リベンジ
「ここも、地図の通りだ」
マハラティーと別れたジェイクはヘンリックから受け取った地図を見ながら上への階段を探していた。
今の所地図と現場に違いは無く、順調に進んでいるように見えたが、彼の視線はあちこちに目移りしているようだった。
「すごい・・・あぁ、できれば平和な時に来たかった・・・」
エメラルダの神殿内部は、確かに華美ではあるが、その背景にある歴史的情緒や、洗練された美を感じさせる品々の殿堂だった。
それをじっくりと眼と脳に焼き付けず、駆け足で通り抜けなければならないのは、まさに断腸の思いと言えよう。
「残念ながら、それは叶わぬ夢だ」
その足取りを止めたのは、かつて海賊達の根城で出会った静寂の死神だった。
以前と違う点は服で血が濡れていないぐらいだが、そこにジェイクは違和感を感じた。
「だが、安心すると良い、お前もこの芸術達の仲間入りをするのだからな・・・この私の手で!」
磨き上げられたホコリ1つない鎚をジェイクへと向ける死神であったが、彼は重度の天然痘に感染してからまだ1週間しか経過していない。
いかに常人離れしているとはいえ、この回復力は異常だった。
「う・・・」
しかし、目の前の死神は初対面の時と同じくはつらつとしており、弱っている様子は無い。
今のジェイクに、勝機は万に1つも無いだろう。
「さぁ、今すぐその魂を神に返し、その血肉を完全なる美のために捧げるのだ!」
後ずさりをするジェイクと同じ速度で距離を詰める死神は、瞬時に鎚を振り上げ前へと飛び出すが、ジェイクの後方から飛んできた一本の短刀を防ぐと、その足を止めた。
「やれやれ、あたしとしてはもう2度とその顔を拝みたくないと思っていたんだが・・・これも運命って奴かな、死神?」
ジェイクは目の前の死神から視線を外す事はできなかったが、背後から聞こえたその頼もしい声と、ゆったりとした靴音には聞き覚えがあった。
「シースさん・・・ですか?」
自分へと近寄ってくる気配がシースの物であると確信した時、恐怖で固まった彼の肉体にようやく血が流れる感覚が戻った。
それほどまでに、死神の眼光は獲物から生気を奪うのだ。
「やぁジェイク、意外とすぐに会えたな」
赤ずきんから覗いている赤紫の髪を撫でつけながら、シースは呆れ顔で死神の前に立ち塞がった。
彼女は自分と死神の関係を(運命)と評した。
何処までも相容れない存在でありながら、武の道に身を置き、命の美しさと儚さを知るという点において、彼女は死神へと奇妙な親近感を覚えていた。
「またか、またしても私の創作の邪魔をするつもりか!」
憤慨して武器を構え直す死神であったが、すでにシースとの死闘に胸を躍らせている自分がいる事に彼は気付いていた。
そもそも彼が狩りの神を信仰する切っ掛けは、獲物を打ち倒す喜びに共感し、その骸がこの上ない名誉と輝きを放つトロフィーに映ったからである。
彼にとって、ジェイクの存在はこの瞬間消えたも同然だった。
「ジェイク、こいつはあたしが面倒みるよ・・・あんたはあんたにしかできない事をするんだ」
シースは全てを見通すような口調で、ジェイクに上へと向かうように促した。
彼の背中には、想像以上の荷物が圧し掛かっている、それを押し上げる力となるのが今の自分の役目であると彼女は理解していた。
「シースさん・・・」
友が行けと言っている。
それはジェイクが足手まといであるという意味ではない。
彼がここにいるのは、何か重大な意味があるとシースは確信しているのだ。
その信頼が彼女の背中からジェイクへと伝わって来た。
「良いだろう、私も存分に創作へと集中させてもらう・・・どのみちこの先を突破できるとも思えんしな」
死神の視界にジェイクの姿は既に入っていない。
非力な男1人が何をしようとも、自分達が敗れるとは夢にも思っていない顔だ。
「それを決めるのはあんたじゃあ無いよ、人生はお菓子の箱みたいなモンさ、開けてからのお楽しみ・・・ってね」
シースは愛刀の鯉口を切り、臨戦態勢に入った。
何かの偶然で全てがひっくり帰ってしまう事はしばしば起こり得る。
それが母マメールからの教えだった。
「ネズミが神の首を掻き切ると? 大した方便だな」
死神とシースの視線が火花を散らし、周囲に一触即発の緊張感を漂わせる。
その迫力に、ジェイクはただひたすら2人の動きを待った。
不用意に動けば、その剃刀のような空気に触れてしまいそうで。
「行けぇ! 行って来い!」
「ぬおおおおお!」
秘宝を巡って争った2人は、神の膝元にて再び激突した。
2人の得物が火花を散らす音を合図に、ジェイクはシースの横をすり抜け階段へと走った。
死神が追いかけてくる気配は無い。
以前出会った時、2人の実力は拮抗していた。
ジェイクに構えばその隙を突かれる、その事を死神も理解しているのだ。
「くはっ! 更に太刀筋が鋭く、重くなったな」
傍目にはほぼ互角に見えたが、シースはこの短期間で更に成長していたようで、死神は痺れるような衝撃と手応えをその腕に感じていた。
「あんたこそ、あれからたった1週間で良くここまで動けるモンだな」
シースの繰り出した三連の突きを容易く避ける死神の動きはとても元天然痘患者とは思えない。
たった1週間でここまで動けるようになるケースは皆無であり、彼女はその生命力に驚嘆していた。
「手を抜く必要は無いぞ、私は既に完治している・・・時間など、あの男の前では従順な飼い犬に過ぎん」
死神は口を滑らせたのか、それとも驕りからか、自分を雇っている者の情報を漏らした。
その言葉を鵜呑みにする事は危険を伴うが、時間を操作する能力があると仮定すれば、この奇妙な神殿の辻褄も合うのだ。
「へぇ、あんたの雇い主が・・・って事は、あたしをここに呼んだのもそいつか?」
シースは話を合わせて更に情報を引き出させようと試みた。
死神は確実にその者の信頼を勝ち取っている。
そうでなければ、最後の砦であるこの神殿の防衛を任されるはずがない。
「そうだ、それもただの力では無い、神の力だ!」
シースが紙一重の所で回避した鎚が、神殿の床を叩いて音を立てる。
2人を除けばこの階層は無人であり、その鐘のような残響が、まるで別世界に2人だけが取り残されたような錯覚を与えた。
「神・・・神がこんなことを・・・」
シースの胸中に一陣の風が吹く。
神とは誰かの願いによって生まれる物。
彼女の母であるマメールは病の治療と子供達の安らかな眠りを求める声から生まれた。
しかし、この神殿の主は違う。
世界から神々を集め、時間を操る力が、一体どんな願いから生まれると言うのか。
その力で何を成すと言うのか。
上で待つその男の存在を思うと、彼女の背筋に冷たい物が滑り落ちた。
「そうだ、お前が守り損ねた、あの秘宝の力でな!」
この状況を招いたのは彼女の弱さが原因であると、死神は糾弾する。
あの日奪われた駒鳥の血が、彼女を神へと昇化させるはずの秘宝が、今は国1つを大きく乱している。
その事実が、彼女へと重く圧し掛かった。
「・・・あんた等、何も解ってないよ」
しかし、シースの戦意は燃え尽きていない。
今の彼女は神、人の願いの象徴、それが歩みを止める事は許されない。
「神の地位も、力も、結局後からついてくるモンだ、神に成れたからって、何かが変わる訳じゃない、自分の力で何かを変えられる奴じゃあないと、持て余して終わりさ」
今の彼女を神たらしめているのは、その自覚だった。
超常的な力を持つから神になるのではない。
何かを成そうとして初めて神であると認められる。
彼女は自身の儀式を通じて、その答えを導き出していた。
「御託は良い、お前こそ何かを変えられるのか? 何を変えられると言うんだ?」
この場の闘争に関係ない事を騙り始めるシースに苛立つ死神であったが、彼女の太刀筋は衰える所か更に研ぎ澄まされてゆく。
以前と比べて、全くの別人と言っても良いほどに。
「あたしは・・・1人じゃ何もできない子供だった、自分の過去すら満足に向き合えなかった」
シースは思念公園の出来事を思い出すと、今になってようやく自分に駒鳥の心臓が見つけられなかった理由に行き当たった。
当時の彼女はジェイク達に出会うまで、師であるサダミツの死を乗り越えられずにいた。
自分とすら向き合えない者が、どうして誰かの願いと向き合えるだろうか。
「だから、最初に変えようと思ったのはあたし自身だった・・・どうしようもないあたしが、ちょっとは誰かのために踏ん張れる、そんな奴になりたいってな」
シースを変えるきっかけとなったのは、偶然出会ったジェイク達だった。
2人は傷心した彼女の心の穴を埋め、2人の願いのために彼女を行動させた
それが結果として彼女を駒鳥の心臓へと導いたのだ。
「そして、今はあたしを変えてくれた、友達のために戦いたい・・・今度こそ、あたしの力で世界を変えてやるんだ!」
彼女が今戦うのは秘宝の為でも、まして贖罪のためでもない。
掛け替えのない友の為に戦うのだ。
それ以外は全て、物のついでである。
「世迷言を・・・いかに優れた神でも、世界までは変えられん!」
「違う! 誰だって変えられるんだ、あたしにだって、あんたにだって!」
否定する死神を更に否定するようにシースは叫び、刀を振るった。
あれほどに、どうしようもない自分が変われたのだ。
世界とて、それほど頑固者では無いだろう。
そんな楽観的とも取れる彼女の意思が、存外に世界を揺るがす時が来たのかもしれない。
「うぉ!」
シースの気迫が乗り移った剣技に、死神は思わず後方へ退いた。
1歩、2歩、3歩、少しずつ死神は壁際えと追い込まれて行く。
完全にあの晩とは形成が逆転し、シースは死神を圧倒していた。
「ジェイクは絶対やり遂げるよ、世界を今より少しだけ優しい方向に! だから、その邪魔はさせない!」
そして、死神の背中が壁に着こうというその直前、シースの放った一閃が死神の利き手を手首の所で両断した。
一瞬の静寂の後、鎚が床を転がる音が鳴る。
それは、死闘の終わりを告げるゴングのように、静かな神殿内に短く響いた。
「はぁ・・・はぁ・・・あたしの勝ちだ」
呼吸を整えながら、シースは死神の喉元に刃先を突きつける。
あの日と同じように。
しかし、今の彼女は1人である、3人ではない。
彼女はただ1人で死神を追い詰められるほどに成長していた。
「そのよう・・・だな」
死神は敗北を認めたのか、体を壁に預けたまま、その場に腰を下ろした。
それもまた前回の焼き直しのようであったが、シースはその後の反撃まで同じにするつもりは無かった。
何か怪しい真似をすれば、彼女は躊躇なくその首を貫くだろう。
「言っとくけど、こないだみたいな小細工はもうさせないよ・・・どうする?」
シースの質問の意味とはつまり、降伏するかどうかの問いである。
死神が大人しく拘束されるならばそれで良し、最後まで戦士として散るならばそれも良し。
その選択を突きつけたのだ。
「・・・1つ聞きたい」
しばらく考えていた死神は、ようやく口にした言葉はどちらでも無かった。
彼が自分の思想の押しつけでは無く、初めてこちらへの了解を取った。
この短い時間で、彼の中で何かが変わっている。
そんな予感をシースは感じていた。
「何だい?」
シースは質問を許可する。
死神は仕事と趣味のために人を殺すが、それが彼の全てではない。
端的に言えば興味が湧いたのだ。
冷血な殺し屋がどんな最後を迎えるのか、それとも迎えないのか。
「お前は私も世界を変えられると言ったが・・・この状況、どう変えると言うんだ?」
死神は左手で切断面を押さえてはいるものの、その隙間からは止めどなく血が流れ続け、このままでは失血死は免れない。
シースが止めを刺さずとも、やがて時間が彼を殺すだろう。
2人に残された時間は僅かだった。
「それはあんた次第だけど・・・勝負は強い方が勝つっていうルールがあるな、それも変えるか?」
このまま逆転する確率は途方も無く低く、彼女が敗北するとしたら何か突然の不幸に見舞われるくらいだろう。
しかし、死神はそんな勝ち方は望んでいないようで、黙って首を横に降った。
「・・・それは無理だ、そこを曲げては美しさが損なわれる、私の芸術が陳腐な物になってしまう」
死神の芸術。
それは死者が象る生存競争の証。
必死に抵抗した敗者の死に様、それをねじ伏せた勝者の生き様。
それこそが彼に取ってダイヤのように煌めく瞬間を閉じ込めた芸術であるというのに、弱肉強食の法則が無ければ、純粋な闘争に何の意味も無い。
血のにじむ鍛錬の積み重ねも、死線の際の駆け引きも、全てが茶番となる。
そこに、美しさは欠片も無い。
「これはもう死ぬしかないな! いや違う! 私こそが、私の最高傑作となるのだ! は、はははっ! はっはっはっはっは!」
狂ったように笑い始める死神を、シースは無言で見ていた。
死神の顔に恐怖は無い。
むしろ、澄み切った顔で天井を見上げ、高らかに笑っている。
彼女は病院で未練を残したまま亡くなる人を何度も見てきたが、まれにそうでない患者もいた。
その患者達の最後は、皆が安らかな表情をしていた事を彼女は記憶している。
この男もきっとそうなのだろう。
そんな事を思いながら見下ろしていたシースの足元で一頻り笑い終えた死神は、最後に大きく息を吐く。
それは1日の仕事を終え、ベッドで横になった時のように長く、穏やかな呼吸だった。
「・・・・・・・・やれ」
その言葉を聞き届けたシースは愛刀を振り下ろすと、まるで真っ赤に膨らんだ花蕾が枝から落ちるように、静かに死神の首は床に落ちた。
切断面から血が噴水のように溢れだすが、それもやがて止まり、肉体は神殿に流れる時間によって瞬く間に塵へと回帰した。
「あぁ・・・(散りぬべき 時知りてこそ世の中の 花も花なれ人も人なれ)・・・って、こういう事か、サダミツ」
聞こえるはずも無い死者に向かって、シースは独り言のように語る。
人の短い生涯で、命より重要な物を手に入れる事は難しい。
しかし、それを守って死ねるのであれば、どれほど美しい事だろう。
「誰かの心に残り続けるって意味では、たしかに芸術的かもね、死神・・・あんたはあたしの一生に、どでかい爪痕残してくれたよ」
刀を鞘に納めたシースは離れた場所に転がっている死神の得物に目を付けた。
どうやらそれは神の加護を受けているらしく、神殿の時間に晒されながらも一向に錆び付く様子が無い。
彼女はそれを拾い上げると、死神が倒れた場所に立て掛けた。
「あんたの最後の芸術は、あたしが覚えておくよ・・・誰も知らない至高の傑作じゃ、様にならないだろ?」
死神の墓標のように鎮座する鎚に向かってシースは呟く。
誰も返事をしない神殿で交わした一方的な約束は、彼女なりの弔いだった。
彼女にもいずれ最後の時が訪れるが、その遺品は時代へと受け継がれて行くだろう。
その時は、どうか自分も笑って死ねる事を願いながら、シースは死神へと背を向けた。
生きている限り、歩き続ける。
それが生者にできる、死者への最大の手向けである事を、彼女は知っているから。




