第五話「ゆらゆらと船旅」
僕は、船の中で、アナントは何処かなと考えました。多分、客室に居るはずだと言う考えが閃いて、その通りに階段を下の階に向かいました。
客室の他に、大きなホールで、玉突きとカードゲームとダーツで遊んでいる猫達が居ます。どの猫も、昔風の襟の高い服や、ふわりと広がるドレスを着て、恰幅が良く、その体毛はふさふさしていました。
「お客人。ウェルカムドリンクを一杯」と言って、ホールの接客係の雌猫が、ホットジュースを渡してくれました。
林檎の香りのホットジュースは、染色料で淡いピンク色に染まっていました。
ジュースを飲みながら、僕はアナントを探して猫達の間を歩きました。
ですが、ドレスや燕尾服に身を包んでいる猫の淑女と紳士の中に、アナントは居ません。
「何をしているんですか?」と、聞き覚えのある声がしました。振り返ると、子供用の燕尾服を着ているキリクスが居ました。
「アナントを探しているんだ。何処にいるか知らない?」と聞くと、「アナントさんは、アーサーの悩み事を聞いていますよ。何時もの場所で」と答えが返ってきました。
あれれ? アーサー達もこの船に乗っているのか。
そう思った僕は、キリクスの言った「何時もの場所」を思い浮かべました。確か、一等室の横の、海に面した廊下の端のはずです。
ホットジュースの器を接客係の雌猫に返すと、僕はアナントとアーサーの姿を探して廊下に出ました。
ザザンと波の音がして、蒸気船が走り抜ける時に発生する向かい風が、髪を撫でます。
いつの間にか、外は夜の様子です。まん丸くて大きな月がかかっていて、その月明りと、船内から零れてくる明かりが、廊下に居る猫と人の姿をはっきり見せます。
人間と同じ大きさになったアナントも、昔風のフォーマルスーツを着込んで、隣にいるらしい青年の話に相槌を打っていました。
「アナント」と、僕は声をかけました。「話し込んでる所、申し訳ない。これから、時化が来るかも知れないんだ」
「おや? それは大変だ」と、アナントは言ってから、隣にいるらしいアーサーに声をかけます。「君の揺らぎがちな心についてはの答えは、また今度にしよう」
そう言うと、アナントの向こう側に居たらしい青年は、その先にある扉から一等室のほうに移動しました。パタン、と、ドアの閉まる音がします。
「それで、アラン。時化の来る原因は?」
「嵐が近づいてきて、近隣の海で竜巻が発生するんだ。船はその地点を迂回する事になる。船旅は少し長引くかもしれない」と、僕は、つらつらと説明しました。
海の一面を一瞥してから、アナントは答えました。
「しばらくは、室内に居たほうが良さそうだね」
そう言って、彼は僕の肩を軽く押し、別のドアから船内に戻りました。
再びホールに行くと、キリクスが明るい表情で迎えました。
「ああ。ちゃんと会えたんですね」と言っている彼は、玉突きのキューを持っていました。どうやら、誰かと勝負をしている所のようです。
キリクスと勝負をしている、フォーマルウェアの少年を見つけて、僕は彼が「ネーブル・ドク」である事が分かりました。
ネーブルの放ったショットは、正確に赤い球と緑の球を打ち、玉突き台のネットの中にボールを落としました。
「キリクス。これで僕の勝ちだ」と、ネーブルは宣言しました。
「ああ。もう、三連敗」と、キリクスは嘆きます。「先生は、玉突きは得意ですか?」
「それが、一回も挑戦したことはないんだ」と、僕は答えました。「これからも挑戦しないと思う」
「つまんないなぁ」と、キリクスは零して、「じゃぁ、ネーブルさん。次はダーツで勝負しましょう」と、相手に持ち掛けています。
ネーブルは「良いよ?」と応えて、二人はダーツの矢を受け取るために、係員の猫の所へ移動しました。
女の子達は居ないのかな、と、僕は考えました。特に、メリューには絶対に会わなくちゃと思いました。
だけど、僕の個人的な欲求が混じるようになった「世界」は、急に色褪せて、ぼんやりと遠くに消えてしまいました。
そして辺りが真っ暗になり、それは僕が目を閉じているからだと気づきました。
瞼を開けると、執筆の途中で、居眠りをしてしまっていたようでした。
久しぶりに、素っ頓狂な普通の夢を見たなぁと思って居ると、膝の上に居たアナントも、どうやら眠り込んでいるようです。
足が痺れてきていた僕は、アナントのぐにゃぐにゃの体を抱え上げて、膝のしびれが治るまで、部屋の中をうろうろ歩き回りました。
コンコンコンと、僕達の部屋のドアを叩く音がしました。
「アラン。僕だ」と、外からヴィノ氏の声がします。
「開いてるよ。入って」と、僕は答えました。
木製のドアが開かれると、鼻に心地好いピザソースの香りがしました。
紙の大きな箱を持っているヴィノ氏が、「休憩中?」と、声をかけてきます。「お昼ご飯を一緒にどうかと思って」
「トマトピッツァ?」と、僕が聞くと、「正確には、ミートボールトマトチーズピッツァ」と、ヴィノ氏は答えました。
八等分されたピッツァを、僕が三枚、ヴィノ氏が三枚、アナントが一枚食べました。そこで、最後の一枚をどうしようか迷ってしまいました。生憎、キリクスは食事が摂れないのです。
「キリクス。アナントに水をあげて」と、僕は助手に頼みました。人間の食べ物を食べたアナントの体の中は、塩分で一杯でしょうから。
申しつけを実行しているキリクスを他所眼に、ヴィノ氏は最後の一枚を箱ごと僕に差し出します。
「先生は、しっかり食べて文章を考えて」と言って。僕も、申し訳ない気持ちはあったけど、頭を使いすぎていて、お腹は減っていました。
「すまないねぇ」と、僕は最後の一枚を受け取って、パリパリの生地の上でペタンコに成型されているミートボールと、トマトとチーズを少し多めに摂取しました。
最後の一枚を食べ終わる時、僕はさっき見た「久しぶりのまともな夢」の話をしました。
そうしたら、ヴィノ氏は眉毛をちょっと上げて、「うん。調子が良さそうじゃないか」と言います。
僕は、頭の中が正常に動いていると言う意味だと思って、「おかげさまで」と述べました。
三日後、テレビジョンでニュースを見ていると、西の大陸の一部を、大きな竜巻が襲ったそうです。海に近い町が滅茶苦茶にされて、行方不明者も多数出ました。
ひどい災害だなぁと思って、僕は息を呑みました。
「先生」と、キリクスが声をかけてきました。「先生って、ちょっと前に、竜巻の話をしてませんでした?」
「あれは夢の中の事だよ?」と、僕は聞き返しました。「実在の竜巻とは関係ないだろう?」
「僕が思うに」と、アナントが言い出しました。「あながち、僕達の見ている夢の中には、唯の夢ってものは存在しないかも」
僕達は、アナントが怖い話でもしたみたいに、背筋をゾッとさせました。
キリクスが怯えた顔のまま硬直してしまったので、僕は敢えて大袈裟に「うわー! こわい! こわーい!」と言いながら、キリクスにじゃれつき、脇腹をもんであげました。
キリクスは、くすぐったさで大笑いをしました。
じゃれ合っている僕等を見て、アナントは呆れたように欠伸をしました。




