マルティの葛藤
目の前の人間が脂汗を全身に伝わせているのをどう捉えたのか、魔王は「楽しませてもらおう」と囁き、ニッと笑んだ。
『悪魔の微笑み』とはよく言ったものだ。恐ろしく蠱惑的でありながら、決して相容れてはならない闇を醸し出している。
マルティは折れそうになる膝を精神力だけで突っ張らせながら、虚勢と気付かれても構わない、と背を伸ばした。
目の前の「魔王」は、見た目だけでいうならば非常に美しい青年だ。肌は陶磁器のように白く滑らかで、緩やかに結わえた美しい金髪は輝きの中に闇が混じる。むしろ黒髪がその艶めきで金色に反射しているかのような不思議な色味だ。
涼しげに切長で、装飾品のような睫毛に囲われた丸い瞳は鮮やかに紅く、そのぶん白目部分が青白く光って見える。毒々しくもあり、そういう色彩の宝石のようでもある。
ダボっとした重いベルベットのような黒色のローブを纏い、その背のスリットから巨大で肉厚な翼が覗いていた。髪と同様に艶やかで、金とも黒ともとれぬ照りがある羽根がみっしりと覆っている。
スラリと細身の、現実味のない程に美しい若者。
……見た目だけは。
マルティが問答無用で屈しそうになる程に、その身に纏うオーラに威圧感があるのだ。
触れてもいないというのに、頭を鷲掴みにされ、地べたに押し込まれてるかの如き重圧。
これに抗うのは気力を鍛えて鍛えて鍛え抜くか、あるいは命の危機に徹底的に鈍感になるしかないだろう。
マルティの葛藤を見て喜んでいるかのように、「くく」と魔王の後ろに立つ魔物が嗤う。クライス・ロー・サーペント・シュデガルダ・レッドフィールド……こいつも厄介だ。
長い銀の髪と眼鏡の下の冷たく細められた青い瞳。魔王の側近中の側近と名高い己を体現するかの如く、清潔な執事の仕着せを纏っているのは人間を茶化しているのだろうか。
本来の姿を誰も見た事がない魔王と異なり、奴の正体がサーペントと呼ばれる巨大な銀鱗の毒蛇なのは周知の事実だ。
知っていて尚、目の前の青年の気配と結び付かないのはその擬態隠密能力が群を抜いて高いからだ。恐らく現在の異様に浮いている執事姿は、あえて己の主君の存在感に見合う姿形をとっているのだろう。地味な姿で街に紛れ込まれたら見つけるのは至難の技に違いない。
マルティはガチガチと鳴りそうな奥歯を噛み締め、金と黒で成る魔物へ視線を戻した。
「……魔王よ、もう少しばかり……気配を抑えてはいただけないか。せめて……貴殿の側近殿のように」
「む?」
魔王の柳眉が上がる。背後に立つ銀色の臣下を見やり、「吾は人間に擬態できておらぬか?」と尋ねた。
銀の毒蛇は眼鏡の下の目を糸の様に細め、芝居じみた仕草で両腕を僅かに広げる。
「魔王様。お姿は見事で御座いますが、その偉大なるオーラとカリスマ性がダダ漏れで御座います」
「そうか。気を抜き過ぎであった」
スッと、マルティの呼吸が楽になる。急に重圧が薄まったことで、思わず両肩が揺れた。安堵感に全身の力が抜けかけたものの、すぐに状況は全く変わってないと気を引き締める。
目の前に立つ若者が「覇者」から「絶世の美男子」へとしっかりと切り替わってるのを慎重に確認し、マルティは「お気遣い痛み入る」と僅かに頭を下げた。
即座に魔王は黒い手袋に覆われた手をローブの隙間から覗かせ、「よい」と止める。
「吾は外に出るのが久しい故、感覚がズレているやもしれん。構わぬ、都度指摘せよ」
「…………は……」
何を言っているのだ?と魔王の臣下を見やれば、クライス・ロー・サーペント・シュデガルダ・レッドフィールドは「では、仰せのままに」と恭しく頭を下げている。
魔王の配下ではないマルティはお辞儀を省き、「了解しました」と頷いて応えた。
なかなか町に入らない。