彼岸の郷 とある一日の話
ある日の夕方、暦縁が私の住む庵を尋ねてきた。
この時間にやってくるということは、いつものように夕食を食べに来たのだろう。
暦縁は銭を持っていない。
食うのに困ると、私の庵に飯を乞いにくる。
暦縁は、本名は総本山暦縁という。(仰々しすぎて本名かどうかは不明だ)旅の僧である。
縁あって知り合いになり、半年ほど前から、私の庵から半刻ほど歩いた所にある「西蓮寺」という廃寺を仮宿とし、そこに勝手に住み着いて暮らしている(よいのだろうか?)
外見は、整えてあるのか無いのか分からないような、ぼさぼさ頭に無精ひげ。
黒衣の衣を着ていなければ、僧侶だとは誰も思わないだろう。
年は二十六だと自分で言っていたが、とてもそうには見えない。
――もっとも、それは年の割には妙に落ち着いた印象が、そう思わせているのだろう。―― 一応私と同い年のはずなのだが。
暦縁は、笑いながら片手をあげ、「よお」と私に声をかけた。
軽薄そう・・・・・・というよりもどこか子供じみた――邪気を感じさせない仕草である。
厳格とか威厳とか、そんな物からは遠く離れているが――不思議な、つかみ所の無い印象を受ける男なのだ。
「精が出るな覚才。洗濯か」
「ああ」
――言い忘れたが、私の名は覚才という。
暦縁の言ったとおり、今は庵の庭先で、ひたすら衣類を洗濯板にこすりつけている。
「覚才、洗濯中悪いんだが――」
「――食い物か?」
察して話す。
「腹が減って死にそうなんだ。」
「そんなにか」
「来る途中、何度か倒れそうになった、さっきなんか、お花畑の中で、お釈迦様が笑っている幻覚を見た」
「そんなにか!?」
死の一歩手前である。
「なんか無いか?」
「囲炉裏に魚が焼いてある。 それでも食ってろよ」
「ほう!魚か!」
嬉々としてそう言い、庵の中へ入っていった。
しかし、私がすすめておいて何なのだが――僧侶が生臭ものを嬉々として食うのはいかがなものか。
どうも、暦縁はそういうところを隠そうとしない。
潔いと言えなくもないが――どうだろう? 少なくとも坊主が生臭ものを食べる事を嫌う人は暦縁を良い眼で見ないのではないだろうか
そうなると、暦縁のためにもならない。
一度、忠告をした方がいいかもしれない。
「暦縁」
「何だ?」
くぐもった声だ。魚を食べているのだろう。
「お前、生臭もん食う時は気をつけた方がいいぞ。仮にもお前は坊さんだ。周りの目ってもんがあるだろう」
「んー?」
言ってるそばから、お魚くわえた暦縁が、庵の中から顔を出した。
「だーかーらー、気をつけろって言ってるだろう。相手が私なら別にかまわないが、他の人が魚を食べている坊さんなんか見たら、いい印象をしないだろ」
「俺は気にしないぞ」
「気にしないって・・・・・・」
「俺が気にしなければ問題ない」
「そう言う問題か?」
「ああ」
そうか?
「それに、だ」
「ん?」
「そんな風に、悪い印象を持たれる事を恐れてるような奴は、本物の僧じゃないさ」
と
事もなしに、暦縁がそう言いきった。
「・・・・・・なに?」
「悪い印象を持たれることを恐れて、せっかく布施された魚を無駄にするのは、結局、我が身がかわいいからさ。 そんなものは、自分のわがままと何も変わりがないだろ?」
「・・・・・・・そういうものか?」
「ああ。 魚自体には善悪は無い。そんな風に善悪をつけるのは人の思いだよ。 そんな余計な思いをつけたら、せっかく覚才がくれた魚を、美味しく食べられなくなるじゃないか――俺はそんな面倒なこといちいち考えて物を食べないぞ」
当然のことを言うようにそう言って、
暦縁は庵の中に顔を引っ込めた。
そうだ。
暦縁にはこういうところがある。
一見、無邪気でちゃらんぽらんで何も考えていないような印象を受ける男だが、時々、ずばりと核心をついたようことを言うことがある。
思い込みにとらわれた私達の考えを、一刀両断するのだ。
つくづく不思議な男だと、そう思う。
だから
こんな暦縁を訪ねてくる村人や僧が後を絶たない。
わざわざ、山奥の西蓮寺を尋ね暦縁の教えを乞いにやってくる。
そう言えば、ついさっきも――
「あ」
「――今度はなんだ?」
もう一度暦縁が顔を出す。
忘れていた。
暦縁に、聞いておきたい事があったんだったな。
「そう言えば、さっき川へ洗濯に行ったんだが――」
「大きな桃でも流れてきたか」
「流れてこない」
「・・・・・・というか、川で洗濯してきたのなら、何でまたこんな所で洗濯してるんだ?」
「いや、実はさ、川に行ったのはいいが、水が思ったより汚かったんだ、非常に腹が立ったんだが、そのまま帰るのも癪だったからな。こんな事で屈するかと、無理やりそこで衣を洗ってやった。そしたら、洗ってる途中で衣の中に魚が入って来てな、どうしようもなく生臭くなってしまって・・・・・・――って、違う。重要なのはそこじゃない」
無駄にに話をそらそうとするな。話がすすまない。
・・・・・・ちなみにその魚は今や暦縁の口の中で咀嚼されている。
「川で洗濯してると、お前みたいな変な僧にあったんだ」
「・・・・・・お前みたいな、は余計だよ」
「いや余計じゃない、お前も十分変だよ。 ――私が洗濯をしながら「今日の夕食は何にしようかな?」となにげなくつぶやいた時だ」
「ふむふむ」
「突然後ろから坊さんの格好をしたいけ好かない男が「あんたは今、洗濯してるのか夕食を作っているのか、どちらなのかな」と、そう訳の分からない事を問うてきた」
「ほうほう」
「暦縁、私はあの男は何が言いたかったのかが知りたいんだ」
「・・・・・・それでお前はどう答えたんだ」
「うん?」
「だから、どう答えたんだ? そいつに。 何か答えたのだろ?」
「答えたと言うか――腹がたったから唾ひっかけてやった」
「ひどいな!?」
「なあ、どういう事だ? そのときは全く気にしなかったんだが、帰ってから改めて考えると、あの坊主がなにが言いたかったのかどうしても知りたくなってな、このままだと腹が立って苛々して洗濯物をぶちまけかねん」
「俺はお前の怒りの沸点の方が知りたいよ・・・・・・」
「私には僧の知り合いなんかいないからな。きっと私が暦縁の知り合いだと言うことを知って、そんな問答じみた事を言ってきたのだろう?」
「まあ、その僧に関しては、そうかもしれん」
「一体、どういう意味なんだ?」
「覚才はいったいどちらだと思う? 自分が洗濯をしていたのか夕食を作っていたのか」
「当然、洗濯をしていたんだろ」
「しかし、意識の方は夕食の事を考えていたのだろ?」
「ああ、まあ、そうだが」
「一体どっちが真実なのだ? 意識では夕食の事を考えていたのに、なぜお前は洗濯をしていたと断言できるんだ?」
「そりゃあ――夕食の事を考えてたのは意識の方だからな」
「意識の方が間違いだと言うのならどこでそれを証明するんだ? 意識が洗濯の方から離れていたのだから、お前は洗濯をしているつもりで夕食を作っていたのかもしれんぞ?」
「・・・・・・む、それは――」
「では、聞こう。 今は何をしている? 洗濯してるのか、それとも洗濯してると思ってるだけなのか?」
「ぐ」
「そもそも、洗濯とは何だ? 夕食を作ることと洗濯をする事はどう違う? どこまでが洗濯でどこまでが夕食なんだ?」
「ちょ、ちょっと待――!」
「さあ、答えてみてくれ」
う、
頭がこんがらがった!
洗濯
洗濯って
洗濯、ってなんだ?
洗濯と夕食との違い?
どう違う?
どんな違いをつけていたのだろう?
確かに夕食だって食材は洗うし
でもそれは――
むむむ
訳が分からない。今まで私が洗濯してると思っていたものは、一体何だったんだ?
どんな基準で、その行為を洗濯だと言っていたんだ?
私は――何をしていたんだ?
分からない。
「お前が、そんなに洗濯という物を知っているのなら、今ここで、間違いなく洗濯だという行為をやって見せてくれ。いったい洗濯とはどういう物なのだ? その洗濯というものを俺に教えてくれないか?」
暦縁にそう言われるも
どうしても今までやっていた行為が途端に疑わしくなり
私は、何も、出来なくなっていた
洗濯って何だ?
私は、何をやっていたのだろう?
――気がつくと、
いつの間にか、衣類をこすりつけていた手が止まっていた。
「だああああぁ! 訳が分からん! 洗濯物ぶちまけてやろうか!?」
「いや、怒るなよ!?」
「意味が分からん! 余計頭がこんがらがったぞ! どうしてくれる!」
「――と、まぁ、そういうことなんだよ」
「これ以上意味の分からんことを言うとぶちまけるぞ!」
「とりあえず洗濯物を置いて、落ち着けよ。つまりだな・・・・・・
――って、――ちょ、おい、まて!? だから洗濯物置けっていってるだろ! 置けって!! 振りかざすな!! まず話を聞けよ!?」
「むう」
「むう、じゃないぞ、全く―― どうだ、覚才、理屈で考え込んだせいで、訳が分からなくなっただろう?」
「は?――どういう、ことだ?」
「そんな風に言葉に引っかかると途端に分からなくなるのさ。 それまでは何の迷いも無く洗濯していたのにもかかわらず、言葉に引っかかった途端に、何も出来なくなってしまった」
「――な、に?」
「言葉で、自分を縛り付けてしまったんだよ。」
言葉で
自分を?
「「お前が縛った」のではなくて?」
「お前だよ、縛ったのは覚才自身さ、そんな風に思いにとらわれ、本来何の迷いもない、自由なこの体を、自らの思いで縛り付けてしまったんだ。」
「そう、なのか?」
「ああ」
「じゃあ、あの僧は――」
「俺と親しくしている覚才が、どの程度、「思い」にとらわれていないかという力量を、ちらと問答をかけて試してみたのだろ」
「・・・・・・ちょっと待て、その前に、なぜ思い込みにとらわれていてはいけないのだ?」
「それを話すと長くなるんだがね。理屈っぽく話すのは好きじゃないし――まあいい。人の苦しみや悩みというものは、個々の思い込みによって生み出されてるんだ――それは、分かるか」
「む、なぜだ?」
「過去にいやな事があった、未来にいやな事がある。たった今不快な気分で苦しい。――そんなのは全て自分の思い込みだろう?思いや考えを挟まなければ苦しまないのに、わざわざ、そんな思い込みで、苦しみを作り上げているのさ。たった今、覚才も自分の思い込みで、自らを縛りつけてしまっただろ?」
ああ、確かに。
「洗濯」とうものが自分の考えや思い込みで――まったく手を出せなくなってしまっていた。
「たった今、自らの事を見つめて見ると、どうだ?
ほら、俺が手を叩くと、――
パン
これだけだ。
これ以上のことをわざわざ考え無くとも、ほら
パン
どうだ?
パン
ほら、余計なことを考え無くても、ちゃあんと、こうなっているのさ。この事実に目を向けずに、色々な妄想を頭の中で作って、自分で自分を苦しめるんだよ。そんな事をして、わざわざ苦しむのは下らないだろ?」
「む」
「結局悩みってものは、自分のたった今のその姿を見ずに、妄想や考え事で、悩み事をわざわざ作り出して、悩んで縛って苦しんでいるだけなのさ――たった今だって、その僧の下らん戯言が気になり、その言葉にとらわれてしまっているだろう?――しかし、その言葉を思い出すまではどうだった? 全く気にも止めていなかったのではないか?」
「そう・・・・・・だな。」
暦縁の言葉で、考えや思いに縛られてしまった。
気にしなかった時は――何の問題もなく洗濯が出来ていたのに・・・・・・
過去や未来、そして今。色々な事で苦しむが、全て今の話と同じ――思い込みが原因ということか・・・・・・
「それに気づき、本当に間違いのないくらいに徹底し納得した者は、そんな「とらわれ」や「思い」に全く縛り付けられない、絶対的に自由で安楽な、苦しみのない所に自らがいることに気づいている。それが、私達の目標であり、目的なんだ。もし今のような問答で「思い込み」にとらわれてしまうような人物なら、そいつはそんな思い込みにもとらわれてしまう、たいした力量ない人物と判断できる。 仮にもお前はこの暦縁の友だからな。 まずは小手調べにその友の力量を試したのだろう」
「――だったらお前に悪いことをしたな。 まったく何も答えられなくなるどころか・・・・・・」
唾を吐きかけてしまった。
自分ながら、意味が分からない。
暦縁の名を、汚してしまった事になる。
「いんや、お前は見事に答えたよ。ある意味正解だ。 幸いにもお前は、そんな問答を全く問題にしなかったのだからな」
「唾を吐きかけたことがか?」
「ああ」
「そのときお前は、全くその言葉に引っかかって無かったのだろうな。」
正解、か
しかし、こうしてとらわれたと言うことは――、やはり本当の意味で暦縁の言葉を理解していないのだろう。
しかし、この男は――
あいかわらず
―――不思議な、男だ。
「ああそういえば」
唐突に、暦縁が言った。
「何だ?」
「実はさ、ここに来る前に、変な坊さんと出会ってな」
「え?」
「いきなり、「ひとつ、仏法にかなった一句を言ってくれ。」と、こう言われた」
「――・・・・・・そいつは」
「ああ、覚才の言う、その坊さんだろ、たぶん」
「それで――お前はどう答えたんだ?」
「「今から夕食だが、あなたも一緒にどうです?」といった。 そしたら手を合わせて帰って行ったよ」
と、事もなしにそう言って――うまそうに魚をほおばった。
はは、
本当に、意味が分からん。
私だったら――いきなりそんな事を言われたら――きっとその言葉にとらわれて・・・・・・・迷って何も言えなくなってしまうだろう。
こうして迷うことが、そもそも思いに「とらわれて」いるということなのか。
「お、噂をすれば」
暦縁がそう言い、私の後ろを指さす。
そこには――
先の僧が、右手に徳利をかかげ、立っていた。
「どうしました? まだ何か聞きたいことでも?」
暦縁が言う。
「いえ――」
男が、暦縁の口元を見る。
「ほお、魚ですか暦縁どの、夕食に呼ばれたので来てしまいましたよ。手ぶらじゃ何ですので、どうです、一献。一緒に話でもしながら、酒でも飲み交わしませんか? ――高弟のご友人と一緒に」
そう言った。
高弟のご友人、か。
誤解だ。
「かまわないか? 覚才」
私に向かってそう言う。
邪気のない笑顔でそう言う。
自らの行いを、全く誇った様子がない。
ただ、
こいつは
心から生きる事を楽しんでいるだけなのだ。
こんなやつだから、
教えを乞い、慕う者が増えるのだろう。
「ああ、魚は沢山あるからな」
私は快くうなずいた。
「何匹あるんだ」
「十二匹」
「そんなにあるのか!?」
「衣は意外と魚を捕るのに使えるかもしれん」
何の話だよ?・・・・・・と言う暦縁を横目に、私は男に向かい、手招きをした。
「――どうぞ、ここへ坐ってください、今、夕食の用意をしますよ」
「ありがとうございます。 唾の君」
「つばのきみ!?」
こうして
今日の日は暮れゆく
夜も更け静かに虫の声が聞こえ始めた頃
庵の縁で、小さな宴が開かれた。
彼が問えば、彼が答え
彼が答えば、彼が問う
そこから聞こえる静かで楽しげな話し声は、
白月が傾くまで、夜空に響いていたという。
とある、文月の頃の話である。