第一章 錬金都市エクリヴァル ー 白光の魔導士
列車は、まだ動いていなかった。
蒸気と魔力の匂いが混じる駅構内で、巨大な鉄の塊が低く唸り声をあげている。
まるで眠れる魔獣のようだ――
そう思い、ルーチェは思わず足を止めた。
これに、乗るのでござるか。
剣も、魔法も、幾度となく経験してきた。
だが、列車は初めてだった。
人と荷と魔力を乗せ、決められた道を、光より遅く、
されど確実に進む鉄の箱。
ルーチェは小さな身体を腕に抱き直す。
眠るテリアの呼吸は浅い。
それでも、胸の上下は確かに、生きている証を刻んでいた。
――必ず、原因を突き止めるでござる。
蓮司から単独行動を許されたのは、信頼ゆえか、それとも覚悟を試されたのか。
だが考えるまでもない。やることは一つだった。
錬金都市エクリヴァルへ向かい、テリア覚醒の理由を探ること。
「ルーチェ様、まもなく乗車の時間です」
社員の声に、ルーチェは一度だけ列車を見上げる。
知らぬ世界へ踏み出すための、鉄の入口。
「……承知したでござる」
一歩。
白光の魔導士は、初めての列車へと足を踏み出した。
列車が動き出す瞬間というのは、いつも少しだけ胸が騒ぐ。
それは旅の始まりの音であり、
戻れぬ時間が確かに流れ出す合図だからだ。
「テリア殿のため、必ず糸口を掴むでござる」
同行する二階堂商会社員が、静かに頷く。
◇
「ルーチェ様。この列車に乗れば、
本日中に錬金都市エクリヴァルへ到着するそうです」
同行の社員が、時刻表を指でなぞりながら告げた。
ルーチェは「ほう」と小さく息を漏らし、列車を見上げた。
艶のある鉄の車体。規則正しく並ぶ車輪。
床下から伝わってくる低い駆動音は、腹の底で響き、
まるで巨大な魔法陣が眠りながら呼吸しているかのようだった。
蒸気と魔力の匂い。
あちらこちらで鳴る笛、金具の擦れる音、荷車の軋み。
駅構内は忙しないのに、列車だけがどっしりと落ち着いて見える。
眠れる魔獣。いや――眠れる術式の塊。
「なんと……まるで光のような速さでござるな」
ルーチェは真顔で頷いた。
光。すなわち白光魔法。直線。即達。遮るものなし。
――なるほど、人はこれを地上で再現したのでござるか。
自分の中で見事に納得している顔だった。
「……光ほどではないと思いますが」
社員が、極めて現実的な訂正を入れる。
「む? そうでござるか」
ルーチェは一度だけ瞬きをしてから、さらに真面目に考え込んだ。
光ほどではない。つまり――少し遅い。
「では……半光くらいでござるか?」
「いえ、そういう単位ではなくてですね……」
会話が噛み合わない。
しかし当人は一切気にしていなかった。
むしろ「半光」という新しい概念を自分の中で成立させ、
満足げに小さく頷く。
「……なるほど。半光列車」
「違います!」
社員が思わず声を上げ、慌てて咳払いする。
周囲の乗客がちらりとこちらを見る。
だがルーチェは、その視線を「珍しい魔導具でも見つけたのだろう」
とでも思ったのか、気にも留めず、案内に従って歩き出した。
――ところが。
ルーチェの足取りは妙に迷いがなかった。
迷いがない、というより、正しさに一切疑いがない。
彼女の中で「線路=一本の道」という世界が完成しているからだ。
自信満々に、別の列車へ向かっていく。
「あっ、ルーチェ様! それは反対方向の列車です!」
「――なんと!?」
ぴたり、と止まった。
振り返るルーチェの表情は心底驚いたものだった。
悪びれるとか、照れるとか、そういう色が一切ない。
ただ純粋に、「世界の仕様が思っていたのと違う」ことへの驚きだ。
「道は同じ線路の上でござろう?
ならば、どれも同じところへ行くのでは?」
「いえ、線路は途中で分岐しますし、行き先も違います!」
「分岐……?」
ルーチェは「分岐」という言葉を口の中で転がし、ゆっくりと噛み砕いた。
線路が、分岐。枝分かれ。
一本の道が、途中で二本になる。
いや、二本が三本になる可能性だってある。
「線路が……枝分かれ……?」
小さく首を傾げる。
傾げた角度が、理解できないというより、理解しようとしている角度だった。
「……魔法陣の方が、素直でござるな」
ぼそりと本音が漏れた。社員は思わず額を押さえた。
確かに魔法陣は分岐しない。分岐させたら爆発する。
しかし列車は爆発しないように作ってある――
その発想が、ルーチェの常識の外にある。
一瞬の騒ぎ。
駅員と社員が慌ただしく修正に入り、ルーチェは正しい列車へと導かれる。
「こちらです、ルーチェ様」
「うむ。助かるでござる」
何事もなかったかのように頷く白光の魔導士。
失敗を恥じる様子はなく、
むしろ新しい知識を得た子供のように目を輝かせていた。
――恥じる前に、学ぶ。
彼女の天然は、無邪気さというより、真っ直ぐさに近い。
やがて列車は、低い音を響かせながら走り出す。
床下の振動が、規則正しく腹に伝わる。
窓の外、景色がゆっくりと流れ始めた。
「……おお」
声が漏れた。馬車の揺れとも、船の浮遊感とも違う。
一直線に押し出されるような感覚。
それが速度を上げるごとに、体の芯に馴染んでいく。
フランヴァルの平原が一枚の絵のように引き伸ばされていった。
草の波が後ろへ逃げ、遠くの森が横滑りし、
雲の影だけが追いすがってくる。
「景色が……動いておる……」
当たり前の現象に、純粋な感動を覚える。
その言い方が、どこか魔法の発動を見たときのものに似ていた。
世界が、仕組みで動いている。そのことが、ただ嬉しい。
遠くには、鉄道都市クロスヴァルの影。
無数の線路が絡み合い、都市そのものが巨大な魔導装置のように見えた。
ルーチェはその姿を、じっと見つめる。
「なるほど。これは……便利でござるな」
しみじみと呟きながら、ルーチェはテリアを抱く腕に、そっと力を込める。
眠る小さな身体は軽い。
けれど、その軽さの中に“守るべき重さ”がある。
初めての列車。初めての速さ。
そして――初めて向かう、錬金都市。
「……待っておれ、テリア殿。半光でも、十分速いでござる」
社員が「だから半光は違うんです」と言いかけて、やめた。
今は訂正よりも、ルーチェの決意の方が大事だと分かっている。
白光の魔導士は、知らぬ世界へと運ばれていった。
無邪気な驚きと、静かな覚悟を、同じ腕の中に抱いたまま。
◇
列車は、快調に走り続けていた。
規則正しい振動。床下から伝わる、低く安定した駆動音。
その音は、最初こそ「鉄の魔獣が唸っている」
としか思えなかったのに、いつの間にか――
呼吸のように馴染んでいた。
窓際の席で、ルーチェは流れていく景色をじっと眺める。
平原。林。街道。
すべてが一定の速度で後ろへ消えていく。
それは魔法みたいに見えるのに、魔法ではない。
人が作った仕組みで、世界が動いている。
「……なるほど。歩かずとも進むとは、不思議なものでござるな」
ルーチェの声は小さい。
感嘆というより、確認だ。
目の前の現象を、ちゃんと自分の世界に組み込もうとしている声。
二階堂商会の社員たちは、交代で周囲の警戒を続けていた。
通路側に座る者、窓の外を見張る者、荷の位置を確認する者。
けれど肩の力は抜けている。
この区間の列車移動が、彼らにとっては日常の移動であることが、
所作の端々に滲んでいた。
もちろん、油断ではない。
この鉄路は安全だから平和なのではなく、
危険だからこそ「慣れ」が磨かれているのだ。
「列車というものは、実に合理的でござるな」
「慣れると、馬車には戻れませんよ」
社員が笑う。
その笑いは、緊張を忘れた笑いではない。
危険を知ったまま、日常を回す人間の笑いだ。
――そして。
そのいつもの揺れが、ほんのわずかに変わった。
車体の奥から、金属が噛み合う音。
速度が落ちる直前の、空気の詰まり。
ルーチェは言葉にしないまま、
抱いたテリアの重さを確かめるように腕に力を込めた。
『緊急停止、緊急停止。
前方線路上に魔物の群れを確認しました』
車内放送が、唐突に空気を切り裂く。
――冷たい声。訓練された声。
慌てていない。慌てさせないために、一定の温度で告げる声だ。
一瞬、ざわめきが走る。だが、悲鳴は上がらない。
乗客たちは顔を上げる。
視線を交わし、次に来るものを理解していた。
恐怖より先に浮かぶのは、「またか」という空気。
この鉄路では、魔物は天災に近い。
雨が降る。風が吹く。列車が止まる。魔物が出る。
――それが、日常に組み込まれてしまっている。
誰かが小声で呟いた。
「……次の駅、遅れるな」
別の誰かが肩をすくめる。
「いつものことだ」
諦めでもない。受け入れでもない。
生き延びるための処理だ。
次の瞬間。列車が、重い衝撃と共に停止した。
床がぐん、と沈む。荷物が軋み、吊革が一斉に揺れた。
ルーチェの身体も前へ持っていかれそうになるが、
足が自然に踏ん張る。
白光の魔導士は、こういう瞬間に転ばない。
ほぼ同時に、車両の扉が開いた。
――外気が流れ込む。
鉄と草と、微かな血の匂い。
戦場の匂いが、列車の中へ入り込んできた。
剣士、魔導士――装備の整った者たちが、
迷いなく外へ飛び出していく。
クロスヴァル専属。
鉄道を守るために配置された、戦闘要員たち。
陣形。役割分担。
前に出る者、後ろで詠唱を整える者、乗客を落ち着かせる者。
誰一人、声を荒げない。むしろ静かだ。
静かだからこそ、慣れているのが分かる。
魔物との距離感すら、日々の巡回業務の延長。
仕事として殺し、仕事として守る。
そんな空気が、扉の向こうで整然と動いていた。
「……慣れておるのう」
ルーチェは、その光景を見つめながら静かに立ち上がる。
胸の奥に、淡い灯りが点る。
白光の魔力が、意識の底でゆっくりと起動する。
加勢するべきだ。守るべき命が、腕の中にある。
そして守るべき人が、車内にもいる。
そう判断した――その矢先だった。
扉の向こうの空気が、別の意味で割れた。
いつもの停止。いつもの対応。
――そのはずの「日常」が、ほんの一拍だけ、狂う気配がした。
◇
「……遅い。私が終わらせるね」
軽い。あまりにも軽い声音だった。
戦場に似つかわしくない、退屈を紛らわすような響き。
その一言だけで、空気が――歪んだ。
魔力の流れが乱れ、視界がわずかに揺らぐ。
闇がそこに在るのではない。
闇が、周囲を侵食し始めたのだ。
前へ出たのは、一人の魔導士。
整った顔立ち。無駄のない所作。
黒衣は深く艶やかで、まるで夜そのものを纏っているかのようだった。
――美しい。
だが、その美しさは、刃に似ていた。
触れれば、必ず血を見る類のものだ。
次の瞬間。闇魔法が放たれる。
詠唱はない。躊躇もない。
凝縮された黒が、魔物の核だけを正確に抉り抜き――爆ぜた。
遅れて追いついた衝撃が、肉体を内側から裂き、
骨も皮も意味を失わせる。
吹き飛んだ肉片が雨のように散り、地面を染めた。
悲鳴は上がらない。声帯が、叫ぶ前に蒸発した。
――殲滅。
ただそれだけの結果だった。
なのに。魔導士は、その光景を鑑賞していた。
瞳は細められ、口元には、うっとりとした笑みが浮かんでいる。
勝った笑みじゃない。相手を倒した達成感でもない。
もっと浅い。もっと醜い。
もっと本能的な――快楽。
それも、抑えきれない種類のもの。
肩が、ほんのわずかに震えた。呼吸が、ひとつだけ甘くなる。
まるで喉の奥で、何かが満たされていく音を聞いているみたいに。
そして、その満足が終点にならないことを――
本人だけが、よく知っている。
だが――闇は、そこで終わらなかった。
本来なら、撃って、止める。
魔力を収束させ、余波を切り落とし、次の標的へ移る。
それが戦闘の理性だ。
なのに彼女の魔力は、止まらない。止まれない。
制御されるべき闇が、なおも膨張を続ける。
黒は波紋のように広がり、地面を濡らす水面のように脈打ちながら、
周囲の色を奪っていく。
闇がある、のではない。闇が――増殖している。
味方の陣形すら呑み込もうと、黒が指のように伸びた。
その動きは狙いを定めた攻撃ではない。
飢えが、勝手に手を伸ばしているだけだ。
破壊の衝動が、魔法の縁を越えて滲み出ていた。
壊したい。消したい。もっと、もっと。
その欲求が、仮面の下から漏れ出しているのが、はっきりと分かった。
声にしなくても分かる。
目が言っている。唇が言っている。皮膚の下の刻印が、
黒い脈動で言っている。
――足りない。
――まだ足りない。
美しさの裏にあるのは、理性ではない。
抑え込まれた狂気だ。
いや、抑え込まれているふりをしている狂気だ。
薄い膜一枚で社会をなぞり、
戦闘が始まった瞬間にそれを破って飛び出す。
そしてそれは――
次の瞬間、確実に仲間をも巻き込む規模へと変わりつつあった。
黒が、嬉しそうに広がっていく。
彼女の笑みが、もう少しだけ深くなる。
まるで――味方も敵も区別できないのではなく、
区別する必要がないとでも言うみたいに。
◇
「何をしているのじゃ!」
叫びと同時に――白光が走った。
否、走ったのではない。切り裂いた。
空気そのものを真っ二つに割り、
闇の伸びる軌道へ、光が一直線に差し込む。
ルーチェの身体が、迷いなく前へ出る。
小さな足が一歩踏み込んだ瞬間、
足元に展開された魔法陣が――弾けた。
ぱ、と花が開くように。
純白の紋が地面に刻まれ、次の刹那、光が奔流となって噴き上がる。
眩い。熱い。だが焼き尽くすための光ではない。
守るためだけに研がれた、刃のない鋼のような光だ。
次の瞬間、光は盾へと形を変える。
円弧状に広がった白光が、剣士と魔導士たちを包み込む。
闇が触れた瞬間、激しい火花が散り、空気が悲鳴を上げた。
白と黒が擦れ合う音が、耳ではなく骨に響く。
踏ん張る足元が、微かにきしむ。
――ドン、と。
闇と光が衝突する。
圧縮された魔力同士の激突が衝撃波となり、大地を揺らした。
土煙が巻き上がり、視界が一瞬、白と黒に塗り潰される。
その中心で、ルーチェは踏みとどまっていた。
足は動かない。腕も、揺れない。光は、揺らがない。
守るべきものが、明確だからだ。
ルーチェの眼は一点に据えられ、
瞬きすら惜しむように闇の伸びを捉える。
次にどこへ触れようとしているか。
誰を呑み込もうとしているか。
それを見切り、先に塞ぐ。
白光が静かに収束していく。
押し返すのではない。押し戻す。
闇の指先を一つずつ折り、余剰を削ぎ落とし、
拡がりそのものを失速させる。
やがて、闇が押し返され、霧散する。
――静寂。
砂塵の向こう。黒衣の魔導士が、ゆっくりと顔を上げた。
視線が、重なる。ルーチェは、何も言わない。
詠唱も、警告もない。ただ、真っ直ぐに睨んでいた。
声を出せば、揺れる。
言葉を挟めば、相手の闇に隙を与える。
だから黙る。黙って、意思だけをぶつける。
白光の奥にあるのは、怒りではない。
恐れでもない。
ただ一つ。
「それ以上、踏み込むな」という命令のような意思だけだ。
黒衣の魔導士は、ほんの一瞬、その視線を受け止める。
刹那。感情のない、冷たい一瞥。
そこに驚きはない。怒りもない。
あるのは――評価ですらない、無関心。
まるで「もう用はない」と言わんばかりに、視線が外れる。
魔導士は踵を返した。
白光を背に、戦場に背を向ける。
歩みは緩やかで、迷いがない。
開いたままの列車の扉へ向かい、振り返ることもなく、
そのまま乗り込んでいく――
が、扉の縁で、ほんの一瞬だけ立ち止まる。
――ちらり、と。
再び投げられる一瞥。
それは確認でも、挑発でもない。
「覚えておく」という、無言の宣告だった。
次の瞬間、黒衣の魔導士の姿は列車の中へと消える。
誰も、引き留められない。
誰も、声を出せなかった。
残されたのは、消えかけの闇の残滓と、淡く輝く白光だけだった。
◇
「……ルーチェ様」
背後から、控えめな声がかかる。
戦闘の緊張がほどけきらぬまま、
二階堂商会の社員が駆け寄ってきていた。
ルーチェは、すぐには振り返らない。
まず腕の中――テリアの小さな身体を、そっと抱き直す。
微かな呼吸。かすかな温もり。
生きている。
その事実を確かめてから、ようやく、静かに口を開いた。
「あれは――相当な魔術師じゃ」
断定。称賛でも、恐れでもない。
ただ、現実だけを切り取った声だった。
今の一撃。詠唱なし。躊躇なし。
闇を圧縮し、芯だけを貫いて爆散させる精度。
あれは偶然ではない。技術だ。鍛え上げた力だ。
だからこそ、ルーチェは次を言う。
「だが、己の魔力を過信し、殺戮を楽しんでおる」
言葉の温度は変わらない。
けれど、刃の向きだけがはっきりする。
強い。――だから危険なのだ。
強いのに、止まれない。
強いのに、止まろうともしない。
視線はなおもテリアに向けられている。
先ほどの惨状の影は、その瞳には宿っていなかった。
あるのは冷静な理解だけ。
そして、理解した上での拒絶だった。
「黒魔法を扱う者が、皆あのようではない」
言い切って、ほんの一拍。
ルーチェの胸の奥で、白光が静かに芯を作る。
正しく恐れる。誤って憎まない。
その区別は、守る者に必要な礼儀だ。
「……だが、拙者とは相容れぬ者じゃ」
短い。けれど、揺るがない。
守るために力を振るう者と、壊すことに酔う者。
その境界線は、曖昧にしてはいけない。
一度曖昧にすれば、次は守るべきものが壊れる。
だから、ここで線を引く。
認める。認めたうえで、決して交わらないと決める。
やがて、最後の魔物が倒される。
戦場のざわめきが消え、鉄道警備隊が黙々と後処理に入る。
血と魔力の匂いが、風に流されて薄れていく。
――ゴトン。
列車が、再び動き出した。ゆっくりと、確実に。
まるで、何事もなかったかのように。
窓の外、景色が再び流れ始める。
白光だけが、淡く、車内に残っていた。
◇
錬金都市エクリヴァル。
無数の研究塔が天へと伸び、叡智と禁忌が、
同じ地平で平然と交差する都市。
ここでは救いすら研究対象で、
破滅でさえ理論として棚に並べられる。
白光の魔導士が向かう先に待つものは――
ひとつだけ、はっきりしている。
テリア覚醒の真実。
その原因を掴むこと。
眠りの奥に沈んだ命を、確かな答えで引き上げること。
もちろん、その道の先で出会うかもしれない。
真実ではなく、触れてはならぬ魔導の闇に。
答えは、まだ霧の向こうだ。だが、迷いはない。
守るべき命を胸に抱き、白き光はただ前へと進む。
何のために行くのかを、決して取り違えないまま。
列車は走る。
鉄と魔力が生む軌道の上を、静かに、確実に、未来へ向かって。
やがて辿り着くその都市で――
テリアの覚醒をめぐる真実は、必ず形になる。
そして同時に、光と闇は、再び相まみえる。
物語は、そこで待っている。
◇
――汽笛が、短く鳴った。
金属と魔力の匂いが混じる空気が、窓の隙間から流れ込む。
列車は減速し、やがて重い鉄の塊が止まるという現実を思い出したように、
ゆっくりと息をついた。
駅舎の外には、白い塔がいくつも突き立っている。
天へ伸びるというより、空を突き刺し、裂き、
そこから何かを吸い上げているような形だった。
錬金都市エクリヴァル。
到着。
扉が開く。
足元の石畳は煤で黒ずみ、風は薬品の甘さと焦げた苦さを運んでくる。
ルーチェは一歩を踏み出しかけ――
その瞬間、腕の中の温もりが、微かに動いた。
「……?」
眠っていたはずのテリアの身体が、ぴくり、と震える。
小さな翼がこわばったまま開き、喉の奥から細い声が漏れた。
「きゅ……」
その鳴き声は、泣き声に似ていた。
けれど同時に、目覚めの合図でもあった。
ルーチェは息を止める。
すぐに、優しく抱え直した。
「……テリア殿」
ホーリードラゴンの黄金の瞳が、ゆっくりと開く。
焦点が合うまでのわずかな間、光の膜が揺れた。
そして――テリアはルーチェを見上げ、
確かめるように小さく鼻を鳴らした。
ルーチェは、そっと微笑み、テリアを肩へ乗せる。
小さな爪が外套の布を掴み、そこに居場所を作った。
肩の重みが、祈りを“使命”に変える。
レイヴァルでは見つけられなかったものがある。
魔導書。歴史。失われた錬金の記録。
残されている可能性が、この街にはある。
だから来た。だから、ここで掴む。
ルーチェは白い外套を整え、駅の喧騒へ視線を通す。
人の目は鋭く、塔の影は長く、風はどこか不吉に甘い。
それでも、足は止まらない。
「……参るでござる」
白光の魔導士は、目覚めたホーリードラゴンを肩に乗せ、
錬金都市エクリヴァルへ――確かに、足を踏み入れた。
◇
宿は、二階堂商会の社員がすでに手配していた。
エクリヴァルの宿は寝る場所ではない。隠れる場所だ。
だから入口の鍵は二重で、窓は厚く、廊下はやけに静かだった。
荷を置き、最低限の確認を終えた頃には、
外はもう夕方の色になっている。
塔群の影が長く伸び、煤けた空に炉の火だけが赤く滲んだ。
――普通なら、ここで一息つく。
だが、ルーチェは外套の紐を結び直していた。
肩のテリアが、小さく「きゅ」と鳴き、外の匂いに鼻先を揺らす。
「ルーチェ様……まさか」
同行の社員が、半歩遅れて声をかける。
「もう今日から探されるのですか?
到着したばかりですし、日も――」
ルーチェは振り返り、真顔で頷いた。
迷いのない頷きだった。
「うむ」
そして当たり前のことを言うように、さらりと続ける。
「まだ空いているところは、あるでござるからな」
「空いているところ……?」
社員が首を傾げると、ルーチェは少しだけ胸を張った。
誇るのは知識ではなく、間に合うという直感だ。
「文献が残る場所は、閉まる前が勝負でござる。
夕方は皆、飯と酒と炉に寄る。
ならば、今が……隙でござろう?」
妙に筋が通っている。
しかも、本人はそれを当然の常識として言っている。
「……承知しました。ただ、エクリヴァルの道は複雑です。
迷われると――」
「迷わぬ」
即答。
ルーチェは真顔のまま、きっぱりと言い切った。
その断言に、社員は一拍だけ黙り――
すぐに、荷の中から地図を取り出した。
折り畳まれた紙には、塔の区画、通りの呼称、
禁止区域の印まで書き込まれている。
「こちらを。迷わないように」
言い方は丁寧だが、実質は“迷前提である。
ルーチェは地図を受け取り、じっと見つめた。
上下を一度だけひっくり返す。
左右も一度だけひっくり返す。
そして、納得したように頷いた。
「……なるほど。紙の魔法陣でござるな」
「地図です」
「うむ。地図の魔法陣でござる」
社員が遠い目をした。
ルーチェは地図を丁寧に懐へ収め、扉へ向かう。
肩のテリアが、不安げに翼をすぼめて外套を掴んだ。
ルーチェはその小さな爪に、そっと指を添える。
「本日は近場のみ当たるでござるよ」
言葉は穏やかだ。
だがその奥にあるのは、
今日のうちに一歩でも進めるという固い意思。
扉を開ける。煤と薬品の匂い。
塔の影。遠くの爆ぜる音。
そして――知識が眠る街の気配。
白光の魔導士は、再び街へ降り立った。
夕方のエクリヴァルへ。眠りかけた真実を起こしに。




