その2
元「林の限界線に至る道」トレイターが捕まるまでの過程。
伏線にもなってますが、フィディールの正体はさくっと改定後の第二楽章でばらしてしまったので、なくてもいいかなと。
林の限界線=天文用語。一定の質量の恒星に対する最大半径の制約のこと。
さて、どうしてトレイターがフィディールに捕らわれることになったのか。
発端はモンレーヴ村でのやり取りにまで遡る。
〈盤上の白と黒〉の女王であるカヤ・マツリカにティアを捕まえるための取引をもちかけた彼はタレイア街の中央広場で待ち合わせをしていた。正しくはトレイターが勝手に取り付けた約束だったため、カヤが来るか否かは五分五分だと彼は思っていた。
トレイターが待ち合わせ場所にたどり着いた時、カヤの姿はなかった。やはり無理だったかと彼が落胆しかけた時。
「待ち合わせにおいて女性を待たせるのはマナー違反ですよ」
声は隣から聞こえた。トレイターが振り向けばそこにはカヤが立っていた。その格好はいつもの軍服ではなく、妙齢の女性らしい艶やかな服を着たカヤがそこにいた。正直その姿は見惚れるものがあった。
「おぉ~、こりゃまたえらく綺麗な」
「どうもありがとうございます」
心からの賛辞だったのだがカヤにはお世辞と受け取られたようだ。彼女の対応はひどく素っ気ない。
「いやぁ、こんな別嬪さんとデートできるたぁ俺も幸せもんだぜ」
「ふざけるなら今すぐ帰らせていただきますが」
「冗談冗談。で、来てくれたってことは、取引に応じてくれるってことでいいのか?」
「応じるかはともかく、話だけでも聞いてみようと思いまして」
「オーケー。じゃあ、飯でも食いながら話すか」
そう言いつつトレイターはティアを引き渡す気は毛頭なかった。カヤと出会った頃はエルスの安全の確保のためにティアを売り渡す気満々だったのだが、今日ティアと一緒に行動し、彼女を見ていたら帝都に売り渡す気が完全に失せていたのだ。
彼自身、なぜ自分の気が変わったのかはわからない。
それどころかカヤの情報を操作をしてティアたちが捕まらないよう恩を売るのも悪くないかな、などと彼は考え始めていた。
「でしたら気になる店を見かけたので、そちらでどうでしょうか」
「おーけー」
カヤがトレイターとすれ違う形で近づく。その手前でトレイターはちくりとした痛みが腕のあたりに走るのを感じた。痛みはしびれとなって全身に広がり、彼は訳も分からずにその場に座り込む。
「な……ん」
満足に喉すら震わせられないままトレイターはカヤを見上げた。
「フィディールの命により、あなたの身柄を拘束します」
彼女はトレイターの傍にしゃがみこむとそう耳元で囁いた。
それからトレイターはタレイア街の区役所に運ばれることとなる。カヤはトレイターを〈ミモザの花調べ〉の最中に具合が悪くなった病人ということにして街の警備隊に彼を運ぶのを手伝わせたのだ。
もっともトレイターが運ばれたのは救護室ではなく帝都の警備隊が休憩として使っている一室だった。一時的に〈盤上の白と黒〉の会議室として割り当てられた部屋でトレイターは手足を縛られ、部屋に転がされたのである。文句を言ってやろうにも身体がしびれて動けないトレイターは金魚のように口をパクパクさせることしかできずにいた。
そして、カヤに見張られている中、リントハート区の大陸が崩落する揺れが起きた。
激しい揺れに襲われたトレイターは部屋の中をごろごろ転がる。カヤはトレイターを助けもせずに部屋を出て行った。何が起こったのかわからないまま放置された時の彼の腹立たしさといったら見事なものだった。
もう一度大きな揺れが起きた後、しばらくしてからトレイターは部屋の窓から煌々とした光の柱が見た。
結局、トレイターはカヤが戻ってくるまでの間に脱走することはできなかった。
カヤは戻ってくるとトレイターをどこかへ運ぼうとした。トレイターはカヤに「どこに運ぶつもりだ」と問うたが彼女は「予定が変わりました」の一点張りで少しも情報を漏らそうとしない。そうしてトレイターは荷物か何かのようにぽいっと大きい木箱に放り込まれると、本当に荷物と一緒に警備隊の車で運ばれたのだ。彼の扱いはぞんざいの頂点を極め、車の中で散々揺られたトレイターは節々が痛くなった。
お前ら絶対に覚えてろよ、とトレイターがカヤたちに恨み言を放ったのは余談だ。
半日ほどかかってトレイターが運ばれたのはメルヒオール区の一つ下にあたるフレゼリシアと呼ばれる区である。がたごとと無駄に揺れる昇降機に揺られ、昇降機から降りた後も揺られ、そうして彼を積んだ車がたどり着いたのは〈盤上の白と黒〉の訓練場として知られる錠の要塞だった。
ついた頃、明け方前のうすぼんやりとした光が紺碧の空をうっすらと照らしあげていた。
錠の要塞の前には金髪の青年がいた。一度見たらそう忘れない美麗な顔の持ち主は半月ほど前に執政官に着任したフィディールである。
彼は別の車の中で毛布にくるまって眠っていた女性を抱きかかえると、トレイターの代わりに警備隊員に引き渡した。実はこの女性はアメーリエだった。彼女はエルスが大陸を打ち砕くために放った法術を感知していたのだが、その途中でエルスと同様にオーバーヒートに見舞われて高熱を出していたのである。
フィディールは警備隊員に何かを命じて去らせた。そうして残されたのはフィディールとトレイターの二人だった。
トレイターは建物の入り口あたりを何かを探っているフィディールに叫んだ。体のしびれはその頃にはすっかり回復していた。
「やいこらてめぇ! いきなり人をこんなところに連れてきて何するつもりだ!」
フィディールはこちらの話を聞いた様子もない。
「てめ、人の話を――!」
言いかけたトレイターの足元がえぐる。いつの間にか開かれていた建物の扉の向こうで光が明滅した。睨むようにトレイターを狙う光に彼がぎょっとした瞬間。
「やめろ」
フィディールが冷厳な声で何者かに命じた。
「僕の権限で許可を申請する。だから攻撃をやめろ」
彼がそう言うとその言葉が通じたかのように建物の奥の光がすぅっと消えていく。
フィディールは目に見えない誰かと話すようにうなずいていた。
「ああ……、ああ、了解した」
建物の入り口で誰もいない空間に向けて一人つぶやくフィディールをトレイターは不審に思う。
「お前、誰と会話してんだ?」
フィディールは一瞬きょとんとしたようだった。こうしてみるとティアとよく似てあどけない顔立ちをしている。
やがてフィディールはトレイターの言っていることを理解すると、どこか寂しげに表情を曇らせた。
「そういえば、お前は聞こえない側の人間だったな」
「は? 聞こえないも何もここには誰もいないし何も聞こえねえだろ」
その時のフィディールは、エルスがヴァールベリ音楽宮殿のインターデバイスの声を聞いたのと同じように錠の要塞のインターデバイスの声が聞こえていたのであるが、ただの人間であるトレイターにそれがわかるはずもない。
フィディールは試すようにトレイターに問いかけた。
「人間と動物の可聴範囲が異なるように、種族が違えば可聴範囲が異なるのは当たり前だと思わないか?」
「異なる種族って、お前だって人間じゃあ――」
そう言いかけてトレイターは気づいた。この青年がオルドヌング族の可能性があることに。同時に本当に?という疑惑も彼の中に浮かんでくる。だが現時点で真偽はわからない。それよりも彼にとってはフィディールに捕らわれているという状況の方が問題だ。
「つかそれより俺を一体どうするつもりだ!」
「桜草の月、第十九日目の早朝五時。すなわち六日後の朝、お前は白樹の塔フレーヌ爆破事件の犯人としてここで処刑される」
「な……」
フィディールの口から出て来た端的な決定事項はあまりに衝撃的な内容だった。
「ふざけんな! 人を勝手に犯人にしやがって、冤罪だ!」
「そうだ冤罪だ。だが、それを判断する材料を市民は持っていないし、既に長老会では処刑の許可が下りている。諦めろ」
「なん、だと……?」
つまりトレイターは見捨てられたのだ。そのことに気付いたトレイターは自分でも弱々しい気持ちになっていくのを感じた。恐らくフィディールが嘘を言ってない。だからこそ、こんな形で自分に死が訪れるなんて彼は予想さえしていなかった。
するとフィディールは言葉の感触を一つずつ確かめるように言った。
「だが、お前の処刑を聞きつけた仲間が助けに来ない可能性がないわけじゃあない」
仲間? それを聞いたトレイターは思わず鼻で笑ってやりたくなった。裏切り者の名を冠する自分に仲間がいると思っているのだろうか。仲間などトレイターにはいない。誰かが助けに来てくれる可能性など最初からない。
だが、そんな彼の脳裏に唐突に閃いたのはティアの存在だった。トレイターの瞳が見開かれる。
「まさか――」
フィディールはトレイターの頭に描かれた人物が誰であるかをわかっていたように彼を見ている。
「お前、ひょっとしてティアが目的か!」
フィディールは答えない。それは肯定も同然だった。
「処刑までの間は生かしておいてやる。祈るんだな。助けが来ることを」
そう言い残すとフィディールはトレイターを無理やり引きずって建物の中に入った。