第一話「猫も杓子も夢を見るかな」
粉砂糖をかけたような美しいバロック様式を眺めながら、僕は長く世話に成っていた大学を辞めた。
教授と呼ばれるのも、今日で最後だ。
後は唯の……貧乏暮らしをしながら、何時か「児童文学者」になることを夢見る、まだ背は曲がっていない初老の一般男性として生きて行くことになる。
僕は友人であり家族である、一匹の猫と暮らしている。いや、どちらかと言うとその猫に仕えている。
猫の名前は「アナント」と言い、異国の言葉で「無限」を意味する。
僕とアナントを引き合わせてくれたのは、ほんの通りがかりの青年だった。まだ二十代後半にも成らないような容貌の、白い髪と雪影の瞳を持つ青年だ。
一年前。
今日のような、粉砂糖のような雪の降る日に、通りかかった公園に、おかしな人がいました。
自分の食事のために買い物をして来た帰りだった僕は、ベンチの前に屈みこんでいる青年を見つけたのです。
その青年の目の前には、ガムテープで入念に封がされている段ボールがありました。彼は、その段ボール箱をじっと見ているような様子でした。
「どうしました?」と、僕は青年に声をかけました。
青年は、唇の前に人差し指を立てて、ガムテープでぐるぐる巻きにされている箱に耳を傾けます。
僕も、同じように、耳を傾けてみました。
すると、微かに「ニィ、ニィ」と鳴いている子猫の声がしたのです。
この世の何処の大馬鹿者が、子猫を入れた箱を梱包して捨てたのだ! と、僕は反射的に思って、様子をうかがっていた青年より素早く、ベンチの下から段ボール箱を引き出しました。
青年は、「あまり、揺らさないほうが……」と言っていましたが、僕は何より子猫を一瞬でも早く、あのぐるぐる巻きのガムテープの檻から、解放してあげる事しか考えて居ませんでした。
布のガムテープを指で引きちぎり、底の方は泥で汚れている段ボールを壊すように開けると、窒息死しかかっていた一匹の子猫は、濡れたタオルの上でガタガタ震えていました。
僕は「この子を温める方法は?」と考えましたが、子猫の様子を見てからの反射は、青年のほうが早かったのです。
青年は上等そうなコートの胸に子猫を押し込むと、「何処か、お湯の手に入る所は知りませんか?」と聞いてきました。
僕はそんなに都合よくお湯の手に入る場所が思い浮かばなくて、「じゃぁ、私の家に」と答えました。
その後は、子猫を抱えた青年を連れて、僕の住んでいる古いアパートに行きました。
ガス式のコンロセットでお湯を沸かして、耐熱性の瓶に入れ、充分に蓋を閉めてからタオルで包んで、やはりタオルで作った寝床に居る子猫に与えました。
子猫は、温もりを求めてタオル越しの瓶に抱き着き、そのまますやすやと眠ってしまいました。
「猫を育てた事は?」と、青年に聞かれました。
「無くはないんですけど……。こんな小さな子を育てるのは初めてです」と、僕は正直に答えました。「普通のキャットフードを与えても良いんでしょうか?」
「子猫用のフードを用意しましょう。それから、猫用のミルクも。今から買ってきます。それから、牛乳は飲ませないで下さい」と、青年はてきぱきと応じてくれました。
僕も、「牛乳は飲ませるな」の指示には、苦い思い出がありました。実家で飼っていた猫に牛乳を飲ませて、お腹を下させたことがあるのです。
「あの……」と、僕は言いかけ、「貴方の名前は?」と聞き直しました。本当は、「この猫を、貴方が引き取ってはくれないんですか?」と聞きたかったけど、それはさすがに無責任な気がしたんです。
「エリスと言います」と、青年は言いました。「エリス・ヴィノ」
変わった苗字だなと思ったけど、特にそれは話題に出さず、「僕は、アランです」と名乗り返しました。「アラン・ハーディと言います」
エリス・ヴィノ氏は、握手を求めては来ませんでした。だけど、口元に笑みを作って、「少し待ってて下さい。すぐに戻りますから」と言い残すと、アパートメントのドアを潜って行きました。
そんな出会いから一年が経過し、僕はすっかり大人になったアナントと暮らしています。アナントの名付け親はヴィノ氏です。
ヴィノ氏は、アナントの様子が気になると言っては、僕の家を尋ねてくるようになりました。
僕達のもっぱらの話題は、アナントの成長に関する事です。でも、一年して、アナントの成長が落ち着いてくると、ヴィノ氏は不思議な話を始めました。
「もし、アナントが『夢を見る猫』だったら、どうします?」と。
「猫だって、夢くらい見るでしょ?」と、僕は聞き返しました。
「ああ。睡眠中の夢じゃなくて……『あり得ない未来を想像する事』の方の、夢です」と、ヴィノ氏は言います。
「未来の想像……」と復唱してから、僕は少し考えました。
大体の動物は、習慣を覚える事はあっても、あり得ない未来を想像したりしません。
昨日御飯があった場所に、また御飯があるかもしれないとは考えますが、突然空から魚の大群が降って来る……と言う類の、人間が見る型の夢は見ないんです。
恐らく、「素っ頓狂な夢」を見る人間の脳のほうが、動物としてはおかしな習性を持っていると言う事でしょう。
「そんなのを見れる猫だったら、きっと未来が楽しいでしょうね」と、僕は返しました。ヴィノ氏が冗談を言ってると思ったからです。
ヴィノ氏も、何かまだ話したいような様子でしたが、目を閉じて口元に笑みを浮かべる、彼独特の笑顔を浮かべてから、「そうでしょう?」と言って、アナントの喉をあやし始めました。