第三章 錬金都市エクリヴァル ― 確かな火種
今日も、錬金都市は平然としていた。
白い塔が空へ伸び、石畳の上を、紙と革と薬品の匂いが流れていく。
危険がないから静かなのではない。
危険が、いつも通りに呼吸しているから――静かに見える。
ルーチェは朝から歩いていた。
肩にはテリア。
外套の内側には、昨日の戦利品――師アルマの書が、まだぬくもりを残したまま収まっている。
そして手には地図。
……だが、地図は「持っているだけ」だった。
角を曲がるたび、ルーチェは一度だけ立ち止まる。
風が運ぶ炉の匂いを測り、塔の影の向きを見上げ、地下の魔力の濃淡を指先で撫でるように確かめる。この街を読むのに必要なのは、道順ではない。流れだ。
「本日は、東の文献庫でござるな」
社員が「あ、そこは……」と言いかける前に、ルーチェの足はもう正しい方向へ向いている。それが彼女の歩き方だった。迷いなく、静かで、決して後退しない。守る者の歩き方。
◇
午前中に寄ったのは、塔の陰に隠れるように建つ小さな蔵書室だった。
扉を開けた瞬間、紙の匂いが濃くなる。
ここは人が触れていない知識が積もる場所だ。
棚の背表紙は地味で、題名は難しい。
だが――ルーチェの目は、そこに宿る術式の癖だけで価値を見抜く。
「……ふむ」
指が止まる。
『竜種の覚醒と都市魔力循環』
思わず、喉が鳴った。
テリアの件に近い。
近いが――遠い。
内容は、都市全体の魔力循環が竜種の成長を刺激する可能性を示唆しているが、書かれているのは大系だ。特定の幼体が、なぜ、いま、どうして――そこまで踏み込んだ記述はない。
「……惜しいでござる」
ぽつり、と言って棚へ戻す。
戻せる。
戻せるのが、ルーチェの強さだ。
だが戻す指先が、少しだけ名残惜しそうだった。
棚の奥に、もう一冊。
『秘蔵・白光魔法論』(私家版)』
背筋が、ぴんと伸びる。
惹かれる。危険なほど惹かれる。
だが――目的が違う。
ルーチェは、肩のテリアを見た。
黄金の瞳が、こちらを見上げる。
眠ってはいない。起きてはいない。
ただ――待っている。
「……いかんでござる」
自分に言い聞かせるように、ルーチェは一度だけ深呼吸した。
「拙者がこの都市に先んじて来た理由は、ひとつ。
テリア殿の謎を掴むためでござる」
そう言い切ってから、たった一拍だけ迷う。
そして、棚から本を抜いた。
――抜いたが、開かない。
外套の内へ仕舞いも、しない。
ただ、社員に差し出した。
「これは……後でござる。後で……必要な時に読むでござる」
社員が「後で……」と小さく呟く。
昨日の悪夢――氷の副社長の静かな確認が脳裏をよぎったのだろう。
顔が引きつっている。
ルーチェは少しだけ目を逸らし、咳払いをひとつ。
「……調査費の範囲内でござる」
自分に言った。社員にも言った。
たぶん、未来のリュシアにも言った。
◇
昼。
塔の影が一番短くなる時間帯。
ルーチェは、次の蔵書室へ向かう。
今度は大きい。
大きいというだけで、空気が冷たい。
誰かの監査の目が、棚の隙間に潜んでいる。
閲覧札に押される封蝋。
受付の錬金紋。
貸し出し不可の札。
書物はここでは、知識ではなく――資産だ。
「……はぁ」
机に座り、ルーチェは黙々と読む。
読む。読む。読む。
覚醒。共鳴。竜種。都市炉。環境魔力。抑制術式。
言葉はある。概念もある。理論もある。
だが、テリアに直結する鍵は、ない。
ページをめくる指先が、知らず、少しだけ早くなる。
「……普通でござるな」
それは落胆ではない。観察だ。
この街は、異常が多すぎて、原因が埋もれる。
強すぎる要素が多すぎて、決め手にならない。
そしてその決め手のなさが、逆に不気味だった。
テリアが、肩で小さく身を縮めた。
爪が外套を軽く掴む。
「大丈夫でござる」
ルーチェは指先でそっと撫でる。
自分に言い聞かせるように。
「そう簡単に見つからぬのは、想定内じゃ」
そう言い切って、立ち上がる。
夕方に差しかかっていた。
◇
日が傾く。
白い塔の影が長く伸び、石畳に黒い筋を引く。
今日も、決定打はなかった。
ルーチェは、宿へ戻る道を歩いていた。
とぼとぼ――というほど弱ってはいない。
だが、歩調にわずかな重みがある。
背中に、沈むような疲れ。
そして、その瞬間だった。
――冷えた。
気温ではない。
街全体の熱が、一瞬だけ遠のいた。
胸の奥に、昨日もあった冷たい鈴が鳴る。
違う。
今日は、音が濃い。
テリアが、ぴくりと耳を立てた。
黄金の瞳が、細くなる。
「……」
ルーチェは、足を止めない。
止めないまま、呼吸だけを一段落とした。
背後。
禍々しい気。
錬金都市へ向かう列車の途中。
――あの時、見た闇魔法。
凝縮され、穿ち、爆ぜる黒。
そして止まらない飢え。
それと同じ質の匂いが、街のどこかから滲んできている。
さらに――生命が失われる匂い。
血ではない。死でもない。存在が消える匂い。
ルーチェの足が、自然と裏路地へ向いた。
考えではない。
身体が、危険を知っている。
「……こちらでござるな」
路地は細い。灯りは少ない。
薬品の匂いが、甘くて重い。
そして、湿っている。
曲がり角を二つ。階段を一つ。
古い排水溝をまたいだ先。
そこに――あった。
原型をとどめていない生命。
肉でも骨でもない。
そこにあったはずの形が、無理やり削ぎ落とされ、混ぜられ、壊されている。
切断ではない。
爆発でもない。
――抉り取られた。
ルーチェの喉が、ひゅっと鳴った。
「これは……」
戦慄が、背骨をなぞっていく。
闇が、ただ殺したのではない。
闇が、何かを食った。
テリアが、低く唸った。
幼い喉が絞り出す、竜の警戒音。
肩の上で毛が逆立つように震える。
ルーチェは、立ち尽くさない。
立ち尽くす前に、外套の内側で白光の芯を整える。
ここは戦場ではない。
だが、戦場よりも危険だ。
ルーチェは、迷うことなく足を路地から外し、近くの治安維持隊の詰め所へ向かった。
扉を押すと、中の隊員たちが顔を上げる。
エクリヴァル治安維持隊。
黒い外套に銀の徽章。
魔力検知札を首から下げ、手には拘束具と記録板。
「――現場に向かってほしい」
ルーチェは簡潔に状況を伝えた。
ほどなく、隊列が整い、路地へと足音が迫る。
数が多い。一定の間隔で踏まれる地面。訓練された足取り。
黒い外套に銀の徽章。魔力検知札を首から下げ、手には拘束具と記録板。
先頭の隊長格が路地を一瞥し、次にルーチェを見る。
視線が冷たい。
「第一発見者か」
「……拙者でござる」
ルーチェは、逃げない。
守る者の歩き方は、後退しない。
だが、空気が変わる。
隊員の半数が、ルーチェの周囲を半円で囲んだ。
疑われている。
当然だ。
白光の魔導士が、裏路地で、原型を留めぬ死体の隣に立っている。
状況だけなら最悪である。
「……身分証は」
社員が慌てて前へ出ようとするが、ルーチェが軽く手で止める。
「身分証より、こちらを見よ」
ルーチェは静かに言った。
隊長格が眉を動かす。
「……残響か」
魔法の残響。
この街では、それは指紋より正確な署名だ。
術者の癖、魔力の波形、起動のタイミング――全部が残る。
隊長が札を取り出し、死体の周囲へかざす。
札の紋が淡く発光し、空気中の残渣を吸い上げる。
次の瞬間。
隊長の顔から、疑いが消えた。
消えたというより――別の嫌なものに塗り替わった。
「……これは……」
隊員の一人が小さく息を呑む。
白光ではない。
ましてや通常の闇でもない。
圧縮され、穿ち、爆ぜた黒。
そして、止まらない飢え。
隊長は短く命じた。
「彼女は解放だ。記録だけ取れ」
隊員が一歩下がる。
半円がほどける。
疑いの目が、慎重の目に変わる。
ルーチェは、すぐには動かなかった。
目が、死体から離れない。
「……この街で、何が起きておる」
呟きは小さい。
だが、白光の芯に乗った声だった。
隊長格が、言いかけてやめる。
言葉を濁すのは、知っているからだ。
言えば、街が動く。ルーチェは続けた。
「あの闇魔法は……拙者が列車で見たものと、同じ質じゃ」
自分の中で、線が繋がる。
列車。あの黒衣。あの無関心な一瞥。
あの「覚えておく」という無言。
そして――この路地の惨劇。
守る者として、ここで目を逸らすわけにはいかない。
理由は、正義ではない。
テリアがいる。背後にある闇が、また飢えたなら。
次は、幼い竜が狙われる可能性がある。
隊長が、低く言った。
「……ここから先は、治安維持隊の管轄だ。一般人は帰れ」
一般人。
ルーチェは、その呼び方にほんの少しだけ違和感を覚えた。
自分は一般ではない。
だが――今は、反論しても意味がない。
「承知でござる」
ルーチェは一礼した。
礼儀は、強さの別名だ。
そして、踵を返す。
路地の外へ出ると、錬金都市の表の灯りが、何事もない顔で光っていた。
人々は歩き、笑い、買い物をし、炉の煙はいつも通りに空へ伸びる。
まるで、裏で命が砕けたことなど――最初から存在しなかったみたいに。
ルーチェは、肩のテリアをそっと撫でる。
テリアは、小さく鳴いた。
不安ではない。
警戒の鳴き声だ。
「……静かに、波乱が始まるでござるな」
白光の魔導士は、夜の匂いを胸に刻んだ。
嵐は、まだ来ていない。
だが――
もう、溜まっている。
そしてその嵐の中心に、あの闇がいる。
ルーチェは、空を見上げた。
白い塔群が、夕闇に黒く伸びている。
空へ向かうのではない。
地の底へ刺さっていくみたいに。
――錬金都市エクリヴァル。
この街は、今日も静かに笑っていた。
だが、その静けさの底で。
確かに、何かが動き出している。
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