12話
明日から旅行に行くことが決まり、葵は機嫌よさそうにパンフレットに視線を落としている。すすきのスマホが鳴ったことには気づいていないようだ。すすきも葵の目の前でメッセージを確認するのは申し訳ない気がして、彼がお風呂にはいっているときにこそこそと画面を開いた。
メッセージを送ってきたのは間宮だった。いつもの軽い口調で、近々お茶でもしようよというお誘いだ。さすがに応じるわけにはいかない。だいたい、そんなにしゃべった事がない人とふたりで会って何を話すというのだろう。仲良くなりたいと思う相手だったらともかく、すすきは間宮にそこまでの感情を抱いていない。
すすきはなんとなく葵を思い浮かべた。
葵とは初対面同然の状況で、なぜか同棲のようなことをしている。ふたりきりでカフェに行くとかそういうレベルをはるかに凌駕している状況だ。……しかし、葵のそばはなぜか心地がよかった。無理して話しかけることもしなくていい空気感があって、すすきはそれが好きだった。もちろん会話をしているときも楽しい。改めて考えて、葵との生活にこれほどまで馴染んでいる自分におどろいた。
あんなに好意的に接してくれるから心を許しているのだろうか。同じように好意を持ってくれるなら、誰にでもそう感じるのだろうか。……ちがう、とすすきは思った。まだ理由はわからないけれど、すすきにとっても葵は特別なのだ。
「だれ、それ」
とつぜん硬い声が背後から降ってきた。すすきはびっくりして、大きく肩が跳ねてしまった。見るとまだ髪を濡らした葵が、背後からすすきのスマホをにらむように覗きこんでいる。べつに悪いことをしているわけではないのに、すすきは居心地が悪くなった。
「あの、知り合いです。お茶にさそわれて」
「ふーん」
そういうと葵の手がのびて、テーブルについていたすすきを後ろから抱きしめる。シャンプーなのかボディソープなのか、いい匂いが鼻をかすめてどきりと心臓がはねた。
「俺ね、すすきちゃんのこと大好き。すすきちゃんが俺を置いて他の男と遊びに行っちゃったら……」
首筋にちくりとした痛みが走った。葵がそこに顔をうずめたまま「悲しくて泣いちゃうかも」とつぶやいた。そして首筋に小さく口づけを落としながら耳元まで動き、そして目じりや頬へと唇を落とす。恥ずかしさで身体がかっと熱くなった。
「葵さん、まって」
すすきはまだお風呂にはいっていない。一日働いたあとなのだから、きっと体は汗をかいている。風呂からあがりたての葵からしたら、余計にそれを感じるだろう。だからすすきは葵に制止の言葉をかけた。
「いや」
葵の手はすすきの腕をなぞり、手首をやわらかくつかんだ。すすきはもっていたスマホをぽとりとテーブルに落とす。移動する口づけはすすきの唇にたどりつき、言葉をのみこむように深く深く唇をあわせ、舌を絡ませる。
「そいつと行くの?」
キスの合間に葵がたずねるが、すすきには答えることができない。小さく喘ぐように息をしながら首を横にふるので精一杯だった。それを見て葵は満足げに目を細める。正しい答えを出せたようだ。
◇
お試し結婚生活も五日目を迎えた朝。持っていくものは最小限で、あとは現地調達しようという葵の提案により、軽い手荷物だけで車に乗り込んだ。休憩を挟みながらのドライブ旅になるのだが、目的の場所に行く前に、少しだけ寄り道をしてくれるようすすきはお願いをしていた。
それは以前、友人と一緒に行った占いの館だった。あの奇妙なおばあさんにもう一度会って話をしたかったのだ。おばあさんはすすきの顔をみるなり「失せ物はT市で見つかる」と言い放った。今さらだけど、それが気になる。
近くのパーキングに車を泊めて外に出る。葵には別の場所で休憩していてもいいと言ったのだが、変な虫がどうのこうのと理由をつけてすすきと一緒に行動した。
占いの館はいわゆる繁華街の端にあった。夜には居酒屋やスナックの看板がギラギラと光り、ほろ酔いの人々が行き交うのだろうが、昼間はその喧騒も鳴りを潜めている。すすきは記憶を頼りに歩き進めると、お目当ての場所を見つけた。建物の壁はパステルカラーの紫で、明らかに他のお店と雰囲気が違う。表に出ているブラックボードには、本日スタンバイしているのであろう占い師名前がつらつらと書いてあった。
自動ドアを通った先には可愛らしく飾り付けをしてある受付があった。
「すみません、会いたい占い師さんがいるんですけど」
受付にいたお姉さんに話しかけると、ニコニコしながら占い師の名前と顔写真が乗った一覧を見せてくれる。
「以前ご相談されたことがある先生ですか?」
「はい、友だちといっしょに」
すすきはざっと見渡したが、あのおばあさんはいなかった。雰囲気のある衣装をきた中年女性や若い男性、年齢もよくわからないような謎の人物、飲み屋のお姉さんみたいに派手な若い女性。ほかにも並ぶ個性的なメンツだが、あのおばあさんはいない。
「あの、もっとおばあさんみたいな人、いませんでしたか? 見るからに魔女みたいな格好をしているおばあさん」
受付の人は首を傾げると、一覧の中からいちばん条件が近い人を教えてくれた。しかし絶対にその人ではないと、すすきは断言できる。
店を間違えたわけじゃない。あのパステルカラーの外壁も、この受付も覚えがある。お姉さんに礼を言うとすすきは外に出ることにした。それまで黙って様子を伺っていた葵が後ろから声をかけた。
「お目当ての人いなかった?」
「はい」
外に出ると、湿気を多分に含んだ空気が身をつつむ。空調の効いた部屋から出たばかりなので余計にそう感じる。湿った空気が肺を満たすと、溺れてしまいそうだ。
そう考えてすすきは目を伏せながら苦笑した。溺れたことなんてないのに。というのも、広い水場が怖くて、海やプールには近寄ったことがないのだ。学校であったプールの授業は理由をつけて見学をしていた。小さい頃に溺れた事があるわけではないのだが、とにかくすすきは広い水場が苦手だった。
葵さん、行きましょう。そう言おうとした時だった。
突風が吹いてすすきの髪をざあっと乱暴にかき乱す。風はすぐにおさまり、ぼさぼさになった髪を押さえながら目を開く。すると——
「……え?」
驚きのあまりに声が出る。
すすきたちの目の前に、例の占い師のおばあさんが立っていたのである。




