Ep138. 小さな診察帳
人の記憶は万能ではない。
前世で嫌というほど学んだ。どれほど優秀な医師でも、昨日診た患者を百人すべて覚えてはいられない。だから記録する。記録は医術の一部だ。
その日の夕方、最後の患者が帰ったあとだった。
バーバラは机へ座り、紙を一枚広げた。
「ええっと……今日のお薬、減った分を書いておかないと」
書き始める。熱冷まし。傷薬。咳止め。
だが途中で首を傾げた。
「あら? 今日は誰に傷薬を使ったかしら。朝のおばさん? それとも昼の子?」
俺は黙って見ていた。忙しい一日だった。忘れても無理はない。だが積み重なれば危険だ。薬の在庫、患者の経過、全部曖昧になる。
俺は紙を指差した。さらに、紙を二枚に分ける真似をする。
「二枚?」
頷く。一枚は薬。一枚は患者。身振りで伝える。
「……あ」とバーバラが目を見開いた。「薬の記録と患者さんの記録を分けるってこと?」
大きく頷く。
「なるほど……確かにその方が分かりやすいわね」
母は新しい紙を持ってきた。左の紙には薬の名前と残りの数。右の紙には誰が来たか、どんな相談だったか、何を渡したか。
「これなら思い出しやすい!」母が嬉しそうに笑う。
まだ簡単な記録だ。前世の診療録とは比べものにならない。それでも、昨日より確実にいい。
その時、オリヴィアが覗き込んだ。「ルークって、変なこと思いつくよね」
変ではない。合理的だ。……とは言えない。
「ふふ」とバーバラが笑う。「ルークは人をよく見てるから、私が困ってることにも気づくのね」
その言葉に、少し胸が熱くなる。
前世の俺は、患者ばかり見ていた。病気ばかり見ていた。今は違う。母を見る。村人を見る。仲間を見る。人を支える人が困っているなら、その人を支えることもまた、医療の一部なのかもしれない。
机の上には二枚の紙。まだ文字も少ない。だがそれは、この村で初めて生まれた、小さな診察帳だった。




