第二話「猫は空を飛ぶかな」
とても心地好い昼下がり。僕は時々、部屋のカーテンを開け放って日向を作り、其処でアナントと一緒に昼寝をする。
アナントは、僕の腹を寝椅子にするのがお気に入りだ。だけど、下腹に座られたまま、上腹を揉まれると、結構痛い。
猫と言うのは、クッションや毛布のような柔らかいものに触れると「揉んでみたくなる」ものらしい。そんなに僕の腹はぷにょんぷにょんなのか。
腹筋が六つに割れているボディビルダーのような体はしていないが、それなりに腹直筋くらいあると思って居るのに……アナントの「揉みセンサー」に、柔らかい物だと認識されてしまう。
そしてこの、柔らかい物を揉むときに、猫は爪を出す。一、二回程度だったら痛くないけど、何度も何度も何度も爪で揉まれると、セーター越しでも痛い思いをすることになる。
「やめて。やーめーて」と、アナントに声をかけるが、こう言う時の彼は無我の境地に至っており、こっちの声が届かない。
なので、僕が痛みに耐えられなくなったら、強制的にアナントを腹から引っぺがして、仕返しをする。
彼の毛だらけの体を、毛取りブラシで入念に掻き回すのだ。毛並みと同じ方向に梳かさないと、ブラシの中で毛が絡まってしまうので、毛並みに沿ってブラシを振るう。
そうすると、アナントは喉を鳴らしながら「掻いてほしい所」をさらけ出してくる。
仕返しになっていない気がするが、一頻り頭から足の先までブラシを通すと、すっかり気持ちよくなったアナントは、腹をさらけ出す。
そこで、僕は敢えて、その腹を胸から下腹まで三回くらい無遠慮にガシガシと磨く。
すると、アナントは「何と言う無礼を働くのか!」と言う顔をするが、三回ブラシが通るくらいだったら許容するようだ。
一度、何回くらいまでだったら我慢できるんだろうと思って、腹をブラシで磨き続けたら、五回目で噛まれた。
体を掻いたり撫でたりする時に、猫が噛んでくるのは、「もう触るな」と言う意思表示だそうだ。
特に腹は触られたくないようで、素手で腹を撫でると、一回目でもう牙が飛んでくる。
ラグドールとか、ペルシャとかのおっとりしたタイプの猫は、なすがままにされるかも知れないが、アナントは血統も分からない雑種である。全体的に、灰色のトラ猫に近いが、茶色の斑点が混ざってる。
そんな感じで、僕の逆襲は、「腹を揉んだお返しにブラシをかけてくれる奉仕」と受け取られているようだ。僕の真意は何も伝わっていないと痛感する時である。
ヴィノ氏は、アナントが大人になってからも、度々僕の家に来るようになりました。
一年間、アナントの事でたっぷり付き合って、すっかり気も打ち解けたヴィノ氏は、僕に不思議な話を聞かせてくれるようになりました。
最初は、僕が「児童書を書こうとしているのだが」とか、「何か面白い話のネタは無いか」と、つついた所から始まった、ヴィノ氏の「旅行」の話が発端でした。
ヴィノ氏が、途方もなく遠い世界にある、「西の大陸」に行った時、其処には不思議な遺跡と神話がありました。
祭壇とされる台形ピラミッドに、ある時期のある方角から光が射すと、ケツァルコアトルと言う名前の神獣が現れると言うのです。
ヴィノ氏は何故かその「ケツァルコアトル」が現れる時間を調べなければならなくて、地元の人に話を聞いたり、土着の古い神話を知っている人の家を尋ねたりしていました。
そして、ようやく「ケツァルコアトル」の現れる日射しの方角を突き止めて、ヴィノ氏が所属している「調査チーム」に報告したと言う事です。
その他に、ヴィノ氏は南のさらに南にも行ったことがありました。
アイラと言うこの星は、北半球と南半球があって、南半球でも南極に近いほうは、北半球の北極に近い方と同じで、だいぶ涼しいのだそうです。
その南の南にある国で、無数の紫色の花をつける大きな樹があります。ある町のある人が、その紫の花の樹の植樹活動をしていて、南半球の春が来ると、その町の至る所で紫の花が咲き乱れます。
それは随分見事な景観で、紫の花のトンネルを歩いていると、不思議な感覚がするそうです。
「向こうから、誰かが歩いてくるような気がするんだ。とても懐かしい人のような、とっても不思議な誰かが」と、ヴィノ氏は言っていました。
「その誰かって言うのは、どんな人?」と、僕は聞きました。「髪の色や瞳の色は? 服装は?」と。
そうすると、ヴィノ氏は困ったような表情をして、「アラン。君は、『初恋の相手は』? って聞かれたら、その人をパッと思い出せる?」と聞いてきました。
僕はそう聞かれて、そもそも初恋が何時だったかを思い出す所から始めました。それで、「パッとは思い出せないなぁ……」と、言葉を濁しました。
「だろう?」と言って、ヴィノ氏は膝に乗せたアナントの背を撫でていました。
そんな話を折々に聞いていた頃です。夜中にベッドに横になっていた時。ぺちぺちと何かに頬を叩かれました。
アナントがベッドに入りたがってると思って、僕はブランケットの片側を、少し持ち上げました。だけど、アナントらしきその手は、顔を叩くのをやめません。
ご飯が欲しいのか、喉が渇いている? と思って、僕は目を開けました。確かに、僕の顔を叩いていたのは、アナントでした。僕が彼に声をかけようとした途端、ベッドごと、世界が墜落し始めました。
僕は咄嗟にアナントを抱き寄せて、ベッドの真ん中の方に座り込みました。
悲鳴を上げようにも、声が出ません。
僕の住んでいる部屋は三階建ての三階にありましたが、やけに落っこちる時間が長いのです。
だけど、どんどん地面が近づいてきて、遂に墜落する! と思った途端、アナントが僕の腕の中で、ハッキリと「みゃーん!」と鳴きました。
その途端、ベッドは落下をやめて、空中に浮きました。それ所か、羽が生えたように宙を飛び始めたのです。アナントが首を向けている方角へ向けて。
一体、何処に行く気なんだ? と思ったら、僕は自分の家のベッドの上で目を覚ましました。床も壊れていないし、アパートメントが崩壊している様子もありません。
変な夢だったなぁと思いながら、僕は首を枕に預けなおしました。