8枚目 ここにいる。(睦月和哉視点)
「あ! 和哉先輩っ! こんにちは!」
ニコッと効果音が聞こえてきそうな輝かしい笑顔で私の名前を呼ぶ園川綾乃。いったい今日で何回会っただろうか。ここまで何回も会っているとストーカーを受けているのかと疑ってしまう。
彼女は先日雨の日に会って以来よく話しかけてくれるようになった。それはもう、ウザいほどに。
嫌ではないが、どうしてこうなってしまったのだろうか。過去を想い遠い目で天を仰いだ。太陽がさんさんと輝いているだろう青空は天井に阻まれ見ることはかなわなかった。
園川綾乃と初めて会った日も太陽と青空は拝めなかった。分厚い雲に隠され太陽の光は一切漏れてこず、いつもより薄暗い。
その日、私は『彼女』を見つけることができずに、とぼとぼと帰路についていた。
*
下駄箱を出ようとすると雨がポツポツト降り出してきたところだった。今日は傘を持ってくるのを忘れてしまった。最悪だ。『彼女』には会えないし、傘を持ってきていないとは。きっと今日は占いで最下位だったのではないだろうか。……特に信じてはいないが。
さっさと帰ろうと近道の住宅街を走っていると、知らない女の子が虚ろな目で空を見つめて立っているのが目に入った。
「は、はは……。誰からも必要とされない私は、一体どこに存在したらいいんだろうね?」
誰にともなく、自嘲を含んだように力なく呟かれた台詞。今にも消えてしまう気がした。彼女をそのままにしておくことができなくて、つい声をかけてしまった。
彼女はびくっと肩を跳ねさせ私の方へと振り、私を目にとめた途端、目を見開いて呆然と私の名前を呼ぶ。
彼女が私の名前を呼んだ瞬間、彼女の存在を何とか繋ぎ止めることができた気がした。それでもまだ細い糸で無理矢理繋ぎ止めているようなもので、気を抜くとまた消えていきそうだ。
彼女の姿をしっかりと目におさめると、何故だか彼女の名前が知りたくなった。少し無理がありそうな理論で相手から名前を引き出そうとすると、彼女は急に辛そうに顔をゆがめ頭を押さえて蹲る。どうしたのだろうか。慌てて近寄って顔を覗き込むと、「大丈夫です」と儚げな笑みと共に返された。その姿が無理して一緒に遊んでくれた体の弱い姉と重なる。どこが大丈夫だ。全然大丈夫じゃない。
気づいたら彼女を自分の腕の中に囲っていた。辛いときは正直に辛いと言ってほしい。切実にそう願う。何もかも遅くなってからではもう間に合わないのだ。
いなくなってしまってはもう謝ることさえできない。伝えられるのはいつも、どんなに足掻いてもどうしようもないほど酷くなってしまったときだけ。それではもう遅すぎる。
間に合ううちに誰でもいいから助けを呼んでほしい。でも、その呼ばれるのが自分であって欲しい願ってしまうのは、彼女と姉を重ねてしまっているからなのだろうか。
「ごめんなさい」
思いを伝えたら謝罪が返ってきた。謝ってほしいわけではない。ただ、彼女に約束して欲しいだけ。謝ってもらう代わりに「辛くなったら言う」という約束を取り付けた。
まだ辛そうな彼女にもっと寄りかかるように言い、彼女の背に回している手に力を加える。
少し前まで消えてしまいそうだった彼女はちゃんとここにいる。存在している。温かさに安らぎを感じていると、彼女は私の胸に顔を押し付けてきた。くすぐったい。甘えられてる、そう思うと嬉しくなりふふっとつい笑みが漏れた。
そこでふっと思い出す。私は何の了承もなく突然抱きしめてしまった。嫌がってはいないだろうか。いや、顔を押し付けられている時点で嫌がってはいないだろうとはわかるのだが、それも痛みでそんなことに構っていられないからではないか。痛みが引いて落ち着いたら怯えられたり騒がれたりするのでは? 拒絶されるのでは? 彼女に拒絶されたくないと心の中で不安が渦巻くが、まだこの温かさを手放したくない。まだ彼女が存在していることに安心していたい。その思いを振り切ることができず、彼女が離れようとしたら直ぐに離れるという妥協案で落ち着いた。
それでも少しでも正気に戻った時に安心してもらえるように彼女の背中を撫で続けた。
「あの、ありがとうございました。もう大丈夫です」
その言葉と共に彼女が私から離れる。温かさが離れ寂しさを感じながら、声音や雰囲気から嘘を言っていないのはわかるが一応確認のために顔色を窺おうと顔を覗き込む。前の儚げな笑みとは違い温かな笑顔で迎え入れられた。完全によくなったわけではないが、先ほどより顔色はずっといい。もう本当に大丈夫のようだ。安心してこちらからも笑顔を返した。
立ち上がって今度こそ彼女の名前を聞こうと尋ねる。すると少し考えているようだった。一瞬眉を顰めていたがすぐに消し、名前と学年だけの簡単な自己紹介をする。
彼女と会話をするのは楽しかった。でも、夕方になり冷えてきているのに加え、雨に濡れていたせいで体温は確実に奪われているだろう。体調もまだ万全ではないだろうから、いつまでも引き留めておくことは得策とは言えない。引き留めておきたい想いを振り切り、彼女に別れを告げる。
どこか寂しそうに鞄を拾っている彼女を見て、色々あって忘れていたことを思い出した。今は抱きしめて確認することはできないので名前を呼ぶと、少し上ずった声だけどちゃんと返事が返ってきた。よかった。やっぱりちゃんと彼女は存在している。どこに存在したらいいか、じゃない。誰に何と言われようと関係ない。彼女はここに存在しているのだ。だけど、そのことを彼女は自分で自覚していない。
思っているだけでは伝わらない。思っていることはちゃんと伝えなければ。
伝えられなくなる、その前に――
*
「こんにちは、綾乃さん」
「和哉先輩、そのプリントは何処に持っていくんですか?」
挨拶を返すと、綾乃さんの目に私が持っているプリントが入ったようだ。それも当たり前か。プリントの量が多く、私は鼻あたりまでプリントで隠されている。そんなあまり見えなかっただろう状況でよく彼女は私だと判断できたものだなと感心してしまう。
「これですか? 職員室です」
「そうなんですか? 私も職員室に用があるんです。一緒に行ってもいいですか?」
「ええ、構いませんよ」
彼女のことをウザいと感じてしまうこともあるが、別に嫌いではない。特に断る理由もなかった私はすぐにその申し出に了承する。すると彼女は私からプリントを半分取り上げた。思っていたよりも重かったようで最初は少しふらつきながらもちゃんと立つとしっかりと私に体を向ける。
「それなら私にもプリントを分けてもらえませんか? 持ちます」
今言っても遅い。すでに行動しているではないか。行動してから言われても困る。今は何とか立つだけなので保っているが、歩き出したらまたふらつくだろう。それにこのプリントを彼女が持つ義務はない。
「いえ、それはいいですよ。これは私が頼まれたものですから」
「ですが、それでは私は周りの人たちに、先輩にすべてを持たせて自分だけ悠々と歩く最低な人間に見られてしまいます。私の学校内での評判を落とさないためにもお願いします」
両手で持っているプリントを片手に持ち替え、彼女が持っているプリントを取り上げようとすると、彼女はそれをひらりとかわし先に歩き出してしまった。予想通り彼女はふらついている。やはり彼女には重すぎたようだ。しかし、自分自身のためだと言われてしまうとこちらでは反論のしようがない。彼女からプリントをすべて取り上げるのは諦め、彼女のところまで小走りで駆け寄り彼女の持っているプリントを上から半分取る。彼女は「あっ」と声をあげ不満そうに口を尖らせて私を見上げてきた。
「あなたの評判のためにもプリントをすべて取り上げることはしません。ですが、女性に男性である私と同じ量を持たせていると、今度は私がせこい男だと思われてしまいます。ですから次は私を助けると思って、ね?」
優しく微笑みかけると、まだ不満そうだが「わかりました」と渋々といった感じで小さく呟かれた。何だかその姿が可愛いと思って彼女の頭を撫でる。気持ちがいいのか目を細めて嬉しそうに笑っている。それを見てますます可愛いと思った。私も自然と笑みが浮かぶ。
綾乃さんは確かにウザいと感じることもあるけど、嫌いじゃない。むしろ心地よくて好きだ。
職員室に向けて彼女と並んで廊下を歩く。私たちの姿を目にとめた周りの人たちがざわざわと騒がしい。私が『彼女』以外と一緒にいるのが意外なのだろう。私も『彼女』と関わってから、まさか『彼女』以外の人と一緒に歩く日が来るとは思わなかった。私の中で一番は『彼女』で、それ以外はいらなかったから。だけど、今は違う。
綾乃さんのこといらない人とは思わない。綾乃さんはいまだにふとした瞬間に消えてしまいそうになる。そのたびに不安になるのだ。彼女に消えて欲しくない。
こんなことを考えているとまた不安になってきた。彼女がちゃんといることを確かめるために、私は今日も舌にいつもの言葉を載せ、唇から外に吐き出す。
「――綾乃さん」