3
「誰よ……楽しむなんて言った大馬鹿者は……」
それは何を隠そう、私です、はい。
二日前の私に会えるのなら、忠告してやりたい。人生を楽しむ考えには大いに賛同するが、どうにも生まれた家が悪い。
ヴァルト伯爵家は、広大な土地を所有する有力貴族。
しかし政治にはほとんど関わっていない。
これはヴァルト家が軍人家系であるため。頭を使うよりも剣を振り、宮廷で策謀を巡らせるよりも筋トレを好むお家柄のようだ。
そこまでは良い。政治云々は難しすぎるので、そちら方面から縁遠い貴族の家は諸手を挙げて歓迎する。激動の人生よりも、安全安心安泰な生活。
ただ問題は家──と言うより、家人。
父のパトリックは現役の軍人で陸軍大将閣下。領地の管理は自身の母親──私にとってはお祖母様になるのか。そのお祖母様に任せっきり。
そんな父の座右の銘は、“健全な肉体にこそ、健全な心は宿る”、と言うもの。
これはヴァルト家の家訓でもあるらしいのだが、ヴァルト家にはこういう性格の子どもが生まれやすいようで、姉と二人の兄も、父と同じ考えらしい。毎朝欠かさず、鍛錬を行なっている。
将来の夢は、兄弟揃って元帥。姉も女性初の元帥になることを目標にしている。
私にはちっとも理解できない夢だけど。
幸い母は極一般的な貴族のお嬢様であったため、筋トレだとか剣だとかには微塵も興味がないようだが、子ども達には健やかにのびのびと育ってほしいと願っている。
なのでヴァルト家の教育方針に異議を唱えることはない。
でもお母様、できれば異議を唱えてほしかった。
特に今回は。
だってこっちは病み上がり。
しかもゲームと漫画をこよなく愛するインドア派。晴天の下、グラウンドを走らされるなんて拷問以外の何物でもないんですよ。
「セレスティン! 五周遅れだぞ!!」
活を入れるのはお父様。勲章が輝く上着はとうの昔に脱ぎ捨てられ、今は白いシャツの袖をまくり、手には鬼教官よろしく木剣が握られている。
「……五周遅れって、言われても…………っ」
池に頭から突っ込んで五日が経過した今日、私は父に連れられ、軍の訓練場へとやって来ていた。父は池に頭から突っ込んだ末娘のことをひどく心配していたが、それと同時に、“池に頭から突っ込んだくらいで熱を出すとは情けない!”、と思ったらしい。
実際言ってた。
そうして取った行動が、コレ──軍の訓練場に連れて来て、走らせること。
ちなみに私の周囲を走っているのは、現役の軍人。比べる対象がまず間違ってる。
「こっちは病み上がりの八歳児だって言うのに……!」
むしろ五周遅れで済んでるのを褒めてほしい。
「も、もう、無理……っ」
私は頑張った。頑張って走った。
だからガクン、と膝から崩れ落ち、固い土の上に寝転がっても気にしない。
「セレスティン!!」
倒れた私の元に、父が駆け寄る。
父は娘を愛してるが、愛し方が下手くそ。娘のためを思ってここへ連れてきたのだろうが、これじゃあ普通、娘には嫌われる。姉のサファイアは別として。
「す、すまない。無理をさせすぎたようだ……」
私を覗き込む父の顔は、情けない。
この顔を見てしまうと、さっきまでの怒りがじわじわと消えていって、仕方ないな、と思ってしまう。
姉と二人の兄は、ヴァルト家の血を色濃く受け継いでいるが、セレスティン──私は違う。見た目も中身も、母ブリジット似なのだ。
姉達が耐えてきた地獄の鍛錬に、私は耐えられない。
そのことに早く気づいてください、お父様。
「旦那様、お嬢様を休ませてよろしいでしょうか?」
「そうだな。セレスティン、本当にすまない……」
アニスに抱き上げられた私は、父を安心させるためにも、笑いかけておく。
その後、私は訓練場に併設された医務室のベッドで横になり、眠っていた。目が覚めた時、医務室には私一人だけ。アニスはどこへ行ったのだろう?
少しだけ開いた窓から吹き込むのは、夏の終わりを感じさせる風。白いカーテンが揺れ、絶賛訓練中の兵士の声が聞こえてくる。
「アニス? いないの……?」
ベッドから降りて、靴を履く。倦怠感は残ってるけど、十分な睡眠のおかげで幾分か楽にはなった。
「何か飲みたいんだけど……」
ベッドサイドのテーブルに、水差しとコップが置いてある。落とさないよう気をつけつつ、コップに水を注ぐ。
「……ぬるい」
飲みたかったのはキンキンに冷えた水だったけど、喉を潤す水は胃に優しいぬるさ。
それでも喉の渇きには勝てないので、もう一杯、ぬるい水を飲む。
──ガチャッ……。
ぐびぐびと水を飲む私の耳に届いたのは、控えめに開いた扉の音。アニス?
コップを急いで空にして、私は医務室とベッドを隔てる白いカーテンを開ける。
「────!!」
カーテンを開けた先にいたのは、アニスじゃなかった。
そこにいたのは、赤い髪の男の子。
誰かいるとは思っていなかったのだろう。男の子は緑色の目を見開き、私を凝視している。
まずは何を言うべきか。
この場に相応しい第一声を考えていた私は、ふと男の子の額に傷を見つけた。
「怪我してる」
「……っ!」
指摘した瞬間、男の子が額を手で隠す。
とっさに隠すってことは、見られたくない、ってこと。少なくとも名誉の負傷ではなさそう。
「どこ行くの?」
医務室を出て行こうとする男の子を呼び止める。
ここへ来たのは、傷の手当てをするためでしょ?
なら手当しなきゃ。
「座って」
「自分でできる」
「あ……そう」
男の子は水で傷口を洗い、薬品棚を漁って、消毒薬と軟膏の傷薬を見つけ、椅子にどかっと座った。私に背を向けて。
そこまでする? 初対面なのに嫌われた……。
医務室を出て行きたい気分になる。
「……手伝いましょうか?」
椅子に座り足をぶらぶらさせていた私は、男の子が手当てに苦戦しているのを見て、無視できなかった。
男の子からの返事はない。──沈黙は肯定なり。
私は椅子から軽快に降りて、男の子から包帯を取り上げる。
「おいっ!!」
「見てるともどかしいのよ。大人しくしてて」
「………………」
不承不承といった様子。
とは言え、包帯を巻いた回数は片手で足りる。包帯を巻こうとすれば、傷口に当てたガーゼがずり落ちた。
できると思って包帯を取り上げたけど、うまくいかない。
「あれ、おかしいな。ほどけちゃった。……もっと強く巻けばよかったのかも」
「……痛いんだが」
「あ、ごめんなさい。……強すぎたみたい」
試行錯誤を繰り返し、ようやく見るに耐える──まあ不恰好だけど、八歳の女の子が頑張ったと思えば、申し分ない出来栄え。
と思ったけど、男の子の眉間には子どもらしからぬ深いしわ。
ご不満なんですね。わかりました。
「……やり直します」
努力の結果をほどこうと手を伸ばせば、男の子が触るなと言わんばかりに立ち上がった。
「これでいい」
「あ、そう」
男の子は無愛想に言って、医務室を出て行った。棚から持ち出した薬品はそのままに。
これ、私が片付けるの?
「まあいいけど。……この瓶、見覚えがあるような……」
既視感ってやつ?
消毒薬の瓶には感じないけど、この軟膏の傷薬には見覚えがあるような気がする。
前世で見たとか?
でもどこで?
「う〜ん……思い出せない」
思い出せる気がするの。
それなのに思い出せない。
この感覚はモヤモヤしてムズムズして、もどかしいの一言に尽きる。
「お嬢様! 目が覚めたんですね、よかった。ご気分はどうですか?」
開けっ放しの扉から現れたのは、私付きのメイド──アニス。手には新しい水差しがある。
「旦那様が、先に帰って良いとのことです。馬車は準備できてます。どうされますか?」
「もちろん帰るわ」
ここにいても楽しいことはない。アニスと一緒に瓶を棚に戻し、私は医務室を軽やかな足取りで去る。
もう二度と、ここへ来なくて済むことを祈りつつ。
親愛なる日記へ
筋肉痛が辛い。
(T_T)