せっかく最高のスローライフを手に入れたのに……魔王を拾っちまったよ!
「お前、魔王なんだろ。本当になんでも知っているのか?」
俺はテラスで朝のラジオ体操をしている猫耳をした奇妙な生き物に尋ねた。
「とーぜん! モチのロンよ」
「じゃあ、俺が頭の中で考えてる人物あててみろよ。俺の世界の奴」
「マリアンじゃなくて、ヒロシの時代の奴か。いいぜーあててやんよ! ばっちこーい」
「よーし、じゃあ……」
この魔王は人の心を読むことができるらしい。ただし、憑依できる女だけ。
俺の身体はローザリア辺境伯家の令嬢“マリアン・マルク・コーデリア”。でも、精神は日本人の社畜男“鈴木弘”。だから心は読めないはず。
いくら魔王でも俺の世界のことは知らないだろ。
「決まったぞ」
俺はお気に入りの赤いドレスの裾を摘まみ上げて挑発する。
「男性?」
何ッ!?
この魔王……ランプの魔人を知っている!!
まさかの返しに驚いたが……この程度で怯むわけにはいかん!
「NO……」
「東方に関係ある?」
いきなり俺の趣味に狙い撃ちか。
魔王は続けて質問してくる。
ニヤリ顔で口を指で横に塞ぐように、きっと魔人のポーズを真似してるのか?(似てない)
しかし、東方なんて単語を質問二つ目に盛り込むとは……
「NO」
「実在する?」
ぐっ……俺は答えに詰まる。嘘を言うわけにはいかない。考える範囲で一番近いものを……
「たぶん、部分的にYES……」
この答えを聞いた瞬間、魔王リックはふんぞり返ってドヤ顔になった。
「イルカのような声を出しますか?」
ぐはっ!!
ort
俺は↑みたいな姿で倒れ込んだ。
ま、まさか……こんなに早く、たった質問4つで。
「なんで、知ってるんだよ!」
「だって、オレは魔王だからさ」
「恐るべし……魔王」
今日も魔王は辺境の地で、人々に恐怖を振り撒いていた。
☆〇
俺、鈴木弘の人生は、特に語る事も無いつまらないものだ。
東京の賃貸マンションに独身暮らし。産まれてこの方、彼女と呼べるもの無し。
普通に大学を出て東京の会社に就職。容姿なんかは普通だと思うけど、世の中って特徴のない奴ほどモテないもの。
それに俺はめんどくさいのが嫌いだ。人付き合いも極力避ける。もちろん自分から彼女を探そうとしたりなんてしない。
そんな俺でも男としての性欲は毎日フツーに溜まるんだから、何かと面倒だ。
田舎の両親は俺に結婚させようとプレッシャーをかけまくってくるけど、仕事は忙しいし、余計なお世話。
まぁ世間的に言えば、俺は陰キャって言う暗い性格なんだろう。社会にいてもいなくても差し障りのない人間。
そんな俺も、40を過ぎた頃から日々の生活にとても疲れを感じるようになった。男の厄年。白髪も増えてきた。
俺の疲れは、仕事のストレスとか、加齢による体力低下とか、そんな簡単な言葉じゃ言い表せない。旅行とか風俗とかで発散すれば癒されるようなモンじゃない。
そんな「疲れ」ている時に思う。
俺は、仕事の責任とか、男の雑念とか、そういう義務になんにも追われずに、どこか静かな場所でのんびり暮らしたい。
そういう叶うはずのない願いを抱いたまま、無味な日常を20年も繰り返した。
そんなある日の事だ。
俺はいつものように終業時間に退社し、最寄りの駅へ早足に歩いていた。周囲には俺と同じカラーの地味なスーツを着た社蓄達が、俺と同じ速さで同じ方向へ進んでいる。
――突然、空から大きな音がした。
俺は見上げる。
その時の空はとても赤くて、視界の真ん中にでっかくビルの鉄骨だけが見えた。
それが最後に見た風景だ。
いったい俺の人生って何だったんだろう。
虚しい。
☆〇
「あなたは死んでしまいました」
俺は気付くと、辺り一面真っ黒の空間にいた。星のない宇宙に投げ出されたような。
目の前に全身黒色、フリルのたくさん付いたドレス。いわゆるゴスロリ服を着た少女がいる。髪は青くて肌はすっげー白い。
とにかく無表情なのが気になったが、なかなか可愛い子だ。
「あなたは死んでしまいました」
俺が反応しなかったので、大切な事を2回言ったつもりなのだろうか。
いきなり死んだと言われても……実感はない。
「えーっと、どちらさまですか? ここはどこでしょうか?」
俺は社蓄生活で培った営業口調で尋ねる。
「私はレイン、ここは貴方を転生させる場所です。貴方は幸運にも最後の転生者に選ばれました。1度だけ新しい世界へと転生することができます」
レイン? ゲームか何かのハンドルネームだろうか。
そういえばゲームのキャラクターのようにも見える。
「ゲーム世界に転生でもするの?」
「いいえ、貴方は現実の世界に転生します。ただし、今の世界とは違う世界です」
それはつまり異世界ということか……
この少女は転生と言った。
俺は輪廻転生を教義とするような宗教は信仰していなかったが、どうやらそんな俺でも次の人生を得られるらしい。
ということは……
「君は神様?」
俺は簡単に尋ねる。
「私は、魂の管理者です。貴方の時代でいう全知全能の神ではありません」
「それでも、魂を自由にできるんですよね?」
「はい、ですから転生先の希望についてお伺いしています」
次の人生を選べる……
そんな流行りのラノベみたいな都合のいい話があるのか?
幸運で最後に選ばれたと言っていたが……
俺はしばらく考え、そして答える。
「俺はもう誰かに何かをさせられるような、疲れる人生まっぴら。なんの義務もない静かな場所で平穏なスローライフを送りたい!」
せっかくなので本音をぶつける。ここで取り繕っても意味はなさそうだ。
「受理しました」
レインという少女は機械の自動受付のように淡々と答えた。
どうやら俺の願いは届いたらしい。
けど、他に何か特典みたいなものはないのか気になった。俺の知っているラノベのネタなら、きっとまだいい話があるはずだ。
俺は思い切って尋ねてみる。
「あのぉ……すいません」
「なんでしょうか?」
「こういうのでよくあるチート能力とか、超便利アイテムとか、秘められた才能みたいなのは貰えないんですか?」
「ありません」
一言で一刀両断である。
俺の担当の神様は、最後まで無表情でとても冷たい。
☆〇
「マリアン様、お気を確かに!」
「大変ですわ!」
「ねぇ、お医者様はまだなの?」
俺は社交ダンスの会場のような明るいホールで気が付いた。
どうやら地面に寝っ転がっている。
カラフルな色合いのドレスを着た若い娘達が、心配そうな表情で俺の顔を覗き込んでいる。
ドレスからチラチラと見える彼女達の胸の谷間が……
「目を覚まされましたわ」
「大丈夫でしょうか、マリアン様」
俺、“鈴木弘”の人格は、マリアンという娘に現れた。いや、たぶん記憶を取り戻したと言った方がいい。
ここは、ローラシア帝国のウスリー辺境伯領。そして俺は領主の令嬢マリアン・マルク・ローザリア。
今日は俺の16歳の誕生日で、親しい友人らと俺の誕生日を祝う華やかなパーティを開いていた。
そこで俺は派手に転倒、その瞬間、本来の“鈴木弘”の記憶を思い出したわけだ。
マリアンの記憶に俺の記憶がアップデートされたんで、やたらと意識が重い。
まるで我を失うほど上司に飲まされた、クソッタレな飲み会の帰り道みたいに目の前がグルグル回る。
マリアンとしての記憶はちゃんとある。
ローザリア家の長女として産まれ、この辺境で育ってきた。今まで“鈴木弘”としての記憶は忘れていただけで、この瞬間に全部思い出したわけだ。
でも、やっぱり基本的な考え方は“鈴木弘”になってしまっている。
日本人社畜“鈴木弘”として生きた42年間は、マリアンの人生よりもずっと長い。
「だ、大丈夫……」
俺はなんとか立ち上がろうとする。
けど、上手く立てない。どうやらスカートっていうのを履いているからのようだ。
女がパーティで着るパニエってのが入ったドレスで、足先まで裾がある。当然履いている靴も男と違う。
もちろん、マリアンは着慣れているけど、今は俺の性質が表に強く出てしまい、脚に力が入らない。
身体の重心が違うのも大きかった。
――バタン
俺はスカートの裾を踏んで、滑ってまた倒れ込む。
痛みあまり無かったが、どっと疲れが襲ってきて、また意識が遠のいていく……
「大変! またお倒れになったわ!」
「ねぇ、お医者様はまだなの!」
近くで娘達の声がする。
まったく、俺はよく意識が飛ぶよなぁ……
けど、今回の気絶は記憶を整理するのに必要な時間だったと思う。睡眠にはそういう効果があるそうだから。
次に目覚めた時には、俺ははっきりと自分の存在を認識できていた。
☆〇
マリアン・マルク・ローザリア、16歳。
マキナ神学高等学校ウスリー分校の1年生。
長い金髪、白い肌、大きな目。プロポーションも抜群。まるでアニメに出て来るようなお姫様。それが今の俺だ。
もっとも、マリアンは“ラグナ族”という普通の人間とやや違う種族らしい。この種族は、みんな美形なのが特徴なのだそうだ。俺の世界と同じ人間種との混血も可能らしい。
ローラシア帝国は大陸に広大な領土を持つ大帝国。ウスリー辺境伯領はその外縁にある。
かつての帝国では大公爵、公爵、伯爵、子爵、男爵の5つの貴族の位階があったが、あまりにも領土が広大になったため、辺境で自治を委託する特別な貴族として伯爵の上に位階を新設した、それが辺境伯だ。
この世界の街並みはアンティークな雰囲気で、ゲームによくある中世ファンタジー風の世界にも見える。
けど、テレビもパソコンもあったし、みんなスマホも持ち歩いている。俺の知っている世界と文明レベルはほとんど変わらない。
ただし、ウスリー辺境伯領は帝都からとても離れた地方なんで、広大で長閑な風景が広がっている。背の高い建物は無く、人影も疎ら。
俺のいた日本にもよくあるような田舎町だった。まぁ高齢化はしていないみたいだが。
「お嬢様、本当に大丈夫なのですか?」
俺の顔を覗き込んでいるのは、マリアン付の専従メイド、ラナ。
顔をドアップで近づけてくる。
俺の人生でマリアンの人生を除けば女の子にこんなに接近されたことはない。
かわいい子が近くにいると胸がドキドキする。
ラナは本物のメイドさんだ。
メイド喫茶とかのアルバイトやコスプレとは違う。本物。
黒を基調としたワンピース型のメイド服に白いエプロン。髪を後ろで一本に結っている。スカート丈こそ短いものの、黒いタイツに黒い靴。メイド服としてはかなり地味な部類かもしれない。
俺は、パーティで倒れた後に保健室で医師に診てもらい、軽い疲労ということで、そのまま家に戻って寝かされたことになっている。
その後ずっと寝ていたらしく、もう夜半。
まぁ、俺の20年の勤続疲労がドッと出たのかもしれないなぁ。
「ええ、大丈夫よ。ラナ。少し疲れただけ。今日はまた休むわ」
「お嬢様、奥様には明日の学校をお休みすると報告しておきます」
「大丈夫だって! ほら、もうこんなに元気!」
俺はマリアンに合わせて返事をするつもりだったが、つい会社で上司にアピする時にやっていたガッツポーズをしてしまった。
もちろんメイドのラナはきょとんとしている。
今の俺は貴族の令嬢。元気をアピールするのに拳を突き上げるわけないよな。
「ほら、お医者様も大丈夫だって言ってたじゃない」
慌てて取り繕い誤魔化そうとする。
ラナの家は何世代も辺境伯家に仕える一家で、マリアンとラナは小さい頃からずっと一緒に育っている。
いわゆる幼馴染ってやつだ。
たぶん俺の様子が違うことを不審に思っているかもしれない。
「心配ですから、今日はお傍にいます」
「大丈夫! 大丈夫、大丈夫、だいじょーぶだって!」
また“鈴木弘”の口調が出てしまった。
でも、ラナの申し出の意図は分かってる。「今日はお傍にいる」っていうのは「一緒に寝る」って意味だ。2人はよく一緒に寝ていた。
けど、俺は42歳のオッサン。いくら身体が女の子で、マリアンの記憶を持っていて、相手は幼馴染の侍女だって言っても、そんな女の子が近くにいたら興奮して気が休まらない。
もちろん女の子同士一緒の布団で寝るのも楽しそうだけど、俺にはまだ早すぎる!
「……わかりました。では、お隣の部屋にいますので、何かありましたらベルを鳴らしてお呼びくださいませ」
「え、ええ」
ラナはメイド服のスカートを摘まんで一礼すると俺の部屋から退出した。
「ふぅ……」
俺は溜息をついて座り直した。
マリアンは胡坐なんてしないが、俺が自宅で耽る時によくやる格好なんで、自然とこうなる。
陰キャの性分なんだろうけど、一人になってようやく心が落ち着いてきた。
俺の人付き合い嫌いは何処へ行っても変わらないらしい。
俺は鈴木弘でもあるが、マリアン・マルク・ローザリアでもある。マリアンの記憶から、俺がここでどういう生活を送るのかは予想できる。
ローザリア家の家族は父、母、兄3人、俺、妹。
辺境伯爵家は辺境とはいえ広大な領地を持っていて、税制も優遇されている。この辺境じゃダントツの資産家だ。
ただし父と兄は仕事や学校の関係で帝都に行っているので、年に数週間しか帰ってこない。
辺境伯は地方の自治の為に設置された役職だから、当主も世継ぎも皆不在じゃ題目を保ってないが、世界は平和になって戦争などしばらく起きていないので問題ないらしい。
そして俺が想像している以上に、田舎貴族の令嬢暮らしはのんびりとしていた。
マリアンは女子高生だけど、貴族クラスの登校時間はなんと13時、下校時間は16時。授業は2コマだけ。
俺がいた時代の学校にあった生徒の義務。テスト、社会貢献、部活とか。そういう煩わしいのは一切何もないらしい。
貴族の生活は、朝の起床時間は遅く、夜も起きたいだけ起きている。寝たいときに寝ている。学校も休んでも構わない。
身支度は侍女のラナが全部やってくれる。他の必要な家事は、全てローザリア家の執事やメイド達がしてくれた。
俺は基本的に何もしなくていいわけだ。
まぁ、環境や生活はともかくとして……
一番の違いはなんてったって身体だろう。だって、42歳の冴えないオッサンが16歳の女子高生になったわけだぜ。
特に感じるのは、女の身体には性的な欲望が何も蓄積しないこと。
男の時、毎日の鬱憤処理は必修科目みたいなものだった。ちょっと極端な言い方すれば「今日のオカズは何にする」っていうのは、男と女じゃ意味合いが違う。
欲望を発散した時は気持ちがいいけど、やらないとイライラがどんどん溜る。男の身体はそういう義務を与えられ続けて、処理しなくちゃいけないようにできてる。
まぁ、男の生理現象ってやつも、毎日の仕事の責任と同じようなものかも知れない。彼女がいるとか、結婚でもすれば別だけど、陰キャの独身男にはただの負担。
けど、女の身体にそんな義務は生じないわけだ。
もちろん、俺の保健体育の教科書的な記憶だと、女の身体だって面倒はいくつもあるはずだった。
毎月に生理があったり、美しいボディライン維持のための様々な努力、ダイエット、矯正器具、ムダ毛の処理などなど、いつも美容に気を遣わないといけない。
けど、マリアンの“ラグナ族”という種族はそんなの必要ない。
“ラグナ族”には生理はないし、太ったりしないし、ムダ毛は生えないし、化粧もほとんどしない種族なんだっていう。
なんて神様から優遇されている身体なんだろう。
俺は自分を直に確認しようと、大型の姿見の前に立ってみた。
清潔感のある紫の薄い夜着が、艶やかなボディラインをはっきりと映し出している。整った顔立ち、折れてしまいそうな華奢な四肢。透明な肌。それでいて健康的。
俺の豊かな金髪が月明かりにキラキラと反射して身体が輝いているかのよう。
存在するだけで煌めく美しい娘。
「綺麗すぎんだろ……」
俺は自分のあまりの美しさに見とれ、息を飲み込んだ。
ナルシスト? いや、これならナルシストにでもなるさ。
マリアンとしては毎日馴染みの身体。けど、鈴木弘としては初めての身体。
マリアンとしての記憶もある。だから感動は半分だけ。
だけど……
この新しい身体、新しい環境、そして新しい生活。
俺はこれからのスローライフに期待を膨らませた。
☆〇
次の日、俺は学校に行くための身支度をしていた。
姿見の前で両手を広げていると、後は侍女のラナが全部やってくれる。
「終わりました。お嬢様」
鏡には、黒を基調とした気品ある制服を身につけた美少女……俺の姿が写っていた。
女子高生の制服姿も……とてもかわいい。
ブレザーに短めのプリーツスカート、胸元の大きめリボン。そしてハイサイソックス。
この制服だと、絶対領域からチラチラ覗かせる太腿の肌が眩しい。
俺は性犯罪に手を染めたことなどないし、そんな勇気もないけど、目の前にこんな美少女がいたら、思わず手が出そうになる。
いや、まぁ、今は俺の身体なわけだし……
別に我慢する必要ないとばかりにしっかり手が出て、太腿の肌触りを堪能しているわけだけど、マリアンの記憶と合わさっているので、あっという間に新鮮な感覚が無くなってしまうのが残念なところ。
「お嬢様?」
おっと、俺が自分の太腿をニヤけた顔でベタベタと触っていたので、ラナがまた怪訝な顔をしている。
「なんでもないわ、ラナ」
またまた取り繕う。いつもこればっかりだなぁ……
でもラナは俺がおかしな行動をしても、心配はするけど不審には思わないらしい。
「お車の用意は出来ております」
マリアンは貴族らしく車で通学していた。
ラナもメイド服ではなく、同じ学校の制服を着ている。同い年なので通っている学年も同じだった。
俺達が邸宅のホールに出ると、廊下にメイドや執事が左右に並んでいる。
「おはようございます、お嬢様」
「あ、ああ。ええ、おはよう」
俺が現れるのに合わせ、使用人たちが一斉にあいさつする。
まるで、買収された先から送り込まれた社長の就任式のようだ。
玄関先には、いかにも高級という感じの黒塗りの車が横付けされていた。
俺の中身はしっかりと男なのでクルマと聞くと少し興味があったけれど、俺の時代にはないメーカーのようだ。
「いってらっしゃいませ、お嬢様」
再度、慣れた調子で挨拶を唱和する家の使用人達。
俺は彼らに会釈すると、ラナと一緒に車の後部座席に乗り込んだ。
中年の運転手は俺達に一瞥すると、黙って車を発進させる。
高級車だからなのか、走行音がとても静か。振動も僅かしかない。
いや、モーター音がするから、ガソリンじゃなくて電気自動車かな?
高級車らしく、後部座席は広々としていて、座席もとても座り心地がいい。
車内での俺は通勤電車を思い出し、眠気を誘う。
「ふぁああぁぁ」
大きく欠伸をした。
鈴木弘の地がかなり出てしまって、辺境伯令嬢がするにはかなり不躾な仕草かも。
「大丈夫でしょうか? お嬢様、お疲れのようですが……」
「あ、ええ。大丈夫よ」
実は昨日、興奮してぜんぜん寝られなかった。
それまで気絶してずっと寝ていたからとか、明日からの生活に期待に胸が膨らんでいたとか……まぁ実際に胸も膨らんでいるわけで……要するに! おっぱい揉み始めると楽しくて止まらなかった。
他にもトイレとか……こっちはマリアンからすると、見られたような感じがして、思い出すだけで恥ずかしい。
で、結局。寝たのは明け方。
まるでネトゲで一晩中遊んだ日曜日の朝ぐらいにヘトヘトに疲れている。
それでも、俺は貴族のお嬢様ばかりいる学校に興味があった。
だって俺の学校生活なんて華やかとか、輝くとか、そういう形容詞とはまったく無縁だったし!
「今日は学校をお休みしても良かったのです」
「だ、大丈夫だって! 38度の熱が出ても、カゼ薬飲んで出勤するのが立派な社会人ってもんさ!」
俺の例えはヘンだったが、どうやら普段のマリアンはこういう疲れた時は気軽に休むらしい。
風が吹いたら遅刻して、雨が降ったら休むような学校生活。これでも、この田舎暮らしでは、怠け者とか言われる事なんてない。
義務と責任でガッチリ固められた日本社会の方がおかしいんだ。
まぁ、それでも“鈴木弘”としては、この程度の「疲れた」ぐらいで学校を休むなんて許しません! といわんばかりに、彼女を通学させている事になる。
ラナはそんな俺を心配そうな顔で覗き込んでくる。
女の子同士の親しい間柄は肌を触れあう距離まで近づいてくるわけで……彼女のいい香りがしてまたまたドキドキする。
ラナは、幼い頃からいつも自分のことより、マリアンの事に気を遣っていた。
主人に絶対服従、献身的なメイドさん……オタクで引き籠りに近い俺だ。メイドはモチロン好物。
そんな女性が常にこんな身近にいて、こんなにも俺を慕ってくれている!
俺の人生で今までこんな幸せな経験はなかった。
優しくしてくれる女性が傍にいるだけで、こんなにも癒されるものかと……
ああ、俺も結婚すればよかったかな……
たぶん、俺も本気で相手を探し、それなりに妥協すれば結婚できたかもしれない。
俺と給料が同じぐらいの同期はみんな結婚している。親に急かされて結婚斡旋サイトに登録したこともあった。けど……マッチした相手とメールでやり取りしても、なんか冷たさを感じて、誰とも会わなかった。
俺の時代の女は、男に優しさなんて与えない。男に求めるのは年収と家事を手伝う能力。
それでも、もしかしたら……俺のいた世界にも俺に優しさを与えてくれる女性がいたかもしれない。
俺がそれを探す義務を放棄したってのはわかってる。
だけど、そういう男だけに課せられた責任を、俺みたいな陰キャの人見知りオタクが、ずっと続けるのはしんどかったんだ。
ラナはいつも俺のことを心配している。
マリアンは、ラナの事をいつも一緒にいる存在として馴れすぎていて、彼女が傍にいるだけでこんなにも幸せな事だと気が付いていない。
そういう考えると、マリアンだけよりも、鈴木弘と合体したマリアンの方が、これからの日々の生活にもっと幸せを見つけていけるのかもしれない。
☆〇
マキナ神学校はクラスごとに授業が違う。
ラナのいる平民学級は実益のある勉強をしていたが、マリアンのいる貴族学級には裕福層の娘しかいない。そのためか、授業とは名ばかりで、ほとんど意味のない科目ばかり。
1時限目は衣服の授業、いろんな衣服の着用方法を勉強する。
男物の服は着る方法で悩んだりしないが、女物は用途ごとに複雑で種類も何倍も多い。
そして貴族のお嬢様学級なので、様々な衣裳が揃っている。
「まぁー、マリアン様。こちらのお洋服もとってもお似合いですわ!」
「とても素敵ですわ!」
「そ、そう? じゃあこっちも着てみようかな……」
俺はクラスメイトにのせられて、いろんな服を着てみる。
美形種族“ラグナ族”のマリアンは、どんな衣装を着ても似合った。
俺の時代にいたならモデルでもアイドルでも大絶賛間違いなしだ!
昔の俺はどんな服を着ても大して変わり映えしなかった。一念発起して、ファッション雑誌の流行りの服を着たことあったけど、職場の誰も気が付かない。
今の俺は好きなだけカワイイ服を着ることができるし、みんな褒め称えてくれる。
女の人は服が好きだというけれど、それがなぜかよく理解できたと思う。
着替える度に新鮮で、楽しくてしょうがない。
2時限目は、なんとお茶会だった。
クラスメイトとただ談笑するだけ。貴族の交流ではよくあることかもしれないけれど……
鈴木弘の常識であてはめるなら、これが教育とは言い難い。
「それでさ、幻想郷という異世界があって……」
「まぁ、それはどこの国の物語なんですか?」
「架空の世界なんだ。魔法とか、呪符とかがあって女の子が空を飛んでいる」
「それはとても素敵な世界ですわね」
「私も興味が出てきましたわ」
俺はクラスメイトの子爵令嬢、男爵令嬢と同じテーブルについて、一緒にお茶を飲みながら熱弁を振るっている。
俺のオタ話は令嬢がするような話じゃないのはわかっている。
けど、俺は男だから、自分の趣味の世界について語りたい!
喋り過ぎて喉が渇き、ティーカップに注がれた紅茶をゴクゴクと一気に飲み干して、再び熱く語り始める。
そんな俺に対し、彼女達は「ウフフ」と気品の良い笑い声をあげて共感している。
こんなこと、昔の俺じゃあ、絶対考えられなかったことだ。
俺のオタク語りなんて誰も聞いてくれない。
まぁ風俗にでもいけばスナックのママは話を聞くだろうけど、そういうんじゃないんだ。
でも、以前にSNSで「男の自分語りウザイ」と書かれているのを見つけて、俺は自分の趣味について誰にも話さなくなった。
でも黙ったからって、話したい気分が無くなったわけじゃない。ずっと我慢していただけ。
そんな俺の話を、マリアンの友人達は親身になって聞いてくれる。
俺は楽しくて、つい時間が経つのを忘れてしまう。
<<キーンコーンカーンコーン>>
俺のオタ話は、聞いたことのあるジングルで中断された。
この国でも下校の合図だ。
「あら、マリアン様。もうこんな時間ですわ」
「迎えのお車が来ているはずですわね」
「この続きは、また明日聞かせてくださいね」
クラスメイトは、上品に別れを告げる。
俺はまだ語り足りないことはあったが、迎えが来るんじゃ仕方がない。マリアンの記憶から「ごきげんよう」と丁寧に挨拶した。
だが、そこは女子の世界。いつも一緒に集団行動が基本。彼女達は正面玄関まで一緒に付いてきた。
しかし、いつもなら下校時に待機しているはずの迎えの車が来ていない。
いつもなら車の脇に授業を終えたラナが待っているはずだが……
「あら、辺境伯家のお迎えの方がいませんわね」
「変ですわね」
「どうしたのかしら……」
そんな話をしていると、携帯電話を片手に持って通話しながらラナが現れた。
かなり慌てている様子。
「お嬢様、申し訳ありません。お帰りのお車が遅れているようです」
ラナは申し訳なさそうに言う。
別に彼女が悪いわけじゃないのに、彼女が悲しい顔をするので俺まで悲しくなってくる。
俺は原因を聞いてみたが、呆れるような理由だった。
単に運転手が寝坊しただけらしい。
この地方の人達は時間に相当ルーズのようだ。
鈴木弘の暮らしていた日本じゃこんなことはありえない。いや、もしやったら始末書やら報告書やらを大量に書かされ、厳しい社会的制裁を与えられるだろう。
クラスメイトは、迎えの車が到着するまで一緒に待つと言ってくれたが、俺は丁重に断った。
「まぁ、そんなに急ぐ必要もないか……」
俺は慌ただしい東京を思い出して呟く。
昔は、目的地に少しでも早く到着する為、地下鉄の乗り継ぎで1駅分を早足で歩いたことが……何度もあったなぁ。
そう、今の俺の生活は慌てるような事は何ひとつないんだ。
「ラナ、学校を一周してみましょう」
「はい、畏まりました」
俺はラナに提案して、校内を散策して時間を潰すことにした。
ラナはピッタリついて来る。
俺……マリアンはマキナ神学校の1年生。
この学校には、俺の学生の時は当たり前にあった、朝礼やら、昼飯やら、掃除やら。部活動やらがない。だから、マリアンは学校を散策したことなどなかった。
マリアンの身体で、マリアンの知らないことを、初めてやってみる。
そんな行動もとても新鮮に感じる。
☆〇
辺境の学校だけあって、校舎の造りは平屋建てで質素。
赤レンガ造りで、世界遺産風とでもいった方がいいかもしれない。
マリアンの身体で歩いていると、男の時とはまた違った感覚になる。
今はマリアンの経験で歩いているので、当然内股で歩く。
男の時は全く気が付かなかったが、女の身体には股間にタマがないので、ずっと歩きやすい。
それにスカートの感触も新鮮だった。下が解放されていて、太腿に空気がダイレクトに当たる。
風呂上がりに、腰に巻いたタオルの状態で外を出歩いているようだ。
そんな感覚を楽しみながら中庭付近を通りかかった時、俺は微かな鳴き声に気が付いた。
「ミャーミャー」
――猫?
声の方を見ると、中庭のベンチの脇に、蜜柑と書かれたダンボール箱が置いてあって、中から橙色の毛をした仔猫が顔を出している。
「ミャーミャー」
この仔猫、大きさからすると三か月ぐらいだろう。
俺に気付くと、さらに何かを欲しそうに訴える感じで鳴いた。
どうやらお腹を空かせているようだ。
「捨てネコか……」
「誰かが飼えなくなって捨てて行ったのでしょうか……」
どこの世界でも、こういう奴はいるんだよな……
俺は、同じ光景を鈴木弘の時にも見たことがある。
でも、その時は拾わずに立ち去った。
かわいいとは思うけど、飼う事はできなかった。マンションはペット禁止だったし、一人暮らしで世話をするのは厳しい。
けど、今の生活なら、連れ帰っても大丈夫かもしれない。
ウスリー辺境伯領の人々は、猫より犬を飼っている家が多い。ローザリア家でも馬と犬は何頭か飼っていて、それの世話をする専門の使用人がいた。
しかし、猫は飼っていない。
「ラナ、猫を飼っても大丈夫かな?」
「さぁ……奥様に聞いて見ませんと」
ラナは言葉を濁す。
当主のローザリア辺境伯が留守である以上、家を仕切っているのは辺境伯夫人、つまり俺の母親になる。
「でも、きっと大丈夫だと思います。私もお世話をお手伝いしますので」
「よし、じゃあ連れて帰ろう」
きっと何かの縁だろう。俺はその猫を連れて帰ることにした。
猫を拾い上げ、抱きかかえる。
とにかく腹が減っているようだった。口をパクパクさせている。
「だいぶお腹を空かせているようだなぁ」
「帰り道でキャットフードを用意したほうがよさそうですね」
ピピピ……
その時、ラナの携帯電話から音がした。
俺の記憶だと、ラナはスマホを持ち歩かない性格だった。彼女の言い分では通話以外の機能は必要ないのだという。
意外に頑固な面もあるようだ。
「お嬢様、間もなくお車が到着するようです」
「ええ、わかったわ」
俺は猫を車で運ぶため、ラナが持ってきたバスケットに移し替えようとする。
すると……
――ペラッ
俺は下半身に空気が入り込むのを感じた。
うわっ! こいつ……俺のスカートを捲りやがった!
目にもとまらぬ早業とはこのことだ。
「ちょ、ちょっと……」
周囲にはラナしかいないので、俺が超気に入った純白のかわいいパンツを誰かに見られたということはないけど、まったく……エッチな猫め!
俺だって、まだ自分のスカートを捲った事ないのに……
「ニャッ」
こいつ、なんだか勝ち誇ったいたずら小僧のような表情をしている。
「お嬢様、猫はいたずら好きといいますし……」
「そ、そうだね」
そりゃあそうだろう。
猫を飼うなら、コップを倒したり、ドアを開けっぱなしにしたり、ゲームのリセットボタンを押されるぐらいは覚悟が必要。
多少のいたずらぐらい赦せなくては。
俺は帰り道、コンビニに立ち寄ってキャットフードを購入する。
イタズラ猫は、車の中で出したエサをあっという間に平らげた。本来なら数回に分けて出すのだけど、今回は仕方がない。
しかし俺は、この猫から一抹な不安と不思議な力を感じた。
普通の猫とは違う。
視線や仕草が何か不自然っていうか……
そしてその予感はしばらく後に的中することになる。
☆〇
ローザリア家の夕食は食堂で家族一緒に摂る。
もっとも父と兄3人は留守なので、母と俺と妹だけ。
俺の向かい側に座っているのが、母親のアルマリア・マルク・ローザリア。
俺の隣に座っているのが、妹のミリアム・マルク・ローザリア。
妹は俺より1歳年下の中等部3年生。見た目は姉の俺にとてもよく似ている。
「マリアン。だいぶ元気になったようですね」
「お姉様、昨日は突然倒れられたのですもの。びっくりしました」
母と妹は俺の事を心配している。
2人は昨日も俺の部屋に見舞いに来たが、疲れたので休むと言うと、気を遣ってすぐに退出した。
今日は、さすがにいろいろと話し掛けて来る。
マリアンの母親は、とにかく優しい人だった。今まで怒られたとか教育的指導されたとか、そういう記憶はない。
妹のミリアムは、いつも姉を慕っている。こちらもケンカなどした記憶は一度もなかった。
「お母様、ミリアム。お陰様ですっかりよくなりましたわ」
俺は、そんな家族に心配を掛けないよう、なるべくマリアンが普段するように振舞おうとする。
だが、机の上に並べられるジューシーな香りで食欲をそそる豪華料理の連続攻撃に、俺は簡単に屈服した。
ローザリア家の夕食はまるで高級レストランのフルコース。
山盛りの新鮮なサラダ、コクのあるポタージュ、白身魚のクレピネットの包み焼き。メインディッシュは牛フィレ肉のポワレ、仔羊のロースト。高級食材の松茸、トリュフ、フォアグラ、キャビアなども添えられている。
俺の安い月給じゃ到底手が出ない料理ばかり。
デザートも山盛りに置かれた。ブランドっぽいメロン。ケーキにアイス。チョコレートなどなど。
食欲と言う本能に刺激され、次々とそれを口の中に放り込む。
「こ、この肉やわらけー!」
俺は感動のあまり叫び出したい気分になった。いや、たぶん少し声に出てしまってる。
俺は甘い物が大好きだ。
男で甘いものが好きというと蔑む奴も多いが、会社の帰り道には、いつもコンビニで甘い物を買う。別に恥ずかしくない。
でも、三十路の半ばを過ぎたころから急に体重が増え始めた。
そして遂に成人病検診で、コレステロールの値でひっかかる。栄養士に相談させられ、メタボ予備軍だと散々厭味を言われた後、糖質やカロリーの節制をする羽目に。
一時の贅沢のツケは簡単に回ってくる。
増えた体重を下げるのはとても辛い。好きな甘いものを制限するのもとても辛い。食事を我慢するのもとても辛い。
それが、今はいくらでも好きなだけ食べる事ができる!
ラグナ族は太らない。だから、腹八分目とか、カロリー制限、ダイエットという言葉はない。
もちろん、金銭的な問題で贅沢な料理を食べることができない場合が普通だけど、辺境伯令嬢はこの地方では最も裕福な家柄、金には不自由していない。
マリアンには当たり前のことなので、今までそれを幸福に感じていなかったけれど、俺にとってはとても幸福なことだ。
「くぅー、このチョコレートケーキ、うめぇー」
あっ……
遂に心で思っていたことが、大きな声で出てしまった。
美食マンガみたいな仰け反るオーバーリアクションと一緒にしているので、家族が怪訝そうな顔でこっちを見ている。
たぶん、豪華な食事にガッついている俺は、貴族の優雅さなんて無くした、不躾な姿で食事をしているはず。
俺は慌てて咳払いして取り繕い、口を押えて「おほほ」と笑った。
「まぁ、食欲が戻ってとても安心したわ」
「お姉様ったら……」
俺が奇怪な声を発したのに、母親と妹は微笑むだけ。
後ろで控えているラナも何も言わない。
それどころか優しい言葉をかけて来る。
俺はほっと胸を撫でおろした。
結局、俺はマリアンの胃袋がもう食べられないと悲鳴を上げて降伏するまで料理を詰め込んだ。
こんな満腹感は久しぶり、とても幸せな気分だ。
食後、俺はラナが差し出した紅茶を飲みながら、母親に猫の件を切り出した。
「お母様、お願いがあるんですけれど……」
「まぁ、何かしら?」
どんな問いかけにも、アルマリア夫人は優しく返す。
「あの……捨てられていた猫を拾ったんです」
「ええ、ラナか聞いているわ」
「はい……えっと、うちで飼ってもよろしいでしょうか?」
俺は恐る恐る尋ねる。
だが返事はあっさりとしたものだった。
「わかりました。飼っても構いませんわよ」
「ありがとうございます。お母様」
母親は二つ返事でOKを出す。
すると、次は妹が興味を示しだした。
「まぁ、お姉様。猫を拾われましたの?」
「ええ」
「予防注射や猫砂を用意しないといけませんわね」
そういえばそうだ。猫を飼うなら連れてきて餌をやって終わりというわけにはいかない。
妹はさっそく、スマホで動物病院の予約の空きをチェックしている。
なかなか行動が早い。
もしかしたら、妹のミリアムは俺よりも猫を飼いたいと思っていたのかもしれない。
それで話が終わったかと思ったが、今度は母親の方から話を切り出してきた。
「ねぇ、マリアン。学校はどう?」
「ええ、とても楽しいです」
差し障りのない話題の後、本題が来る。
「いい人がいるのだけれど、一度会ってみないかしら?」
いい人……つまり男か……
「ヴォルホフ大公家の長男で、士官学校をトップで卒業したエリートよ。お父様もとても気に入っているらしくて。あとで写真を送っておくわ」
要するに結婚話のようだ。
前世の俺も、母親からこんな感じで結婚話を切り出された事がある。
この完璧なスローライフでも、これだけは逃げられないらしい。
俺はまだ16歳。社畜日本人の感覚でなら、男とのお付き合いなどまだ早いと思うが、この社会ではそうでもないらしい。
女性としてこの世界に生を受けているとはいえ、男とイチャイチャするなんて、想像するだけでも気持ち悪い。
「えっと、今はまだそんな気分になれないです……」
俺は精いっぱいの抵抗を試みる。
「そう、わかったわ。無理を言ってごめんなさいね」
母親は微笑みながら謝ると、その話はもう切り出さなかった。
悪い事をしたように思うが、せっかくスローライフを手に入れたのに、それを捨てて男と付き合ったりするような気分にはならない。
☆〇
「あー、めんどくせぇなぁー」
自室に戻って独りになると鈴木弘の本性が出る。
うす紫の夜着で、豪華なドレッサーの前で片膝を立て、男座りしている様は、金髪碧眼の美少女、貴族の令嬢の姿にはとてもみえないだろう。
もちろんこんな姿をラナには見せられないので、着替えが済んだら外に出していた。
「ふぅ……」
俺は一息ついて、窓の外を見る。
夜空は澄み、月が煌々と空を照らしている。その月は、俺の知っている月と全く変わらない。
同じ月を見ると、ここは鈴木弘がいた世界なんじゃないかと錯覚する。
けど、違いもあった。
黄道付近に、ひと際輝く赤い星がある。夜空で月の次に明るい。
あんな星、俺の時代にはなかった。
やっぱり違う世界に来たんだ……
1日経って、より実感が深まる。
新しい人生はとても満足している。
鈴木弘としての俺は、毎日の義務に追われ、懸命に頑張っても、誰も見向きもしない人生だった。
それが、今はただ座っているだけで、みんなが褒め称えてくれる。
マリアンの人生を奪ってしまったのではないか? みたいな罪悪感はある。
でも、俺は確かにこの家で産まれた。
今まで16年間、鈴木弘としての記憶を忘れて生活していただけのような感じ。
性別や環境、社会や立場はまるで違っても、マリアンの判断や行動は俺と同じだった。面倒や目立つ事は極力避ける。
だからかもしれないが、人格が2つあるように感じない。記憶が2つある感じがするだけ。
同じ魂でも生きやすさがこんなに違うってことか……
「ニャア」
いつのまにか、猫が足元に来ている。
なんだかコイツ……また俺のスカートを覗いているような視線を感じなくもない。
ま、猫がそんなことするわけないか。
「お前は楽だよなぁー」
そういえば、こいつの名前を決めてなかった。
俺は猫を拾い上げ、びろーんと胴体が伸びる身体を支えながら考えた。
「おっ、オスだ」
えーっと、橙色だし、蜜柑箱の中にいたから、ミカンにでもするか……
陰キャの俺は、考え方も平凡。単純な名前しか思いつかない。
そんな風に考えていたところへ……
月の光が猫に当たって照らされ、キラキラと輝いている。
いや……猫が自ら輝いている?
毛で反射しているとか、そういうんじゃない。
まるでゲームの魔法エフェクトのようなものが発生し、猫全体を光で包み込んでいる。
「うわっ!」
俺は思わず、仮名「みかん」から手を離した。
それでも輝きは止まらないどころか、さらに強く光を放つ。
眩しい! 俺は目を逸らした。
――ボンッ!
猫の方から、クラッカーのような乾いた音がする。
なんだ今の音?
俺は、猫の方を見てみる。
――男がいた。
そこには男が立っていた。
間違いなく男だ。
それも全裸の。
マリアンは見たこと無かったが、鈴木弘の記憶には、42年間、毎日見慣れたものが股間にぶら下がっている。
間違いなく青年の男だ。
「な、なんだ!?」
突然、全裸男が部屋に現れれば、マリアンなら「キャー」と叫びだしそうだが、俺は男子風呂に入ってキャーなんて言わない。
むしろ、この男がどうやって現れたのかが気になり、いたって冷静に問いかけた。
「お前、何者だ?」
「やぁ、ヒロシ。オレはリック。この世界の魔王だよ」
は? 今、こいつは自分の事を魔王とか言ったか?
この世界は建物や景色こそファンタジー世界風ではあるが、科学的にはいたって現実と同じ。魔法なんて存在しないことになっている。
それが、こいつは自分を魔王だと言っている。
中二病か?
「ちょっとやらかして猫に封印されていたんだ。いやぁー助かったよ」
猫が人間化した?
確かに、こいつの頭にはアニメキャラみたいな猫耳が付いてる。
この世界は化け猫変身的な不思議でもあるのか?
まぁ俺が転生するぐらいだし。
違う人間種がいるんだから、魔法みたいなものがあってもいいのかもしれないけど……
いや、まて……
俺はもっと重要な事に気がついた。
こいつは俺の事を“ヒロシ”と呼んだぞ!?
「なぜそれを……」
「だってお前ヒロシだろー」
「……」
こいつは俺の正体を知っている……
俺もこいつの正体がただ者ではないことは認めないといけない。
「魔王って……マジ?」
「モロチン! オレ様は魔王なんだぜ! 今後ともよろしく~」
猫耳の全裸男が胸を張って自分は魔王だとドヤ顔で宣言している。
たぶんこいつを世間的に見れば、女性の部屋に深夜に忍び込む変質者にしか見えないだろう。