第四章 錬金都市エクリヴァル ― 竜の頁
錬金都市エクリヴァルの朝は、金属の匂いがする。
石畳に薄く霧が張り、工房の煙突からは白い蒸気が細く立ち上って――街全体が、巨大な実験器具の中にあるようだった。ルーチェはその中心にある《書物館》へ、迷いなく足を向ける。
肩にかけた鞄が少し重いのは、昨夜の戦利品――師アルマの著作と、その周辺資料が増えたせいだ。
それでも歩幅は軽い。眠る獣を抱えたときと同じ、いや、それ以上に目的に向かう足だった。
「――本日も、叡智を借り受けに参った」
入口の鈍い鐘が、ちりん、と鳴る。受付の司書が顔を上げ、ルーチェを認めた瞬間、ほんの一瞬だけ表情を引き締めた。だが何も言わない。代わりに、その横に立つ影が、半歩だけ前に出る。二階堂商会の社員だった。昨日の購入記録――帳簿の数字と倉庫の残量を、嫌というほど把握している顔だ。
「……今日は閲覧だけでお願いします。ルーチェ様」
「承知している。購入は、控える」
言い方が妙に固い。守ると決めた規律は、ルーチェにとって命令に等しい。司書はそのやり取りを無言で見届け、静かにカウンターの奥へ視線を戻した。
その足元で、テリアが小さく鳴いた。昨夜から目を覚ましているこの魔獣は、だいぶ機嫌がいい。丸い眼がきらきらして、尾の先がぴこぴこと動いている。
「テリア殿。今日は静粛に」
「きゅ」
返事は素直。――たぶん、三分で忘れる。
ルーチェは奥の閲覧室へ進み、昨日の続きの書架へ向かった。白光の魔導士が探すものはただひとつ。テリアが覚醒した理由。そして、覚醒の先に待つ何か。
錬金都市の書物館は、平然と禁忌と隣り合っている。竜の脊骨から削った紙に、血で書いた頁も、封印を解かないと読めない巻物も、この街の棚には――まるで日用品のように並んでいる。
その中で、ルーチェの指が止まった。
「……竜……?」
背表紙に刻まれていたのは、古い文字。
――《竜脈暴走記》
――《竜核異常の症例抄》
――《鱗の裏に眠る熱》
どれも、竜の暴走に関わる文献だ。
ルーチェの瞳の光が、一段濃くなる。
「……これは、読むべきじゃ」
その瞬間、周囲の音が薄く遠ざかった。椅子を引く音も、誰かがページをめくる音も、遠い世界の出来事になる。ルーチェは一冊目を開く。頁は硬く、紙は重い。インクの匂いに金属と薬品が混ざっている。
――竜という存在そのものが、錬金術の研究対象であり続けた証拠だ。
読み進める。竜は、核を持つ。核は魔力を循環させる。循環が乱れれば、熱が生まれる。熱が増えれば、鱗の隙間から噴き出す。そして最終的に――理性が焼け落ちる。
「……核の過熱……循環の乱れ……」
ルーチェは小さく呟き、紙に走り書きをする。
過熱。暴走。制御不能。
――それは、テリアの覚醒というより先日列車で見た闇の増殖と、似ている。魔力が自分を越えた瞬間、術者はそれを止められなくなる。暴走は、力そのものの性質ではなく、器の限界から起こる。だが。
「確証がござらぬ……」
書物の記述は、竜の暴走については詳細だ。だがテリアの覚醒に直結する明確な記録はない。眠る竜はいる。封印された竜もいる。そして、眠りながら周囲の魔力を薄く吸い続ける――それに該当する記述は曖昧だった。ルーチェは二冊目、三冊目へ進む。没頭する速度が上がる。まるで、頁を追う指先が走っているように。その横で、テリアが退屈し始めた。
「きゅー」
「……」
返事がない。ルーチェは今、文字の海に潜っている。テリアはルーチェの膝に前足を乗せ、頬を擦りつけた。さらに机の端に顎を置いて、じっと見上げる。
「きゅ」
「……竜核は、鱗の――」
反応がない。テリアは一瞬だけ目を細め、何かを理解したように短く鳴いた。
「……きゅ」
そして――ちょっかいを諦めたふりをして、椅子からふわりと降りた。
静かに、静かに。机の脚を回り、棚の陰へ。ルーチェの視界の端から消える。ルーチェは気づかない。集中という名の結界が、彼女の周囲に張られていた。
そのとき、閲覧室の空気が――ほんの少し冷えた。誰かが扉を開けたわけでもない。窓が開いたわけでもない。ただ、棚の影が一度だけ濃くなる。テリアが、その影に顔を向ける。耳がぴくりと動き、尾が止まる。
「……?」
小さな魔獣が、何かに呼ばれたように一歩踏み出し――
次の瞬間には、音もなく消えていた。まるで、頁の隙間に挟まれた栞が抜かれるように。
そして時間は、何事もなかったかのように流れる。ルーチェは最後の行を読み終え、深く息を吸った。
「……暴走に似ている。しかし――証明が足りぬ」
彼女はペンを置き、椅子から立ち上がる。肩をほぐし、首を鳴らし――ようやく、現実に戻ってくる。
「……テリア殿?」
返事がない。最初は、ほんの軽い確認だった。ちょっと机の下に潜っただけだろう、と。
「テリア殿? ……遊びに行ったか」
ルーチェは机の下を覗く。
いない。
椅子の裏を覗く。
いない。
机の横の棚の隙間。
いない。
ルーチェの眉間に、わずかに皺が寄った。
「……テリア殿?」
いないという事実が、ようやく脳内で形になる。形になった瞬間、胸の奥で冷たいものが滑った。ルーチェは歩き出し、閲覧室を一周する。
「テリア殿ー」
……いない。
呼吸が速くなる。ルーチェは――なぜか、棚の一冊を抜いて開いた。
「……ここに挟まっては、おらぬな」
(※当然いない)
次の本も開く。
「……これは、錬金術師の家計簿……」
(※関係ない)
さらに開く。
「……古代の戦術書……」
(※テリアは戦術書にならない)
ルーチェは真顔で本を閉じ、真顔で次を開く。
まるで、本を開けば出てくるという可能性を、本気で疑っていない。
司書が遠くから見て、顔に「やっぱり今日もこの人だ」と書いていた。
「テリア殿ー! どこじゃー!」
ルーチェは棚の間を走り――いや、走りかけて止まった。
静粛にという規律が、最後の一線で踏みとどまらせる。
だから彼女は、早歩きで必死に探す。
本を開きながら。棚の陰を覗きながら。索引をめくりながら。
「……テリアの項目は……ない。なぜない……!」
(※索引に載るわけがない)
それでも探す。司書が「お客様、書物を戻してから移動してください」と小声で注意するが、ルーチェの耳に入らない。
白光が指先に灯る。淡い光が棚の奥を照らし、埃の粒を浮かび上がらせる。
「……テリア殿……?」
光は、何も反射しない。いつもなら聞こえるはずの、あの短い鳴き声が――どこからも返ってこない。ルーチェは唇を噛み、書物館をくまなく探し始めた。
棚の端から端まで。閲覧室の隅まで。本を開いて、探しながら。
「テリア殿ー……!」
◇
――いない。
それが確定した瞬間、ルーチェの背筋を冷たいものが撫でた。閲覧室を三周した。棚の陰も、机の下も、閲覧用の台車の裏も見た。司書の視線が「お願いだから落ち着いて」と語っている。
それでも――テリアはいない。
「……テリア殿……」
声が少し、掠れる。喉が乾いていることに、今さら気づく。焦りは、ルーチェの中で珍しい感情だった。判断を早めるための熱ではない。胸の奥を掴んで引きちぎるような、理不尽な不快さ。
昨日の光景が、勝手に浮かぶ。錬金都市の裏路地。
薄暗い隙間に、何かが引きずられていく影。助けが間に合わず――最悪の結末に至った事件。ルーチェは、ぶん、と頭を振った。
「……違う。違う。まだ、決まっておらぬ」
言い聞かせる声音が、妙に低い。冷静であろうとして、逆に危うさが滲んでしまう。
――見失った。
――守ると決めたものを。
――自分の手の届く範囲で。
その事実が、白光の魔導士の誇りをざらりと削った。ルーチェは書物館の入口へ向かう。歩幅が、さっきまでとは明らかに違う。焦りが脚に乗ると、速くなる。速くなると、音が出る。音が出ると、司書が険しい顔をする。
「……お客様」
「申し訳ない。緊急事態でござる」
謝罪がやけに丁寧なのは、ルーチェが本気で焦っている証拠だった。
扉を押し開け、外へ出た瞬間――
冷たい空気が頬を打つ。だが、ルーチェはそれすら心地よいと感じない。街は、動いている。蒸気。足音。話し声。金属の擦れる音。錬金都市エクリヴァルは今日も平然と、叡智と禁忌を混ぜ合わせて回転している。
「……雑念が多い」
ルーチェは、書物館の壁際に寄り、背を預けた。目を閉じる。やるべきことは決まっている。
――探す。
ただ探すのではない。視界で追うのではない。声で呼ぶのでもない。気配で捉える。ルーチェは呼吸を整え、心を沈める。胸の奥で白光を灯す。光は外へ放たず、内側へ向ける。自分の中の澄んだ水面を作るように。
だが、錬金都市は――濁っていた。そこかしこに、魔導エネルギーの痕跡がある。鍛冶炉の熱。薬液の揮発。呪具の残滓。術式の残り香。人々の持つ小さな魔力。街そのものが、巨大な魔力の交差点になっている。気配を探ろうとするだけで、情報が雪崩れ込む。
「……っ」
こめかみがズキリと痛む。ルーチェの額に汗が浮かび、すぐに粒になって、頬を滑り落ちた。それでも、止めない。白光の魔導士は守るために、耐えることを知っている。
――テリア殿。
――どこにおる。
ルーチェは意識をさらに深く沈める。雑音の波を切り分ける。
金属の魔力は硬い。
火の魔力は暴れる。
薬の魔力は甘く腐る。
人の魔力は薄く揺れる。
その中で――ふ、と。
一本だけ、異質な線が走った。聖なる、純粋な魔導エネルギー。濁りがない。温度が一定で、形が崩れない。まるで、透き通った結晶のようにそこにあるだけ。ルーチェの瞳が、ぱっと開く。
「――……そこじゃ」
息が漏れる。焦りが、確信に変わる。方角は……右。
距離は……遠くはないが、遮るものが多い。そして――動いている。運ばれている。
誰かが、連れて行っている。ルーチェの口元が、かすかに歪む。
それは怒りではなく、戦闘に入る前の集中の形だった。
「今すぐ行くでござる……!」
言葉が、武士みたいに飛び出す。白光の魔導士が、貴族のように静かに歩いていられる状況ではない。ルーチェは地面を蹴った。
――速い。
魔術師の走り方ではない。脳内で最短距離を計算し、障害物を避けるための実務的な俊足。蒸気の漂う通りを駆ける。工房の前を抜ける。荷車の横をすり抜ける。驚いた職人が「うわっ」と声を上げるが、ルーチェは謝る暇がない。
ただ、追う。テリアの気を感じた方面へ――白光の魔導士は、疾風のように駆け出した。
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