プロローグ
魔王城の最奥。
血のように赤い魔法陣が床一面に広がる広間。
瓦礫と死の気配が満ちたその空間で、魔王は嘲笑を浮かべていました。
「無駄な足掻きだ、人間どもよ」
勇者様の剣が魔王の胸を貫きます。
…しかし、何度貫こうとも魔王はすぐに蘇ってしまいます。
そう…それこそが、この戦いに絶望の感情を齎す原因でした。
——しかし、私は知っています。
……この魔王を完全に討つ方法を。
…それは、《聖なる浄化》と呼ばれる禁忌の魔術。
聖女である私が、己の命を捧げることで果たせる最期の祈りです。
禁忌の魔術ではありますが、今回の討伐に当たり教会からも国王様からも直々に使う許可はいただいております。
既にボロボロになって戦う仲間達を見渡しこれ以上は無理な事を悟りました。
本来ならもっと早く決断するべきだったのかもしれません。
しかし、ひょっとしたら使わなくとも済むのではないかという私の傲慢な願いの為に、戦いをここまで引き延ばしてしまいました。
…しかし、これ以上仲間を傷付けられる事は許せません。
……そう、
「……これで、終わりです」
私は静かに微笑み、一歩、魔法陣の中心へと進み出ます。
「聖女様?」
勇者様が、何かを感じ取ったのか不安げな声を上げました。
彼の青い瞳は私を真っ直ぐに見つめています。
「待て、何をする気だ!」
戦士が慌ててこちらに向かって手を伸ばしました。
戦士の横ではエルフで魔術師のルミエール様が、美しい顔を曇らせています。
「……まさか」
長くしなやかな耳が震えているのがわかりました。
「聖女セリア、あなた…まさかあの術を使うつもりなの…?」
彼女は理解したのでしょう。
魔術に精通している彼女には、やはり私が何をしようとしているのかわかってしまうのですね。
「そんな…ダメよ…」
ルミエール様の澄んだ翠色の瞳が悲しげに揺れています。
そんな彼女に私はゆっくりと首を振りました。
「これしか、方法がないのです」
「それでも……あなたを犠牲になんてしたくなんかない…」
いつも明るい彼女からは考えられないような悲痛な声です。
でも、きっとこの魔術でなければ魔王を倒せない事もそれを私が望んでいることも理解しているのでしょう。
彼女の表情は抵抗と葛藤の含まれる複雑なものとなっていました。
私たちは人類の希望を背負ってここに立っています。
だからこそ、自分たちの気持ちよりも優先するべきものがあるのです。
どんなに胸が締めつけられるような気持ちであろうとも、納得できなくても成さなければいけない事があるのです。
「聖女さま!!」
勇者様が迷いのない様子でこちらへと駆け寄ろうと…私の手を掴もうとしているのが視界に入ります。
——本当は、もっと一緒にいたかった。
彼らと共に過ごした日々は、どれもかけがえのないものでした。
笑い合い、励まし合い、時には些細なことで喧嘩して——
そして、気づけば彼らの存在は私にとってとても大きな存在へと変わっていました。
私の人生において何よりも大切な…幸せな時間でした。
「…大丈夫です」
私は微笑みます。
「……ありがとう。今まで、たくさんの幸せをくれて」
勇者様達の顔が、苦しげに歪みました。
「聖…セリア、やめろ!! 俺は——」
彼の言葉を聞く前に、私は祈りを捧げました。
「神よ。どうか、世界をお救いください」
黄金の光が、私の身体からあふれ出します。
それと同時に魔王が、絶叫を上げ始めました。
勇者の声が、光にかき消される直前に僅かに聞こえた気がしました。
「セリア! 俺は……っ!」
指先が触れる直前…
その先の言葉を、私はもう聞くことができませんでした。
——でも、きっと。
私のことを、大切に思ってくれていたのだと思います。
仲間として、友人として…
それだけで、十分でした。
光がすべてを包み込みます。
魔王の叫びが徐々に遠ざかりました。
勇者様の手が、私を掴もうとしたまま、虚空を切ります。
ルミエール様が、精一杯眉間に皺を寄せて唇を噛みしめるのが見えました。
ルミエール様の隣にはいつでも悠然と構えていた戦士の茫然とした様子も見えます。
幸せでした。
最後の瞬間に、私は人として生きることができたから…
——ありがとう、勇者様…ありがとう、みんな。
そう、心の中で告げながら——
ーー光の中で静かに、私は魔王と共に消えていったのです。