16話
その昔、この山のふもとには立派な町が栄えていた。龍神様を祀るために年間通して様々な催しものをしていたそうだ。特に夏は歌って踊って貢物をして、町人たちは総出で神事にあたっていたという。
しかし災害というものは人々を願いを無視して起るものだ。
「その年に起こった水害は何十年に一度というレベルの恐ろしく大きなものだった。数日間続いた大雨で極限にまで増水していたところに、嵐がきたんだ。川は荒れ狂い土地をのみ、あふれた濁流が田畑や植物をなぎ倒していった。……当時は今よりもよっぽど食糧事情が悪いからね。田畑をダメにされたら死活問題だっただろう。だから懸命に龍神様にお願いした。どうか静まり下さいって。そして人々は荒ぶる神を鎮めるために特別の捧げものをすることにした。人身御供だ」
よくある話だよね、と葵は笑った。しかしその表情は苦しそうだ。
「ひとりの女の子が選ばれた。何の罪もないのに、湖に沈められることが決まったんだよ。まだ十五だった……」
視線は湖に向けたまま、葵の瞳からひと筋の涙が流れた。
「みんな『かわいそうに』なんて口では言うけど、誰ひとりとして止める者はいないんだ。内心はありがたがってたんだよ。選ばれたのは立場の弱い家の娘。その子の命ひとつで町のみんなが救われるならって、誰もが納得してた」
声が震えている。しかしまるでその光景を目の前で見ているかのようであった。すすきは少し考えてから、自分のバッグからハンカチをとりだして葵の頬をぬぐう。彼はすすきを見つめると、表情をくしゃりとゆがめた。
その姿に既視感を覚えた。
葵の姿が誰かと重なって見えた瞬間、すすきの頭の中に古めかしい映像が流れてきた。
——雨にぬれた幼い少年が、土砂降りのなかすすきの手を取って走っている。すすきは真新しい白い着物を着ており、雨でじゅっくりと濡れ、跳ねかえった泥水であちこち汚れていた。
「なにもできなかった」
悲痛な声は厚い壁で隔てているかのように遠く聞こえる。
大人たちに追われ、ふたりの逃避行はすぐに終わりを告げる。すすきと少年は離され、引きずられるように連れていかれたのは山へと続く石の道だった。そのあいだずっと少年の叫び声が聞こえていた気がする。なんと言ってたのかはわからないけれど、悲痛な声はすすきの胸を締め付けた。
視界が揺れる。意識が引っ張られる。
どぼんと水の中へ放られる感覚がして、目をあけても濁った水の中は一寸先も見通すことはできない。苦しい。息が出来ない。冷たくて暗い水底から生える何本もの腕がすすきを底へ底へと引きずり込む。
こぽり。肺に残っていたわずかな空気を吐きだしたあと、すすきの意識が遠のいていった。
「すすきちゃん!」
その声にはっと意識が覚醒した。ここは水の中でも、山の中でもない。ちゃんと呼吸もできる。目の前には必死な形相の葵がおり、ふらつく体を支えてくれていた。
「大丈夫? 具合悪い?」
「すみません、立ちくらみがして」
心配そうに覗きこむ葵は、先ほどまで見ていた幻影の少年に似ていた。その記憶に引きずられているのだろうか、安堵の気持ちが湧いてくる。必死に守ろうとした少年の気持ちは、すすきの意識が途切れるその瞬間まで、心に暖かな炎を灯していた。
「……きっと、その子はみんなを守れてよかったと思っています。怖いし、苦しかっただろうけど、大切な人の為になるのならって」
なんの根拠もないけれどそう思う。しかし葵はそれが不服のようで、首を小さく横に振り、血の気がなくなるほどに拳を握りしめた。
「自然災害は神様が起こしてるんじゃない。人間を捧げたって治まるわけないんだよ。俺がもしその時代に行けたら、あんなバカげた儀式絶対にぶち壊してやる。そしたらあの子は死なずに——」
「葵さん」
葵の言葉を遮り、すすきは両手を伸ばして彼を優しく抱きしめた。肩に頭を埋め、抱きしめる腕に力を込める。それは恋人に甘えるというよりも、幼子を安心させるような抱擁だった。
「大丈夫です」
葵は声がでない。わなわなと震える口は息を漏らすばかりで、代わりに涙が頬をつたう。すすきはなだめるように彼の背中を撫でた。なぜ葵がこうも感情を露わにしているのかはわからない。わかることは彼が深く傷ついているということだ。すすきの見た白昼夢にでてきた幼い少年、もし葵が彼の立場だったらこんなふうに胸を痛めたのかもしれない。
「うまく言えないけど……」
肩に頭を預けたまま、すすきは優しい表情を浮かべた。
「今はもう大丈夫ですよ」
葵の腕が腰にまわり弱々しく抱き返してくる。震える吐息が耳にかかって少しばかりくすぐったい。
湿った風が木々を揺らす。湖面には小さな波紋があちこちにできていた。
「帰りましょう。この場所はなんだかさみしいです」
すすきの言葉に葵はうなずき、ふたりは帰路へと着いたのだった。
◇
目が覚めたとき、白いひらひらとしたものがしたものが目に入った。蝶だ。ぼーっとする頭を抱えてゆっくりと上半身を起こすと、白い蝶はすすきのまわりを優雅に飛び、そして手のひらにとまる。葵が以前見せてくれたものだ。しばらく羽をぱたぱたと動かしていたけれど、魔法が解けたかのように白い紙に戻ってしまった。それを少し残念に思いながら手のひらの中で撫でる。
「起きた?」
声のする方に顔を向けると、少し離れたソファから葵がこちらを見ていた。にこやかな表情を浮かべ、手にはマグカップを持っている。コーヒーのいい匂いがするのはあれからだろう。
ここは葵の部屋で間違いない。そうか、旅行から帰ってきて疲れて寝ちゃったんだ。そう合点がいって、すすきは抜け出したベッドに腰掛けた。合わせるように葵が隣にきて座る。手の中にある白い蝶をサイドテーブルに預け、辺りを見回すと壁掛け時計は午後五時をさしていた。一時間ほど眠っていたようだ。
葵は疲れていないだろうか。気になって聞いてみても葵は涼しい顔で「大丈夫だよ」というばかりだ。
「明日でお試し期間が終わるよ。早いね」
もうそんなに経つのか。すすきは何も言えずにぱちぱちとまばたきを繰り返す。その様子を見て、葵はおかしそうに笑う。そしてついばむように唇を重ねた。
「明日はどうする?」
にこやかだが、その瞳はどこにも行ってほしくないと訴えていた。葵は視線をすすきに向けたまま、すすきの両手をしっかりとつかむ。
「……理加子さんのお店に寄ってお土産を渡して、それから芽衣に会いに行きます」
「ついていこうか?」
「いえ、ひとりで大丈夫です」
「つれないなぁ」
息がかかるような至近距離にはいまだに慣れない。少しだけ距離をとろうと思っても葵はそれを許さない。むしろどこから取りだしたのか、柔らかなタオルですすきの両手を器用に拘束してしまった。
「葵さん、これじゃ手が使えません」
「たまにはこういうのもいいかなって」
縫い付けるような葵の視線は熱っぽく、上気した頬と目元が色づいている。あ、と思った時にはベッドに押し倒されていた。
「本当はどこにもやりたくない。閉じ込めてたい。……だから、今だけ」
懇願するように甘えられてはすすきも跳ね除けようがない。だけど今回は少しばかり抵抗してみる。腕は拘束されたままのしかかられては身動きがとれない。
「……変態ちっくだと思います」
「ひどい男だとののしってみて」
小さく笑う葵は楽しそうだ。しかし瞳の奥にある熱は温度をあげるばかりで、すすきの背筋がぞくりと震える。触れられた箇所が熱い。身をよじって逃げようとしても葵はそれを許さず、仕置きとばかりに愛を囁いた。
◇
次の日、すすきが忽然と姿を消した。
葵が連絡をしてもいっこうに繋がらず、のちに道路わきの茂みから彼女のスマホが見つかる。
お試し結婚生活の最終日のことだった。




