第十話「世界を統べる猫達の討議」
毎朝、十時十五分。それは起こる。
猫狩りは免れたが、生憎の野良生活で予防接種が受けられない猫達に、近所のご婦人達が公園で餌を配るのだ。
集まった猫達を捕獲し、獣医で狂犬病の予防接種を受けさせる。
そのために、時に数匹から、多い時だと数十匹の猫を捕らえて、ケージのある施設に一時的に保護すると言う大計画だ。
勿論、野良猫達に、女性達の意図が知られてはならない。
皆、優しい唯の世話焼きおばさんのふりをして、猫達に餌を与え、十分に懐いた者から順に、隔離して獣医送りにするのだ。
その時に施されるのが、キャットフードと予防接種だけだったら、まだ良いだろう。
時には、雄猫はお尻の丸い物を奪われ、雌猫はお腹を裂いて手術をされる。彼等が子を成して、不幸な野良猫が町に溢れないように……と言う、これも一大計画である。
「由々しき事態だ!」と、焦げ茶色のケープを纏ったような柄の、大きな猫が、古井戸の上で言いました。「我等の子孫が絶えてしまったら、誰がこの古き世界と慣習を守って行くと言うのだ!」
猫達は、険しい表情をしながら、古井戸を囲んで考え込んでいます。
「だが、公園での慈善配給がなくなったら、飢えてしまう者が居るの事実! 我等は、人間達に、抱きかかえると言う隙を与えてはならんのだ! 公園での配給を受ける者は、未来の子宝の運命を賭けているのだと考えよ!」
そのように、ケープ猫は声高に唱えました。その声は、まるで、怒りに燃える雄猫の威嚇の声のように聞こえました。
「主事!」と、ある、ふさふさの尻尾の若猫が声を上げました。「命を取られる事と、見たことも無い未来の子供を、天秤にかけられるでしょうか?!」
「どちらの話をしている?」と、主事と呼ばれたケープ猫は問います。「チューシャを受けさせられることと、雌雄の機能を奪われることの、どちらの?」
「どちらもです!」と、若猫は、混乱しているようですが懸命に言います。
その言葉を聞いて、主事であるケープ猫は、厳かに述べました。
「チューシャを受ければ、確かに病にかからなくなるだろう。そして狩りも免れる。だが、人間達はそれだけでは満足しない。最悪の事態は、我々と言う種族がこの星から消え去る事だ。
脆弱な人間達には、計り知れぬ仕事を、おぬし等の『宿り手』を守るための仕事を、担うものが居なくなる事だ。その命運と、一日のうちの一時の飢えを癒す事を天秤にかけられないと言うのか?」
その言葉を聞いて、若猫はぐぅと黙り込みました。
井戸の周りに集まれなくなったアナントにも、岩盤浴に来る別の外猫から情報は伝わったらしい。屋根から帰ってきた彼は、何時もよりシビアな表情を浮かべていた。
「何を話し合ってきたんだい?」と、僕は面白がって聞いたけど、アナントは知らんぷりを決め込んだ。
それから、書斎の一人掛けソファに、人間のようにどっかりと腰を下ろし、脚の間から、斜め下を見るような視線を床に向けた。
彼が男の子である証は、排泄の時にしか役に立たなくなった物がある事だけになっているが、彼は時々、それがまだついているのを観察している。
多分、ちょっとでも僕に隙を見せたら、その大切な「残った物」まで奪われると思っているのかもしれない。
だけど、その「残った物を奪おうとするかもしれない人間」を、アナントは守らなくてはならないのだ。
そんな、脆弱なくせに危険な人間のいる場所で、大股を開いて、物があることを確認するのは、彼なりの、世の憂い方なのだろう。
夢の中で、アナントはシャムの血統を継いだ、焦げ茶色の顔の妻を娶った。
猫生経験の中で、子作りをしたことがないので、どうやったら子供が生まれるかは分からなかったらしい。
だからなのか、一晩経ったら、彼の妻はたくさんの子猫に囲まれていた。
アナントは、その子猫達を、まるで母親のように可愛がった。子猫の全身を毛づくろいし、彼等の近くに横たわる。
「あちき達、パパの縞模様と、ママの茶色が混ざっているわ」と、子猫達はニィニィと言う。
確かに、子猫達は、灰色の縞猫の模様とシャムの模様が混ざった姿形をしていた。しかし、血統がしっかりしていないので、子猫達のミックス具合にもばらつきがある。
その子猫達は、アナントがゆっくり瞬きをすると、瞬きと一緒に消え去った。
僕が横たわったベッドの上で瞼を開けると、丁度、枕元で眠っていたアナントがベッドを離れようとしていた所だった。
彼の切ない夢を覗いてしまったようで、なんだかとても申し訳ない気持ちになってきた。
だけど、彼がお尻の丸い物を付けたまま生きていたら、僕達の家は衛生的ではいられない。
そんな事を、遊びに来たヴィノ氏に話してみた。
「最近、不思議な夢を見たんだ」から話し始めて、アナントが「ダディ」になる夢を見ている、と言う夢なのだが、と、ふざけて言うと、ヴィノ氏は「我が意を得たり」と言う風に、歯を見せない笑みを浮かべて頷いた。
「面白い現象だね」とだけ、ヴィノ氏は言う。
僕はちょっと首を傾げ、「どう言う意味だい?」と、聞き返してみた。面白い夢だね、ではなく、現象だね? と言う所が気にかかった。
ヴィノ氏はフフッと笑って、いつも通りに彼の膝の上で、客人を接待しているアナントの背を撫でる。
「アナントは、大切な秘密を、君と共有したいと思ってるって事さ」
「秘密ねぇ……」と、呟いてから、僕はようやく「アナントを主人公にした物語を書き始めたんだけど」と、ヴィノ氏に伝えた。
ヴィノ氏は、「ぜひ、その文章を見てみたいな」と言い出す。
「まだ、草稿みたいなのしかないよ?」と、断ったけど、ヴィノ氏は「それこそ見せてもらいたい」と、乗り気である。
そんなわけで、今まで書き溜めてあった、幾つかの文章をヴィノ氏に見せることになったのだ。