その三の二 仲忠、帝から逃亡脱出。藤壺に隠れるが涼との合奏で兼雅にばれて戻される
その頃の仲忠だが。
彼は左近の幄で勝利の祝いとばかりに笛を楽しく吹いていた。
「珍しい、彼があんなに」
周囲もその妙なる音色を楽しんでいた。
そこへ。
「仲忠どの、帝のお召しらしいですぞ」
同僚が囁く。帝と涼の会話を聞きつけたらしい。
まずい、とばかりに仲忠は笛を持ったままその場からそっと抜け出した。
だが何処に隠れたものか、とばかりに彼はうろうろするばかりである。隠れたところで内裏の中である。何とかして人に見つからないところ―――
彼の足は、藤壺に向かっていた。
「…まあ、仲忠さま」
彼の姿を見つけるが早いが、孫王の君が声を上げる。変わらない。しゃんとした姿勢。
「ああ久しぶり。元気だった?」
「元気でしたけど… どういたしましたの? 只今は、まだ相撲が」
「うん、その話もしたいけど、ともかく今はちょっと匿って欲しいんだ」
「困ってらっしゃるのですか?」
兵衛の君も驚き、そう問いかける。
「ええそうなのです。帝の急なお召しで」
「それで逃げてらっしゃるのですか? 情けのうございますわ」
容赦の無い兵衛の君の口調に、仲忠は苦笑する。
「でもちょっと困るお召しなんだ。退出する訳にもいかないので、ちょっとだけ隠して欲しいなと思ったんだ」
「帝のお召しを困る、とかおっしゃる悪い方をどうして隠すことができましょう? 私達が他から言いがかりをつけられるのも嫌ですわ」
「別に悪いことをした覚えは無いよ。君こそこっちで一杯悪いことを覚えたのではない?」
「私は別に。でも中将さま、こことは言いませんわ。何処かで悪いことをなさってるのじゃあありませんこと? 火の無いところに煙は立ちませんわ」
それには答えず、仲忠は御簾と几帳の間に隠れて、下長押に寄りかかった。
そして奥に確実に居るだろう藤壺の方――― あて宮に向かって直接呼びかける。
「今日の様な晴れの日に参殿なさらない方は、ずいぶん罪深い方だと思いますよ。格別の行事でしたから」
「そんなに凄かったのですか?」
兵衛の君は問いかける。
「ええ勿論。ですから、あんなに結構な素晴らしい行事を御覧にならないなんて、並々ではない罪深い御方だ、と思うのです」
どうですか? とばかりに仲忠はあて宮に向かって問いかける。あて宮は兵衛の君を通して答える。
「あなたをここで私が見逃すのも、また罪になるのでは、とのことです」
「時々ここに伺候しているうちに、御方さまに僕も似てきたんだろうな」
まあ、と女房達はくすくすと笑う。
言う程彼はここにやって来ている訳ではない。
通っていると言えばむしろ、ここに仕えている孫王の君の元だ。それは女房達の皆が知っていることだった。
孫王の君はそれを顔にも出さないが、周囲の同僚達は、女一宮の婿として選ばれている彼との仲を皆心配していた。
「…というのは冗談ですが、ともかくあんな面白いものを御覧にならなかったのが残念でたまりません。いや、本当に面白かったんですよ」
「御方さまは、この頃ちょっと体調が優れないので… ところで、どちらが勝ったのですか?」
兵衛の君は尋ねる。実は彼女もそれには興味津々だったのだ。
「何言ってるの。左近ですよ左近。僕が居る方なんだから」
「だから左では無かったんじゃないか、と思ってたのですわ」
「君もなかなか言うね。まあいいや。でもだからこそ、ぜひ御方さまには御覧になって欲しかったのですよ」
確かに、と女房達はうなづく。それに何と言っても、左近の大将はあて宮の父、正頼だ。そちらに勝って欲しいに決まっている。
「御方さまがいらっしゃると思っていたので、舞なども張り切っていたのですが、居ないと知った途端、まるで夜の錦の様に張り合いの無い話でした」
「仲忠さま、『ここで一曲演奏して欲しい』と御方さまが」
兵衛の君が伝える。どうだろう、とそれを聞いていた孫王の君は思う。おそらく彼は帝から演奏を強いられそうになったので逃げてきたのだ。
仲忠はふんわりと笑う。
「御方さまが合わせて下さるなら、いくらでも」
兵衛の君は主人の方を向く。言葉を伝える様に彼女は促される。
仲忠は繰り返されるそのやり取りに、ふとこう口火を切った。
「高麗人などの様な外国人には通訳が必要ですが、ここもそうですか? 奇妙なことですね」
「『独楽/高麗を上手にお回しになる方でいらっしゃるからでございましょう』」
その様に通訳混じりの会話を交わすうちに、日も暮れてきた。
*
夕暮れどき。
秋風が涼しく彼らの側を行き過ぎる。
「―――秋風は涼しく吹くけど…」
などと上の句だけを詠んで、そこにあった箏の琴を引き寄せ、かき鳴らす。
「そうお詠みになるということは、頼みになる女性が何処かにお有りになるのでしょう?」
兵衛の君が笑って問いかける。
「ここ以外には何処も」
「けど、野にも山にも、というではありませんか」
古歌を引き合いに出す。「―――あなたのせいで、私の浮き名が春の霞の様に野にも山にも立ってしまったではないですか」と。
引用には引用を。仲忠もまた、古歌を引き合いに出して返す。
「それは『人の心の嵐』でしょう」
「だけど、『真風』とも言いますわ」
「けどそれは今は皆『木枯らし』になってしまったよ」
「それこそ、空一杯に声が広まりましょうよ」
「まず先に、立ってもいませんよ」
「春頃から何かと噂が立ってますわ。それは如何ですこと?」
「『秋霧の降る音』がどうして聞こえないことがあるかなあ?」
「その秋霧が『晴れない』のは見苦しいですわ」
「まあね。晴れないのは僕も侘びしいと思うのだけど」
「そう仰っても、仲忠さまのためなら、喜んで『宿を貸す人』もあるでしょうに」
「けど春の宮/東宮からはそういう訳にはいかないでしょう」
「宮中には御宿がありますでしょう」
「それを通り過ぎた/逃げてきたのは月影だって見たと思うのだけどね」
「それこそ白雲/知らないですわ」
「…じゃあ、ちょっと真面目に。何かと決心しかねることが、月日を増すごとに重くなって行くのはどうしたものでしょうか?」
兵衛の君は困った。懸想人の様ではないか、と。慌てて主人の方を見る。
だがあて宮は怒る様子も無い。兵衛の君は仕方なく冗談で返そうとするが、上手く言葉が出て来ない。
「真面目な話になると逸らしてしまうんですね」
それはそうでしょう、と兵衛の君は思う。そしてちら、と同僚を見る。孫王の君は動じていない。
何故! と彼女は思う。
その視線に気付いたのか、孫王の君は苦笑する。
「ああ、あなたのことではないんだ。世の中で侘びしいものと言えば独り棲みだよ。ねえ君、あの方に判って頂こうというのは無理ってことで」
にやりと仲忠は笑う。ああそうか、と兵衛の君はやっと気付く。言葉遊びだ、と。
「今となっては『結ぶ手もたゆくとくる下紐』と申し上げても甲斐のないということで」
と。
「『浮気な朝顔の花に下紐を解く』とか聞いてますよ。あなたは私に実を見せてくれるのですか?」
あて宮の声だった。女房達は驚く。
と同時に、これは遊びなのだ、ということが彼女達皆が納得できた。
「同じように吹くすれば、あなたのお役に立てる風になりたいと思います。
―――夕暮れの秋風よ、旅人の草の枕の露を乾かしておあげ―――
独り寝の淋しさに『涙で濡れない暁』はありません」
するとあて宮がそれに応える。
「―――色好みの人の枕を濡らす白露/涙は秋/飽き風で一層勝るでしょう。―――
あなたが飽きてお忘れになった女の方々は少なくないのでは?」
「そんなもの、ありませんよ。
―――『秋風のむなしき名』は秋風にとって無実の浮き名ですよ。その浮き名ばかりが有名になったものだな―――
目立つことでもないのに、ひどいですね。どちらがあだ人でしょう?」
「―――秋風が吹いてくれば、荻の下葉も色付くのに、どうして『むなしき名』と思うことが出来ましょうか―――
真面目には見えませんよ」
「それはあなたさまのことではありませんか。
―――秋風が荻の下葉を吹くと、人を待つ宿では女が心を騒がすだろう」
するとあて宮はころころと笑った。周囲の女房達は主人の珍しい類の笑いに驚いた。
「―――籬の荻のあたりをたとえ風が吹いても/私の元にどんな男が訪れても/どうして返事など致しましょう」
「それはまた、もどかしいことですね。
―――多くの下葉を吹く浮気な風に心を動かさず、私にいらっしゃいと言っていただきたいものです」
まあ、とあて宮は再びころころと笑い、仲忠もそれにならった。
そのまま仲忠は軽く箏をかき鳴らすに留めた。
*
一方、仁寿殿の方では仲忠の姿が見えない、と大騒ぎになっていた。
「退出したのか?」
帝は眉を寄せる。
「いえ、その様な知らせは受けておりません。確かに陣からは出てしまわれた様ですが、随身は残しておりますし」
「…逃げたか」
帝は思わず苦笑する。
「先程まで左近衛の幄舎で箏を様々に弾じていたのだから、まさか退出はしていまい。探して連れて参れ!」
だがその周囲を探す者達はからは口々に「中将どのの姿はありません~」という言葉が続くばかりである。
仕方ない、とばかりに帝は父である兼雅を呼び出した。
「お呼びで」
「ああ兼雅。仲忠にどうしても会って頼みたいことがあるんだが、あれの居所をそなた、知っておるか?」
「おや、只今まで居りましたのに。退出したのでは?」
「では呼んで参れ」
はい、と兼雅は素直に従う。
少しして戻ってきた彼は、これまた予想された答えを返してきた。
「…退出した様にも見られません。おかしな話でございます。…おや、涼の中将がいらっしゃる」
涼は黙ってすっと頭を軽く下げる。
「…もしや、琴をお聴かせする様にあれにお命じになったのではございませんか?」
「如何にも」
「ああ! それでか! 早々と察知して逃げたのでございましょう。我が子ながら、あれは全くもって変わり者ですから。ともかく琴のこととなると、何かと言うと姿を隠して逃げてしまう」
「親にそう言われるまでの変わり者ったのか」
ははは、と帝は笑った。
「ともかく暫くは御琴はお隠しになり、涼中将も御前に居ないで退出するのだと言い触らしてお隠しなさいませ。でないと、あれは勝手にそのまま退出してしまうでしょう」
「確かに」
助かった、とばかりに涼はその場を立った。
そして近くに居た頼純にこう告げる。
「私は退出致しますからね。もしも主上のお召しがございましたら、気分が悪くなったとでも奏上しておいて下さいな」
「ちょ、ちょっと涼どの」
頼みましたよ、とばかりに涼はその場からぱたぱたと立ち去る。
彼には仲忠の逃げ場所の想像はついていた。
藤壺だ。
*
「あー、やっぱり居たな」
誰、と仲忠は振り向き様に誰何した。
「私だよ。君のお友達の涼君ですよ」
「…何だ、あなたか…」
仲忠はほっと胸を撫で下ろした。
「私じゃあ悪かった?」
「そんなこと無いよ。でもどうしてここに? 帝からあなたはお召しがあったのでは?」
「どの口がそう言うんだい」
そう言って涼は仲忠の口を横に引っ張る。
「君が居ないって帝が怒ってらしたぞ。君は私すら秋風の様に袖にしたんだな」
「や、そんな訳… だけど。ごめん」
「君らしいと言えばそうだけど。帝がしきりに探してらっしゃるよ」
「…困ったなあ」
「で、ここに隠れた、と」
「僕のことなんか、放っておいてくれればいいのに」
「そうも行かないさ。琴のこととなると帝も院も皆目の色変えていらっしゃる。で、今君の父上が帝の御命令で、君を探してる次第」
「…父上かあ…」
仲忠はため息をつく。
「あのひとは、妙に僕を探すのが上手なんだよ」
「父上に嫌だとは…」
「言えるよ。ふん、今晩は親も子も無い」
「そう言うと思った」
はっはっは、と涼は笑った。
女房達もそんな二人のやり取りにこっそりと楽しんでいた。
当代一、二を争う二人仲良くじゃれている姿は女達にとっては目の保養である。
「私にも琴を弾く様に言われて、困ったものだったよ」
「でしょうね」
「一応帝は、畏れおおくも私のきょうだいに当たられる訳だけど、本当、こういう時には肉親もへったくれも無いね。でも君を探す、という口実で何とか抜け出してこれた」
「ふふん、僕のお陰を蒙ると、そんな嬉しいことが結構あったりするかも」
彼らがそんな戯れ言を交わす間に、藤壺の奥から二人をもてなす酒の肴が出されて来た。
もてなしを受けつつ、二人は話を続けた。
「けど私にも今日は残念なことがあったんだよ」
「何?」
「君が今日は必ず御前に参上すると思ったからさ」
「そんなことで何が残念なのさ」
「何言ってるんだ。私だって君の演奏は聞きたいんだよ。左のなみのりが勝つことより、君の演奏のほうが十倍も凄いことだよ」
「そんなこと無いさ」
「私だって君がそうするなら、と用意してきたこともあるのに」
「用意?」
「ああ、それも駄目になってしまったなあ。所詮君の僕に対する友情というのは、そんな程度のことなんだなあ」
「涼さんまでそういうことを言うんだ」
仲忠はむきになって返す。
「でもね、僕だって笙の笛を調べる時、あなたがここに居てくれれば、と思ったんだからね」
「そうなんだ?」
「そうだよ」
「でしたら」
奥から声がした。
「ここでお二人の演奏を私にお聴かせ下さい」
*
その様に二人が藤壺で宜しくやっている間、仁寿殿で帝から仲忠を探すように言われた者達は右往左往していた。
近衛司から派遣された者は屋敷の方へと訊ねてみる。その他の少将等も、宮中を隈無く探し回っていた。
そして兼雅は、と言えば。
彼は何となく、父ならばでの想像がついたのか、殿上童を一人連れて陣ごとに回り、仲忠の行方を求めていた。
車も随身もまだ残されていて、戻った様子は無い。
ならば、と彼は皇后の御殿である常寧殿を皮切りに、後宮の方へと足を進める。
そしてそれぞれの局を一つ一つ伺っているうちに、藤壺のほうから箏と琵琶の合奏が聞こえてきた。
彼は自分の想像が当たったことに苦笑した。
「…どうなさいましたか?」
「お前、この演奏をどう思う?」
「え? はい、とても素晴らしいとは思いますが、以前ちらと聞かせていただいた仲忠さまのとは…」
「と、思わせるのがあいつの悪いところなんだよ」
そのまま彼は藤壺へと足を向けた。
上手な奴というのは。彼は思う。こういうことが出来るから厄介だ、と。
彼らはあえて調子を変えて弾いていたのだ。童は誤魔化せても、兼雅の耳までは。
彼は飛び抜けてはいないにせよ、優れた風流人なのだ。
*
がさ、と人の気配に二人はふと手を止める。
「ああ、居た居た」
「…父上」
「兼雅どの」
童一人だけ連れた兼雅の訪れに、仲忠は本気で驚いていた様だった。
「やっぱりなあ。仲忠、帝がお召しだというのに何をやっているのだ? 早く出て来なさい」
「…そのまま退出したと奏上してくれませんか? 気分が悪くて」
「何処が」
ぽん、と兼雅は息子に言い放つ。
「ここでこんな優雅に演奏している奴を、そんな嘘で取り繕うことなんてどうして私が出来ると思うか?」
「けど」
「ああ全く見苦しいな。だいたい帝も、『退出しました』と聞かれても『では迎えにやれ』とおっしゃられたんだ」
「…」
仲忠の表情が歪む。
「だいたい随身も乗り物もあるんだから、退出したも無いだろう。屋敷の方には近衛司の連中が行ってるし」
「何で僕をそんなに呼びたいんですかね」
「決まってるだろう。そなたの琴が優れていすぎるからだ。観念して出て来るのだな。このままじゃ私が『息子可愛さに隠しているのだな』と思われてしまうのだがな」
はあ、と仲忠は大きくため息をついた。涼はそれを見てくす、と笑う。
「だいたいそなたはいつもそうだ。殿上の交際にしても、あんまり我が儘なことが多いので、私はいつも冷や冷やしているのだぞ」
「私は弾けない時には弾けないと言っているだけですよ」
「それが我が儘だというのだ。そもそも帝の御命令に従わない者は居ない。居てはいけないのだ」
兼雅は本気でそう思っている。涼は感じた。良い意味で実に単純だ、と。
しかし息子は違う。
「それを畏くも帝ご自身からお召しになり、我々皆一斉に探すようにという程なのに… 宮中に伺候している身であるのに、仰せに背くとは何ってことだ。早く参上しなさい」
「今夜だけはお許し下さい」
「あのな、仲忠」
道理の判らない息子に兼雅は呆れ半分失望半分で言い諭す。
「今ここでそなたの我が儘を通してしまうと、恨まれるのは私なのだよ」
「…」
「それはたまったものではない。今日何も起こらなかったとしても、後々何があるか判らないぞ」
成る程その様に兼雅は帝のことを思っているのか、と涼は冷静に思う。
「ともかく今日だけは引きずってでも行くぞ。そなたはしばしば人付き合いだのしきたりだのを軽んずるが、形だけこなしていれば何とかなる、ということがこの世には多いんだ。帝はそなたが居ないというだけでご機嫌斜めであそばされたのだぞ。ほら」
そう言うと仲忠の手を掴んで立たせ、そのまま引き立てて行った。
御簾の側では、兵衛の君がくすくす、と笑っていた。
「どうしました?」
涼は彼女に訊ねる。
「いえ、兼雅さまが」
「兼雅どのが何か? 大変そうですね」
「ふふ。仲忠さまのことで頭が一杯だというのは判るのですけど」
「だけど?」
涼はにや、と笑う。彼女の言いたいことが何となく察せられた。
「だって、ここが藤壺だというのに、いつか結構ご執心してらした御方さまのことも、ましてや涼さまのことも全く気付かないご様子だったのが、私、可笑しくて」
そう言えば、と孫王の君もくす、と笑う。
「仕方無いですね。私は彼ほどの有名人では無い。さてこれから彼の活躍を見に行きましょうか」