カトリーヌと祝杯とカスミソウ
「ふんふんふふ~ん」
雨粒が規則的なリズムで屋根に降り注ぐ、物憂げな朝をバッカニアは迎えていた。
ロズウェルの支店もただでさえ冒険者が少なく暇な職場であるというのに、この日の豪雨で外の人通りも減り、いつも以上に店内は静寂に包まれている。
「ご飯、ご飯~」
そんな中、メリッサだけは1人で鼻歌を口ずさんでいる。
猿酒も何杯がひっかけているようで、頬が微かに朱色に染まりすっかりご機嫌な様子だ。
「朝ご飯の時間ですよ~」
靴音を室内に響かせて目指す先には真新しい水槽があり、中では何かが動いている。
つい最近まで店内には装飾品の1つも無い酷く殺風景な景色が広がったいたが、アンチェインでドーベルマンから絵画を頂戴した事をきっかけに職員が不用品を持ちこみ始めたのだ。
カーテン、テーブルクロス、花瓶とそれに生けるための花。
そしてメリッサが覗きこんでいる水槽も、どこからか調達して来た物だ。
「ご機嫌いかがかしら、カトリーヌ?」
メリッサの声に答えるように一匹の魚が水草の陰からゆっくりと姿を現した。
カトリーヌと呼ばれた魚はサファイアのような体色をもち、先日彼女が手にした金魚より一回り大きいな体長でヒラヒラとしたドレスのようなヒレが特徴の美しい魚だ。
無論このような個体が不用品であるはずもなく・・・。
(なぁジェイク、最近ミーモ達が店を飾り付け始めてよ、俺も何かインパクトのある奴をドカンと持って行こうと思うんだが・・・何か無いか?)
(それなら観賞魚なんてどうですか? この間の金魚みたいに派手で目立つ品種なら、皆さん驚きますよ)
などとそそのかされたドツバが専門店から仕入れてきたのだ。
店主は泣いていた。
「うん、今日も元気一杯ですわね、たくさん食べて大きくなるんですよ~」
ジェイクの計らいでメリッサは念願の観賞魚に触れられる環境となり、すっかりその魅力のとりこになっている。
餌をひとつまみ水槽に落とすと、カトリーヌは水面へと浮上し朝食へとありつく、その姿をメリッサは恍惚の表情で見つめるのだった。
しかし、その至福の時を邪魔するかのように店の扉が開かれ、全身ずぶ濡れの男がおぼつかない足取りで入店してきた。
これ以上ないほど水を吸った服から一歩進むたびに雫が落下し、足元に小さな水たまりを作りながら、男は崩れるように近くの椅子に腰を下ろした。
それを見たメリッサは慌てて事務所の奥へと入り、給湯室から湯気が立ち上るコーヒーカップを持ち。
「おかえりなさい、お仕事お疲れ様でした」
と男に向かって差し出した。
「本当に・・・今日は・・・死ぬかと・・・」
フードを取り精根尽き果てた表情でカップを受け取るジェイクは、コーヒーに向かって何度か息を吹きかけて冷ますと、ゆっくりとひと口だけ味わった。
「はぁ~・・・有難うございます」
一息ついたジェイクは深いため息を吐くと、そのままテーブルに上半身を預け、脱力した。
その様子を心配そうに見つめながら、メリッサは彼の向かいの椅子に座った。
「大変でしたね、こんな嵐の中外でお仕事なんて・・・」
「外は外でも海の中ですよ・・・血族の人でも大変なのに、ちょっと人より泳ぎが上手くて息継ぎが必要ないだけの人間を、この大しけの中引っ張り出さなくても・・・」
ジェイクは愚痴をこぼしながら2口目を口に運んぶ。
喉を熱いコーヒーが通り抜け胃へと滑り落ちてゆくのを感じるが、今一つこれだけでは力が戻る感覚がしない。
「少しいかがかしら、元気が出ますよ?」
あまりにも覇気がない姿を見かねてか、メリッサは瓢箪を取り出して猿酒を勧める。
彼らは冒険で多くの物を手に入れたが、実際に手元へ残ったのは僅かばかりの品だ。
「あぁ・・・どうも、頂きます」
その中でも猿酒には何度も助けられてきた、甘く飲みやすい口当たりで悪酔いや二日酔いもせず、ひと口で体の内側から燃え滾るような力が湧いてくるのだ。
「はい、どうぞ」
微笑みを浮かべるメリッサにお酌を受けたジェイクは、コーヒーと混ざり合った猿酒を一気に飲み干すと、冷え切った指先や爪先まで火が灯るような温かい血が行き渡る。
「はぁ~今日はもうこのまま帰って眠りたい・・・」
「聖職者が朝から酒を喰らい、眠りこけて許されるのか? このバッカニアという街は」
離れた席から二人を呼びかける声、その主は先日アンチェインで別れたはずのベンだった。
彼は店の一番隅のテーブルで分厚い本を読み、コーヒーをちびちびと味わいながら過ごしていた。
出かけようにも彼にはヨハン失踪の容疑者として嫌疑が掛けられているため、この街からしばらく動くことはできない、よってこの店の片隅で暇つぶしを続ける毎日である。
「人が定めた法と倫理はありますが・・・許す許さないは神の御意思です」
その会話で何かを察知したメリッサは(カトリーヌに餌をあげる途中でした)と呟きながら素早くその場を離脱した。
可愛いカトリーヌがお腹を空かせて待っている事もあるが、何より2人の会話の邪魔をしたくなかったのだ。
「そう来たか・・・いや失礼、何しろこの通り退屈に潰されそうでな、おまけに今日は朝からこの天気で散歩もできず終いだ」
ベンは退屈しのぎにジェイクを試そうとした事を謝罪したが、彼は気を悪くする所かむしろ話を振られて嬉しそうにほほ笑んでいる。
どうやら先ほどの猿酒よりも彼に活力を与える物であると、ベンは理解した。
「気持ちは良く解ります、お酒が戒律で禁忌の所は良くありますから・・・ちなみにウチは飲まないと船乗りと話が合いません」
人は生きてゆくために水分を定期的に取る必要があるが、船に持ち込んでも真水はすぐに腐る為、保存のきく酒が水の代わりとして飲まれており、そのため船乗りたちは皆酒飲みになる。
そこでシラフのままいることは至難であろう。
「それはそれで気苦労だな」
ベンは本を閉じ、飲みかけのコーヒーを持ち立ち上がると、ジェイクと同じテーブルについた。
「慣れてしまえば、悪くは無いですよ」
「そうか、所で・・・彼女とはどこまで進んでいるんだ?」
「・・・・・・はい?」
ジェイクは予想外の質問に数秒開けて間の抜けた返事をした。
「何故今そんな質問を?」
「古今東西、色恋と陰口は永遠に尽きぬ人類共通のテーマだからな」
質問に質問で返されたベンの答えは曖昧なもので、彼がただの暇つぶしなのか本当に興味をもっているのか、その心情をジェイクは捉えきれずにいた。
「彼女はナハトの内乱から逃れて冒険者になっただけで、治安が良くなれば帰るでしょう・・・期待に沿うようなお話しはできません」
よって、彼は自分の中にある考えを素直に口にするしかなかった。
メリッサとの信頼関係は良好だ、しかしそれは人生の長い十字路で偶然すれ違う期間に限られた話にすぎない。
「う~む、予想通りの退屈な返事だな、君ほどの若人ならロマンチックな恋に憧れて(恋愛は理屈ではない)くらいの台詞は出て来そうな物だが?」
「恋愛は理屈では無いでしょう、僕もそれは否定しません・・・しかし、結婚やその後の生活を理屈抜きで語る事は難しいかと」
彼女は大空を舞う鳥、自分は海原を泳ぐ魚、本来は住む世界すら違う。
今は戦火から逃れるため、羽を休める止まり木になっているが、火が鎮まれば住処に戻ってゆき、二度とまみえる事は無い。
そういう物だと彼は自分自身に言い聞かせるように答えた。
「君は歳こそ若いが、魂は翁の様だ・・・聖職者でなければ哲学者になっていたかもな?」
「それって褒めてます?」
哲学と言えば、無意味な学問として揶揄される事に定評があるだけに、ジェイクは皮肉を言われたのかと自嘲気味に笑う。
「安心しろ、褒めてはいない、諦めの良さが賢さだと思っているなら考えを改めたまえ、案外なるようになるものだ」
「そんな事は・・・僕は他の人より理屈っぽくて、臆病者なだけです」
ジェイクはそこで初めてベンから視線を逸らした。
耳の痛い言葉である事をを悟られまいとしたようだがそれは逆効果のようで、ベンは小さくため息をついた。
「重症だな・・・では、次は私が話そう、ある所に1人のボクサーがいた、その男は試合で勝ちあがり、ついにチャンピオンと対決する権利を手にした」
ベンは隠す気が無いのか、誰の事を話しているか丸解りの陰口を喋る。
考えるまでも無く当てはまる人間は1人しかいない、スレッシュの過去だ。
何故今そんな話をするのだろう? 何か意味があるのだろうか、それともまた暇つぶしなのかと、ジェイクは悩みながらも耳を傾けた。
「所が、その男はリングに上がる事はできなかった・・・何故だと思う?」
「練習中に怪我・・・とかですか?」
ジェイクは自分の中で最も考えられる答えを告げたが、ベンからは予想外の事実が返ってきた。
「違う、体重超過だ」
「体重超過?」
「これはボクシングに限らず格闘技全般に言えることだが、技量が同じなら背丈が大きく重い方が勝つ、ここまでは解るな?」
「はい、まぁ・・・そうですね」
極めて当たり前の事を改めて説明される事にジェイクは困惑したが、何故体重が試合の成否に関わるのかまでは繋がらなかった。
「しかしこれはショーや賭け事になると話は変わる、観客は盛り上がらない、賭けが成立しない・・・だから体重に応じて階級を作り、その枠の中で競い合う」
「なるほど、それで体重超過・・・」
ジェイクの頭の中で、点同士が線で繋がった。
どちらが勝つか試合前から予想できてしまうような試合を組んでも興行として意味がないのだ。
バッカニアでは誰もが良く食べ、飲み、働いて自然と体が作られるが、そればかりではない世界があるのだと初めて知った。
「試合の三日ほど前にその男は道に迷って泣いている子供を見つけて家に連れて行った、立派な行いだと思うよ・・・しかし、それが全ての始まりだった」
「一体何が?」
その問いに対してベンは歯を食いしばり苦い顔をする、よほど辛い記憶が蘇っているのだろうと、彼の心中を察してジェイクも胸が痛んだ。
「その子供、パン屋の息子だったんだ・・・礼にと言われてバスケット一杯の甘いパンと焼き菓子を渡されて、その男は断れなかった!」
思わず力が抜けるジェイク。
なんとも平和なオチであるが、食事制限をして体重を落としているボクサーにとってはこれ以上ない悲劇だったのだ。
「おかげで試合は不戦敗、そのまま干されて行く当てもなく、冒険者になった始末だ・・・荷物をまとめて慣れ親しんだジムを出る時、その男は何と言ったと思う?」
「・・・いえ」
「何度も何度も自分のした事を謝ってから・・・でも俺、ちゃんと毎日三食飯を喰いたいです、腹減って喉乾いて死にそうで、それをずっと続けるのは無理ですってな・・・その時私はようやく悟った、この男は地位や名誉より、平凡に生きて腹いっぱい美味い物を喰う一生を送った方が幸福なのだろうとな・・・この時ほど自分の愚かさを恥じた時は無い、ずっと傍にいたのに、私は男の望みを汲み取ってやれず、身勝手な幸福を押し付けていた」
ベンの後悔の念がひしひしと伝わってくる。
誰もが認める成功者になる事が、本人の望みとは限らない、人間の欲望の深さを知る事はあれど、その広さも海のように果てが無いのだとジェイクはこの話から垣間見た。
「本当の幸福というものはな、他人にも、まして自分自身にすら見えなくなる時がある、周りの期待に応えようとして、誰かの声に流されて、いつしかそれが自分の望みだと勘違いする者も存在する・・・それが破られた時、一体男は誰を責めれば良い? 周りか? それとも自分か?」
ベンはそれっきり口を閉ざし、ジェイクも掛ける言葉が浮かばないまま沈黙が続いた。
外の雨が再び活気を取り戻し、店内はメリッサの鼻歌と職員がペンを走らせる音が支配した。
「難しいですね、人の心の内、本当の幸福・・・あぁ~駄目だ!」
テーブルに肘をついていたジェイクが唐突に頭をかきむしり、椅子から立ち上がった。
どうやら脳が許容オーバーを起こし思考の整理がつかなくなったようだ。
「メリッサさん、もう一杯頂けますか、あとベンさんにもお願いします」
「えぇ? は、はい・・・只今」
またしてもカトリーヌとの逢引を邪魔されるメリッサであったが、すぐに2人の議論が行き詰まった事を理解したらしく、急いでテーブルへと駆け寄りコーヒーカップに酌をした。
議論が止まるのは言葉に詰まるから、言葉に詰まるのは心が閉じるから、心を閉ざすのは孤独から、では孤独を癒すのは何か?
酒と、それを飲みかわす者の存在に他ならない。
「さぁ、今日はお互い時間があります、存分に語りましょう」
「ほう、面白い・・・舌が千切れるまで相手をしてやろう、まずは・・・」
2人は卓上で睨み合い、これから命のやり取りをするかのように視線で火花を散らした。
そしてそれを遮るかのようにカップが持ち上げられ・・・。
「乾杯!」
陶器が軽く触れ合う音が鳴り響き、2人は一気に杯を傾け猿酒を飲み干してゆく。
「急にどうしたのかしら?」
「平気平気、ジェイクちゃんったら友達ができて嬉しいのよ」
ミーモが分厚い本の間で押し花を作りながら答えた。
猿酒飲めば皆友達、師の教えに基づけば2人の間に友情が芽生えた事は理解できる。
「友達・・・あれが・・・」
しかし、彼女の知るそれとは少し趣が異なるようだ。
「やはり神です、神の意思こそが人を幸福に導く鍵です」
「それは如何なものか、私の故郷にも神は存在するが、願いは千差万別だ」
カップを空にした2人は堰を切ったかのように喋り始めるが、意見は水と油のように交わることなく真っ向からぶつかり合っている。
「まず発想を変えましょう、神は人々を直接幸福にしたりはしません、神の与える幸福の形に人々が寄り添うのです、一人一人の願いを叶えるなんて無茶苦茶です、非効率です、生け簀同然です」
「それではただの人形ではないか、皆が別々の願いを持つから人であるというのに、どちらが生け簀か良く考えたまえ」
「人間を形作るのは生まれと環境です、皆が共通の親から生まれ、共通の師に育まれれば・・・」
「それでは典型的なディストピアが生まれるだけだ」
「むっ! そこまで言うならお聞きしましょう、ベンさんの考える人の幸福とは!?」
「良かろう、今から嫌と言うほど聞かせてやろう、耳をよく掃除して拝聴したまえ・・・まず神から幸福が生まれるのであればとうの昔に人はユートピアにいる、しかし現実は違う、だからこそまず人は過去を知り、歴史から学ぶべきだ」
ヒートアップする2人を遠くから心配そうな表情で見つめるメリッサ、それをよそに黙々と作業を進めるミーモ。
「大丈夫、男なんてあんなもんよ、暇さえあればしょっちゅう喧嘩して・・・でもね、喧嘩できる相手がいるのも幸せなのよ」
「そう・・・かもしれませんね」
ミーモはどこ吹く風とばかりに手を休めず作業を続けるが、メリッサは怪訝な顔をしている。
改めて向き直っても喧嘩をしているようにしか見えない2人の姿に、男の友情がどこに有るのかまでは理解できなかったが、何故か彼女の口元には笑みが零れていた。
それは真っ赤な顔をして激論を続ける2人の姿が、どこか楽しそうに映ったからだ。
「ふふふ、メリッサちゃんもその内解るわ」
ハサミでカスミソウを切り、長さを調節しながら本を汚さぬよう別の紙を間に敷き、手際よく押し花にしてゆく。
奇しくもカスミソウの花言葉は(清らかな心)(親切)そして(幸福)
真の幸福とは、このような何気ない一時の事を指すのだと、先人はすでに辿り着いているのかも知れない。
その事に、今を生きる人間が気づくこと、忘れないようにする事が過去の学問である歴史の存在意義であるとも言える。