Renri no Sakura (改訂版)
足許に、ふわりと落ちた薄紅色の花びら。
私はふと空を見上げ、そして気付く。
この季節が再び巡って来たのだと。
軽い胸の痛みを伴い、やってくるこの感情を、一体どう表現すれば良いのだろう。
不意に訪れた一陣の風が髪の毛を揺らし、ようやく綻び始めた小さな花びらを舞い上げた。
強烈な眩暈が頭の芯を揺さぶる。
「…………」
名を呼ばれた気がして振り返った。
誰もいないとわかっていながら、幼子のようにあなたの姿を探し求める。
「私はここにいるよ」
ふわり、と愛しい人の香りが鼻孔をかすめた。
寂しいとは思はない。
いつか、きっとまたいつか、再び会えると信じてる……。
一、
思わず自嘲の笑いがもれた。
俺の周りに在るのは、変わり映えしない日常にすぎない。
ただ時だけが、河の水が流れるが如くに横をすり抜けてゆくだけだ。
校舎はしんと静まり返り、四月も半ばを過ぎたというのに未だ冷え冷えとした空気が肌を刺す。
生徒達が登校して来るにはまだ早い。
不意に意識下に上ってきた不快感に顔をしかめた。
廊下に漂うこの独特の匂いは嫌いではなっかた筈だ。
ワックスと十代の子供達が放つ特有の香り。
甘くむせ返るような――。
教師になったばかりの頃の熱が冷えてゆくにしたがって、それはいつしか不快なものへと変わっていった。
言い訳がましいかも知れないが、決して今の状況が苦痛な訳ではない。
むしろ教師以外の職に就くなど今更考えられないし、ほかのことが出来るとも思えない。
自分より十歳近く年の離れた生徒達との毎日は刺激的ですらある。
時は日々目まぐるしく過ぎ去り、感傷に浸る暇などない。
しかしこの季節、ふと立ち止まる。
心の奥底に置き忘れた何かが俺を呼ぶのだ。
足を止め窓外の景色に視線を移すと、グラウンドの先にある体育倉庫の陰に半身隠れるようにしてそれが見えた。
俺がこの高校に赴任してきて真っ先に心を奪われた、ソメイヨシノ。
大地にしっかりと根を張り、すっと伸びた幹から延びる枝には、毎年可憐な花を咲かせる。
「…………さん」
それは幻聴と呼ぶには余りにも鮮明で、微かな胸の痛みを伴う。
恐ろしくはない。
懐かしい気さえするのだから。
俺は腕時計に目を落とした。
「今日こそ修理に出さないとな……」
近頃こいつの機嫌が悪い。
電池を変えたばかりだというのに、気が付くと秒針が止まっている。
持ち主に時を知らせるという役割を放棄しようというのか。
新しいものを買えば済む事なのだが、左手首にしっくりと馴染んだこの感触を手放す事は出来そうにない。
指先で軽く文字盤をつつくと、思い出したように再び動き出した。
「相棒、もう少し頑張れよ」
あと三十分もすれば、この廊下は生徒達の熱気に満ちる。
今日が再び始まるのだ。
そして俺は、水面に落ちた名もない羽虫の如く、時の奔流に飲み込まれてゆく。
為す術も無く、ただ瞼を閉じることしか出来ない――――。
『トミちゃん!』
『――ッ!』
不意に目の前が暗くなり、またかと溜息をついた。
『だーれだ?』
『石川だろ。こんな事するの、お前以外に誰がいるんだよ?』
両目を覆っていた掌が解かれるのと同時に振り返ると、そこにはスラリと背の高い少女が、窓から注ぐ柔らかな陽光を受けて立っていた。
『……?、君は……』
周囲の景色に溶けてしまいそうな程に色白な肌。
僅かに首をかしげ、濃い睫毛に縁取られた涼しげな瞳が悪戯っぽく瞬いた。
染めているわけでは無いのだろうが僅かに茶色がかって見える長い髪が揺れる。
『はい、ハズレ! ダマされてやんの』
愉しげな声と共に彼女の背後から顔を出したショートカットの女子生徒は、案の定、俺が顧問を務める弓道部員の石川優衣だ。
彼女の父親である石川啓二は名の知れた弓道家であり、大学時代の俺の恩師でもある。
俺が弓道と出会うきっかけになった人物だ。
だから石川のことは彼女が赤いランドセルを背負っていた頃からよく知っている。
男の子かと見間違えるほどに活発だった少女は、今ではそれすら彼女を魅力的に見せている要素のようだ。
性格はあの頃のまま成長していないようだが……。
あの厳格な父親から何故この娘が、と思わなくもないが、さすがに血は争えない。
その腕前は一年生ながら時期、弓道部部長候補だ。
いやそれどころか、これからの弓道会を背負って立つ救世主といっても過言ではない。
中学生の時既に「現代の板額御前」とか「弓道会のプリンセス」などとテレビの取材を受けたこともあったらしい。
『トミちゃんの目を塞いだのは鏡子だよ』
『一体何のためだよ。何度も言うけど先生って呼べって言ってるだろ』
『あーはいはい、富田センセイ。そんなことより新入部員ひとりスカウトしてきたよー』
『新入部員?』
キョウコと呼ばれた少女がニッコリと微笑み俺を見た。
『弓道の経験は?』
『いえ、ありません。でも石川さんの話を聞いてたらなんだか愉しそうだなって』
『あれ? 君、何所かで会ったことあったかな?』
なぜかそんな気がして、深く考えもせずにそう聞いた。
すぐに失敗だったことに気付いたが遅かった。
『うわっ、何? ナンパ?』
彼女をその背で庇うようにして、石川が俺を睨んだ。
『そんなわけ無いだろう。俺はただ……』
『鏡子が美人だからって、いきなりナンパ? いくらなんでもベタすぎない?』
『だから違うって』
『うわー、そういうのセクハラっていうんだよ』
『だからそうじゃ……』
動揺した訳でもないが、思わず持っていた教科書やチョーク箱が派手な音を立てて廊下に落ちた。
コロコロと転がるチョークを拾おうと屈んだ瞬間、石川の顔がすぐ目の前に迫った。
『先生のエッチ』
耳元で囁かれ、蠱惑的な瞳が間近で俺を覗き込んだ。
甘ったるい香りが鼻孔をかすめる。
『いい加減にしろ』
『やだ、マジで怒ってんの? 冗談通じなーい』
一転、拗ねたように頬を膨らませ、ベッと舌を出す仕草は何とも幼い。
女生徒からこのようにからかわれるのは、若い教師の特権だと言った先輩教師がいた。
そのうち見向きもされなくなるのだからと。
しかし、いい大人がせいぜい十七、八の子供に振り回されるのは些か情けない話だ。
一昔前まで学校とは、一種の隔離されたヒエラルキーと言えた。
しかし現代に於いてそれは必ずしもピラミッド型を呈しているとは言い難い。
今や頂点に在るのは、生徒達でありその親なのだ。
我々教師は彼らにとって師であり、親であり、時に友であることさえ求められる特殊な職業だといえるだろう。
ラインすれすれの微妙な人間関係。
足を踏み外せば、待っているのは転落に他ならない。
勿論これは、男性教諭と女子生徒に限って言えることではない。
その逆もまた然りだ。
軽く受け流そうにも彼女ら、もしくは彼らは、時に驚くほど扇情的に、時に子供とは思えぬほど残酷な仮面を被るものだ。
否、子供だからとも言えるのだろうか……。
『あの……』
彼女は困ったように眉を寄せた後、口元に柔らかな微笑を浮かべて言った。
『一年二組、栗山鏡子です。よろしくお願いします』
つい昨日のことのようにも思えるこの記憶は、一体いつのものだっただろうか。
思い出そうとすればする程それはスルリと指の間から滑り落ち、いつしか時間の感覚が薄れていたことに気付く。
「うわっ!」
背に受けた衝撃に思わずよろめいた。
後ろから走って来た男子生徒の肩がすれ違いざまぶつかったようだ。
考え事をしていたから気配に気づかなかった。
「こら、廊下を走るな!」
聞こえなかったのか、振り返りもせずにそのまま走り過ぎる。
「ヤバイ、朝礼遅れるぞ!」
「ギリ間に合うだろ?」
遠ざかる彼らの後姿を、誰もいない廊下の片隅で見送った。
「まったく……、しょうがない奴らだな」
ふと、足許に落ちている一枚の紙片に気が付いた。
入部希望届と印字されたその下には繊細な字体で、『一年一組、前崎沙月』と記してあった。
どこかで目にした名だ。
そしてすぐに思い当たる。
「ああ、この前の……」
雨水を弾くビニール傘と少女の後姿が目の前に浮かんだ。
俺は思い出す。
桜を見上げる彼女の横顔を――――。
二、
運命の出会い……。
一昔前の恋愛映画か小説でもあるまいし、そんな言葉を使うつもりは毛頭ない。
平気で口に出来る程若くはないし、非現実的な人間でもない。
学生時代から付き合っていた恋人とは数年前に別れた。
そろそろプロポーズしようかと本気で考えていた矢先のことだったので、少なからず落ち込んだものだ。
彼女は涙を溜めた大きな瞳で俺を見つめ、こう言った。
あなたといると息が詰まるの、と……。
別れの言葉としては、ありきたりなものだと思う。
よく耳にするフレーズなだけに彼女の涙が頬を伝うのを目にしなければ、冗談だろ? と言ったかもしれない。
『あなたは私を見ていない。付き合っている間じゅう、ただの一度も』
『何言ってるんだ。俺はずっと、カナのことだけ見てたよ。今だってこうして』
『ううん。あなたが見ているのは、いつだって私の表面だけ』
『そんな事……』
今思い返しても、まるでチープな恋愛映画の一場面のようだ。
あの時からだろうか。
自分を取り囲む何もかもが虚構の薄氷で覆われ、一か所の亀裂からパラパラと剥がれ落ちる感覚……。
或いはもっとずっと以前からだったのかもしれない。
今この現実が全て俺の知らない誰かの夢の一部で、その誰かが目覚めた途端跡形もなく消え失せる。
『あなたの目、私を通り越して遠くを見ているようだった。それが悲しかったの』
あの頃の俺が彼女に対しどう接していたのか、今となってはもう思い出せない。
それどころか自分がどう生きてきたのかも。
残ったものと言えば自分勝手な自責の念と、離人症めいた錯覚だけだった。
彼女との別れから一年後、絵葉書が届いた。
真っ青な空と白亜の壁が眼に眩しい教会をバックに寄り添う一組の男女。
ウエディングドレスに身を包み、隣の男性に微笑んでいるのは紛れもない、カナだった。
添えられたメッセージはたったの一行、『お元気ですか? 私は運命の人と巡り会いました。今とても幸せです。』滑るような少し傾斜のある文字は間違いなく彼女のものだ。
その表情は呆れる程に幸せそうで、俺が初めて目にするものだった。
良かったな。おめでとう――。
心からそう思った。
多分、彼女には全てが見えていたのだろう。
偽りの中の、真実の俺の姿が。
彼女は見つけたのだ。
現実を共に歩き、共に生きてゆける、もう一方の翼に。
ガタンッ!
その後に続くザワザワとした声に、ふと我に返る。
この日体育館では全校集会が行われていた。
「倒れたか」
隣にいた体育教師が冷静に呟く。
「まったく今の子供は体力がない。三十分も立っておれんのか」
担任教師と校医が慌てて駆け寄り、何やら声を掛けている。
どうやら倒れているのは一年の女子生徒のようだ。
ほどなく担任に抱えられて保健室へと運ばれていくその生徒の横顔は、紙の様に色を無くし、力なく下へと垂れた片腕がゆらゆらと揺れていた。
一時のざわめきが治まり、再び訪れる退屈な時間。
それは隣の体育教師も同じらしく、カタカタと貧乏揺すりを始めた。
俺は生徒達に目を移す。
華奢な白い顎、同じような髪形、同じような体格、同じような声で、同じ話し方。
皆が一様に素直で、大人に従順な振りをする。
そこからはみ出す奴は敬遠されるか、無視されるのがおちなのだ。
もしもこれが人類の進化の過程であるなら、徐々に個々のパーソナリティーやアイデンティティーといったものは失われ、全く同じ顔をした不完全な人間が出来上がってしまうのではないだろうか。
それこそ大量生産される人形となんら変わらない、脳みそばかりが発達した頭でっかちの人形だ。
もしかすると我々が使う『進化』という言葉は、必ずしも『しだいに良くなる』のとはイコールではないのかもしれない。
誰もが気づかない程の速度でゆるゆると下降していく。
午後から降り出した雨は次第に強さを増し、下校時刻を過ぎる頃には一層激しく地面を叩いていた。
今日は生徒達は早々に帰宅し、俺は誰もいないグラウンドをビニール傘片手に横切った。
体育倉庫の裏手に隠れるようにしてそれはある。
こじんまりと佇む弓道場と、その入り口近くにあるソメイヨシノの樹。
未だ満開とは言い難いが、その存在感は圧倒的だ。
湿った樹皮の香りが心地よい。
幹に軽く手を触れ瞼を閉じる。
その中を流れる水の音にじっと耳を澄ましていると、邪念や煩悩などが洗い清められ、心が浄化されてゆく心地がする。
これはいつしか弓道場に入る前に必ず行う日課となっていた。
弓道場の中に充満するワックスと汗の匂い。
俺は自分の弓を手に取り、乾いた布で表面を擦った。
弓は湿気に弱い。
今日のような雨の日は使わない方がいいのかもしれないが、一日でも怠れば感が鈍る。と、こんな言い方をすれば恰好が良いが、これは単なる日常の延長線上にすぎない。
要するにやらなかった日は落ち着かないのだ。
肩慣らしするように何度か素引きをする。
最近普及しているグラスファイバーやカーボン製の弓は比較的扱い安いが、竹弓はそうはいかない。
持ち主の癖や心の動きに敏感に反応する。
それだけに稀に感じる事の出来る一体感は、他では到底得ることの叶わぬものだ。
弓と矢を持ち、雨に霞んで見える的の正面に立つ。
的までの距離は二十八メートル、その距離感は身体に染みついている。
正面の構えから一旦、弓矢共々両拳を上に持ち上げ、そこから弓と弦を押し開きながら会の姿勢をとる。
キリキリと弓のしなる音、ザアザアと降り続く雨音、俺を取り巻く何もかもが霞んで次第に遠退いてゆく。
腕は弓と一体となり、弦の重さは感じられない。
まだだ、まだ、あと少し。
そうすれば見えてくる筈なのだから……。
耳について離れないあの音が、早く早くと急き立てる。
シュッ!
堪えきれずに放たれた矢は、雨を切り裂き的に突き刺さった。
姿勢はそのままで、ゆっくりと呼吸を整える。
あの時、雨音が耳に返ってくると同時に感じた、言いようのない胸苦しさは何だったのだろうか。
息苦しい程の……予感。
そう、あれは予感だ。
そして強烈な眩暈の後に訪れるは――。
「……富田先生?」
「――!」
幻聴と呼ぶには余りにも明瞭な声に慌てて振り返る。
薄暗くなり始めた弓道場の入り口に、一人の女子生徒が佇んでいた。
髪の毛といい、制服といい、雨に濡れてポタポタと水滴を落としている。
一瞬ギクリとしたのは致し方ないと思う。
冷たい水に触れたような感覚に息を呑んだ。
「すみません、驚かせてしまいましたか?」
濃い睫毛の下の大きな瞳が瞬き、桜の蕾が綻ぶように彼女の唇が開くのを、俺は馬鹿みたいに突っ立ったまま見ていた。
「富田先生ですよね?」
眉を寄せるその表情に見覚えがあるような気はするが、記憶を辿ろうとすると何故か霧がかかったかのように遠退いてゆく。
胸の名札には、『前崎』とある。
一年生の中には未だ顔と名前が一致していない生徒もいるにはいるのだが。
「どうしたんだ? 下校時刻とっくに過ぎてるぞ」
再び瞬きしたその瞳に引き寄せられるように、彼女の傍へと歩み寄る。
雨に濡れて冷えたせいか、透き通るように白い頬がどこか痛々しい。
「今日、全校集会で具合が悪くなって保健室で休んでいたら、そのまま寝てしまって」
確かにあの時、担任教師に抱えられて体育館を出ていく女子生徒の横顔を見た。
それゆえの既視感だったのだろう。
「今まで寝てたのか?」
「この頃少し寝不足だったんで」
「何にしても早く帰ったほうがいい。そのままじゃ風邪を引きかねない」
「クシュン!」
案の定、彼女の唇から小さなくしゃみが洩れた。
俺は脱いで無造作に置いていたジャケットを床から拾い上げると、その肩にそっと掛けた。
「一応、クリーニングに出したばかりだから。まあ無いよりは幾分ましだろ?」
彼女は僅かに俯き、両手で前をかき合せた。
「ありがとうございます」
頬に一瞬赤みが差し、にっこりと微笑む。
じっと見つめてくる濡れた瞳は、心の奥底に小さな波風を立てた。
「まだ調子悪いなら親御さんに連絡して迎えに来てもらおうか? ええと、前崎、何さん?」
「一組の前崎沙月です」
前崎は首を振り大丈夫ですとだけ答えて、再び外へと歩き出す。
俺は慌ててビニール傘を掴み後を追った。
僅かも行かないうちに、細い顎を軽く上向け一心に桜を見上げる彼女を見つけ、その頭上に傘を差し出す。
「桜が見えたから……」
「え?」
「保健室の窓から桜の樹が見えて……、近くで見たいなって」
「ああ、それで」
「やっぱり綺麗ですね」
「そうだね……」
雨は何時しか小降りになってはいたが、頬を撫でる風は未だ冷たい。
「そのジャケット嫌じゃなければ、そのまま着て帰っていいから。それと、これも」
一瞬の躊躇の後、差し出した傘に手を伸ばした前崎の細い指が手の甲に触れた。
そこから伝わってくる思いがけない温かさに、心臓の鼓動が跳ねる。
もう三十にもなろうかという男が、と嘲笑を買うであろうが、あの時の感情は決して甘ったるいものではなかった。
恋や愛などとは違うもっと別の何か。
押し潰されそうな程の……。
それが何を意味するものか理解できぬままに、傘を受け取った彼女の手が離れた。
「先生は?」
「俺は大丈夫だから」
何気なく腕時計に目をやり、秒針が動いていないことに気付く。
軽く腕を振ってはみたものの動き出す気配はない。
「さあ、そろそろ帰ったほうがいい」
「先生はまだ帰らないの?」
「俺はもう少しここにいるよ」
「そうですか……」
なぜか悲しげな表情でまだ何か言いたそうに僅かに唇を開いたが、結局はそれ以上何も言わなかった。
華奢な背中が視界から消えても尚、俺はその場に立ち尽くしたままで雨に打たれていた。
三、
五時限目の終業ベルが鳴り響くのと同時に、もしくは数秒早く、大半の生徒が欠伸と共に教科書を机の中に放りこむ。
今を生きる彼らにとっては義経失脚、奥州藤原氏の滅亡よりも、襲い来る睡魔との戦いの方が重要らしい。
授業を終えた年配の女性教諭は、その背に焦燥感を張り付けたまま教室を出て行った。
世間では『歴女』なる言葉が流行り、歴史ブーム到来などと言われてはいるものの、どうやらそれはゲームやマンガの中に登場する、やたらに見栄えの良い戦国武将達に限られているようだ。
無論、それが悪いとは思わない。
きっかけは何でもいいのだ。
要は興味を持つことなのだから。
俺自身、司馬先生の『燃えよ剣』や『新選組血風録』を高校生の時に読んで土方歳三に憧れ、そこから歴史に興味を持ち始めたと言っても過言ではない。
まさかそれで歴史の教師になろうとは想像もしていなかったのだが……。
歴史とは、潺々と流れゆく川の如く。
時に緩やかに時に激しく、ただ決して停まることなく過ぎてゆくものだ。
そして何時しか大海に流れ込むように、膨大な量の時間が絶え間なく蓄積されてゆく。
そう考えれば人間の一生など、水底の小石のようなものではないか。
流れのままにコロコロと、徐々に角は取れ、他と同様に丸くなってゆく。
そして、とうとうその身は砂粒程に削られて、果ては消えて無くなるのだろう。
それならば多くの偉人達がそうしたように、この時代を生きた証をたてよう。
ただ闇雲にそう思った時期も確かにある。
ならば現在の俺は……?
朝、目を覚まし無意識のうちに身支度を済ませ、混雑したバスにどうにか乗り込む。
普段通りに授業をこなし、生徒達とは一定の距離で無難に接する。
帰りはコンビニかスーパーで惣菜を買い家路につく。
毎日、毎日、毎日、毎日、毎日この繰り返し。
たてる証など、どこにも無い。
名を挙げたい訳ではないのだ。
ただ、生きているという実感が欲しい。
単なる甘えであることは百も承知だ。
放課後、弓道場では既に部員達が練習を始めていた。
五人の新入部員が入って二週間が経ち、三年に進級した石川は後輩の指導に余念がない。
その真剣な面持ちは、普段の彼女の言動からは想像もつかないものだ。
もしかすると父親同様、彼女は指導者に向いているのではないかと思う。
弓道といっても単に矢を的に当てればよいという訳ではない。
道具の名称から、手入れの仕方、弓道の基本動作である射法八節、礼法に至るまでその道は深い。
新入部員の中に、髪を後ろで一つに束ね、指定の紺のジャージを着た前崎がいた。
熱心に石川の説明に耳を傾けている。
印象的な大きな瞳が生き生きと輝き、夕暮れのあの日に会った彼女とは少し別人のようにさえ見える。
「じゃあ、まずは見本ねー! 私が実際に打つのを見ててくださーい」
石川は弓矢を手に的へと向かう。
瞬間、周りの空気がピリリと引き締まり、新入生以外の部員も一様に手を止めて注目した。
足踏み、胴造り、弓構え、打起し、引分けと続き、それまでの流れるような動きが一旦静止する。
弓がしなり、矢の先は一直線に的へと向けられていた。
誰もが皆、呼吸をするのを忘れたかのように息をつめて、彼女の一挙手一投足を見守る。
シュッ。
微かな颯音と共に放たれた矢は空気を切り裂き、的へと突き刺さった。
感嘆のため息が洩れる。
石川はそのままの姿勢で軽く息を吐くと、くるりと振り向いた。
「これが射法八節といって弓道の基本となる動作です。何度も繰り返し練習して身に付けることが肝心です。まあ、ならうよりなろうって感じで」
思わずガクッと力が抜けた。
それを言うなら、習うより慣れろ、だ。
前崎が、堪えきれずに吹き出した。
ほかの部員もそれにつられて笑った。
「あれ、何か違った?」
場の空気が一気に和む。
あれが天性のものなのか、それとも計算によるものなのかはわからない。
どちらにしろ、俺は一生かかっても敵いそうにない。
「じゃあ、二年はそのまま練習続けて。新入部員は素引きから」
一転、凛とした声が道場内に響く。
「ハイッ!」
瞬時に部員達の表情に緊張感が戻った。
栗山鏡子は静かに的前へと進み射位に入る。
細く息をはきながら軽く瞼を閉じ、再び目を開けた時、彼女を取り巻く空気の密度が変わった。
ゆがけで弦と矢を保持し、弓を正面で構えた後、それをそのまま垂直に持ち上げる。
上げた腕を下しながら弦を三分の一程引き、一旦止め、その後一気に引き分ける。
ここまでの動作が川の水のように淀みなく流れる。
一瞬の迷いや躊躇といったものは感じられない。
的を見据える鋭い視線。
弓がしなり、弦がキリキリと鳴る。
矢は静かに解き放たれるのを待っている。
ストン!
胸の真ん中を射ぬかれたような軽い衝撃。
矢は的の真ん中に突き刺さって震えている。
ゆっくりと腕を下しながら視線を向けてきた彼女の清冽な美しさに、思わず肌が粟立った。
実際、栗山はほんの数か月で驚く程の上達を見せたのだ。
それはまるで、乾いた地面に雨水がしみこむかのように。
一点の曇りもない澄んだ湖面のような眼差しが真っ直ぐに俺を見る。
その中に垣間見える小さな波紋に恐れを抱きながらも、決して目を逸らすことが出来ない。
そして彼女もまた、無垢な瞳の中に俺の姿を映したまま静寂の中に佇んでいた。
俺は引き寄せられるように彼女の側へ歩み寄り、その背に腕を回した。
『富田先生』
そう洩らした唇が次の瞬間には空気を求めて小さく喘いだ。
『んっ……』
くずおれそうになるのを抱き留め再び唇を重ねる。
もっと、もっと深く――。
彼女は応えようと必死に首筋にしがみついてきた。
愛おしさに狂いそうになる。
いや、もう既に狂っているのだろうか。
俺は一層強く彼女の細い身体を抱きしめた。
動と静、力と技、心と体、それらが一つになる瞬間、道は自ずと見えてくる。
それは日々の努力や鍛錬で見出す者もいれば、持って生まれた素質や才能という者もいる。
大抵の人間は前者で、いかに鍛錬を積んだ者であっても時にその道は二本三本と枝分かれしたり、霞んでいたり、全く見えなくなることさえあるという。
逆に、後者の持つ素質だけでも不十分だ。
中途半端な俺は、そのどちらにも当てはまらない。
才能があり日々の努力を惜しまない人間だけが目にすることの出来る道。
たぶん彼女には見えていたのだろう。
僅か十七歳でこの世を去った少女、栗山鏡子には。
あの日の君の姿が脳裏から離れない。
なぜ皆俺を責めないのだろう?
全ては不甲斐ない俺の所為だというのに。
断罪されればこの痛みは消えて無くなるのだろうか?
ならば今のままで構わない。
躰にドロリと纏わり付くこの微温湯の中、窒息するまで俺は漂い続けよう。
だからそれまで……。
忘れる筈はない。
この薄暗い水底にあって眩いばかりの生を見た一瞬を。
君を殺したのはこの俺なのだから……。
四、
君に初めて出会ったのは、桜の蕾が綻びかけた四月初めの頃ではなかったか。
『うわあ、なんかすごい!』
『⁉』
桜の幹に手を触れ瞼を閉じた刹那、突然聞こえた声にギクリとして振り返った。
『驚いた……』
果たしてそこにはピンク色の傘を差した少女がフェンス越しに立っていた。
『あ、すみません! 驚かすつもりはなかったんですけど、この樹なんかすごいなって』
中学生くらいだろうか。
大人びた外見とは違った、どこか子供じみた仕草で肩をすくめる。
『これはソメイヨシノだよ。花が満開になったらもっとすごい』
『ソメイヨシノ?』
『あと何日かすればこの辺一帯は、淡いピンク色の絨毯を敷き詰めたみたいになる』
『へえ、キレイだろうなあ』
彼女は小さな顎をめいっぱい上げて暫く枝を見上げていたが、突然首を抑えてうなった。
『あー首痛ーい!』
思わず笑いが込み上げた。
『中学校卒業したらN高校に来るといい』
少女は少し困ったような表情の後、
『来れるかなあ』
『大丈夫。頑張ればね』
ここは一応、進学校だ。
それなりのレベルではあるが、かといって途方もなく難関という訳でもない。
ただ、今の発言は些か無責任だろうか。
『うーん、でもだめかも』
『勉強は嫌いかい?』
『そんなことないけど……、でも多分だめだと思う』
『そう?』
話題を変えるように、少女は俺の背後に目線を移した。
『あのー、そこにあるのって……?』
『弓道場だよ』
『弓道? ああ、なんか見たことある。こうやって弓と矢でパァーンってやるのですよね』
言いながら傘の柄を肩と顎で挟むと、弓を持ち弦を引くような手ぶりをして見せる。
『まあ、そんなもんかな』
『先生できるんですか?』
『これでも一応は弓道部の顧問だからね』
『へえ、見てみたいな』
『弓道を?』
『はい!』
無邪気に答える少女を見ていると部外者は立ち入り禁止だとか、この子が何者だとか、そんなことはどうでもいいような気がした。
まあ、今は春休みで誰もいないのだから、問題はないだろうが。
考えている間にも、少女は背丈ほどの高さはあるフェンスをよじ登ろうとして、あろうことか一番上でバランスを崩した。
傘がふわりと地面に落ちる。
『危ない!』
咄嗟に出した両腕に柔らかく落ちたその躰は、驚くほどに軽かった。
『大丈夫かい?』
『うん、平気。どうもありがとう』
弓道場の中に入ると、もの珍しげに周囲を見渡してから息を吸い込む。
『ここの空気、私好きです。何だか落ち着く』
『そうかな……。汗臭くない?』
『そうじゃなくて、なんというか雰囲気が好き』
やがて弓を拭き始めた俺の横に並んでそれを眺める。
『それは何をしているの?』
『弓は湿気に弱いんだ。使う前にこうして湿気をとばしてやるんだよ。こうやって毎日手入れをしてやれば長く使えるからね』
何にそれ程興味を惹かれるのか。
少女の真剣な眼差しに押されて、つい説明にも力が入ってしまう。
『弓道ってさ、ただ的に矢が当たればいいってもんじゃ無いんだ。射手、弓矢、的、この三者が一体となって初めていい矢が打てるようになる。勿論それには日頃の修練が必要なんだけどね……って、君、こんな話聞いてて楽しい?』
『とっても。なんかドキドキする!』
不思議な子だ。
しかし一緒に話をしていると、心の奥に小さな明かりが灯されたような温もりを感じる。
今日は、見えるかもしれない……。
『それじゃあ、危ないから少し後ろに下がって』
『はーい』
俺はゆっくりと射位に立った。
少女の視線を背中に感じたが、それもいつしか遠く感じられてくる。
何も考えず的だけに意識を集中する。
自分の心臓の音がやけに大きく耳についた。
ドクン、ドクン、ドクン……。
いつもこの音に邪魔をされる。
これさえなくなれば俺にも見える筈なのに。
ドクン、ドクン、ドクン……、煩い、煩い、煩い。
その時、背後で微かに身じろぎする音が聞こえた。
『煩い!』
少女がビクリと肩を揺らすのを目にして、自らの喉が発した言葉の意味に気が付いた。
『ああ、ごめん、違うんだ。君を怒ったわけじゃないんだよ』
みるみる大きな瞳いっぱいに涙が膨れ上がるのを見た時、胸がズキリと痛んだ。
俺は教師失格だ。
『本当にごめん』
少女は大きく首を左右に振ると、俺の背中にか細い腕をまわして抱き付いた。
突然のことに言葉も出ない。
『私……』
『ん?』
『私、絶対にこの学校に来るから。それで弓道部に入るの。それまでここで待っててくれる?』
『ああ』
『約束ね?』
『約束するよ』
頬に触れたのが唇だと気付くのに多少の時間がかかった。
少女は俯いたままでそっと腕を離すと、入り口に立てかけてあったピンク色の傘を掴み、そのまま外へと出て行く。
『君!』
後を追って出ると雨は既に止んでいた。
雲間から幾筋もの光が差し込み、柔らかな羽根のように少女の背へと落ちる。
『君、名前は?』
くるりとこちらに振り返り、はにかんだ微笑みを浮かべて少女は言った。
『きょうこ! 栗山鏡子っていうの! 先生は?』
『俺の名前は富田柊也だ』
『またね、富田先生』
約束通りその一年後、彼女はN高校に入学してきた。
『一年前の約束、覚えていたんだね』
鏡子は不思議そうに眉をひそめた。
忘れてしまったのだろうか?
人間は、年齢を経るごとに一年一年が短く感じられるようになる。
勿論時の経過は誰しもに平等だが、それでもそう感じるのは自分の内に流れる時の速度が次第に緩慢になるかららしい。
逆を言えば若者が持つそれは年配者に比べて遙かに速く、よって一年という俺にとってはついこの間のようなことでも、彼女にとっては遠い以前の出来事なのかも知れなかった。
確かに、この年頃の子は一年で外見も中身も驚くほどに変化する。
彼女も印象が少し変わったようだ。
あの頃に比べると目元が幾分、涼やかになっただろうか。
身長も伸びて、纏う雰囲気も随分と大人びた。
『覚えてないのか?』
いくらか落胆しないでもないが、それは余りにも身勝手というものだろう。
たった一日、ましてほんの数分間、会話を交わしただけなのだから。
しかし以外にも彼女は言った。
『もちろん、ちゃんと覚えていますよ』
『え?』
『だって約束したでしょう?』
あの頃の俺が、鏡子に対して抱いていた感情とは一体なんだったのか。
それは甘ったるい恋愛感情だったかもしれないし、彼女の持つ才能に対する嫉妬だったのかもしれない。
実際に彼女が弓道と出会ったことは決して偶然などでは無く、必然だったとしか思えないのだから。
しかし、俺にはそのどちらであっても認めることは出来なかった。
君にも見えてしまったことだろう。
真剣な君の眼差しを受け止めることが出来ずに、目を逸らす臆病な俺を。
『柊也、愛してる』
『……』
『柊也は私のこと嫌いなの?』
『嫌いなわけないだろう』
『じゃあ、なんで愛してるって言ってくれないの?』
『言ってるよ』
『ううん、言ってないよ。私が想うほど柊也は私を好きじゃないのかな』
『そんな訳ないじゃないか。勿論愛してるよ』
タオルケットに包まれた彼女の裸の肩が揺れて、俺の方へと屈みこむ。
長い髪の毛がはらりと頬をかすめた瞬間、やわらかな唇が重なった。
あの時の俺は一体なにをそれ程恐れていたのだろうか。
鏡子が生徒で俺が教師だからか。
己の保身のためか。
否、もしこれが現実ではなく、いつか消えて無くなってしまうものだとしたら……、そう思うとこれ以上彼女を愛することに恐怖にも似た感情が湧いてくるのだ。
もしも今あの瞬間に戻れるのならば、迷わずに答えるだろう。
『君を愛している』と。
君を再び取り戻すことが出来るなら何度だって言うだろう。
『狂おしいほど愛している』
まだ僅かに雪の残る線路脇に投げ出された躰は無残な轢死体となるどころか、眠っているのかと見紛う程に綺麗だった。
もしもあの日に戻れるのなら……。
俺は今日も時の境を彷徨い続ける。
透明な水も流れが止まればやがて濁って何も見えなくなる。
光の届かない底は淀み、生あるものは息絶える。
五、
保健室の真っ白なカーテンが、開け放たれた窓から流れてくる微風を受けてユラユラと揺れている。
三つあるベットのうちの窓側の一つに前崎は寝ていた。
部活の途中で具合が悪くなったらしい。
染みひとつ無いシーツには艶やかな髪が広がり、ぴたりと閉じられた睫毛が時折苦しげに震える。
彼女の傍らに歩み寄り青白い額に手を当てた。
熱は無い。
それどころか、ひんやりと冷たくさえある。
そして、寛げられた襟から覗く真っ白な胸元に息を呑んだ。
そこに在るのは、滑らかな肌に似つかわしくない程の生々しい大きな傷跡。
俺は思わず視線を逸らした。
「……先生?」
瞼を開けた前崎が慌てたようにブラウスの前を合わせる。
「ごめん。養護の先生呼んでくるから」
「待ってください」
保健室を出ようと後ろを向いた俺の背に、彼女の声が被さる。
「この傷あと……、私、中学生の頃に心臓の手術を受けたんです」
「心臓?」
「はい。今でも時々息苦しくなるの」
「病院へは? 主治医の先生に相談したほうがいい」
彼女はゆっくりと首を振って、少しだけ悲しげな表情をした。
「自分でもわかっているんです。苦しいのは心臓のせいじゃなくて、記憶だってこと」
「記憶……」
「そう」
「病気で苦しかった時の記憶が今でも蘇るってことかい?」
「それもあるけれど、それだけじゃない……。人の記憶と心臓って繋がっているって何かの本で読んだけど、あれって本当なのかな」
彼女の両手が俺の左手を包み込み、そこにある腕時計の文字盤に触れる。
見上げた瞳が一つ瞬き、唇が開いた。
「先生は、何も憶えていないの?」
保健室のドアを閉めて廊下に出ると、石川が壁にもたれて一人立っていた。
「どうした? 前崎ならもう心配ないぞ」
彼女は自分のつま先に視線を落としたままで口を開かない。
「?」
俺の存在など気付かぬ様子で、その場にしゃがみ込みうずくまる。
「何で? 何で?」
両ひざに顔を埋めたままのくぐもった声が何度もそう呟く。
「どうしてなの? 鏡子」
「……石川?」
肩に手を置こうと腕を伸ばした瞬間、彼女はビクリと身体を揺らし立ち上がった。
そして僅かに視線を彷徨わせた後、フラフラした足取りでその場を後にした。
社会科準備室に入るのは、酷く久しぶりのような気がした。
世界地図や地球儀の置かれたスチール棚、ぶ厚い本や資料集がぎっしりと詰め込まれた書架、机と簡素な応接セット、これらがきっちりと収まった無駄のない部屋。
普段見慣れている筈のこの部屋が、今日は何故か別の場所のようにも思える。
窓はグラウンド側に面していて、僅かに開いた窓から金属バッドが響かせる快音が流れ込んで来た。
俺は静かに窓を閉め、ソファーに深く腰かけた。
先生は何も憶えていないの?
前崎の言葉が蘇る。
一体なにを……?
そう聞き返した俺に、彼女は悲しそうな笑みを浮かべただけで後は何も言わなかった。
思い出そうとすればするほど何かが指の間をすり抜けていくが、何を忘れているのかすら思い出せずに苛立ちばかりが募る。
混沌とした記憶の渦が俺を取り巻き、水底へと押しやる。
いっそ無抵抗のまま沈んでしまえば、何かが見えてくるのだろうか?
両手で顔を覆い、瞼を閉じて、自らの内に問いかける。
なぜ俺はここにいる?
やがて見えてきた底に沈んだ記憶の欠片を一つ拾い上げてみた。
場所はそう、今まさに俺がいるこの部屋に違いない。
『……ねえ先生、先生と鏡子は付き合ってるの?』
そう言ったのは石川だった。
一瞬言葉を失った俺の表情に全てを読み取ったとでもいうのか、彼女は嫌悪感を露わにして睨んだ。
『先生もやっぱり他の男と一緒なんだね』
『お前何言って……』
『鏡子ってね、ああ見えて結構人見知りなの。他人とつるむのとか好きじゃないんだけど、でも私とはすごく気が合って、どんなことでも話してくれるんだ。私たちの間に秘密なんてないの。中学の時に両親離婚して父親と二人暮らしってこととか、病気がちな妹がいることとか。高校に入学したのは、妹さんとの約束があったからだってことも。先生は鏡子の何を知ってるの?』
『石川……』
『だから私も鏡子に隠し事なんかしない。……それなのに、それなのに鏡子は』
石川は体の震えを止めようとするかのように、胸の前でクロスさせた両腕で自らの肩をきつく握りしめた。
『私にとって鏡子は、ただの友達なんかじゃないの! ……先生のことが好きだなんて一度だって私に言ったことなかったのに』
『心配するなって。そんなのお前の勘違いだろ。俺と栗山が付き合ってるなんて一体どこから……』
自らの口から滑り落ちる軽薄な言葉に反吐が出る。
こんな子供だましの言葉で納得させることなど不可能だと知りながら、それでも俺は自虐の笑みを顔に貼りつけたままでいる。
彼女が、それもそうか――、と笑ってくれるのを待ちながら。
不意に腕を引かれ危うく彼女の上に倒れ掛かりそうになるのを、ソファーの背もたれにもう一方の手をついて、どうにか堪えた。
『私だって、ずっと、ずっと前から』
まるで秘密の種明かしでもするかのように石川が囁いた。
息がかかる程の距離で瞳が揺れている。
『トミちゃんのそばにいたのはいつだって私なのに』
そこにあるのは果たして恋心なのだろうか。
それともただの競争心か。
或いは傷を負った獣のように、互いの痛みを舐め合うことも出来たかも知れない。
決して癒されることはないのだと知りながら、それでも彼女の中に自分と同じものを探し求めたことだろう。
『センセイ……』
耳朶に絡み付く甘い声音と共に彼女の腕が背中に回された。
濡れた瞳がじっと見つめてくる。
しかしその中に見出したものは、不安と怯え以外の何物でもなかった。
俺は背中に回された腕をそっと引き離して言った。
『石川も栗山も俺にとっては大事な生徒の一人だ。それ以上でも以下でもない。だから変な心配はしなくていい』
『うそ……』
『嘘じゃない。例えもし栗山が俺のことを好きでも、お前たちくらいの年の子が罹るよくある熱病みたいなものなんだよ。卒業すればこんなオッサン、すぐに忘れ去られるのがオチだ』
『私は違うよ。トミちゃんをおじさんだなんて思わない』
『俺はおじさんだよ。最近じゃあ加齢臭だって……』
『うわー、最悪ー』
微笑んだその表情はいつもの石川に戻っていた。
『あーあ、何やってるんだろう私。ごめんね、先生』
あの時部屋を出ていく石川の後ろ姿が、今でも鮮明に脳裏に焼きついている。
双眸を覆っていた両手を下して顔を上げた。
この時になってようやく気が付いた。
部屋の中の違和感に。
俺が今腰かけているソファー、本棚の位置とそこに収まった本に至るまで何かが少しずつ記憶と違う。
甲高い警報が頭の中でガンガンと鳴り響き、強烈な眩暈に周りの景色がグニャリと歪んだ。
六、
空を見上げれば、弧を描く細い月が銀色に輝いている。
校舎は非常灯の青緑色のライトが窓に映る他は、隅々まで闇に覆われて、どこか不吉な予感さえ抱かせる。
未だに吐く息は白いが、寒さは全く感じない。
ソメイヨシノの枝が擦れるザワザワとした囁きが言い知れぬ不安をかき立てた。
腕時計の針は午後七時を回っている。
俺はバス停に向かう途中で、職員室に定期券が入った財布ごと忘れてきたことに気が付き、軽く舌打ちした。
学校に戻るのも面倒だし、一時間も歩けばアパートに辿り着くことが出来るだろう。
まあそれも悪くはない。
早く帰宅したところで待っているのは真っ暗な部屋なのだから。
二手に分かれる道の一方に見覚えのある二つの後姿が見えた。
『栗山に石川……?』
人通りのない薄暗い夜道に踏切の音が甲高く鳴り響いた。
遮断機がゆっくりと下りる。
線路の真中付近まで来ていた二人は、小走りに反対側へと急いだ。
そう大きな踏切ではないし難なく渡リ切ったのを確認して、俺は彼女達とは別の方向に再び歩き出す。
『……』
数歩も行かないうちに意味もなく胸がざわめくのを感じて足を止めた。
理由も分からずに今来た道を足早に引き返す。
どういう訳か遮断機の内側で石川が棒立ちになっているのが見えた。
鏡子がそれに気づいて再び引き返そうとしている。
『あいつら何やってるんだ』
警報機は依然として耳に痛いほど鳴り響いているにも関わらず、石川は凍りついたかのように動かない。
冷や汗が背中を流れた。
早鐘の如く脈打つ鼓動が警報機の音と重なる。
ドクン、ドクン、ドクン……
全速力で走り出すが、まるで雲の上を移動しているかのように、両足が上手く地面を捉えることが出来ない。
『鏡子ーーーッ!!』
聞こえたのだろうか?
線路の外へ出そうと必死に石川の腕を引く彼女の顔が上がり、目が合った。
こちらに背を向けている石川の表情は見えない。
列車の鳴らす警笛が長く尾を引き、ライトが二人の姿をぼんやりと浮かび上がらせた。
既に警報ボタンは間に合わない。
俺は遮断機を跳ね上げて中に踏み込んだ。
鏡子が石川の身体を渾身の力で押し、バランスを失った石川が線路脇に倒れる。
鏡子はその勢いのまま線路内に倒れ込んだ。
全てがスローモーションのように過ぎた後、轟音と共に急行列車が走り抜けていった。
――凍てつく肺がひゅうと音をたてる。
いくら空気を吸い込もうとしても乾いた音を立てるばかりで、一向に息苦しさは治まらない。
冷たい汗がこめかみを流れ落ち地面に落ちた。
すぐ傍らには鏡子が眠るように横たわっている。
鏡子……。
唇を開いたが声は出ない。
そのかわり左腕を伸ばそうとして初めて、そこに何もないことに気が付いた。
肩先から心臓の鼓動に合わせてドクドクと流れ出る液体が地面を黒く染めていくが、不思議なことに痛みは感じない。
首を動かして石川の姿を探そうにも、体はまるで空気の抜けた人形のように力が入らなかった。
音も無く、そろそろと遮断機が上がっていく。
遠くに救急車のサイレンの音が聞こえたのを最後に、俺の意識はゆっくりと闇に溶けた――。
次に目を覚ますと、俺は弓道場の脇にあるソメイヨシノの樹の根元にいた。
柔らかな風が頬を撫で、満開の花びらがふわりと肩に落ちる。
俺はそれを左手で摘みあげて目の前に翳した。
薄い花びらを通して陽の光が透けて見える。
ああそうか、あれは夢だったのだ。
現実に起きたことではなかった。
全ては俺が見た夢。
教室に行けばきっと、鏡子と石川がいつも通りの顔で席に座っていることだろう。
『先生が遅刻してどうすんの?』『おーい、起きてますかー?』そう言ってからかうだろうが、今日は大目に見てやるか。
しかし、学校中いくら探しても鏡子の姿はなかった。
教室にも、廊下にも、弓道場にも。
いくら待っても彼女は現れない。
夢ではなかったのか?
俺は鏡子を救うことが出来なかったのか?
そもそも栗山鏡子という少女は本当に存在したのか?
夢と現実の境目がわからない。
彼女を殺したのは、この俺だ……。
あの日からずっと、時の経過と共にパラパラと指の間からこぼれ落ちようとする記憶を、拾い集めては何度も飲み下してきた。
いつしか時間の狭間に取り残されていることさえ気づかずに。
ソファーから腰を上げ、窓の外をぼんやりと眺める。
こうしている間にも時の流れは俺を取り残して過ぎてゆく。
なぜ朝は誰の頭上にも、宛も当たり前のようにやってくるのか。
神々しいまでの光でさえ、この闇を拭い去ることは出来ない。
「………」
名を呼ばれたような気がして振り返った。
「……前崎」
ドアの前で静かに佇み、彼女は泣いていた。
逆光のためかその表情は見えないが、そう感じたのだ。
「富田先生、一緒に来てくれませんか?」
案の定涙交じりの声が、それでも精一杯の明るさで誘う。
「ああ、そうだね。行こう」
何気なく腕時計に目をやると、針はやはり止まったままだった。
桜はすっかり花びらを落とし、青葉が風を受けてサワサワと揺れている。
誰もいない弓道場は静寂に包まれ、どこか凛とした余韻に包まれていた。
俺は弓を手に取り軽く弦を引いた。
構えた左腕が一直線に的を示す。
隣で同じように弓を構えた前崎の背中が微かに震えている。
「前崎、集中」
「はい」
会から離れまでの張りつめた緊張感が伝わってくる。
トクン、トクン、トクン……、彼女の鼓動が聞こえてくるような気がした。
永遠の一瞬が過ぎ矢が放たれる。
その行方を見るまでもない。
前崎もまた、類まれな素質を持つ一人なのだ。
とうに気付いていた。
あの雨の放課後よりも前、まだ中学生だった頃の彼女を俺は知っている。
大人びた表情の中のあどけなさが残る大きな瞳が印象的な少女。
……今も何一つ変わらない。
「やっと会えたね。すぐに気付かなくてごめん。君は約束を守ったのに」
「私……」
見開いた瞳から零れ落ちた幾つもの雫が床を濡らす。
「病気を治して先生にまた会いたい、どうしても会いたいって毎日毎日神様にお願いしていたんです」
「よく頑張ったね」
前崎はふるふると首を振った。
「でもそのせいでお姉ちゃんは死んでしまったの」
「それは違う。君のお姉さんを殺したのは……俺だ……」
息苦しい程の思いが胸に押し寄せ、理性をも押し流して溢れ出る。
「俺が助けてやれなかったから、鏡子は――」
「私ね……小さい頃から心臓が悪くて、ずっと入退院を繰り返していたんです。初めて先生と会ったあの日は久しぶりの一時退院の日で、タクシーで家に帰る途中だったんです。窓から見えた桜の樹があんまり綺麗だったから、車を降りて近くで見てみたいなって。そして偶然、富田先生に会ったの。あの時、鏡ちゃんの名前を言ってしまったのは……、たぶん、すごく恥ずかしくて……」
ピンク色の傘を持った少女。
俺の頬にキスをして頬を染めた少女は、紛れもなく今目の前にいる彼女だった。
「あれからすぐに両親が離婚して、鏡ちゃんと私は離れて暮らすことになりました。手紙やメールは頻繁にしてたけど、鏡ちゃんがN校を受験したのは本当に偶然だったんです。あの日の出来事や先生との約束は秘密にしていたから。でも鏡ちゃんの名前借りたままだったし思い切って告白したら、学校のこと、先生のこと、詳しく手紙で教えてくれるようになって。早く元気になって、来年からは一緒にN高通おうねって」
「それなのに私……」
前崎の表情が苦しげなものへと変わった。
「初めの内は先生の事を知ることができて何だか私もN校の生徒になったみたいにワクワクしました。……でもそのうちに鏡ちゃんのことを羨ましく思うようになってきて、私が鏡ちゃんだったらって何度も思いました。その頃、心臓すごく悪かったし、学校に通うなんてもう無理なのかもって思ったらよけいに……。せっかく届いた手紙を読まないで捨ててしまったこともあります」
前崎は両手で自らの左胸を押さえた。
そのまま目を閉じて俯くと、髪がサラサラと彼女の顔にかかり、その姿が思わずはっと息を呑む程に鏡子と重なった。
「先生は人殺しなんかじゃない。それどころか鏡ちゃんはあの事故のあと半年間生きることができたんです。目を開けることはなかったけれど、それでも先生がとっさに庇ってくれたから」
「半年……」
「私のここには鏡ちゃんの心臓があるんです。なぜだか手術前の数日間の記憶は殆どありません。気が付くと手術が終わっていて、誰も本当のことを教えてはくれなかったけれど、私には分かります」
「そんな……」
「集中治療室で目を覚ます前、鏡ちゃんに会ったんです。そっと私の頭を撫でながら『もう、大丈夫だよ』って言って微笑んでいました」
前崎に掛けてやれる言葉もみつからぬまま、俺は黙って涙で赤く腫れた彼女の瞼に触れた。
トクントクンと鼓動が指先に伝わって来るようで、我知らず涙が零れた。
栗山鏡子の心臓は今も尚、時を刻み続けている。
「先生、鏡ちゃんは私を許してくれるでしょうか?」
「鏡子は……、君の中でずっと生き続けることができるんだ。これから君達はいつだって一緒に泣いたり笑ったり、恋をすることだってできるんだよ」
前崎の中に栗山鏡子の面影を探すことは容易い。
姉妹なのだから当然であろうが、よくよく見ればその違いは歴然としている。
なぜ鏡子は俺の間違いを正そうとはしなかったのか。
既に陽は沈み、銀色に輝く月がぽかりと夜空に浮いていた。
弓道場は日中とは違う、どこか和らいだ空気を内包し、月明かりはまるでスポットライトを照らしたように俺達二人を包み込んでいた。
「先生ありがとう、約束を守ってくれて。私、十分だよ。元気になって、またこうして出会うことが出来たんだから。だからもう……」
七、
「だからもう、鏡ちゃんの傍へ行ってあげて」
理想の教師という仮面を取ればそこにあるのは、臆病で嫉妬深いただの男。
それを知られて失望されるよりは、死ぬまで仮面を被り続けることを選んだ。
再び彼女と出会うことが許されるなら、俺は……、俺は決して恐れない。
「――鏡子……?」
背後から突然聞こえた震える声に振り返ると、いつの間にか石川がぽつんと一人立っていた。
半身は影の中に、もう半身は月明かりに照らされて青白く浮かび上がっている。
「やっぱりあなた、鏡子なの?」
「石川先輩?」
「石川? お前いつからそこに……」
「私のこと恨んでるの? でも、あれは鏡子が悪いんだよ。私のこと裏切ったりするから。だからトミちゃんまで……」
石川が影の中からゆっくりと前に踏み出した。
左の手に握られているのは彼女の弓だ。
「お前どうしたっていうんだ? 何を言ってる?」
石川の視線は前崎を見つめたまま一瞬たりとも逸らすことはない。
「少しだけ怖い目に遭わせようとしただけだったの。裏切ったらどうなるか、あなたに罰を与えるつもりだった。だってそうじゃない? 私がトミちゃんのことをずっと好きだったこと、誰にも言ったことのない秘密をあなたにだけは教えたんだから。それなのに」
彼女が構えた弓矢は真っ直ぐに前崎へと向けられた。
番えられた矢の先端が微かに震えている。
「先……輩……」
「やめろ! 石川!」
「あの時だって、トミちゃんが呼んだのは鏡子だった!!」
俺は咄嗟に前崎の前に回り込み、その躰に覆いかぶさった。
石川はこの距離で決して外すことはない。
痛みを覚悟したその瞬間、軽い悲鳴が前崎の口から洩れた。
「?」
見れば放たれた矢は俺の躰をすり抜けて、前崎の肩先をかすめ、壁に突き刺さっている。
「前崎!」
「大丈夫、です」
石川はペタリと床に座り込み呟いた。
その目は涙で濡れ、ただ一点を凝視している。
「まさかあんなことになるなんて思わなかったの。トミちゃんまで死んじゃうなんて……」
前崎は静かに石川の傍らにしゃがみ込むと、彼女の肩を両手で抱きしめた。
「お姉ちゃんは先輩のこと大好きでした。高校に入って初めて何でも言い合える友達が出来たって手紙に書いてありましたから。自分に嘘をつくことなく付き合えるただ一人の親友だって」
「私だって鏡子のこと大好きだった。でもその反面、嫉妬もしてた。嘘が無くて、真っ直ぐで、綺麗な鏡子が羨ましかったの。鏡子になりたいって、ずっとそう思ってた」
「私も同じ。明るくて、誰にでも優しくて、素直な優衣に憧れた。優衣みたいになれたらって何度もそう思ったよ」
そう言った前崎の声や表情が鏡子のそれと重なった。
しかしそれは一瞬のことだった。
彼女は月光の射した桜の樹に目を移し、静かに呟いた。
「そうでしょう? 鏡ちゃん」
そこに佇む人影がふわりと微笑んだ瞬間、散ったはずの桜の花びらが満開に花開くのを息を呑んで見つめた。
「鏡子――」
彼女は静かに佇んでいた。
唇が開き俺の名を呼ぶ。
「柊也」
「ごめん、随分と待たせてしまったね」
鏡子の手が俺の頬に触れた。
その手に舞い落ちた一片の花びらが、蝶のようにひらひらと再び空高く舞いあがる。
溢れそうになる想いを一つだけ言の葉に乗せて君に渡す。
「君を愛してる……」
真実へと続く一本道はすぐ足許にあるというのに、俺はただ躰を丸め瞼を閉じて待っていた。
いつか誰かが手を引いて導いてくれるのを。俺の犯した罪もろとも、過去という名の湖へ沈めてくれるのを。
だが時は残酷なまでに優しく、忘却という名の罰を与えて嘲笑う。
後に残るのは虚無という名の真っ白な世界。
そこは己という概念さえも存在しない場所。
螺旋を描く時間の流れの中、それでも俺達は再び出会う。
何度も、何度でも。
運命――。
そんな風に言えば君は笑うだろうか?
しかしそれ以外の言葉で表現する術を俺は知らない。
桜の樹は時に人間の一瞬の生をその懐の内に抱きながら、遙かに長い一生を送る。
だからあれ程までに美しく、人の心を魅了するのだろう――。
終章。
桜の樹の下、私は小声で語りかける。
蕾は堅く花が開くにはまだ暫くかかりそうだ。
「鏡ちゃん、富田先生、私今日ここを卒業したよ」
式を終えた後も在校生や恩師との別れを惜しんでいた卒業生の波も幾分落ち着き、私は一人、弓道場にやって来た。
あれから幾度こうして声を掛けてみても、二人の姿を見ることはなかった。
私は、人が見ることの出来ないものを見たり、声を聴く事ができる。
幼い頃はただ恐ろしいだけだったこの力も、今では自分の個性の一つだと思えるようになった。
「私も成長したってことかな?」
ブレザーのポケットから一通の手紙を取り出し、丁寧に皺を伸ばす。
一度はクシャクシャにしてしまったそれは、今では大切な宝物だ。
鏡ちゃんがくれた最後の手紙。
何度も読みかえしたその文面は鏡ちゃんが生きた証だった。
私は再びそれに目を通す。
一語一語が息を吹き返して、きらきらと輝く。
沙月、ごめんね。
私、とても好きな人ができたの――――。
涙が溢れそうになるのを何とか堪えて空を仰ぎ見ると、何処からか桜の花びらが舞い落ちてきた。
涙の代わりに頬に落ちたその一片を掌で柔らかく包み込む。
「おーい沙月、そろそろ行くよー」
友人の呼ぶ声に私は大きく手を振って応えた。
「うん、今行く!」
手紙を再びポケットへと仕舞い込み、握ったままの掌を開くと、確かに掴んだ筈の花びらは跡形もなく消えていた。
「じゃあ、そろそろ行くね」
私は桜の樹と弓道場に背を向けると、待っている友人の許へと駆け出した。
終
最後まで読んでいただき有難うございました。