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後編

「ねえねえ」

「んー?」

「私さ、最近数学にハマってるんだよね」

「……え?」

「まあ、まだ初歩中の初歩だから、ハマってるなんて偉そうなこと、言えないんだけど」

「な、なに突然」

「それで、ちょ、ちょっと、解けない問題があるから、手伝ってほしいなー、なんて……」

「そりゃもちろん、私は構わないけど」

「え、やった。マジ?」

「でもなんで急に?」

「あの、姉ちゃんが急に本くれて、私全然読む気無かったんだけど、遊びすぎてスマホ没収されてたから超暇で、そんで試しに読んでみよって思って読み始めたらそれがめっちゃおもろくて、んで――」

「それ、なんて本?」

「あー、博士の愛した数式、ってやつ」

「…………」

「んで、その中の数式とかをもっと理解出来たら、もっとおもろいんじゃないんかなって思って。でも、うちバカだから全然わかんなくて、だから――」

「じゃあさ、教える前に一つだけ言わして。自分のこと、バカとか才能がないとか、そういう風に卑下するの、やめて」

「えっと、ひげ、って何?」

「まあ、見下すとかそういう感じ? まあとにかく、私が言いたいのは、才能のせいにすんなってこと。わかった?」

「……わかった」

「じゃあ、早速だけど、わかんないとこ教えて」

「あ、えっと、二次方程式の解き方がいまいちなんだよね」

「二次方程式。解の公式は覚えてる?」

「解の公式……あ。あの、呪文みたいなやつ?」

「そう」

「あれってなんであーなるの?」

「えっ。うーん。私にも、よくわかんないんだよね。まあ、とりあえず覚えちゃった方が早いと思うよ」

「そっか」

「うん」

「あれ、そういやぁ、ドリンクバー行かないの? グラスもうほとんど氷しか入ってないじゃん」

「あー、いや。まだいいかな。それより、まずはワークのこっからやってみよ」




 じわぁ。

 あったけぇー。

 今夜から明日にかけて、寒波が到来するらしい。ファミレスを出たらまさかの吹雪だったので、凍死するんじゃないかと思っていたけど、意外となんとかなって良かったと思う。

 玄関で靴を脱いで、乾燥機にかける。布団にも靴にも使える便利なものだけど、いつもはめんどくさいのでお母さんに代わりにかけてもらっている。久しぶりすぎて操作方法を微妙に忘れていたことに、自分でびっくりした。

 脱衣所で制服を脱ぎ、そのまま洗濯機に放り込んだ。そして、かじかんだ手でなんとか下着を外し、それも投げ入れて風呂場に飛び込んだ。

「ふわぁぁぁ」

 湯船に浸かって、おしっこをした。手先足先がジーンとなって、ほぐれていく感じがした。

 私は、ファミレスでのさっきの会話を思い出していた。

 未だに信じれないのが、彼女が小川洋子さんの「博士の愛した数式」を読んで、数学にハマったと言っていたこと。

 それを聞いてた時私は、あの本にそんな力があったのかと、心底震えていた。なぜなら彼女は、本当に数学が大嫌いで、授業中を含めて数学を勉強している姿を一度も見たことがなかったから。

 中学に入ってからの定期テストが全部で十一回あったけど、彼女が二ケタの点数を取ったことは一度たりともなかったし、極めつけに、数学を勉強したくないから進学を辞めて地元の工場に就職すると言い始め、それを聞いた数学の先生と口喧嘩をする始末だった。

 そんな彼女を、一体、どんな言葉で動かしたのか、どんな文章で彼女にあれほどの熱量をもたらしたのか、ただただ、気になった。

 頭を洗って、体も隅々まで洗って、風呂場から出た。脱衣所の床がひんやりしていて、少し気持ちよかった。

 部屋に入って、ベッドで横たわる。

 あれってなんであーなるの?

 彼女の言葉を頭の中で反芻する。公式は覚えるものだと思っていたので、「なんで」なんて考えたことがなかった。でもたしかに、言われてみると、なんであの公式ができるのだろう。

 そんなことを考えている間に、気づいた時にはもう、シャーペンを握っていた。とりあえずこれかなと思った方法を、片っ端から試していく。

 計算を進めれば進めるほど、自分の凡人さを思い知らされた。本当はもっとスマートで、簡単で、美しい解法があるんだって頭の中では薄々わかっていても、それがなんなのか見当もつかなかった。探そうにも探し方がわからないから、黙って見て見ぬふりしかできないのが余計悔しかった。

 十分ぐらい経って、ようやく公式と同じ形に変形させることは出来たが、私の中には達成感の欠片もなくて、むしろ悔しさがにじむばかりだった。

 もっと頭良くなりたい。

 生まれて初めて、そう思った。成績のためではなく、自分の成長のために、勉強したいなと思った。

 その時、さっきの友達からスマホでメッセージが来た。

「ねえねえ、平方完成って何?」

 平方完成?

 見たことも聞いたこともないその言葉を、私はすぐさま検索した。

 そこに出てきたのは、さっき私が探していた解法。天才的に、美しい方法。解説を読み進めるほど、隙がない応用方法。

 私はスマホを閉じた。そして――

「あーはっはっはっ!」

 なーんだ。私ただの凡人じゃん。みんな、みーんな、天才すぎでしょ。

 小さなきっかけでなにかに熱中できる才能。人のやる気に文章だけで火をつける才能。誰も見つけられない道を使って答えを導く才能。

 みんなと壁をつくってたのは、私の方だったんだ。

「まさに、ボクは天才、って状態じゃん」

 自嘲的な笑いが止まらなかった。

「あ、そうだ」

 その時私は、湯船に溶けだすおしっこを思い出した。 スマートフォンのメッセージで、一度友達に試してみたら……

「そうだ」

 私の中にさっきの熱量が帰ってきた。タイプする指で、手当り次第に文章を積みあげ、消しては、また築きあげるのを繰り返した。

 やっとそれはできあがった。そして、にやける顔を制しながら、そのテキストの語尾におそるおそる「おしっこ」 と付け加えた。

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