本
3月4日
私には恋い焦がれて止まない、美しき君がおります。あの方はいつも窓辺の椅子に座り、本を読んでおり、私はそれを帰路の途中でちらりと見るのです。
私の周りには粗野で読書という行為からかけ離れた人間しか居なかったからなのか、静かに文字を追う様は新鮮で美しく見えるのです。
3月5日
今日もあの方は窓辺で本を読んでいらした。1文字1文字を知性に輝く瞳で愛でるのです。
少しでいいからこちらを見て欲しい。その窓から外を見やれば私が居る。なのにあの方は気づかない。
〜
5月24日
まだ、あの方は本を読むばかりで私を見ない。あの細く長い指で表紙をなぞり、優しく輝く瞳で文字を見つめ、それから読み取れるモノに心を動かされ、あの方の意思のこもった脳にその全てを焼き付ける。嗚呼、いっその事、あの方の本になりたい。最近はその事ばかりを考えてしまうのです。
〜
8月28日
あの方が今日は居なかった。こんな事は始めてです。いったいどこに居らしたのか。その傍らには本はあったのか。いつもそばに居られる本が、私は羨ましくてしょうがないのです。
8月29日
私はどうしても本になりたい。ならなくてはいけないのです。どこかに本になる方法はないものか。
2月15日
ようやくあの方が、私を見てくれた。正面から見たあの方はやはり美しかった。そうして私は不安に思うのです。すぐに飽きられてしまうのだろうと。これはほんの気まぐれなのでしょう。どうにかしなければ。
「何を見てるんだ?」
青年が読み終えた本を閉じると、思わず聞き惚れてしまいそうなほど良い声が後ろから聞こえたので振り向く。
声の持ち主の名は三雲上総。彼は、おそらく10人中10人がイイ男だと断言するだろう程に男前だ。手足が長く、程よく付いた筋肉、身長は180cm以上はあるのだろう。
対して上総に声をかけられた青年の名は、三雲清。170cm後半の身長にも関わらず、どこか中性的な印象を与える美貌を持っている。彼は上総の従兄弟にあたる。
「本になった女の日記」
清がなんでもない事のように答えると、上総は「は?本?」と聞き返した。当然の反応である。
「まぁた、変なモン見つけて来たな?」
だが、すぐに持ち直し、ニヤリと笑う。何年も一緒に住んでいる上総は清の言動には耐性がついているのだ。
「女って言っても恋に恋する面倒な年齢と、漢方に恋する違う意味で面倒な年齢とじゃ、色々変わってくるぜ?」
いや、訂正。この男はただの変人なのだろう。
「あぁ、本になった少女と本になった熟女とじゃ響きからしてアレだもんな」
そして清も同じく…。血は争えないと言うのは、従兄弟同士でも当てはまるようだ。
「んで、それは本物か?それとも、そういった噂の日記なのか?」
「さぁ?」
清が肩をすくめる。
「俺もよく分かんないんだよ。道端で売られてんの買っただけだし」
「日記を売るとか…商魂たくましいな。そしてそれを買うお前もすげぇな」
「それに本になったってのは、俺の主観だしな」
そう言うと日記を上総に渡し、読むように促す。
「実際はそんな事は書かれてないけど、文章から、そうだったら面白いなってのを言ってみただけ」
清は疲れたのか、首をぐるぐる回す。
「[あの方]が女を見たのは、女が本になったから。女が[あの方]に飽きられるのを恐れたのは本は一回読べば十分だから」
「そうか?中には何度も読み返す奴もいるだろ」
「だとしてもそれは何年もたってからだ」
「確かに…。そう読めない事もないな」
上総がざっと目を通す。
「だろ?まぁただ単に1月15日の日記は思いが通じ合ったが、それでも不安になった女、という風にも読める」
だけど、と清いが続ける。
「俺としては8月29日から2月15日までの約5ヶ月間の空白が気になるんだよな。6ヶ月間一日も欠かさず、[あの方]への一方的な恋心を書いてんだ。俺が女だったら、片想いが両想いに昇華されるプロセスなんて最も盛り上がるところ、絶対書くけどな」
「成る程…でもそう考えると恐ぇな。2月15日の日記では、本になってもまだ満足してないみたいだけど」
『どうにかしなければ』
たとえ、その言葉を実現させたとしても女は満足しないのだろう。
「まぁ、どっかのご立派な方が言うには、人間は強欲な生き物らしいからな」
上総が日記をテーブルの上に投げ置きながらそう言うと、清が肩を震わせ笑い出した。
「ははっそうか!強欲か!」
「俺、お前の事なら大抵、分かるつもりでいたけど笑いのツボだけはわかんねぇわ」
清はしばらく笑っていたが、ようやく落ち着いたのだろう。涙を拭いながら「悪い悪い」と謝った。
「言い得て妙だと思って。人間が強欲な生き物だと言うのなら、俺は最初から間違っていた事になる」
「どこらへんが?」
「全部。だってそうだろ?実際彼女は欲深いじゃないか」
清がニヤニヤしている。ようやく気付いた上総も思わず笑ってしまった。
「成る程。本になれなかった女ってわけだ」