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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
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閑話休題<天主教という流れの中で>

作者: sugc1965

歴史ifは、様々な資料をあたり、できる限り真実のように語ることだと思います。それが、講談師、見てきたように嘘を吐くであります。

 「魔女とキリスト教」という本がある。上山安敏氏の著書である。

 天主教という流れの中で、聖母マリアがどのような意味合いを持っていて、結果として何故魔女裁判が起きていったのかということが描かれています。ローマ、ケルトやゲルマンといった民族が持つ、様々な祭日が、本来の意味合いと異なる形で、天主教の聖日として組み込まれていった。これは、一神教の流れとして良く起きる事柄ではあるのだろう。

 筆者は、アマゾネスが築き、アルテミス信仰が支配したエフェソスは、ローマ帝国時代に最盛期を迎えたとも言われる。ここに、天主教が持つ矛盾の原型があるとしている。

 これは、史実の日本でも起きているが、母権と父権の確執というのは、洋の東西に関係なく生じるようである。キリストの母が、エフェソスで晩年を過ごしたというのは、天主教にとっての母権から父権への移行とパウロとヨハネの確執が、この流れの中で生じているということになるようである。つまりは、母権を擁護したヨハネと、父権を絶対視したパウロとの確執ということである。

 ローマ帝国の変遷が、ギリシャ神話とローマ神話の融合に始まり、帝国の拡大と共に宗教の坩堝となり、整理統合の中でキリスト教と結びついて行く。これは、東洋で儒教が法家との流れの中で、変化していったような形がギリシャ・ローマで起きている。つまりは、洋の東西で、性というものを否定したということになる。結果的に、神々の否定と、寺への取り込みが彼の国では起き、西洋では、魔女狩りとなって荒れ狂ったということになる。東洋では、焚書や火炙りという形で、実行された。


 法律が、浸透することで影響を受けることは、情実の否定である。いかなる世界であっても堅固に法を規定していくためには、情実を否定していかなければならない。法というものが、堅固になればなるほどに、情実は否定されていくのである。マリアを処女受胎とするのは、性行為の否定であり、救世主を神の子とすることで、母子を否定する結果となる。現実の天主教は、今、ここで描かれている事柄そのものを否定するだろう。だから、これは、史実ではないとしなければならないのである。

 史実とは、いかなる時間軸上で立っていても、客観化できるようなものではない。

 いかに、法が情を否定しても、情は存在し実在する。その矛盾を、否定していくことで、矛盾が蓄積し、最終的には崩壊する。日本でも基本的には、同じ流れであったように思う。法が情を否定する中で、様々な先住民を結果的には滅ぼしていく流れとなっていくのである。


 宵闇の中で、新たな渡辺綱(わたなべのつな)というかたちを築いたのは、法と情をいかに共棲させるかという命題を解いてみたいと思ったからである。矛盾が、蓄積し、崩壊し、結果として様々な形で南蛮を形成してしまった。形成された南蛮と同様に融合と構築の中で組み込まれた彼の国と、いかな流れを組み込むことになるのかを考えていこうと試みるものである。


 平安と呼ばれる時期から、戦国と呼ばれる時期に至るまで、法と情が共棲する世界では、地力の拡大が進むことと規定した。これは、中央集権が、地方分権へ移行するという形である。

「一天万乗の大君が下」ということは、一天以外に従うことは無いという意味となる。この状況下では、地方権力が万民の収奪に動けば、万民は叛くこととなる。史実の戦国期に信長と権力抗争を展開したのは、一向宗であったと言える。一向宗があるからこそ、南蛮との妥協を必要とし、一向宗が消えた後の秀吉が南蛮追放とするのは、権力に従わない存在を潰すことであり、その存在の中には、一天そのものが含まれていくこととなる。


 秀吉が、晩年で矛盾となるのは、自らが一天万乗の大君が下で権力を握りながら、一天万乗の大君を否定しなければならなくなることであったように思う。秀吉後に政権に着いた家康は、一天万乗の大君が下で、軍の大権を握り、軍・政と祭を分け、形式上は祭を上として、二天万乗を生み出したと言える。

 法を法として機能させると、矛盾が生じ崩壊する。これは、白と黒を完全に分離し判断することはできないことを意味している。放射線が、人体にとって危険であるかどうかは決定として判断できないが、大量の放射線は危険であると判断できる。しかしながら、その閾値は確率によって規定されるもので、論理的に規定することはできない。これが矛盾である。どのような値以下であっても、それこそ、太陽光線を受けても皮膚がんが生じるとすれば、太陽光線すら危険と言う判断がされてしまう。様々な人がおこなっている、現行の紫外線対策は、かなり行き過ぎている側面があるように思うが、

それはそれぞれの人が持つ判断基準に基づくものであり、統一的な判断ができるようなものではない。


 つまりは、国家体系そのものを維持しようとした場合、秩序は、矛盾を抱えるゴミのような存在でありながら、維持するために必須の存在ということになる。情は、混沌の塊であり、法に叛逆するクズのような存在でありながら、国家を形成存在させるために必須の存在である。

 国家体系の維持は、法と情の共棲をいかに上手く調整することだと考えています。


 政治における秩序と混沌は、ゲーデルの「不完全制定理」を基礎的な演算基準としています。

 シミュレーションというのは、なかなかに難しい。特に、前提となる考え方を規定する必要があります。人によって構築された、信長、秀吉、家康の流れが生み出した、史実世界が、あやかし(ひとならざるもの)を現実に留めることで、いかに変化していくかというシミュレーション演算となります。

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