第20話 アンジェリカの暴走
影からの報告を受けた次の日、わたくしが学園の食堂で昼食をとっていると、アラン殿下が怒りに満ちた表情で詰め寄ってきた。
「ヴィクトリア、お前が何かしたんだろう!」
彼の勢いに思わずスプーンを皿の上に落としてしまう。カチャリという音が響き、視線が一瞬だけわたくしの手元に集まった。
……お皿が割れなくて良かったわ、と安堵するもつかの間、アラン殿下の怒りが再びわたくしを飲み込む。
「突然なにをおっしゃるのですか。わたくしは何もしていませんわ」
冷静を装いながら返答するが、その声にはほんのわずかに苛立ちが混じっていた。彼の態度に振り回されるのは、もううんざりだ。
思い込みで難癖をつけるのは、本当にもう止めてほしい。
「だったらどうしてアンジェリカがこんなにやつれているんだ!」
アラン殿下の声は大きく、周囲の注目を集める。
学園の食堂は一瞬静まり返り、その後、ざわざわとした囁きが広がった。
確かにアンジェリカの顔色は酷い。蒼白で、どこか生気が感じられない。
だが、それがわたくしのせいだというのは、あまりにも理不尽だ。
「おっしゃる意味が分かりませんわ。わたくしが何かをしたという証拠でも?」
きっとアラン殿下に振り回された心労が溜まっているだけなんじゃないかしら。
それか、いるはずのない暗殺者のレイを探して疲れているとか。
とにかく事実無根なのだから、言い返そうと口を開いた瞬間。
ずっと黙っていたアンジェリカが、不意に動いた。
「えっ……」
その瞬間、わたくしの目に飛び込んできたのは、獣のようにタイラーに飛びかかるアンジェリカの姿だった。
彼女は信じられない速度で動き、次の瞬間、タイラーの首筋に噛みついた。
「ギチッ……」
肉を裂く音が、恐ろしいほど鮮明に響く。
食堂全体が凍りついた。
ほとばしる鮮血が、タイラーの首元から吹き出し、彼の制服を深紅に染める。
それはあまりにも現実離れした光景だった。
わたくしは反射的に息を飲み込んだ。目を逸らそうとしても、その光景は瞼の裏に焼き付き、離れない。
幸い、わたくしは反対側にいたから血が飛び散るのを免れたが、アラン殿下、トーマス、そしてアンジェリカ自身の衣服に、タイラーの血が降り注いでいた。
「は……」
トーマスが気の抜けた声を漏らす。その時、タイラーの体が力なく崩れ落ちた。
「タイラー!」
トーマスが叫びかけるが、アンジェリカはそれを無視した。
ぎろりと彼を見据えると、まるで次の獲物を狙う捕食者のように飛びかかる。
「やめて!」
誰かの悲鳴が食堂内に響くが、アンジェリカは止まらない。
トーマスに襲い掛かったかと思うと、その後すぐに腰を抜かして座り込んでいるアラン殿下にも噛みついた。
「オイシィ……」
低い声で呟くアンジェリカに、わたくしはようやく我に返った。
「様子がおかしいわ! みんな離れて!」
叫び声が食堂全体に響き渡る。
生徒たちは悲鳴を上げながら四方八方に逃げ散り、椅子や机が倒れる音が次々に重なった。
だが、わたくしはその場から動けなかった。
アンジェリカの異様な姿に釘付けになってしまったのだ。
彼女の動きは鈍く、しかしその目には理性の欠片も見当たらない。濁った桃色の瞳が、血の気のない顔と合わさり、異様さを際立たせていた。
「これは……アンデッド?」
だが、アンデッドは死体が動く魔物のはずだ。魔物は学園の結界に弾かれる。だからこれは違う。
では、一体……。
その時、「ゾンビ」という言葉がふと浮かんだ。
前世で見た映画や物語で描かれた、恐ろしい存在。
感染によって生じる生ける屍たち。
感染初期は自分の意思を保っているが、水と肉以外は摂取できなくなる。
やがて自我が薄れ始めると、人間の血肉を求めて襲い掛かる。
ゾンビに噛まれた人もゾンビになってしまう。
……って、これ。今流行っている奇病そのものじゃない!
前世の記憶を元に考えると、ゾンビという言葉がピタッと当てはまる。
まさか……本当に?
これは本当に現実なんだろうか。
だってこここは乙女ゲームの世界で、ゾンビが出てくるゲームじゃないはずだ。
「どうしてこんなことに……」
震える手を握りしめながら、わたくしはアンジェリカを見つめる。
彼女は再び誰かに向かおうとしている。
その動きは鈍いが、確実に獲物を探している。
わたくしは懸命に頭を働かせようとしたが、恐怖と混乱で思考はまとまらない。
こんなの、どうすればいいの……? 誰か……助けて……!
アンジェリカがぎょろりと目をこちらに向けた。光のない濁った桃色にぞっとする。
血の付いた口元がゆっくりと動いて、喉を鳴らすような低い唸り声が聞こえた。
「ヴィクトリア、危ない!」
誰かの叫び声が聞こえると同時に、わたくしは反射的に身を翻した。
振り返ると、アンジェリカが誰かになぎ倒されたのが目に入る。
悲鳴が重なり、食堂の混乱は頂点に達していた。
恐怖に囚われながらも、わたくしは出口を目指して走り出した。
頭の中で鳴り響く警鐘が止まらない。
早く逃げなければ、わたくしもゾンビになってしまう。
早く……。
早く!
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