8
黒猫を助けて一週間が経ち、今日やっと、獣医のコリンズ先生が包帯を取っても問題ない、と言ってくれた。
「思ってたよりもずっと、治るのが早いんですね」
「魔法薬のおかげですな。普通の薬ではこんなにも早く治りませんよ」
コリンズ先生の往診鞄には、いろいろな道具が詰まってる。
ほとんどよくわからないものだけど、黒猫の傷を治すために使った軟膏は、すぐにわかった。
これは軟膏という名前で、ハッカの香りのついたミントサルブは湿布として、薔薇の香りをつけたローズサルブはハンドクリームとして、世界中の人に親しまれてる。
『ラヴィアンローズ』では、主人公のアリシアが最初に調合する魔法薬でもある。初歩の初歩だけど、序盤は馬鹿みたいに大量生産した。
『ラヴィアンローズ』では、依頼を達成して得た報酬を資金にして、魔法薬のレシピや必要な器具、あるいは攻略対象へのプレゼントを購入することができる。
このサルブは、序盤の依頼で大活躍。資金はいくらあっても困らないから。
「これ、動物にも使えたのね」
「使えますよ。万能薬ですからね」
「先生が調合したんですか?」
「まさか。私は魔力を持っていませんからね。逆立ちしたって、魔法薬を調合することはできませんよ」
「魔力……そうだ、大事なことをすっかり忘れてた」
魔法薬は、魔力を持ってないと作れない。
この世界では、すべての人が魔力を持つわけじゃない。
私、魔力あるのかな? 貴族は魔力を持つ者が多いと言うけど──ゲームの中の設定では、そうだった──、世の中に絶対なんてない。
「先生、魔力があるかどうかって、どうすればわかりますか?」
「お嬢様がお生まれになった時、調べていると思いますが……」
「そうなんですか?」
「貴族や王族は、生まれてすぐに調べるものです。夫人に聞いてみてはいかがです?」
「そうします。教えてくださって、ありがとうございます、先生」
「いえいえ。お役に立てて何よりです」
コリンズ先生は子どもみたいに笑う。結婚適齢期を迎えているはずなのに、先生は今も独身らしい。母や祖母が気を使って女性を紹介するけど、本人はまだ独身生活を楽しんでいたいのかも。
前世の記憶を持つ私から見ると、先生はまだまだ若い。焦って結婚する必要、ないと思う。
にゃあ
黒猫が鳴いて、私と先生が笑い合う。
「傷は完全にふさがってます。あとはたくさん食べて、たくさん寝るだけ。何かあれば、連絡を。すぐに駆け付けますよ」
コリンズ先生の見送りをアニスに任せ、私は目を覚ました黒猫を撫でる。野良猫かと思ったけど、この黒猫、もしかすると飼い猫かも。毛並みが美しくて、手触りはベルベットに勝るとも劣らない。瞳がルビーみたいに真っ赤なのも、目を惹く。
美人さんね。オスだけど。
「首輪なんてなかったし……あら、まあ」
猫を撫で続けていたら、猫が立ち上がって、私の膝の上に移動した。
私、気に入られてる? 好かれてる?
だとしたら嬉しい。
「ねえ、うちの子になる? お母様は良いって言ってたの。……お父様さえ良ければ、だけど」
父は動物が好き。特に犬。
でも猫は好きじゃないみたい。嫌いじゃないけど、好きじゃない。猫の気まぐれなところが、軍人である父には好ましく映らないんだろうな。
「お嬢様」
先生を見送ったアニスが、何故か花束を抱えて戻って来た。
「どうしたの、それ」
「お嬢様にですよ」
「私に?」
オレンジの薔薇と白い薔薇の花束を私に押し付けるけど、八歳の私には、ちょっと大きすぎる。膝に猫も乗ってるし、うまく受け取れなかった。
「誰から?」
誕生日でもないのに、花束をもらうなんて。花束越しにアニスを見れば、気づいたアニスが花束を引き取ってくれた。代わりに、差出人の名前が書かれたカードを差し出す。
前世の記憶を思い出した私は、今でも日本語が書けるし読める。
と同時に、この世界の言葉も書けるし読める。日記を書く時は、情報漏洩を防ぐため、今でも日本語を使ってるけど。
「ラザラス侯爵家のハロルド様からですよ」
「そうみたい。でも何故?」
真っ白なカードには、飾り気のない文字で
──セレスティン・ヴァルト嬢へ ハロルド・ラザラスより
って、書かれてる。他には何もなし。義務的な感じがする。
「先週、お嬢様が頭を打った際、ハロルド様はそばにいらっしゃったから、心配になったのかもしれませんね」
「ふぅん……十歳の割に、律儀ね」
私が十歳の頃、こんな気遣いできたかな? 自分のことで精一杯だったはず。
偉いと思うけど、ちょっと子どもっぽくないな、とも思う。
「お嬢様、お礼のお手紙を書かれますでしょう? 便箋をお持ちしますので、選んでください」
「返事を書くの? それって絶対?」
前世じゃ手紙なんて滅多に書かなかった。メールとかで済んだし、書くとしたら年に一回だけ来る年始の年賀状くらい。
「書くべきですよ、お嬢様」
「……お母様は、あまりハロルド様とお近づきになってほしくないみたいだけど」
母の意見に、私も賛成してる。
私は主人公でもなければ、主人公の敵でもないけど、物語の主要人物には関わりたくない。彼らは六年後、自分でも予想していなかったであろう、運命的な出会いを果たすのだ。
主人公のアリシアが誰を選び、誰と結ばれるのかは謎だけど、波乱の幕開けになることは間違いない。関わりを極力控えていれば、巻き込まれる可能性も低くなる。
と思ったけど、
「これは最低限の礼儀でもあるんですよ、お嬢様。便箋はどちらにしますか? 私のオススメは、このピンクの便箋です」
「……白いのをちょうだい」
最低限の礼儀。
そう言われたら、従うしかない。認めたくないけど、この世界だと個人の失態が、そのまま家名の失態に繋がる。裕福な貴族の令嬢に生まれたおかげで衣食住に困らないのだから、その恩には報いないと。
白い便箋を受け取り、この国の文字で手紙を書く。
「ハロルド・ラザラス様、お心遣いに感謝します、セレスティン・ヴァルトより……これだけですか?」
「そう。ダメ?」
「ダメではありませんが……随分と素っ気ない文面ですね」
「それはお互い様だと思うけど? もう一枚ちょうだい」
次はピンクの便箋を手に取る。白い便箋はシンプルそのものだったけど、ピンクの便箋には薔薇の絵付き。ほのかに甘い香りもする。
アニスはこの便箋で、ハロルド・ラザラスへの返事を書かせようとしたの?
そんなのダメよ。好意を持ってるみたいじゃない。
前世では携帯電話、っていう文明の利器でいつでもどこでも誰とでも連絡を取り合えたけど、それでもハートマークの使いどころは間違えちゃいけない、って数少ない友達に教えられた。
アニスがオススメしてくれたピンクの便箋はつまり、ハートマーク、ってこと。
「どなた宛ですか?」
「お父様よ。この子を飼う許可をもらわないと。もう名前も決めたのよ」
「お嬢様が嬉しそうなので、私も嬉しいです。書き終わったら呼んでくださいな。一緒に郵便局へ持って行きます」
アニスにお礼を言って、手紙に意識を戻す。
やりたいことリストを日記に書いたけど、そのリストの中には“猫を飼う”がある。
私に懐いてる猫がいるなら、迷ってないでリストを埋めないと。
だって人生は短い。
「人間五十年、夢幻の如くなり、ってね」
二度目の人生は、短くなきゃいいけど。
親愛なる日記へ
猫の名前は ネロ に決めた。
(=^. .^=)