八百比丘尼
「月の川遠く広がりて~いつか貴方を渡り切りたい、あぁ貴方は夢を飾り立て、私の心を狂わせる~」
集落から木々の間を縫うように蛇行する白の社への山道を3人は進んでいる。
入口の鳥居をくぐれば周りは桑畑になっており、人の手によって狩りそろえられた桑の木の順序良く並んでいた。
そんな景色を眺めながらワカサの陽気に誘われ猿酒が進んでいるメリッサはすっかりほろ酔い気分のようで、瓢箪から白濁した液体を少量づつ流し込み喉を潤していた。
「2人は世界を流れゆく、虹の果てを目指して、そこで立ち並びましょう、我が竹馬の友、月の川~」
気分が乗ってきたメリッサはジェイクの手を引っ張りながら、緩やかな坂道をずんずん進み、天高く歌う。
素行は酔っ払いだが、その歌声は飲み街にいる人間のそれではない、明らかに訓練を受けた人間の歌い方だ。
「ブラボ~!」
「お粗末様でした」
囃子立てるディーヴァ、一礼するメリッサ、そして拍手をしようとしとして、自分の片手が塞がっている事に気づき、慌てて手首の当たりを叩くジェイク。
「いや~すごい! メリッサは歌の才能があるんだね」
「美しい声でした、うちの聖歌隊に混ざっても、きっとバレませんよ」
「お褒めに預かり光栄ですわ」
2人から称賛の言葉を受け、まんざらでもない様子のメリッサ。
彼女は幼い頃から淑女としてのあらゆる教育を受けてきたが、その中でも歌には自信があった。
「それにしても、この山は桑の木ばかりですわね、水田だけでなく養蚕も盛んなのかしら?」
「蚕・・・つまり神域の桑で育った蚕が吐く糸で織られた絹、その仕立ては? 染めは何を? う~ん、気になる」
鳥居とはつまり現世と常世の境目、それより内は神の領域、社に住まう神もすでに3人の到来を察知しているだろう。
それを知りながら、ジェイクは緊張より興味の方が上回っているようで、興奮して目を輝かせている。
「随分と楽しそうだね」
犠牲になった蚕達を慰める鎮魂碑の前を通り過ぎながらディーヴァは振り向いた。
「神の権能は千差万別ですが、僕が生涯で目にする事ができるのはごく僅かでしょう・・・もし拝見できるなら貴重な体験ですよ、胸が躍りませんか?」
「いや・・・悪いけど僕は可愛い娘と手を繋ぐ以上に楽しい事とは思えないな、ねぇメリッサ?」
「ワタクシも興味があります、きっと素晴らしい織物に違いありませんわ」
「好奇心旺盛なんだねメリッサは・・・君に良く似合うドレスがあるか、僕もチェックしておこう」
彼の不屈の精神と口説き文句がどこから湧いて出てくるのかジェイクは不思議で仕方がなかった。
1つ知ろうとすれば、また1つ謎が増える、学びとは実に不条理な物である。
「ん、あそこにいるのは?」
社の近くまで来た所でディーヴァは前方に何かを見つけたのか、全速力で坂を上り始めた。
山道はカーブル山に比べてはるかに緩やかで歩きやすかったとはいえ、どこにそんな力が残っていたというのか。
「ごきげんよう、比丘尼様!」
「おや、ディーヴァはん・・・ようおこしやす」
肩で息をするディーヴァに挨拶をしている女性は黒を基調とした袈裟の上に白頭巾と割烹着を身に着け、竹箒で落ち葉の掃除をしている最中のようだった。
そして何よりも目を引くのがその美貌。
ぱっちりとした大きな瞳は一切の曇りが無く、整った鼻立ち、色気のある唇、上品な物腰、黒いまつ毛は長く艶やかで肌はバッカニアの最高級真珠にも劣らない滑らかさ。
人間より魚の顔ばかり見ているジェイクはまだしも、各地の社交界に顔を出しているメリッサでさえ出会った事が無いほどの美女だった。
ここが片田舎の山寺で無ければ、ディーヴァで無くとも男が放ってはおくまい。
まさしく傾国という言葉が似合う女性だった。
「そないに気張って、どないしはりました?」
「いやぁ、今日は本当にいい天気だから、比丘尼様と一緒に散歩してお茶でもしたいなと思ってさ」
違う。
と話に割り込みたいのだが、どうにも美女に免疫の無いジェイクは尻込みして何と声をかけるべきか迷っていた。
「おろ・・・この後都の展覧会に行く支度があるさかい行けへんわ、堪忍どす」
「そうかぁ、残念だな・・・比丘尼様の忙しい日に限ってこんな天気なんて、きっと空が君に嫉妬しているに違いない、じゃあ展覧会から帰ってきた次の日にしよう、それなら大丈夫かい?」
「はぁい、それならよろしおす」
「あの~お話し中すみません」
話がまとまった所で勇気を出し話しかけるジェイク。
女性が彼に向けた視線は非常に柔和な物であったが、同時にその瞳は甘美で蠱惑的な眼力を放っていた。
このような人物を彼は1人知っている、それも特別に危険な人物だ。
ジェイクの本能が緊急警報を発し、彼は頭が一気に氷点下まで冷え切るのを感じる。
(あの女)と似た眼を持つ女だ、気を付けろ、と。
「あぁ、旅のお方、ウチとしたことがつい夢中になってしもうて」
何とか正気に戻ったジェイクは妙な視線が気になってその方向を見ると、ディーヴァに恨めしい目で見られているのを感じたが、彼にとっては些細な事、今重要な事は不老不死の秘密を聞き出す事だ。
「僕達世界中を旅して回ってるんですが、ここには不老不死になったすごい人がいると噂を聞いて、一度お会いしたいと・・・」
「ウチがそないに呼ばれてはるけど、他人より少ぉしだけ長生きしとるだけどす、所詮この世の所業は無常・・・ちぃともすごい事あらへんよ」
女性は不老不死に関しては何も語りはしなかったが、少なくとも自分が他人より長生きである事、そして八百比丘尼本人である事を認めた。
こうしてジェイクはイグニス達が集めた情報を、1個づつ丁寧に再確認してゆく。
「たしか人魚の肉を食べたという話ですよね、どの辺で獲れたんですか?」
「さぁなぁ・・・おっとうが捕まえたらしいけど、ウチは場所までは知らんよ、味も大した事あらへんし、くたびれ儲けになるさかい、止めとき止めとき」
のらりくらりと質問をかわし、確信に迫らせない比丘尼。
しかし深追いはしない事が情報部の鉄則であるため、それ以上の追及はしないがジェイクはまだ諦めない。
「そうでしたか・・・所で、この国の神殿はすごく特徴的ですよね、中を見る事はできますか?」
ジェイクは自分でも良くこんなに(出まかせ)をペラペラと喋る物だなと思った。
彼はヤマトに来たのは初めてである、勿論神殿など見たことも無い。
しかし建築物や街並み、特に神殿はその国の風土や宗教的要素が色濃く出る、特徴的になるのは当たり前なのだ。
「それはあきまへんえ、よそ様をお社にあげると、アコはんがかんかんどす」
新たにアコという人物の名を引き出せた事にジェイクは内心歓喜した。
このまま行けば情報をさらに引き出せるかもしれない、そう思った時、比丘尼の背後の砂利道から足音を立てて何者かが歩み寄っている事に気づいた。
「油を売るのもほどほどにしろ、マハラティー」
その者は子供の背丈と男児の声をした小姓のようであったが、首から上は栗色の馬の頭部を持つ不思議な生き物だった。
「アコはん?・・・ややわぁ、ウチおさぼりなんてしてへんよ」
「客の相手は私がする、早く出発の支度に戻れ、明日からが勝負なんだ」
アコ、と呼ばれた小姓は比丘尼に社へと戻るように急かすと、3人の前に立ち塞がった。
「もう、いけずなお人・・・ほな、ディーヴァはん、お客はん、さいなら」
別れの挨拶をしてゆっくりと頭を下げると、ディーヴァは小走りで社へと向かってゆく。
遠目に見る社は多少古びてはいるものの、柱や床は木造建築の瓦屋根。
白の社と呼ばれている割には白の要素が無いな、とジェイクは疑問に感じた。
「また君かアコ君、何度僕と比丘尼様の恋路を邪魔すれば済むのさ?」
「黙れ、お前こそマハラティーに付きまとうのはもう止めろ、迷惑だ・・・そっちの2人は?」
比丘尼との逢瀬を邪魔されたと憤慨するディーヴァの言葉を一蹴すると、アコはジェイクへとその長い顔を向けた。
「僕達世界中を旅して珍しい物を見て回っている冒険者ですが、ここは一般向けに開放されていますか?」
「お前は見ず知らずの人間を家に招き入れるのか? しないだろう? 境内までは許すが社の中は部外者立ち入り禁止だ」
「そうなんですか、残念です・・・」
心底残念そうな顔をして、ジェイクは目を瞑った。
何しろ秘宝への足取りが途絶えてしまった上に、本気で入りたいと思っていたからである。
「ワタクシ達に何かお手伝いできることはあるかしら?」
そこにメリッサが一歩前に出て、彼等への協力を打診する。
冒険者的に言えば、売り込み営業とも言えるのかもしれない。
彼女の申し出にそれまで頑なな態度をしていたアコはしばし考え込んだ後、2人を値踏みするようにじっと見上げた。
「ふむ・・・まずはロズウェルの登録証を見せろ」
「えぇ~と、これです」
ジェイクが慌てて懐からバッジになっている登録証を出すと、アコはそれを様々な角度から眺めたり、叩いて音や硬度を確かめている。
すぐにロズウェルの名前が出てくるあたり、組合はヤマトにも出店しているらしく、知名度も信用もそれなりにあるようだ。
無論、それこそが創業者であるロズウェルの苦労が実を結んだ結果なのであり、彼も草葉の陰で喜んでいる事だろう。
「良かろう・・・では聞くまでも無いが、当然腕は立つんだろうな?」
「勿論、ワタクシとジェイクさんがいれば、向かう所敵無しですわ!」
それは流石に言い過ぎだ、とジェイクは思ったがこの状態で口を挟むわけにもいかず、黙ったまま何も言わない事にした。
「では試してやろう」
そう言い終わるや否や、アコは地面の砂利を蹴り飛ばす。
予想外の事態にジェイクは反射的に腕で防ごうとしたが、放物線を描く小石が当たると思ったその瞬間、メリッサの蹴りが小石を高く蹴り上げる。
そのまま高々と宙を舞った小石は、ひと呼吸後にメリッサの手の中に収まった。
「威勢だけでは無いようだな・・・よし、ついてこい」
テストに合格した事にジェイクとメリッサは顔を見合わせて喜びを分かち合う。
これで内部に入るきっかけができた、調査が更に進められる。
最悪何も得られずとも、神の住まう社を見て回る貴重な機会だ。
「お前はついて来なくても良いぞ」
さりげなく最後尾についていこうとしたディーヴァに対してアコは冷たく言い放つ。
「あれ、そんなに僕って信用無い?」
「そうだ、お前には信用が無い、早々に失せろ・・・シッシッ」
まるで虫でも追い払うかのように手を払うアコ、よほど嫌われているらしい。
「酷いなぁアコ君は・・・しょうがない、今日は帰る事にするよ・・・バイバイ、メリッサ」
馬と男には用は無い、とばかりにメリッサにだけ別れの挨拶を告げると、ディーヴァは来た道を戻って行った。
「全くあの色狂いめ・・・行くぞ、時間を無駄にした」
1人で砂利道を進んでゆく足音は荒く、後を追う2人に苛立ちと焦りが伝わってくる、何か大切な事を目前に迎え、ピリピリしている様子が窺える。
「お前達への依頼だが・・・都で開かれる展覧会場に向けて明朝から出立しなければならない、その道中護衛を頼みたい」
「危険な道ですか?」
荷物を抱えた他の僧に会釈を返しながらジェイクは尋ねた。
「普段から賊共がうろついているが、奴等も展覧会が開かれる事を知っているからな、この時期になると活発化するのだ、はぁ・・・」
過去に被害を被ったのか、アコは深くため息をついた。
「イシカワや、浜の真砂は尽きるとも、世に盗人の種は尽きまじ・・・ですわね」
「そうだ、おまけに何度煮ても焼いても沼地の蚊のように湧いてくる、全く度し難い連中だ」
メリッサが思い出したかのように口にした言葉を、アコは肯定する。
かつてヤマトに存在したとされる伝説の大泥棒、その辞世の句だ。
最後は捕まり釜茹でにされるという哀れな末路を迎えたが、その名は時を経てなお生き続け、盗人達は世に蔓延っている。
「ちなみに、何を展示する予定ですか?」
「着物、あ~・・・ヤマトにおける儀礼、正装用の服だ、気に入られれば皇族がお召しになる事もある」
アコはわざわざ2人にも解りやすいように言い直して説明した、島国であるヤマトは他国と文化の発展の仕方が特異であり、それゆえ旅人はその差に面食らう事が多い。
「それは重大ですわ、止ん事無き身分の方に失礼の無い品をご用意しなくてはいけません」
「そうだ、もし賞を取ればワカサの着物の名は国中に知れ渡る、そうなれば護衛も雇えぬような貧しさとはお別れだ、皆にひもじい思いをさせずに済む、これはワカサに生きる者全員の意思だ」
社の引き戸を開けて中に入ると、そこは焚かれたお香と建材である木の匂いが入り混じり、独特な空気を醸し出していた。
その玄関口で絡みつくような気配を感じたジェイクは、背筋に走る突然の寒気に身なりを整えた。
ここはもはやヤマトでは無い、異界だ。
いつもメリッサがザダの神殿で感じている居心地の悪さを、今度はジェイクが味わう番だった。
「素晴らしいお考えです、ワタクシ感服致しました、ねぇジェイクさん?」
「はい、そんな貴重品、悪党共には過ぎた品・・・僕達が死守する事を約束しましょう」
会話を交わしながらメリッサの様子を確認するも、彼女に異変は見当たらない。
ザダよりも気配が希薄なのか、それとも自分だけに向けられた物なのかジェイクにはまだ解らなかったが、ここには神、もしくはそれに近しい者がいることは間違いない。
「その意気込みは買うが、今も伝えた通り我々には手持ちがない・・・タダ働きになるぞ?」
アコはどこかためらいがちに、申し訳なさそうに2人へ報酬の話をした。
メリッサから願い出た事とは言え仕事は仕事、提示できる物といえば、社の見学をさせるぐらいの物だ。
「少々値の張る拝観料と思うことにしますよ」
「とんだ変わり者だな・・・ちなみに、ここからは土足厳禁だ」
そう告げながら玄関に並べられている他の靴や草履の横に、脱いだ靴を揃えるジェイク。
社の廊下は老朽化が進んでいるのか、歩を進める度に床板が鳴る。
通り過ぎてゆく部屋の中で僧達は絹織りに集中しているようで、織り機の出す断続的な音以外何も発する気配が無く、3人を一瞥もすることは無かった。
まるで織り機と一体となり、部品の一部と化しているような印象すら受けた。
「おろ? アコはんと、さっきのお客はん」
「マハラティー、この2人に護衛を頼むことにした、部屋を用意してくれ」
それだけ告げるとアコは社の奥に消えてゆく、本当に多忙を極めているのだろう。
「あら! 嬉しいわぁ、ほんに助かります・・・ウチはマハラティーいいますけど、皆は比丘尼って呼びはるんよ、あんじょうよろしゅうな」
比丘尼は深々と頭を下げ、感謝の念を表した。
「メリッサ・フロストハウスと申します、お知り合いになれて感激ですわ、比丘尼様!」
「僕はジェイクです、護衛以外にも困ったことがあれば力になりますよ」
それに応じる形で、2人も彼女への敬意を表する。
出会ったばかりでまだ信頼関係は築かれてはいないが、少なくともこの瞬間に偽りは無く、互いに歩み寄る事ができる、そんな予感を感じさせた。
「さぁさぁこちらへ、旅で疲れてはるやろ?」
比丘尼に案内される内に、少しづつ社の中央から逸れていく事にジェイクは気づいた、おそらく神官達が寝泊まりしている離れへと通されるのだろうと予測するも、すぐにおしら様と呼ばれる神と、不老不死の正体に考えを巡らせるのであった。
「比丘尼様はこの社でどのような修行を?」
「なぁ~んも、ここには来るもん拒まずの精神で、借金取りから逃げて来はったとか、口減らしでほかされたとか、そんなお人もおるさかい、ウチも似たような物どす・・・一応、八百日行は満行したけどなぁ」
メリッサの質問に対して全く表情を変えずに比丘尼は答えるが、その内容は2人の想像を超えて異質であった。
神官を志す者でも無く、ジェイクのように育てられた訳でもなく、人生に行き詰った人が訪れる、いわば駆け込み寺のような場所であったようだ。
「八百日行?」
「日の出から日付が変わるまで糸を織りながら祈り続けて、お昼に粥を1杯食べる、それを八百日休まずやれば満行どす・・・何も難しい事あらへんよ」
比丘尼は何の気なしに自分の過去を喋るが、正気の沙汰ではない、並の人間なら逃げだす荒行だろう。
「何故そのような事を?」
「ウチの根性を試したかったんやろなぁ・・・おかげさんで肝が太なったわぁ」
八百比丘尼という名はそれほどの長寿であるという意味合いだけではない、元々は神の試練八百日行を終えた高僧であるという名誉の証でもあるのだと、その時2人は知ることになった。
「ささっこちらのお部屋で、どうぞごゆると・・・」
空いた部屋の前で恭しく頭を下げる比丘尼。
暗い影を落とす白の社の成り立ち以上に、謎に包まれた比丘尼の過去。
底知れぬ闇をはらむこのワカサの地にて秘宝への手がかりを掴んだジェイク達であったが、まずは展覧会を無事に終わらせなければならない。
今回も気の抜けない調査になると思いながらも、明日からの英気を養うべく、部屋で体を休める事にするのであった。