角持つ少女
物心ついた頃から、アイノは池のほとりで暮らしていた。
湿り気を帯びた風が、地につくほど長く伸びた髪を撫でていく。膝を抱えなおした彼女は、自分の髪と同じ澄んだ色をした頭上を見上げた。そこを揺蕩う綿のようなものを、雲だと教えてくれた人はもういない。
――いいかい。君の家はここだ。ここ以外にはないんだよ。
そう言って、アイノの額から生えるそれを撫でてくれた。
いつからあったのかは分からないが、アイノの額には緩やかに湾曲した二本の角が生えていた。肌と髪の色が混じり合ったようなそれは滑らかで美しく、蛇のような鱗を纏っている。
過去を思い出し、そっと角を撫でながら湖面を覗いた。映りこんだ自分の顔に、表情らしい表情は浮かんでいない。
世話役だ、と名乗って傍に居てくれたのは、笑顔が眩しい青年だった。アイノと同じ色をした髪を常に短く切り揃え、額にはアイノよりも立派な、威厳に満ちた角が生えていた。それに反するように声はとても優しく穏やかで、何も分からないアイノに言葉を教え、暮らしていくための術を教えてくれた。
自分の顔立ちは、我ながら青年によく似ていると思う。
「おなかすいた……」
ぐるる、と腹が音を立てる。ゆらりと立ち上がったアイノは、躊躇うことなく池に飛び込んだ。
太陽の光を反射して煌めく水中をすいすいと泳いでいく。時折空に架かる「虹」と同じような模様をした魚が驚いたように逃げて行き、水の流れに合わせて揺れる水草へ次々と身を隠していった。
だが、そんな事アイノには関係がない。
ニッと笑みを浮かべ、一匹の魚に目を付けた。丸々と太った体は実に美味そうで、そのことを考えるだけで脳が痺れたようになる。アイノはぐっと腕を伸ばし、魚の尾を勢いよく掴んだ。その勢いを保ったまま水面を目指し、「ぷは」と息を吐き出しながら魚を日の光に照らした。
「ふふ、逃がさないから」
我が身に何が起こったのか分からないのだろう。魚は体をびちびちと揺らしていたが、やがて大人しくなっていく。岸に上がったアイノはそのまま腰をおろし、大きく口を開けて、
「いただきます」
魚の頭に噛みついた。
思っていた通りの肉厚だ。口の中に広がっていく味に目を見開き、一心不乱に食べ進める。そういえば今日は起きた時から何も食べていなかった。道理で腹が減るわけだ。
気が付けば魚は尾だけになっていた。口の周りは血や鱗で汚れていたが、雲と同じ色をした服で拭い取る。
そういえば、この服をくれたのもあの青年だった。
――きっと君は、大きくなっていくだろうから。大きさの違うものをいくつか用意したから、順番に着ていくんだよ。
足首までを覆うひらひらとした服は非常に動きやすい。初めて水に入った時は気になっていたが、今ではすっかり慣れてしまった。
彼は一体どこに行ってしまったのだろう。どうして、
「私を、置いて行ってしまったの」
空高く上った太陽に問いかけてみるが、返事が降ってくることは無い。
まだまだ聞きたいことは沢山あるのに。ずっと一緒にいてほしかったのに。
喋り相手は時折現れる鹿や猪といった、飲み水を求めて現れる動物たちだけだ。彼らは皆、木々が生い茂る場所からのっそりと姿を現す。遠い昔、興味が湧いたアイノは鹿のあとをついていこうとしたことがあった。確かその時は、青年に強く止められたのだ。
――いいかい。君はこの湖が見える場所に居なくてはならない。彼らが戻っていく場所は「森」といって、とても危険な場所だしね。
危険な場所なら、行ってはいけないんだろうな。そう思い、素直に言う事を聞いたのだ。
湖はとても広い。中に飛び込めば、普段岸から眺めている光景とは違う世界が広がっている。アイノの腹を満たしてくれる魚だっているし、食料は僅かな光さえない水底にもいるのだから。
ごちそうさまでした、と小さく呟き、魚の尾と少しだけ残った骨を湖にそっと落とした。
――君は多くの命を貰って生きていくことになる。今はまだこの魚とかだけだろうけど、将来はきっと、もっとたくさんの命を頂くんだ。そのことに感謝しなければいけない。
自分の中に残っている一番古い記憶は、口酸っぱく「感謝だよ」と繰り返している青年の姿だ。分かったかい、と問われるたび、幼かったアイノは首が痛くなるほど頷いた。
「ユノ……」
一度だけ名乗ってくれた名前を呟き、湖面を覗く。
映り込んだ背景に、青年の姿はない。
「私は、一体どうしてここにいるの」
この空はどこに繋がっているの。雲はどうやって出来ているの。長年抱え込んだ疑問は山ほどある。
その時、がさりと背後で音がした。
「ユノ?」しかし、アイノの期待を裏切るように姿を現したのは、立派な角を持った一頭の鹿だった。「なぁんだ、《使者》か。……それは」
アイノの角と違い、木のように枝分かれした角を持つ鹿は、ユノに《使者》と呼ばれていた。《使者》は口に何かを咥え、首を垂れて地面にそっと置く。どこか慈しみに満ちた目をちらりと向けた《使者》は、物音もなく森の中に消えていった。
立ち上がったアイノは、鹿が置いていった何かに近寄った。何か包んでいるのか、汚れ一つない真っ新な布は丸みを帯びている。なんだっけ、と首を傾げたアイノだが、「ああ」と頷いた。
「いつもの、ね」
するりと布を解くと、中からごろりと様々なものが転がり出て来た。
人参、さつまいも、湖で取れない魚、肉。次々に手に取り、じっくりと眺めていく。
時折アイノの元には、湖では決して取れないような代物が運ばれてくる。先ほどのように鹿が運んでくることもあれば、空を飛び交う鷹が落としていくこともある。
これがどこから持ち込まれてくるのか、アイノはまだ知らない。
「大切に、食べないと」
青年と暮らしていた時もこれは運ばれてきていた。
湖で取れる魚と違って、布に包まれているものは動いていない。それでも、青年は「命を頂いているんだよ」と教えてくれた。
ずきり、と角が疼いた。アイノは眉を顰め、二本の角を交互に撫でる。
角が疼くのは、成長していく証拠だ。そうと気付いたのは青年が居なくなってからだ。
ああ、教えたい。
「ねえ、ユノ。私、大きくなったんだよ」
視界が滲む。
大空に向かって両手を広げ、顔をくしゃくしゃに歪めながら言葉を紡いだ。
「話したいこと、教えたいこと、たくさんあるの。私、色々覚えたよ。教えてほしいことだってあるの。ねえ、だから」
私の前に、姿を現してよ。
角に続き、左目も痛み出す。この間から急激に痛み出した。初めは一日ごとだったのが、今では間隔が狭まってきている。この理由を、ユノに聞きたいのに。
双眸から涙が零れ落ちていく。思わず手で両目を覆うが、涙はとめどなく溢れてくる。
すると、ふっと目の痛みが消えた。それと同時に、左手に何かコロコロとした感覚が現れる。
恐る恐る手を放して目を落とすと、手のひらの上に丸い何かが転がっていた。
昼下がりの日光に当たりながら、二人の老婆が古い木の家の前で語り合っていた。
「そういえば、そろそろ生まれる時期だろう」
「次の《竜神さま》かい。もうそんな時期かね」
「今の《竜神さま》が生まれてからもう十五年だからね。二十年で竜の姿となるのだから、もう直だ」
「竜が生まれ、育まれる地ねえ……どれだけの《竜神さま》を見送ってきたことだろう」
「それにしても不思議なもんさね。自分の体の一部が欠けて、そこから次の竜が生まれてくるってんだから。再生するとは聞いているけどね、何せ目にしたことは無いもんで」
「旅立っていく姿しか目に出来ないってのは何ともまあ、残念な気はするけどね」
「おっと。話していたらちょうどよく《使者》が来たね」
家の裏手にある森から現れた《使者》は、二人の老婆を前に目で語る。
次の《竜神さま》が生まれた、と。
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