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35.愛



「あんたは誰だ?」


 生活苦に耐えられず、一家心中を決意した農家の主人にそう訊かれたとき、


(俺は衛兵隊長。せっかくこの世に生まれたあなたたちを、地獄に突き落とした王様を護る仕事をしている。そしてその王様のおこぼれで、大変美味しい食事を毎日たらふく食っている)


 という答えが、コールマンの脳裏をよぎった。

 だが実際には何も言わなかった。

 無力感に襲われて、口が動かなかったのである。


(何と情けないことだ。この奴隷たちが作った米を、俺は毎日残すほど食っている。しかし彼らは、今日食べる米がなく、年端のいかぬ子どもたちとともに死のうとしている。それなのに俺は、今の今まで、国のために彼らよりもリッパな仕事をしていると思っていたのだ……)


 奴隷たちの犠牲に支えられて生きていながら、その奴隷の苦しみに目を向けようとしなかった自分を、コールマンは激しくじた。


「コールマンさん」


 うなだれたコールマンの首すじに、天使の声が新雪のように柔らかく降りかかる。


「あなたの心が、私には見えます。あなたはこちらの家族が死ぬのを望んでいない。そうですね?」


 当たり前だ、という答えが浮かんでも、顔を上げることはできなかった。それを言う資格すら、自分にはないと感じていたから。


「この国の王様のせいで、すでに何万、いえ、何十万という農民が死んでいる。あなたはその王の信頼厚い衛兵隊長として、こちらの家族に合わせる顔がない。だから何も言えないでいる。そうですね?」


 この場合、返事をしないことが返事になった。


「でもそれは、初めて現実を知って、心を動かされた証拠です。人は、心が動くと、行動が変わります。あなたはどうですか? 心が動いても、まだ現実に目をつぶって、前と同じ行動を続けますか?」


 厳しい質問だ。

 知った現実を無視して生きるのは、心を殺すのに等しい。

 だが、行動を変えるとは、国王陛下に対する忠誠を捨てることを意味する。


(天使は俺に、裏切りを迫っている。今日見聞きしたことを陛下に報告しないことが、行動を変えるということだ。でも俺に、そんな不義理ができるか?)


 死のう、とコールマンは思った。

 陛下を裏切る自分が想像できない。かといって、農民の地獄を知りながら、今までと同じ顔をして陛下の命令を聞ける自信もない。


(軍人が迷ったらもう終わりだ。王の命令一つで火の中に飛び込むのが軍人だ。しかし、農民の死を聞いて笑ってステーキを頬張る陛下のために、俺は死ねるだろうか? 嗚呼、陛下。自分は二つに裂けてしまいそうです!)


 コールマンの目が、中身の入った茶碗の上に止まったーー青酸ソーダ入りのリンゴジュースに。

 反射的にそれを取り、口に運んだ。


「おじさん、だめだよ!」


 不意に少年の声が耳を刺し、手が止まった。

 振り向くと、四人の子どもが、天使に抱かれて顔を輝かせていた。


「おじさん、それ、ジュースに見えるけど、毒なんだ」


 十二歳の長男が、そう言って笑う。


「さっき、おいらも飲もうとしたんだけどね。飲まなくて良かった。だって、天使に会えたんだよ!」


 子どもたちは天使にしがみつき、キャッキャとはしゃいだ。


(生きていたら、天使に会うこともできる。そういう奇跡を体験したこの家族からは、もはや、心中をする動機が消え去っている)


 生きていれば、何が起こるかわからない。

 どんな悩みも、生きていれば、奇跡的に解決するかもしれない。

 だからーー死ぬのは間違っている。


「ああ、ありがとう。毒なんだね。なら捨てよう」


 コールマンは茶碗を傾けて、中身をこぼした。俺は少年に命を救われたぞ、と胸に刻みながら。

 

「コールマンさん。心は決まりましたか?」


 天使の問い。

 コールマンは見た。

 八人家族の笑顔を。

 ランも笑っている。不思議な老婆も笑っている。


 彼らにはーーずっと笑っていてほしい。


「決まりました」


 コールマンは答えた。


「巡回したが、何も異常はなかったと陛下に伝えます。それで、あなたの言う、正義がなされるのですね?」

「そうです」


 頷いたあと、天使はコールマンの顔を覗き込んだ。


「コールマンさん。あなたは今、あなたの心が正直に命じる、大変良い決定をなさいました。それなのに、少しも笑わないのですね」


 もちろん、とコールマンは言った。


「笑うことなどできません。私は半分死んだようなものです」

「なぜですか?」

「あなたは心が見えるのでしょう?」

「でも、あなたの口から聞きたいのです」

「では言います。私はずっと、陛下のために生きてきました。死ぬまでそうするつもりでした。それを捨てたのです」

「なぜ捨てることができましたか?」


 コールマンは少し考えた。やがて、心に浮かんだままを言った。


「あなたたちのほうが正しくて、自分が間違っていると思ったからです」


 天使は翼を広げた。その翼は、まばゆく光った。


「コールマンさん。今はつらいでしょうが、奇跡は起こります。必ずや、あなたにも素晴らしい未来が開けるでしょう」


 コールマンは、天使の光にすがるように訊いた。


「教えて下さい。私がもし、陛下のために生きるのをやめたとしたら、何のために生きたらよいのでしょう? 陛下の代わりになるようなものが、果たしてこの世にあるでしょうか?」


 コールマンは真剣だった。その真剣さに、思わず笑みを誘われた天使は、コールマンを慈しむように言った。


「私からの提案は愛です。どうぞ試して下さい」

「……愛?」


(これから俺は、愛のために生きる?)


 唐突な天使の提案に、コールマンはとまどいを覚えたが、目の前にいる人々をじっと見つめているうちに、なぜだか知らぬが笑みがこぼれた。


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