その1
第一楽章でフィディールがブランシュの部屋を訪れる前のやりとり。
第一楽章を改定する前には入れてましたが、その後カットしたもの。
本はフィディールが持参する予定でしたが、改定後ではイリーナが持ってくことになりました。
それは十年前のことだった。
そこは南の海のような美しい森だった。みずみずしい緑が輝く森の中、少年が叫んでいた。
「ブランシュ! ブランシュ――っ」
彼の前には大岩に下敷きになった金髪の少女がいた。頭から血を流し、白い肌は赤く染まっている。
「ふぃ、ディール……?」
こちらの姿を見て、彼女は安心したように笑ったようだった。
「よか、った……」
「なんで……どうして、僕をかばった!」
「だって、私、おねえちゃんだから……」
幸せそうに笑う彼女を前に、彼は切なさで息がつまるのを感じた。
ぐい、と涙を押しやり彼は彼女の上にのしかかる瓦礫を押しやろうとする。
「いま……今助けるから!」
だが、子供の力ではびくともしない。それでも少しでも動かすことはできないかと力の限り取り組む。途中爪が剥がれ、指先に血がにじんだ。
ほどなくして、力尽きてフィディールはその場に座り込む。
こうなれば誰か助けを呼ぶしかない。荒い息が整うのを待たずに、彼は立ち上がった。
「誰か呼んでくる! だからもう少しだけ頑張って!」
「……うん」
そう彼女は頷いたものの、その瞼はゆるゆると眠るように閉ざされようとしていた。ぞっとするような恐怖が背中から這い上がってくる。
「や、やだ! ブランシュ!」
咬み合わない歯を震わせながら、必死に彼女に呼びかける。
すると、彼女は思い出したように、そうだ、と小さくつぶやいた。
「あのね、私あなたに伝えたいことがあったんだ……」
「もういい! しゃべらなくていいから!」
「……大好きだよ。わたしの……たった一人のおとうと……」
フィディール、と唇がその形に動いて。
そうして、彼女はゆっくりと瞳を閉ざした。
「ブランシュ……?」
名前を呼ぶも、もう答えてくれない。二度と目を開けてくれない。花のように笑いかけてくれない。
そのことに全身が引き裂かれるような痛みが走った。
「……っ! ブランシュ! お願いだから目を開けて! いやだ――やだやだやだやだ嫌、だ――お姉ちゃん!」
絶叫にもよく似た叫びが、場違いなほど美しい翡翠の森に響いた。
* * * *
ひどい倦怠感を感じながらフィディールは夢から覚めた。
フィディールは帝都カレヴァラの中枢でもある、白樹の塔フレーヌの最上層に個室をあてがわれている。昨夜にディディウスを暗殺したフィディールは、今回の暗殺に協力した長老たちへの報告を済ませ、自室に戻ってきた。その後、泥の中にいるような疲労感が襲ってきて着替えるのも面倒になった彼はそのままベッドに沈み込むように眠ってしまったのだ。
記憶の糸を辿りながらそのことを思い出し、フィディールはゆっくりと身体を起こした。
ブランシュが亡くなる夢を見るのは久しぶりだった。十年前、ブランシュが死んだ直後はよく、それこそうなされるほど散々見た悪夢だが、最近はめっきり姉の夢を見なくなっていた。
フィディールはもしかして昨夜の暗殺でナイーブになっているのかと考えた。だとしたらあまりに情けなさすぎた。この程度のことで動揺してどうするのだ。
こんこん、と部屋をノックする音が聞こえた。
「……入れ」
「お目覚めか?」
現れたのはハインツだった。
「なんだハインツか……」
「なんだとは失礼な奴だな。熟睡してたようだが、夢でも見てたのか?」
「まぁ、な」
自室に入ってくるハインツにフィディールは曖昧にぼやかす。
その小さな間をどう判断したのか、ハインツがにやりと笑う。
「ほほう。それは幼少期に迷子になって『わーんママー』とか泣き叫んだ昔恥ずかしな夢か。まったく、おこちゃまは泣き虫だなぁ――っておおおっ!?」
途中からハインツのからかうような声は悲鳴に変わる。というのは、フィディールが腰の剣を抜刀してハインツに斬りかかったからだ。
「おっまえ、そりゃないってんじゃねえの!? パパはいきなり問答無用で剣を抜く子に育てた覚えはありません!」
「お前に育てられた覚えはない!」
「んで、夢ってのは?」
さらっとハインツが話題を変更してくる。憎らしいほど上手な不意の突き方だ。そのことに不愉快を覚えるも、ハインツがひどく優しい兄のような顔をしているものだから、仕方がないので、しぶしぶと口を割ってやった。
「……僕がこの時代に来る前のことだよ」
「ってーことは四百年近く前? そう考えると、お前って実はかっなーり年食ってる――すいません止めてください」
ハインツがいきなり真顔で謝ってくる。
フィディールは、明らかにこの世とは異なる異質な気配をまとわせた剣を構えていた。 その手に握られている剣からは神秘的とすら思える淡い燐光が放たれている。
フィディールは優雅に笑った。
「生粋の“先人”ならともかく、僕程度ならお前でも十二分に対応できるだろう?」
「んなわけねーだろうが! 半分だろうが四分の一だろうがなんだろうが、てめえがその血を受け継いでることには変わりねえだろうが! オレ様は人間様なんだぞ!? どう考えたってそれは卑怯だろうが!」
「だったら、最初から人を煽るな」
そう苛々と告げてからフィディールは剣を鞘に納めた。その姿にハインツがほっと胸を撫でおろす。
「それで、要件は?」
「ん? ああ。今日イリーナが嬢ちゃんとこ行けないからお前が代わりに行くんだろ? これ、持ってってやってくれってイリーナが頼んできた」
「……本?」
手渡されたのは大きめの子供向けの絵本だった。美しい青空色の表紙には、白い鳥と紅色の魚が描かれている。本の名前は〈魚の棲めない碧、鳥の飛べない蒼〉。
知らず、フィディールの眉根が寄る。
「……こんなものを与えて余計なことに興味持ったらどうするんだ」
「その言い方こそ娘を心配する父親っぽいな」
「誰が父親だ!?」
肩を怒らせながら足音荒く出て行くフィディールの背中を、ハインツは笑いを噛み殺しながら見送った。