第七章 錬金都市エクリヴァル ― 白光の帰還
夕刻。
錬金都市エクリヴァルの駅は、蒸気と人混みで溢れていた。
鉄と油の匂い。汽笛の音。荷車の軋み。到着を告げる鐘の音が、構内に響き渡る。
ルーチェは、ホームの端に立っていた。
白い髪が、蒸気の風に揺れる。腕には、テリアを抱えている。
「……来たでござるな」
遠くから、列車の姿が見えた。
黒い鉄の塊が、煙を吐きながら近づいてくる。
あの中に、仲間たちがいる。
社長殿がいる。リュシア殿がいる。ガロウ殿がいる。ミナ殿がいる。ロイ殿がいる。
胸が、じわりと温かくなる。
列車が、ゆっくりと速度を落としていく。
車輪が軋み、蒸気が噴き出し、やがて――停止した。
扉が開く。人々が降り始める。
その中に、見覚えのある姿があった。
「――ルーチェ」
低く、落ち着いた声。
聞き慣れた声。二階堂漣司が、ホームに降り立った。
その後ろには、銀髪のリュシア。切れ長の瞳が、ホームを一瞥する。氷のような気配を纏いながらも、ルーチェを見つけた瞬間、その目がわずかに和らいだ。
軽やかな足取りのミナ。金のツインテールが蒸気の風に揺れ、琥珀色の瞳がきょろきょろと駅構内を見回している。小柄な身体が、列車から飛び降りるように降り立った。
柔和な笑みを浮かべるロイ。背中の大盾が鈍く光を反射する。素朴で健康的な体つきが、人混みの中でも妙に安心感を与えていた。
そして――列車の扉枠を窮屈そうにくぐり抜ける、巨大な影。ガロウ。
二階堂商会の仲間たちが、次々と姿を現す。
「社長殿!」
ルーチェの声が、思わず大きくなった。
駆け寄りたい衝動を、かろうじて抑える。
白光の魔導士としての矜持が、足を止めさせた。
だが、表情は隠せない。喜びが、顔全体に滲み出ている。
「きゅいっ!」
テリアも、尻尾を全力で振っている。
漣司が、ゆっくりと歩み寄ってきた。
その目が、ルーチェを見据える。
リュシアが、ルーチェの横を通り過ぎる際、小さく頷いた。
ミナが、「お疲れー」と軽く手を振った。
ロイが、「無事で何よりだ」と低く言った。
ガロウが、黄金の瞳を細めて牙を見せた。
「オウ、ルーチェ! 元気そうダナ!」
豪快な声が、ホームに響く。仲間たちの声が、言葉が、存在が――ルーチェの胸を、温かく満たしていく。
「……うむ」
ルーチェは、テリアを抱き直した。
「行くでござるよ、テリア殿」
「きゅっ!」
白光の魔導士は、仲間たちの後を追って歩き出した。
単独行動は、ここで終わり。だが、物語は終わらない。
錬金都市エクリヴァルで、二階堂商会の新たな戦いが始まろうとしていた。
夕陽が、駅のホームを金色に染めている。
蒸気の向こうで、汽笛が長く鳴り響いた。
それは再会を祝う音であり――同時に、新たな試練の始まりを告げる音でもあった。
◇
同じ刻。
錬金都市エクリヴァル――その高層区画の屋上。
夕陽に焼かれた街並みを、一人の影が見下ろしていた。
艶のある黒衣。裾が風に揺れ、刃のように夕闘を切り裂く。
黒から濃紺へと流れる長髪が、緩やかに靡いていた。
銀灰の瞳は、遠くの駅を捉えている。
蒸気の隙間から見える、小さな人影たち。
白い髪の女。その周囲に集まる、何人かの気配。
――来たんだ。
あの、白いの。
口元が、かすかに弧を描く。
笑みではない。観察だ。
獲物を見定める、冷たい瞳。
「……増えたね」
呟きは、風に溶けて消えた。
白光の魔導士。あの日、列車で出会った女。
飢えを――一瞬だけ、凍らせた女。
忘れていない。忘れられるわけがない。
鎖骨の奥で、刻印がじくりと疼いた。
墨が滲むように、肌の下で紋様が蠢く。
飢えが、囁いている。まだ足りない。まだ、満たされていない。
「……でも、まだ」
黒衣の女は、視線を外した。
今ではない。今は、まだ。
彼女は踵を返し、屋上の縁から一歩を踏み出す。
落下ではなく、滑空。
闇が足元に広がり、黒い水面のように波紋を打った。
その波紋に乗るように、影は街の闇へと溶けていく。
最後に残ったのは、風に乗った一言だけ。
「――覚えてるよ。白いの」
声は、誰にも届かない。
ただ夕暮れの空気を、ほんの少しだけ冷やして。
錬金都市の夜が、静かに始まろうとしていた。
二階堂商会と、闇の器。その運命が交差する日は――
もう、すぐそこまで来ている。
――と、ここでこの物語は幕を閉じる。
はずだった。
だが、英雄譚には語られない裏側がある。
壮大な冒険の後には、必ず「日常」が待っている。
そして白光の魔導士にも、避けられぬ試練が残されていた。
◇
「――ルーチェさん?」
氷のような声が、宿の一室に響いた。
ルーチェの背筋が、びくりと跳ねる。
振り返ると、そこにはリュシアが立っていた。
銀髪の副社長。切れ長の瞳が、部屋の隅に積み上げられた「何か」を見つめている。
それは、山だった。本の山。魔導書の山。古文書、錬金術式集、禁忌研究の写本、希少な術式解説書――
ルーチェがこの数日で買い集めた、知識の結晶たち。
書物館で調査をするうちに、気になった本を片っ端から購入していた。
気づけば、こうなっていた。
「これは……どういうことですか?」
リュシアの声は、穏やかだった。穏やかなのに、温度がない。
氷点下の微笑み。財務の魔女が、帳簿を前にした時の顔だった。
「り、リュシア殿……これは、その……」
ルーチェの声が、珍しく震えている。
禁忌錬金術師六人を相手にしても揺らがなかった白光の魔導士が、今、明らかに後退していた。
「調査に必要な資料でござって……」
「全部ですか?」
「……全部、でござる」
「この量が?」
「……必要、だったのでござる……」
リュシアが、本の山に近づいた。
一冊を手に取り、背表紙を確認する。
「『古代錬金術式大全・完全版』……初版、署名入り」
ぱらり。次の一冊。
「『禁忌研究概論・上中下巻セット』……限定復刻版」
ぱらり。さらに次。
「『白光と闇光の相関性に関する考察・全十二巻』……これ、絶版では?」
「……お、お買い得だったのでござる」
「お買い得」
リュシアの眉が、ぴくりと動いた。
「ルーチェさん。私、CFOとしても確認したいのですが」
「は、ははっ……」
「これらの購入費用は、どこから出ていますか?」
「…………」
沈黙。
ルーチェの目が、泳いだ。
右を見る。左を見る。天井を見る。
テリアを見る。
テリアは「きゅ?」と首を傾げるだけで、助けてくれない。
「ルーチェさん」
「……経費、でござる」
「経費」
「調査経費、でござる……」
「この金額が?」
リュシアが、懐から小さな帳簿を取り出した。
いつの間に計算したのか、購入総額がすでに記されている。
その数字を見た瞬間、ルーチェの顔から血の気が引いた。
「……あ、あれ? こんなに……?」
「こんなに、です」
「い、一冊一冊は、そこまで高くなかったのでござるが……」
「塵も積もれば山となる。ルーチェさん、この言葉をご存知ですか?」
「ぞ、存じておりまする……」
リュシアの瞳が、すっと細くなった。氷魔法より冷たい視線。ガロウですら震え上がる、あの目だ。
「では、経費報告書を提出していただきます」
「は、はい……」
「一冊ごとに、購入理由を添えて」
「い、一冊ごと……!?」
「もちろんです。調査に必要だったのでしょう? ならば、その必要性を説明できるはずです」
ルーチェの顔が、みるみる青ざめていく。
白光の魔導士が、今、かつてないほどの窮地に立たされていた。
「あ、あの、リュシア殿……」
「はい?」
「その……テリア殿の調査のためでござって……」
「テリアさんのため。なるほど」
リュシアが、テリアを見た。
テリアは「きゅ」と小さく鳴いて、ルーチェの陰に隠れた。
裏切りだった。
「テリアさんの調査に、『古代デザート菓子の錬金術的考察』が必要だったと?」
「…………え?」
ルーチェが固まった。リュシアが、本の山から一冊を抜き出す。表紙には、美味しそうな菓子の挿絵。
「こ、これは……その……」
「必要だったのですか?」
「……つい、でござる」
「つい」
「表紙が、美味しそうだったのでござる……」
沈黙が、部屋を支配した。
リュシアの目が、完全に据わっている。
ルーチェは、ついに観念したように深く頭を下げた。
「申し訳ござらぬ!! 出来心でござった!!」
「出来心で、この金額を」
「反省しておりまする!!」
「反省は結構です。ですが、報告書は免除しません」
「そ、そんな……!」
ルーチェが、必死の形相でリュシアに縋りつく。
白光の魔導士としての威厳は、もはやどこにもなかった。
「リュシア殿! どうか、どうかお慈悲を……!」
「慈悲は帳簿に載りません」
「一冊ごとは、あまりに……!」
「では、十冊ごとにまとめて構いません」
「それでも多いでござる!!」
「ルーチェさん」
リュシアが、にっこりと微笑んだ。その笑顔が、逆に怖い。
「私は、優しいですよ?」
「どこがでござるか!!」
ルーチェの悲鳴が、宿の廊下に響き渡った。
遠くで、ガロウの「何だアレ」という声と、ミナの爆笑が聞こえる。
ロイが「まあまあ」と宥めようとする気配。
そして漣司が、小さくため息をつく音。
――錬金都市エクリヴァル。
新たな闘いの幕開けは、もう少しだけ先のこと。
今夜はまず、白光の魔導士と氷の副社長の闘いが、静かに――いや、騒がしく繰り広げられるのだった。
「きゅい……」
テリアだけが、困ったように鳴いていた。
外伝『白光の魔導士、錬金都市を往く』、ここに完結。
ルーチェの小さな冒険は、本編第292章へと繋がっていきます。
単独行動で見せた彼女の強さと、どこか抜けた愛らしさ。
そして、仲間と再会した時の、隠しきれない喜び。
この外伝を読んだ後、本編のルーチェがまた少し違って見えれば幸いです。
禁忌錬金術師との遭遇、闇の器の影、そしてテリアを巡る謎――
本編でその物語は交錯されます。
お付き合いいただき、ありがとうございました。




