考え、生きる石像
――僕は毎日、午後五時四十二分にやってくる普通電車に乗っている。
今日も電車を待ち、比較的混雑した車内に乗り込んだら発車ベルとともに扉が閉まり、列車が進む。
至っていつも通りの日常だ。
しかし、その日は一点だけ普段と異なる事があった。
携帯電話の電源ボタンを押しても普段の見慣れた画面は映らず、斜めに切断されたような乾電池のマークと右上に赤いLEDランプが申し訳無さそうに点滅している。
早い話、電池が無いのだ。
そっと溜め息と共に携帯をポケットに押し込み、広告を見る。
雑誌の宣伝、テーマパークの紹介、観光地の写真……
特段変わり映えのしない退屈な物しか目に付かなかった。
視線は面白いものを求めて、七人ほど横並びで座れるであろう座席に視点を落とす。
自分の目の前の席には、考える人の像が座っていた。
車窓に目線をずらそうとしたが、思わず二度見する。
「……え?」
確かにそこにはブロンズ像が鎮座している。
隣には何食わぬ顔でスーツを着たサラリーマンが携帯を触っている。
周囲にいる人の様子を見るが、電車に座っているこの無機物に注目している人は誰一人とておらず、全員携帯電話の画面ばかり見つめていた。
特に僕の左隣に立っている人に至っては、目の前に何よりも奇妙な物があるにも関わらず「世界の不思議百選」なるものを見ているのだから笑いそうになってしまった。
もしも僕が人見知りでなければ声を掛けていたかもしれない。
しかし、僕も実際に考える人の像を見たことはない。改めて像を眺める。
顔つきは至って平均的な日本人顔というやつで、どこの会社や学校にも一人くらいいそうな平凡な顔つきだ。これに名前を付けるなら「佐藤さん」といったところだろうか。
しかも色合いのせいで分かりづらかったが、現代的な服を着ているようだ。
……本当に考える人の像なのだろうか?
考えている内に下車駅に着いてしまい、慌てて電車を降りる。
ドッキリにしては手が混みすぎている。一体誰が、何のために作ったのだろう……?
翌日、同じ時間、同じ車両、同じ扉から電車に乗り込み、同じ席を伺う。
そこには、全く顔も違う生きた人間が本を読んでいた。
昨日の事と関係はなさそうだ。少なくとも僕に「あなたは昨日像になっていた記憶はありますか?」などと質問する度胸は無い。
程なくすると近くのの席が空く。丁度いいとばかりに席につき、昨日のことを思い返す。
まじまじと眺めていたので印象に残っていたのだろう、偶然にも僕は像と同じ姿勢を取って瞳を閉じた。
途端、昨日のことが今この場で起こっているかのように記憶が思い起こされた。
揺れる車内。
隣にいる非現実的な光景を見向きもしない乗客たち。
金属のようにしか見えないのにほのかに風に揺れているシャツ。
脳が今までの経験全てを活用しているのを感じる。
意識はより深く、揺蕩う大海の水底に沈んでいくように先鋭化されていく。
ここまで集中したことは今までに一度も無かったかもしれない。
自分で集中力がある方だとは思っていなかったが、思い違いも良いところだ。
あまりのことに目を見開くと、そこには見慣れた列車の風景が広がっている。特に奇妙な点は無い。……先程の事を除いて。
僕は考え事をする時にこれを使うのが習慣になった。
やり方は非常に簡単だ。考える人の像と同じ姿勢になり、目を閉じる。それだけだ。
もしかするとあの「佐藤さん」も僕と同様の事をしていたのかもしれない。
一度見た物を完全に思い出す事の出来る記憶能力。
これは一瞬でも見れば機能するので、試しに漫画を斜め読みして頭に入れ、授業中に考えてみる。
結果、目の前には本が無いにも関わらず、漫画を読むことに成功している。
一字一句完璧に見ることが出来るため、その気になれば特定のページにいる登場人物の吹き出しの形を事細かに思い出す事も出来る。
しかし、いつでも本を読めるような状況になってしまうと読む本が無くなってしまうのもあっという間だ。
そこで本屋に向かい、一通りパラパラと置いてある本をジャンルすら問わずに立ち読みする。
どんな本も頭に入り、理解できる。そう遠くない内に国立大学に入るのも夢ではないだろう。
雑誌も一週間に一度読んで頭に入れれば、いつでも好きなだけ思い返すことが出来る。
少年誌、アニメ誌、オカルト誌…………ふと、気になる記事に意識を留める。
「バミューダトライアングルの謎に迫る……?」
要約すると、バミューダトライアングルと呼ばれる海域では船や飛行機が失踪することが多く、その原因を科学的に説明することが出来ないらしい。
科学資料も一通り読んだ今の僕にはちょっとした学者程度の知識があるはずだ。少しまじめに考えてみる事にする。
丁度近くにあった公園のベンチに腰掛け、前屈みになる。あごの下に右手の甲を持ってきて、左手と共に左膝の上に肘を乗せる。これで何時もの「儀式」は完了だ。
まぶたを下ろし、思考する。
――そのまま解明することのない謎に、彼は動くことが無くなってしまった。
彼の近くに鳥が止まり、やがて肩に乗る。
しかし、動くことはない。そもそもそのことにすら気が付いていないのだろう。
それほどまでに深い思考の渦の中に巻き込まれてしまったのだ。
少し経ち、公園に犬を連れて散歩している女性は、考え続けている彼を見て言った。
「なんでここに考える人の石像が……?」