヴィノ氏が来ると、決まってアナントはグルグルと喉を鳴らし、とても愛しい恋人に会ったように、親愛のすり寄りをして、ヴィノ氏が椅子に掛けるとその膝に飛び乗るです。
どうやら、先日の件から、ヴィノ氏はアナントの絶大な信頼を得たようなのです。
アナントにとっては、何も分かっちゃいない、あやして撫でさするだけの飼い主より、自分の危機感を理解してくれた人物のほうが信用に足るのでしょう。
でも、茹で卵を分け合う仲である側仕えだって、猫様に顧みてほしい時はあるのです。
それから、僕はヴィノ氏の事を、心の中で「マタタビ君」と呼ぶことにしました。何せ、その姿を見ただけで、アナントはいちころなんですから。