第2話 魔王が往く
――連れていけ
嫌だ、兄さん、何で、どうして?
――バート
兄さんが遠い、冷たい、暗い。
熱の籠った視線が俺を射抜く。兄さん、何故何も言ってくれないんだ。
顔に濡れた感触。ああ、泣いてるんだろうな、あんな別れ方ってないよ。
目が覚めた。光がぼんやりと差していて、ここが日当たりの悪い場所であることを知る。
ちょっときつめの刺激臭を嗅ぎ取って眉根を寄せた。身体を起こそうとして、腕が引っ張られて動けなくて、後ろ手に繋がれたことを思い出す。寝返りを打って動けるようになってから状態を起こした。よく見たら後ろ手に繋いでるこの鎖自体は前に持ってこれそうだ。俺は身体を屈めて脚を通し、両手を前に持ってきた。
周辺を見渡すと、狭い部屋に寝かされていたらしいことが分かる。近くで子供が2人と男が1人眠っているのを見つけた。不用心だなと思いつつ俺は男が目を覚ますのを待った。
俺の首に着けられているのはなんだろう。ここに奴隷制度があるならその証とかかもしれない。
男は少ししたら目を覚まして、俺が起きているのを確認すると、こっちに来い、と言ってリビングらしき部屋に誘導した。
「俺はジョージ。お前さんを拾ったのは俺だ。お前さんは奴隷で、できることをやってもらう。まあ、何ができるかは見てからだけどな」
「ああ、わかった。……随分と不用心だし、あまり先のことは考えていないな?」
「うぐ」
ああ、学が無いというよりもこれは多分、とてもいい人なのだろう。見たところ子供は2人とも幼かった。女がいないということは、子供の面倒をみれる者がいないのだろう。人間はカネが無いと生きていけないと聞くし、目の前の男――ジョージは働いているのだと思われる。
「しかし、奴隷か。口調は改めた方がいいのか? 俺もあまり学がある方じゃないんだ」
「……聞いてたよりずっと素直で驚いてるよ」
「何、此の腕輪が外れなければそもそも俺は魔法が使えない。あんたは力仕事だろう、そんな筋力で抑え込まれたら今の俺ではどうしようもない」
事実を述べていけばジョージは不思議そうな顔をしていた。悪魔は魔法と通常の身体能力の両方において人間を凌駕するが、少なくとも魔力が使えない今の状態では頼みの綱の身体強化も使えないので、従っておいた方がいいだろう。
「……俺は……バートだ」
メフェールは、今は名乗らない方がいいかもしれない。俺はそんなことを思って、名乗った。とにかく今は情報が欲しかった。なんでもいい、この世界が一体何処なのか、魔王はいるのか、それとも人間ばかりの世界なのか。分かるだけでもだいぶ違うからな。
「バートか。ではバート。お前にやってほしいのは、家のことだ。男に家事を頼むのは変な話かもしれんが。それにお前、その。見目がいいから」
「ああ、大丈夫だ。俺も出身はスラムだからな。一通りのことはできる」
子供の相手をしたことは無いけれど、力加減を間違わずにいれば何とかなると思う。思いたい。見目が良いと判断されるくらいの外見を持っていることは自覚しているので、素直に従う。下手に外に出て改めて彼の手を煩わせることも無い。
ジョージは安心したように出勤していった。日雇いの仕事をしているらしいが、最近は、街の中に引いている水路の補修工事の仕事があるらしく、くいっぱぐれずに済んでいると言っていた。朗らかが過ぎて不安だ。
もうちょっと危機感を持ってほしい……と俺が思うのは可笑しな話かもしれないけれど。
ジョージは朝食を摂らずに出ていった。軽く室内を見回して、ここの文明レベルがあまり高くないことを悟った。俺がいた魔界は人間界と離れていた分文明の利器とかいうやつが入ってくるのが遅かったけれど、それでも暖房と冷蔵庫くらいはあった。暖房の方が圧倒的に必須アイテムなので技術の独占してたやつらは相当儲かっていたなあとか思いつつ、はたと空気を見て俺は大切なことに気が付いた。
俺がいた魔界にはほんのりと魔力というものが漂っていた。基本的に悪魔には認識できる、というか視認できるものだ。ところが、この場の空気には、それが、全く感じられなかった。悟る。ああ、ここは、悪魔にとっては地獄みたいな世界だ。
この世界は恐らく、魔法そのものが、発動しないのではないだろうか。
♢
魔法が使えなくても俺は特に気にしない。もともと白兵戦派であるため、身体強化が使えなくなった程度で自分の身を護れなくなるようなことは無いのだ。これでも一応ちゃんと名の通った格闘家だったのだ、師は養父だけれど。
そういえば、兄さんも義兄である。俺は魔界ではよくある孤児だった。拾ってくれたのが養父で、沢山可愛がってくれたのが兄さんたちだったのだ。
……どうして。
「……」
暗くなる思考を振り払って、食料を探してみる。子供たちに食わせないのは酷だろう。一番日の当たらない風通しのいい場所にあった木箱に、椎の実が詰められた小袋と、小さな籐の籠に入れられた乾燥果物があった。タンパク質は摂れるだろうけれど、どこまで使っていいものか。
悩んだ結果、椎の実を半分ほど炒ることにした。ボウルはある。水を張って、虫入りと食べられるものを分けた。小さな鉄鍋があったのでそれで椎の実を炒る。子供たちがなかなか起きる気配がない。あまり食べ物が無くて体力がないのかもしれない。
ぱちんぱちんと鉄鍋の上で弾けるようになった椎の実をしばらく眺め、皿に移す。乾燥果物はそれだけでだいぶ甘いし腹にもたまるのでそのまま出すことにする。家から出ないと主と約束をした以上外に出るのは気が引けた。2人分の食事を皿に盛り終えて、俺は子供たちを起こしに向かった。
「おい、起きろ」
「むにゃ……」
「にゅぅん……」
腹を出すな、いくらここが温かくても風邪をひくぞ。
俺は子供2人を起こしにかかる。軽く肩を叩いてやると、兄の方が起きた。
「……誰?」
「お前たちの父親が拾ってきた悪魔だ。食事と呼べるほどのものではないが、用意した。食べろ」
「……何使ったの?」
「椎の実と乾燥果物だ。最低限喰わねばすぐに死ぬぞ」
「……」
少ない食べ物を何に使ってくれているんだとでも言いたげな表情の少年は、小さく息を吐いてそっと妹を起こした。
「レニ、朝ごはんだよ」
「うにゅ……」
もぞもぞと蠢いた後むくりと身体を起こした妹の方は、俺を見て驚いていた。
「きれーね、あなたはだれ?」
「お前たちの父親……お父さんに助けてもらった、バートだ」
「バート。そっかあ、だからお父さんきのうおそかったのね」
かなりしっかりしている。兄妹ともに。俺の印象はそれだった。
「久しぶりに朝ごはん食べれるねえ」
「その分ぼくらのお昼ご飯は少ないけどね」
「そうなの?」
「こいつも食べなきゃいけないんだから、当たり前だろ」
気遣いは嬉しいけれど、俺は自分の分は用意していない。本当は食べた方がいいけれど、食べたからと言って俺の食事量は尋常じゃないし、人間に賄わせようとは思っていない。それに、魔力自体が動かないこの地でなら、俺がドカ食いする理由だって、出てこないかもしれなかった。
「スープが作れれば良かったんだが、すまん」
「別にいいよ」
「あさからくだものがあるよ! 嬉しい!」
「ちょっと何してくれてんのさ」
「お前たちは少しでも朝から栄養を摂った方がいい」
乾燥果物の中でもイチゴとバナナのチップを選んだのは、少女へのささやかな気遣いのつもりである。ベリー系は夜の方がいいだろう、金をかけられるなら夕食をしっかり摂らせて身体に栄養を摂らせねば成長するものも成長しない。
「……2人分しかないけど?」
「俺は不要だ。悪魔は長期間食事を摂らなくても生きていける」
「……へー」
「めっ」
椅子に座った妹の方が、俺に椎の実を差し出してきた。めっ、と言ったから、俺も食事を摂れということなのだろうとは思うのだが。
「……そも、奴隷と食事を共にするというのはどうなのだろうな」
「本人がこう言ってるんだしいいよ、レニ」
「めっ! ごはんはみんなで食べましょうって、おかーさんいってたもん!」
「うぐ、」
確かに、家族と摂る食事は別格だ。きっと彼らの母親は優しい人だったのだろう。いないということは、病か何かで儚くなったと考えてもいいと思う。ジョージが出ていくときに彼越しに見えた外の風景は、まあ、魔界の方がマシとまではいわないが、かなり劣悪な環境であることを想像できる風景だった。
子供たちの近くに座って、妹の方が俺に寄越してくれた椎の実を摘まむ。少し冷えてきて剥き易くなっているようだったので、小さな実の皮を剥いて皿に放り込んでいく。椎の実は炒ると甘くなる。山が近くにあったら絶対俺も探して回っていた。美味いのだ、なんだかんだで。
兄の方も上手く剥けないようで、妹の方の分を剥き終わってから兄の方の椎の実の皮を剥いた。全部剥き終わったら、妹の方が半分くらいの実を俺に寄越す。なかなか強情。兄の方も少し俺に渡そうとしてきたので、2人がくれようとした分から少しずつもらって後は返した。
「たりるの?」
「足りるわけないじゃん、ぼくらより大きいんだよこいつ」
「だいじょうぶ?」
「大丈夫だ」
平気、と言うよりは大丈夫だ、の方がいいんだろう。3人でもそもそと椎の実と乾燥果物を食べて、この後の予定を尋ねる。
「2人はこの後いつも何をしている?」
「籠編んでるよ」
「おにーちゃんがざいりょうもらってきて、レニといっしょにあむの! あみおわったらおとーさんがうってくるんだよ!」
内職なわけか。籠は俺も編めるが、どうするべきだろうか。使い魔も出せないので彼を見守るということも出来ない。きちんと言いつけられたわけではないが、外にはなるべく出ない方が良いということであるし、どうしたものか。
「そうだ、2人とも。この付近のことを教えてほしい」
「あー、昨日来たばっかりなわけか」
「ああ」
家の外に出ると右が平民街、左が貧民街だ、とあっさりと兄の方が教えてくれる。左には行かない方がいいわけか。
「さて」
「なに」
「どうしたの?」
2人の自己紹介さえも聞いていないのだが、そろそろ俺の鼻が馬鹿になりそうだ。掃除道具を見繕い始めた俺に、兄の方が何をしたいのか悟ったらしく、慌てて奥の部屋に向かった。
「ねーね、バート」
「どうした」
「あたしね、レニ。あっちはおにーちゃんのティムだよ!」
「そうか、教えてくれてありがとう」
気付いていたらしい妹の方――レニが自己紹介を簡単にしてくれた。見た目3歳前後だと思うのだが、もしかして5歳くらいなのか?
兄の方――ティムは恐らく5歳前後だと思っていたが。
「レニ、今いくつだ」
「? えっとね、4さい!」
間を取って4ということで。
箒はある。雑巾もある。長らく時間が無くて使っていませんと言わんばかりにカチカチに固まっていて笑いそうになった。ブリキのバケツも見つけた。寝床に使っているマットと布を洗濯するために畳んで窓に掛ける。
「レニ、見張っていてくれるか」
「うん」
貧民街が近いのであれば、強奪が起きてもおかしくはない。
「ティム」
「今度は何」
「近くに水路はあるか」
「あー、洗濯してるおばさんたちがいっぱいいるところがあるよ」
場所を教えてもらうと、どうやら川上の方が平民街らしく、そちらへ行けば洗濯用の水くらいは貰えるとのことだった。母さんがやってたとティムが呟いたので、俺にできるかが不安になってきたが、おくびにも出さない。
公衆便所や公衆浴場が設置されている部分は下水が完備されているらしく、洗濯場もそのうちの1つのようだ。灰が無いかティムに尋ねると、普通にあったので、小瓶に入れて持っていくことにする。まずは家の中の掃除のためにバケツに水を汲んでいくことが先なのだが。
洗濯場を目指して歩く。腕が振り辛いので走りにくいのだ。
平民街に貧民街の人間が足を踏み入れたらどうなるか。魔界では散々石を投げられ足蹴にされるものだが、こちらも変わらないのだろうか。変わらなさそうだった。途中で足をかけられた。
「貧民街から奴隷が来るとは、意外だなあ」
「お、キレーな顔してるじゃないか」
踏み止まった俺の顎に指を這わせた男。奴隷の証はやはりこの首輪だったようだ。まあ、手枷もついている状態ではそう思われても仕方がないか。外す手立てを考えねばならない。
「用があるのであれば、主に言ってくれ。俺は主に拾われた身なんだ」
「おお、口もなってない。なるほど、なりたてか。俺たちが教育してやろうか」
「不要だ」
話を聞いてほしい。いや聞いててなおこれか。
「……なるほど、そも目的が教育ではないのだな、その程度の者たちに教育されて真っ当になれるはずもない。出直せ」
「てめっ……!」
「優しくしてやってりゃ調子に乗りやがって……!」
優しさなど欠片も無い。魔法が使えないことでアドバンテージがほぼなくなる夜魔族は女性が多いので、こういうのに捕まったら痛い目を見たことだろう。
「お前たちのような口上ばかり並べつらい実力行使に出ようとする者を小物というのだ。――去ねッ!!」
こちらが怒鳴っただけで這う這うの体で去っていった男たちを見送り、俺は元の目的――水汲みのために再び歩を進めた。