第十話「終わっていなかった目論見」
僕はすっかり忘れていた。
新しい世界の「神」と「神話」を用意していたのは、ナイジェル博士だけじゃない。七番島――北陸塊――の、僕達の住んでいる国の、政府だって、その愚行に加担してたんだ。
ナイジェル博士は、「神」として、キリクスを実体化する事を目論んでた。そして、僕達の国の政府は、実体化したキリクスを利用する事を目論んでいた。
僕と、アナントと、キリクスは、今、大きな客船に乗っている。
つい先月。ヴィノ氏が手紙をくれた。手紙なんて珍しい、と、僕は思った。
何時も、アポイントメントも無いのに、僕の暇な時間に、ひょっこりと本人が現れていたからだ。
その手紙を読んでみると、ナイジェル博士の一件から、政府の役人達がキリクスを探して捜索を始めるのだと言う。
ナイジェル博士が呼び出したはずのキリクスを、新世界のカリスマとして、奉るために。
カリスマと言ったら聞こえが良いけど、悪い事が起こった時には、古代の王様みたいに「首を切って新しい者に挿げ替える」ためのカリスマだ。
僕達は、逃げる必要に迫られた。何処へ逃げれば良いかは手掛かりはない……と思っていたけど、ヴィノ氏はちゃんと、別大陸への船のチケットを同封してくれていた。
とある国の、とある住所が書かれているメモと、「その先で会おう」と言うメッセージを添えて。
食料を買いだめ、貯金をいくらか払い戻し、家財道具を売り、土地付きで購入した一軒家も売り払った。
その金銭と、手回り品、数日分の着替え、アナントのための食料と水、それ等をしまう大型キャリーケース、それから、多少アナントが箱の中で動けるくらいの大きさの樹脂製のキャリーバッグを用意して、僕達は慌ただしく船の旅に出た。
恐らく、二度と帰る事は出来ない旅になるだろう。
キャリーバッグの中にペットシートは敷いてあったのだが、アナントは、生理現象が我慢できるぎりぎりまで、我慢していた。
自分の出したもので汚れている場所に、座って居たくなかったんだろう。
膀胱がパンパンに膨れ上がっても我慢していたらしく、到着した港の水洗トイレで用を足すときは、僕にしか分からない声で「痛ーい!」と悲鳴を上げていた。
僕が、彼の出したものを確認すると、「血は混じってないよ」と、アナントは教えてくれた。しかし、膀胱が縮む時の衝撃が相当痛かったらしくて、今にも泣きそうな顔をしていた。
ヴィノ氏の指定していた住所を訪ねて行くと、一階にドレスショップを構えている、アパートメントに辿り着いた。
ヴィノ氏の手紙のメモは、この建物の「二階」と書かれている。だけど、表から上がれる階段はなさそうだ。
僕は、二階に入る方法を尋ねてみようと、恐る恐るドレスショップに踏み込んだ。
「何方か、いらっしゃいますか……」と言いながら、店の中を見回すと、「はい。お客さん?」と、若い女性の声がした。
茶色いボリューミーなふわふわの髪の毛を、首元で束ねている、褐色の肌のグラマーな女性だった。
明るい緑のスカーフを髪に巻いていて、黒いシャツと白いパンツスタイルで、黄色いエナメルのハイヒールを履いている。一言で言って、カッコイイ。
「いえ、道をお尋ねしたくて」と、申し出て、知人が教えてくれた住所が此処の二階なのだがと話すと、「もしかして、エリスのお知り合いかしら」と言う。
そんな女性は知らないぞ、と思ったけど、そう言えばヴィノ氏のファーストネームが「エリス」だった事を思い出して、僕は「あー……」と唸った後、「そうです」と答えた。
どうやら、二階に直接上がるには、店の裏の外階段に行く必要があるらしい。
僕達は建物の裏に回って、金属にペンキが塗られている外階段を、二階まで登った。どう見ても店の裏口にしか見えない木製のドアを、念のために三回ノックする。
誰かがドアの向こう側に来て、スコープを覗いた気配がした。
ガチャリ、と、ドアの鍵が開けられる。
そうして、僕は、出会ってから初めて「フォーマルスーツを着ていないヴィノ氏」と対面する事に成った。
僕達を家に入れてくれた後、ブランド名が入っているカジュアルウェアを着たヴィノ氏は、「マリアには、理由は話した?」と聞いてきた。
どうやら、一階のドレスショップに居た、さっきの女性が「マリア」さんのようだ。
「細かい理由は、話してない。ヴィノ氏に会いに来たって言っただけ」と、僕は説明した。
「それなら、後で僕から伝えておく。彼女は、僕達の守護天使だから」と、ヴィノ氏は述べた。それから、ソファを手で示して、「好きな所に座って」と言う。
僕は出入り口の近い奥の席に座って、真ん中にアナントの入っているキャリーバッグを置いて、その隣にキリクスが掛けた。
「目の回るような二週間だったよ」と、僕は考えるより先に口が動いていた。「土地と家の売却がスムーズに進んだのが奇跡」
「教えるのがギリギリに成ったのは、詫びるよ。僕達も、半年も経たずに彼等が『やる気を取り戻す』とは思ってなくてさ。すまなかった」
「教えてくれただけ、ありがたいよ」と、僕は述べた。「それで……あの、ヴィノ氏は、此処に居る男の子は見える?」と、僕はキリクスを指さした。
「見える」と言って、ヴィノ氏は唇の端を少し持ち上げる。
「どんな服装と髪型している?」と、僕はあくまで確認した。
「チータのトレーナーを着て、綿のストレートのズボンを履いてる。足元は黒いサンダル。髪型は、前髪の長いショートカット」と、ヴィノ氏は言い当てた。
「良かった。ちゃんと見えてる」と、僕は述べた。「時々、見えない場合があるんだ」
「うーん。見えちゃったほうが問題なんだけどなぁ……」と、ヴィノ氏は苦笑いする。「彼が今着ている服は、君が用意したの?」
「うん。ずっとパジャマで居させるのも何だと思って」
「そのおかげかな。ちゃんと、普通の子供みたいに見える。良い『変装』をさせたね」と、ヴィノ氏は言ってから、本題を話し始めた。
僕達は、そのままアパートメントの一室を宛がわれ、異国で生活する事になった。
「人間と言うのは、思ったより『計画的』である事を重んじるんだね」と、アナントは言う。
僕は、ネクタイを緩めながら答えた。
「大きな組織になると、『計画』に則って、どのように行動するかが重要だからじゃないかな。それまで続けてきた『計画』は、中々やめられないんだよ」
その話を聞いているのか居ないのか、キリクスは何かメモ帳のようなものを見ている。
「先生。航空便で送りますか? それとも船舶便で?」
変な事を聞いてくるので、「何の事?」と聞くと、「来月の締め切りに間に合わせるには、航空便でも、後一週間と三日しかないんですけど……」と言ってくる。
そう言えばそうだった。今の僕は社会的な仕事を持っているんだった。
重たいタイプライターは売り払ってしまっていたので、僕は町の中で大量のレポート用紙を買い付けると、その日から、ペンの手書きで連載の文章を綴り始めた。
そして暫く、人差し指と親指が、ペンだこで痺れて言う事を聞かなくなる生活を送る事となった。




