その一の一 暇な父君は真面目な息子を連れて三条殿へさあ行こう
話はあて宮――― 藤壺の方が懐妊した年の秋にさかのぼる。
***
「…暇だ」
五月のとある日、右大将兼雅は大あくびと共にそうつぶやいた。
「何かおっしゃいましたか? 父上」
それを漏れ聞いたのは、息子の中将仲忠。
しどけない格好をした父とは違い、この日もくつろいでいるとはいえ、それなりにこざっぱりとした姿で父の側で雑談などしていた。
「暇だと言ったんだよー」
「暇ですか」
「だってそうじゃあないか。今日は出仕しなくていいし、かと言って家で何かするって程でもないし」
「退屈なら、何か楽器でも弾けばどうですか?」
「お前が私にそういうのかね?」
父親はこの楽の名手に向かい、じろりと視線を飛ばす。
息子はそれをするりと受け流し。
「それなら何処かへお出かけすればいいでしょう。天下の遊び人と思われている方にしては実に大真面目じゃあないですか」
「お前本当に容赦ないね」
「父上の子ですから」
はあ、と兼雅はため息をつく。幼い頃から手元にあったなら、もう少し素直な子になっていたのになあ、と。
「…何処かにねえ… おおそうだ」
ぽん、と兼雅は手を叩く。
「左大将どのの三条殿へ行こう」
「ああ、それはいいですね」
「何を他人事の様に言ってるんだ。そなたも行くんだよ、そなたも」
「僕もですか?」
「皆喜ぶし」
すると仲忠ははあ、とため息をつく。
「何か今、色々僕の結婚話とか取りざたされていて、面倒なんですよ」
「女一宮とのか」
「らしいですねえ」
「何を他人事の様に。名誉なことじゃないか。私なんぞ、その昔、帝の女三宮を周囲にも許されない形で手に入れてしまって後で大変だった」
「らしいですねえ」
「…それを考えれば、そなたは皆から望まれているのではないか。それを何だ?」
「煩わしいのは嫌なんですよ」
「ふふふ。世間なんていうのは基本的に煩わしいものだぞ。さ、さ、いざ行きましょうぞ、中将どの。三条殿へ」
仕方無い、という顔をして仲忠は家人を呼び、用意をさせる。
二人ともさっぱりとした直衣を着込んで一つの車に乗って出掛けることにする。
とは言え、同じ三条にあるだから到着には程無い。それでも車をわざわざ出さなくてはならないのがこの身分という奴であろう。
「さ、さ、そなたが最初にご挨拶ご挨拶」
そう言って兼雅は仲忠を先に降ろす。
仲忠はまたも仕方無い、という顔で先触れのために入って行く。
中では左大将正頼の子息や婿達、それに上達部や皇子達が何かと集まって騒いでいる様だった。
「おお仲忠、よく来てくれた」
「今日は僕も父上も出仕することもなく、何かと家で気分が滅入っておりまして…」
「いやいや、こっちもちと物足りなくなって、そなたの父上をお招きすればさぞ楽しいと思っていたところなのだ。さあさあぜひぜひ」
「父上、仲忠の声がした様ですが」
すると奥から、仲忠の声を聞きつけたのか、上達部や皇子達がぞろぞろと彼らを出迎えに来た。
「やあ仲忠だ。君が来るとやっぱり場が華やぐよ」
「父君も一緒なんだって? 早くおいで願えよ」
「まあまあ皆、そう急がせないで。仲忠、右大将どのに告げておいでなさい。皆お待ちだとね」
はい、と仲忠は従者を父の元へと返す。
やがて兼雅もやって来て、二人は改めて設えられた席に様々に御馳走を用意された。銀の器には、果物や乾物が非常に綺麗に盛られている。
やがて「大宮さまからです」と酒やその肴、粉熟と呼ばれる甘い菓子も用意される。
正頼は甘い菓子にばかり手を伸ばす仲忠に思わず微笑む。
「仲忠は酒よりその方が好きなんだな」
「ええ、やっぱり甘いものは気持ちがほんのり幸せになります」
うんうん、と周囲の公達も、その笑顔に何となく幸せを感じる。
あて宮が既に過去になった彼らにとって、仲忠は目の保養の様な存在だった。
「ところで、今年の相撲のことだが、右近衛府の相撲人はもう来たのかね? うちではまだ来ない様だが」
酒を酌み交わす中で、ふと正頼が話題を切り出した。
七月末にある相撲の節会のことである。
この時の力士は、左右の近衛府が、それぞれ定められた国々へと「ことり使」と呼ばれる使いを送り、これぞと言った強い力士を集めさせるのである。
兼雅はそうですねえ、と首を傾げる。
「まあ、少しは来ている様ですよ。とは言え、今年はいまいち不作ですね」
「不作かね?」
正頼は首を傾げる。
「ここ数年、いい力士が出ていたのですがね。どうも今年はいまいちで。例年の様に大勢来るということは無い様です」
「ううむ」
「とは言いましても、上京した中には、それこそ文句の付け様も無いほどの相撲人も何人かは居る様ですね。見栄えもいいし、年の頃も、そう、今が盛りと言ったところでしょう。きっといい取り合わせになると思います」
周囲がその言葉に沸き立つ。今まで見たことの無い相撲人もその中には居るかもしれない…
兼雅は続ける。
「まあ何と言うか、去年まで良くやって来た者達が、死んだり病気になったりで出られない中で、彼らが居てくれて助かりましたよ」
「流行病の勢いは、なかなか衰えないものだし… 喜んでいいのかどうか微妙なところですね」
ぼそ、と仲忠が聞こえるかどうかという声でつぶやく。兼雅はそれに気付いているのかいないのか。
「逆に、そういう機会でも無いと持ち上げられない者達をお目にかけることができるから、それはそれで好都合というものではないかと」
なるほど、と正頼はうなづく。
「こっちの相撲人も、まだやって来てはいないから何だが、結構な人材が居るらしい」
「ほぅ、それはそれは…」
兼雅の反応に、正頼はにやりと笑う。
「何やら探して来て出す側でも思うところがあるらしいな。そうそう、何でも『下野のなみのり』が来るそうだ」
「『なみのり』が!」
周囲の者達も驚く。「下野のなみのり」は、都まで噂が轟いている力士である。
「とは言え、目玉はそれだけだろうな」
「そうですね。こっちの『伊予のゆきつね』は来ないことに決まってますし…」
「来ないんですか!?」
相撲好きの一人が声を上げる。
「ああ。そういう知らせが来てね、私もがっかりしている。どうも彼も今年は病気だか怪我だか」
周囲の上達部達はがっかりする。「ゆきつね」もまた、有名な力士だった。
それぞれ名高い力士達が左右に分かれて対戦するのを見るのは相撲の節会の見所である。なのに、と。
正頼は腕を組んで軽く目をつぶる。
「そうそう、先日、仁寿殿で帝が『今年は例年よりは少し面白いことをしたい。今度の節会は見所がある様にして貰いたいものだ』と仰せられてな」
「…なかなかこちらが困る様なことを仰せられますね」
兼雅は苦笑する。
「とは言え、帝が仰せられるのだから仕方が無い。相撲人は多くは無いが、規定の数はそれなりに揃ってはいる。勝負は… まあその時だから、その試合に帝が退屈なされない様に我々は勤めるしかないだろう」
「そうですね。私もそう考えてはいます。ですか、はて、どうしたことをしたものやら」
兼雅は首をひねる。
すると正頼はあっはっは、と笑う。
「口に出さずとも、考えればいいことではないか」
「けど考えれば口には出さずにはいられないものですよ」
それで今は考えもしないのです、と兼雅は暗に示す。手のうちは今から見せてはならないのだ、とばかりに。
周囲の若い者達は、それを見ながらさけを酌み交わし、二人の大将が考えることを想像してはこそっと語り合う。
やがて杯が重ねられるに従い、話題は次第に流れてて行く。
「それにしても、本当にここに来るのはお久しぶりです」
「あなたにはもっと度々やって来て欲しかったですがな」
「藤壺の方のこともありまして。今となってはそういう心配も無いから気楽というものです」
それは皆同様だったらしい。
現在この場で酒を酌み交わす者達の中で、きょうだいを除いては、あて宮に一度たりとも懸想したことの無い者は居ないと言っていい。
「今日、何か不思議と伺いたくなりまして。呼ばれている様な気までしまして。
―――始終自分の宿の様にしていたここをふっつり思い切って、久々で今日参上すると、昔のことが思い出されて仕方がありません」
すると正頼がそれに返す。
「―――お見限りだとは思いませんよ。私の宿は今度こそあなたが始終おいでになる所になりましょう」
正頼が兼雅に対し、あて宮の代わりの姫を用意しているのは本当だな、と周囲の公達達は想像し、やや緊張する。
そんな空気を読んでか読まずか、正頼は昔話を始める。
「姫――― そう、女。やはり女性が出す文というものはいいものだ」
「おや、そういう文が昔に?」
兼雅は問いかける。
「文句の付け様の無い程の女性が、男に対し、細やかな心遣いでもって書いた文というものは、後になってもしみじみと思い出されるというもの。―――そう、昔、嵯峨の帝の頃の承香殿の御息所程の女性は無いだろうな…」
「そんなに素晴らしい方だったのですか?」
兼雅も面白くなって問いかける。
「ああ全くもって! 何って素晴らしい方だろうと思ったことだ。そう、わしがまだ中将だった頃、かの御息所が内宴の賄いをなさることになったことがあってな。その時わしは仁寿殿にいらしたあの方の姿を隙見できたのだよ」
「おお、それは何と幸運!」
兼雅はにんまりと笑う。
「いやもう、垣間見ているうちに、こっちの魂も抜けてしまうかと思ったものだ。で、もう居ても立ってもいられなくなってなあ、向こうがお困りになるだろうということも考えず、向こう見ずにも文を何度か差し上げてね」
「それで如何でしたので?」
兼雅は興味津々で問いかける。
「…まあわしも若かった。時には向こうがお困りになる様なことも、切に申し上げたことがあってなあ… そんな私の心にお苦しみになった様な文を返されたのだが、その時はもう本当に胸が締め付けられる様な思いだったな…」
兼雅は黙って何度もうなづく。
「そう、もう老年となった今でも、その文を見ると、その時のことを思い出して気持ちが揺らぐこともある… あれほどの感動を受けた文は無いだろうな」
「それで、その後は御息所とは」
「ほぉ、あなたらしい聞き方をなさる。期待する様なことはありはせんよ。慎み深い方たったから、ほんの浅いお付き合いだけで次第に終わってしまったのだけど…… 嗜み深い方でもあったので、全く拒絶された訳でもなく… 何と言うか、その、私も結構心惑わされたものだ。ああ、あれ程の女性は、今の世には居ないだろうな」
正頼は遠い目をして、杯を上げる。
「…今の世でしたら、それは仁寿殿女御そのひとでしょうな」
正頼はぴく、と眉を動かす。
兼雅が口にしたその女性は、帝の最愛の女御であり、また彼の大君である。
「そう、今の世の中にも珍しいまでの深い心をお持ちの方と言えば、仁寿殿女御でしょう。おっしゃった承香殿の方に劣らぬ素晴らしい心映えだと思いますな」
「ほほう?」
女御の父は半目になって兼雅を伺う。兼雅はひらひらと手を振る。
「いやいや、今現在そんなやましいことがはっきりあるのだったら、こんな場で申し上げたりはしませんよ。昔むかしのことです」
「本当に、昔のことかね?」
「ええ、全くもって。まだまだこの兼雅がほんの、ほんの若い頃のことでございます。その昔、懸想文を差し上げたことがあるのですが、その時もあの方は冷たく突き放す様なことはなさらず、ご信頼なさいとだけ仰ったのですがね… 何と言いましても私はこの通りの浮気性で。勿体無いことを致しました」
「…ほぅ」
「今でもたまに文を差し上げる時はあるのですが、あの方は私のことは笑ってお見のがしになっておられる様で」
すると正頼はふっと笑う。
「それはまた、何処の仁寿殿のことだろうな。わしの娘の中にはその様な心ある者は居ないと思ったが」
「そちらの仁寿殿ですよ」
「わしの言う承香殿のお心は、他の女性とは違う優れたものだったぞ」
「ほぅ」
兼雅もまたにやりと笑う。
「それでは、そちらにはまだ御文は残ってらっしゃいますか?」
「それは無論。今でも取り出してはしみじみとした思いに」
「私のところにはかの方の御文があります。持って来させましょう。比べてみませんか?」
「よし、それでは比べてみよう。おい、連純、わしの部屋に…」
「仲忠、ちょっとひとっ走りして、うちから私の文箱を持っておいで、そう、あの…」
左衛門佐と中将の肩書きも、ここではどうやら何の役にも立たない様である。連純と仲忠は顔を見合わせてため息をついた。