他助努力
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
お、こんなところで会うとは珍しいな、つぶらやよ。
――何? 健康維持を兼ねて歩いている?
ああ、お前今年の診断結果、芳しくなかったんだっけ? お互い、身体の調子を整えるのには苦労するねえ。
これらの成果は、一日や二日で出てくるようなものじゃない。何ヶ月、へたすりゃ何年もかけて改善する必要もあり得るのだとか。焦らず、地道に取り組むよりないな。
だがもし、効果が一向に出ない時、お前ならどうする? 方法なら、変えようと思えばいくらでも変えることができるだろう。しかし、内側にあるモチベーションは、揺るがずに抱く続けることができるか?
俺たちはよく、他人のせいにするなと聞いて育つ。成果が出ないのは自助努力が足りないせいと、そう思えってね。さもなくば自分自身の成長は望めないから、と。
誰かのせいにしたくなる。俺たちは遺伝子のどこかで、ややもすればそのような心を芽生えさせるが、それはどうしてなのか。俺自身、ひょっとするとその原因の一端を掴んだかもしれねえんだ。
その時の話、お前も耳に入れておかねえか?
俺が学生時代の話になる。当時の俺はものすごく太っちょで、男子同士の「ごっこ遊び」となると、図体の大きい悪役扱いで、一対多数の戦いを強いられていた。ヒーローものの見様見真似な必殺技の実験台にされたりもしてな、ちょっとうんざりしていたんだよ。
ダイエットをしよう。そう決めた俺は、今のお前みたいに身体を動かすことにした。ウォーキングよりジョギングの方が痩せるだろうと思って、朝早くに走る。
特訓の類は、秘密に行ってこそ価値のあるもの。当時の漫画の修行シーンに影響された考え方だった。俺はありあわせのスウェットに身を包み、まだ薄暗い空の下を駆けていく。それが俺の、初めてのダイエットだった。そう、「初めて」の。
結果からいって、一度ですんなりと解決したわけじゃなかった。苦節10日、確かに体重は落ちた。自分でも多少は身のこなしが軽くなったかと思うが、ここで友達と一緒に外遊びにいったのがいけない。
――ん? もしかして技を掛けられた友達と出かけたのかって?
あたぼうよ。周囲からはどつき合いをしているように見えても、「オフ」の時にはきっちり仲良く。男同士ってそんなもんだと思ったんだが……つぶらやの周りじゃ違ったのか?
まあともかく、その外遊びでカロリー高いものを食べたのが運のつき。これまで耐えてきた舌も腹も我慢に耐えきれなくなっちまってな。家に帰ってからはまたずるずると、以前通りの食生活に逆戻り。ほどなく、体重も元通りに。食べ盛りの時期によ、食べることを我慢するって、めちゃくちゃ辛いことなんだわ。
そうして、俺の長いダイエット&リバウンドの歳月が繰り返される。その有様は、まるで振り子の戻りみたいでよ、ちょっと痩せた時には、すぐにちょっと太り直す。大胆に痩せた時には大胆に太り直す、といったものだった。
それから年月が過ぎ。俺も一人暮らしをする歳になったんだが、また横幅が大きめの時期に差し掛かっていた。そして、もう何度目になるか分からない、ジョギングにいそしむことになる。
リバウンドを繰り返したとはいえ、長年、早起きを続けてきた身体だ。前日、どれだけ遅くまで起きていても、夜明け前には目が覚める。俺はパジャマを脱いで、いそいそとスウェット姿に着替える。
俺はもう成長期を通り越しているらしい。2年前から、身長は一年間で2センチ伸びるかどうかという育ち具合。スウェットもしばらく替えていない。こいつをぶかぶかに感じていた時期が、懐かしく感じられる。
アパートの部屋を出ると、ちょうど隣の部屋の奥さんも、俺と同じような格好で家から出てくるところだった。俺に引けを取らないふくよかなスタイルで、これまでも何度か同じタイミングでジョギングに出ることもあり、顔見知りになっていたよ。
自然と頭を下げて挨拶する。奥さんはアパートの敷地を出て、いつも右側へ。俺は左側へ行く。一緒にジョギングへ向かう度胸は、俺にはない。奥さんにしても旦那さんがいる手前、いい顔はしないだろう。
その日はこれまでよりも若干、走るコースを変えて距離を伸ばした。ただでさえ、この辺りはアップダウンが多く、見た目よりずっと疲れやすい。坂一本を途中に挟むだけで、服の内側から染み出る、汗の湿り具合を感じたりする。
じんわりと、冷えが腰から肩甲骨まで広がったくらいに、俺は部屋へと帰り着く。後は飲食をコントロールし、日に一度は体重計に乗って減量の経過を図る。
――今回こそは、まじで痩せた身体をキープしねえとな。
俺はシャワーを浴びながら、これまた幾度となく自分に言い聞かせてきた誓いを、頭に思い浮かべる。だが数日後、早くもその前途に暗い雲がかかり始める。
俺の体重は増えていた。それだけならリバウンドで何度も経験のあることだが、今はまだ節制期間中だ。そのタガが何かしらの拍子で外れた時、ダムから漏れ出す水の穴が次第に大きくなるように、体重を元へ戻していく。俺の食欲が、誘惑の枷を外す時だ。
だが、今は俺の痩せる意欲が燃えている時。運動も食事も抜かりない運びのはず。この時に体重が増してしまうなんて、これまで一度もなかったのに……。
正直、テンパっていたんだと思う。俺は更に運動多め、バランス重視の食事へ切り替え、量だってコントロールした。体重が増える限り、危機感は緩むことがない。今振り返っても、よくあれをこなして、病気にかからなかったと思うほどだ。
それでも俺の体重増加は止まらない。じわじわと、一日ごとに一キロ前後のペースで、体重計は無情な結果を告げてくる。気のせいか、洗面所の鏡で見る自分の顔は、頬にほんのりと肉がついてきていた。わき腹の肉は、元からつまめる。
伴わない結果に、俺は焦り出す。でも、更に身体を苛めることくらいしか、解決策を思いつかない。すでに当初の二倍の距離を走るようになり、足は本格的に動かす前からがくがくしている。
せめて体重計が、わずかでも減量を示してくれれば、気が楽なのに。そう思いながら家のドアを開けると、再び隣の奥さんとばったり顔を合わせる。
失礼だが、俺は一目見てつい顔をしかめてしまう。
奥さんも俺と似て、顔の肉がすっかり膨らんでいたんだ。しかもところどころに、皮膚の色がそのまま濃くなったようなシミが浮かんでおり、一気に10歳以上も老け込んだように見える。
「やっぱり、あたしの顔。だいぶおかしいかい?」
奥さんが尋ねてくる。否定も肯定も、恐れ多くてできない。俺は黙って、判別がつかないほどに小さく首を振る。
「無理しなくていいわよ。顔を見れば分かる。それに君も、恐らくは同じことで悩んでいる。そうじゃなくて?」
もしそうなら、今日はついてくるといいわ、と奥さんが誘ってくる。俺はしばし茫然としていたけど、奥さんは敷地の出口までくると、俺を振り返る。「来ないの?」と言いたげだ。
結局、俺は奥さんの申し出を受けることにした。奥さんの選ぶ道は、アパート裏手の急坂。かつては小高い山だったらしいが、今は地面がすっかり舗装され、家が多く立ち並んでいる。これまでに少しでも走っていなかったら、追走すらおぼつかないきつさだった。
奥さんの先導で右へ左へ角を曲がり、やがてここから街並みを見下ろせる、橋の上にたどり着く。とはいっても欄干代わりのガードレールは胸程度の高さしかなく、地面との距離は1メートルもない。下は畑となっており、ミカンのような木が何本かまばらに生えている。
奥さんはためらいなくガードレールに手をつき、飛び越える。俺もそれに続くと、奥さんはミカンの木立の中へ分け入っていき、やがて一本の木の前で足を止める。周囲の木々に比べると、やけに白さが目立つものだった。
「……やっぱり、ここが詰まっているのね」
奥さんはそうひとりごち、俺を手招きする。「そこでじっとして、気を確かにね」と声を掛けた上で、幹の中ほどに爪を立てた。
とたん、俺の服が強く木の幹へ向かって、強く引っ張られ出す。いや、そんな生易しいものじゃない。俺の顔、俺の腹、そこ以外にも肉がついたと思う箇所が、木に引き寄せられているんだ。
「しっかり! ここで踏ん張って!」
奥さんも膝を曲げ、靴を地面に埋め込んで耐える姿勢。俺もそれにならい、ぐりぐりと地面を足でえぐっていく。
そのうち、俺たちの服からじょじょに染みて、飛び出すものが見えてきた。しぼった雑巾の水のように尾を引くそれらは、黒々とした垢のように見えた。引き付ける力はますます増し、肉が引きちぎれんかと思うほど。
そして俺たちを吸い続ける幹は、みるみるうちに黒ずんでいく。ほどなく、俺たちから飛び出すものの量が減り出し、木も周囲のものとそん色ない色彩に落ち着いてきた。
完全に風が止み、身体から出るものはなくなる。俺はつい膝をついてしまったが、身にまとうものに違和感。先ほどまで体格ぴっちりだったスウェットが、ぶかぶかになっている。悠然と立つ奥さんを見やると、彼女の顔が何日も前に見た、ほっそりしたものに。それどころか、体型もかなりスリムになっている。
「あたしたちが痩せられるのはね、身体から出るものを吸い取ってくれるものがあるからさ。私たちは新陳代謝と呼んでいるけど、その出たゴミを回収する場所が存在する。そこがこうして詰まっちゃうとね、どんなダイエットも効果がない。出た先から身体に戻っちまうんだ」
あれほど服を通したというのに、その生地はまったく濡れたり汚れたりしていない。奥さん曰く、すべて蓋を開けたとたん吸われてしまったとのことだ。これまで我慢した分をまとめて。
家の体重計に乗ると、痩せようと思ったあの日から、10キロ近い減量に成功したことを表す数値を示していたんだ。