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(ザダの神殿最深部、母の部屋)
その巨大な扉を司教エグペルがノックすると、扉の隙間から漏れる青白い光が動き、神殿内部の海水が揺れた。
「エグペルか? 待っておったぞ、入れ」
扉の向こうから聞こえるザダの声は体力の落ちていた産後に比べれば幾分か力を取り戻しており、エグペルは彼女が順調に回復している事に安堵しながら扉に手を掛けた。
「失礼致します」
中に足を踏み入れたエグペルは、ベッドの上で神々しく輝くザダに礼をする。
母の部屋は世界各地から血族達が集めた数々の珍品や装飾品が並んでいた。
金額の差はあれど、そこに優劣は無い。
贈り物全ての部屋に飾ろうとザダは何度も部屋を拡張させた結果、洞窟にある教会にも匹敵するほどの広い部屋の主となってしまった。
「どうじゃ、首都の経過は?」
ザダはその1つである熊のぬいぐるみを抱きかかえながら復興作業の様子を尋ねるが、その熊はボロボロで何度も裂けた箇所を縫い合わされた跡が残っていた。
彼女にそれを献上したのは、若かりし頃のエグペルである。
彼はもうそれを捨てるように何度も進言したが、彼女があまりにもそれを大切にしているので、何時からかそれを言うのは止めてしまった。
「それはもう順調に進んでおりますとも、既に商業地区では商いを再開する者までいるくらいですが・・・本日参りましたのは、婚礼の儀についてのご相談でございます」
「おぉ、でかした! 存外早いではないか!」
ザダはその言葉に喜びを押さえられないようだった。
婚礼の儀、それは彼女の末子であるジェイクとメリッサのための結婚式。
いかに神と言えども、我が子の晴れ舞台を喜ばない親はいない。
「流石はアーノルド、余は果報者じゃ」
アーノルド。
微笑を浮かべるザダはエグペルの事をそう呼ぶと、彼は照れくさそうに頭をかいた。
「ほっほっほ・・・その名で御呼びになるのはこれで最後にして頂けますかな?」
アーノルドとはエグペルが地上で任務を行う時に用いていた偽名であり、メリッサの前に現れた髭面の老兵は彼の変装である。
彼は司教の座につくまで世界を飛び回る諜報員として活動しており、ドツバもかつては彼の部下だった。
その事を知っているのは、血族の中でも古参の者に限られる。
「無論心得ておる・・・所で、何故あの2人を引き離す必要があったのじゃ?」
ザダはエグペルに全幅の信頼を寄せているが、彼女が愛情を注ぐのは血族と信者のみ。
そのためメリッサを故郷に連れ戻した理由が解らないようだった。
「炎を大きくするためには薪を積むだけでなく、そこに風を送り込む必要がございます、片時も離れない2人をあえて引き剥がせば・・・」
「風が止んだ時、より激しく燃え上がるか・・・」
ザダは納得した様子でベッドに座り直す。
人の心の機微については、遥かにエグペルの方が詳しいと彼女も理解しているらしい。
何しろ彼女の周りには、母を崇める血族以外が近寄る事は無いのだから。
「なるほど、余もあの父親の夢枕に立った甲斐はあったな」
そしてザダは、ついこの間の事のようにメリッサの父カインの意識に侵入した事を思い出していた。
教団によるナハトへの布教計画。
その第一歩を踏み出したのは他でもない、神自身なのだ。
「えぇ、それはもう・・・あれが無ければ娘をバッカニアに逃がしはしませんからな」
教団は反乱が始まるずっと前からナハトがきな臭い事を察知していた。
余が混迷となれば、人は神に救いを求める。
彼等はその時のために物資を蓄え、布石を打ち、牙を研いでいたのだ。
「他の諸侯も素直に肉親をこちらに逃がせば、一枚噛ませてやったものを・・・まぁ、致し方あるまい」
ザダは呆れ顔で呟く。
カイン以外の領主は他愛のない夢だと、彼女の神託を無視した。
彼が信心深いか、それとも臆病者と取るかは人によるだろうが、結果として彼はメダリオンを倒した英雄として名を上げた。
その人望は、今後も教団の力を借りて更に増す事だろう。
「はい、このまま行けばフロストハウス家の独り勝ちとなるのは自明の理でございます、それは即ち・・・」
「次期当主であるメリッサと、その夫であるジェイクに力が集まる」
その結末として教団に莫大な利をもたらす事を2人は計算していた。
血族であるジェイクが英雄の息子となれば、教団はナハトにおける完璧な後ろ盾を手に入れる事になる。
それを危惧する言葉など、万雷の祝福の声にかき消されてしまうだろう。
「これでナハトにおける教団の地位は約束されたも同然でございますな!」
エグペルは今にも小躍りしそうなほどに上機嫌に語る。
その瞬間すら彼は自分の為ではなく、ザダの為に笑っていた。
「ふぅ・・・長かったが、ようやく足元を固める段階に戻って来たのじゃな」
大きく息を吐くザダは、バッカニアに教会を立てた頃を思い出していた。
そこから長い年月をかけ、彼女たちはバッカニアを支配するに至った。
植物が根を張るようにゆっくりと、それでいて確実に。
「はい、日程はこちらで調整しておきますので、後日また詳細をお伝え致します」
そうしてエグペルは深々と礼をすると、儀式の準備のため部屋から立ち去る。
そうしてザダは再び青白い光に満たされた自室で1人となった。
「たとえ100年掛かったとして、それで1000年の繁栄が約束されるならば、余は喜んで待つぞ」
しかし、ザダは孤独を感じる事は無かった。
これからまた家族が増える、増え続けて事を知っている。
彼女はそれを待つ時間すら、至上の喜びを感じるのだ。
「世界の全てが余の信徒、余の血族となるその日までな・・・」
ザダの飽くなき母性本能が、何時の日か必ず目標を達成できると彼女の頭の中で囁き続ける。
だからザダはその時を貪欲に待ち続けるのだ。
全ての母親の神として。