その2
第一楽章、エルス。
ティアと別れた彼はこんなことしてました。
銀色の月が冴え冴えと夜空に輝いている。散りばめられた光の粒が闇夜を飾り、澄んだ蒼い月光が倉庫の一角を照らしあげる。静寂だけが満ちたような夜に、息がつまるような緊張を覚えたエルスは胸中でフェイに呼びかけた。
(……いやな静けさだな)
『そう? やかましくなくていいじゃん』
ティアと名づけた少女と別れた後、エルスは警備の目を盗んで奥に進み、物影に隠れては置くに進みを繰り返し、少女が住んでいると指差したあたりまで上りつめていた。ティアが部屋に連れ戻されてからというもの、警備はすっかり緩くなり、彼はあっさりと物置らしい部屋に紛れ込むことができた。
無造作に積み上げられた多くの木箱には、紙束やら本やらが乱暴に詰め込まれている。エルスは夜目をきかせれば、ぼんやりと書棚のシルエットが壁一面に並んでいるのが見えた。資料室の類かもしれない。
人があまり出入りしない部屋にはほこりっぽい臭いが充満していて、空気の入れ替えをろくにしていないのが彼にもよくわかった。
深夜に行動しようと思ったエルスは休息を取ろうと思って使われてなさそうな物置に入ると軽い仮眠を取った。そして多くの人々が寝に入り、警備の交代が行われる時間帯に動き始めようと思ったのだが、その矢先に妙な静けさを覚えて動くことに躊躇していた。
(俺だって静かなほうがいいけど。なんか、妙に身体がぞわぞわする)
その第六感をどのように表現したものかとエルスは考えあぐねた。体が風に揺られる枝葉になったようにざわざわと落ち着きなくざわめくような、とにかく心の中の不安を書きたてられるような感覚だ。
フェイは朗らかに言った。
『大丈夫だよ。エルスに不安という単語は似合わないから』
(ほう)
こちらの胸中を文字通り読んだフェイに、エルスを取り巻く空気の温度が下がる。
『常日頃から恐怖とか、心配とかそういう消極的で後ろ向きな言葉こそエルスに似合わないものはない。というか、エルスがさっき出会った女の子みたいに、周りの目とか気にしておびえたりしたらきっと明日は雹が降ってくるよ』
(へぇ……)
言いたいだけ言わせてやってからエルスはむんずとフェイのふさふさとした尻尾をつかみあげた。そのまま半分ほどしか開かない窓の外に宙吊りにしてやる。
(……このまま落ちたら、さすがにただの小動物ではないとはいえ、木っ端微塵になれると思うんだが試してみるか?)
『ちょっとちょっと! いつもの相棒の毒舌だと思って流してよ!』
「じゃあこっちもいつもの相棒の実力行使だと思って諦めろ」
『口と手じゃわけが違うでしょ!?』
そこへフェイの言葉にかぶさる形で山が破裂するような派手な爆音が鳴った。
「……っ!?」
半分ほどしか開かない窓からエルスは半身を乗り出す。下の方にある階から白煙のようなものが上がり、火の手があちこちに見えた。あっという間に塔に灯りがともり、それは闇夜を照らす。
フェイの声は呑気だった。
『爆発みたいだね』
「事故か――?」
エルスの考えを真っ向から否定するように倉庫に取り付けられた四角くて黒いスピーカーから耳障りな雑音混じりの音声が流れ出す。
「ケースC発生! 緊急体勢! 全ての部屋をチェックし、不審な人物を見かけたら問答無用で取り押さえよ! 抵抗する場合は射殺もやむなし! 繰り返す――」
『……ま、事故ならこんな放送流れないよね』
フェイの投げやりめいた台詞を聞き流し、エルスは慌てもせずに扉へと駆け足で寄る。扉の向こうに人気がないことを確認してから、扉を引っこ抜きかねないほどの力で引っ張り左右を見渡した。ちょうど、右手の奥のほうから格子状の扉が上から低く震えながら降りてくるところだった。
どうやら、このまますべての通路をこれで封鎖し、しらみつぶしに侵入者を探すつもりらしい。
『どうする? 大人しくつかまってやる?』
「まさか」
フェイの軽口にエルスは声に出して首を振った。
「――とっとと逃げんに決まってんだろ」
そう一言残して彼は倉庫を飛び出した。