凡人から天才へ
「今回のテストの結果さいあくー」
夕日を眩しく感じているとどこからともなくそんな声が聞こえてきた。
高校二年生7月。
校内にはついこの前行われた期末テストの順位が職員室前の掲示板に張り出されていた。
掲示板の一番右端に目を向けると水戸さくらという名前が書かれていた。
そこから左に向かって名前を確認していき自分の名前を見つけると同時に隣から「うああああああ」と友人の断末魔のような叫びが僕の左耳を貫いた。
顔を両手で覆う彼をチラリと見てすぐに今度は左から掲示板を見ると彼の名前がすぐに見つかった。
「ツルどうしよ俺留年しちゃうよ...」
そんなこと言われても僕にはどうすることもできないと思いつつ投げかける言葉を探していると
「下から5位なんて結果を公開するなよなープライバシー的な問題でダメじゃね?」
なんてすでにケロッとした顔で冗談が言えているようなので心配には至らないだろう。
「下の奴らだけ名前隠したところでどうせバレるだろ?」
「むむ、、、確かに。ところでツルは何位だったんだよ」
ここで本当の順位を言ってしまったときには再び僕の左耳が彼の叫びによる深刻なダメージを食らってしまうと思ったがどうせ掲示板に書いてある順位はバレてしまうから本当の順位を言うことに決めた。
「上から5位。」
「はあああああああああああああ?」
やはり、この野球バカの声はでかい。
周りの注目を集めつつ再び彼が口を開く。
「やっぱりツルお前天才だな!!」
彼のその言葉を聞いて少し虚しくなる心に服をきせ笑顔で「まあな!」と返した。
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家に帰るとあずきが尻尾を振って喜んでいた。
胴が長く、小豆みたいに美味しそうな毛色をした彼を庭にあるドッグランに出してやる。
ドッグランと言っても大したものではない。大きさ的には高校球児のバッテリーがブルペンとして使うことができるぐらいだろうか。
あずきの息が上がり始めた頃を見計らって庭にある犬用の水道に連れて行き、足やお尻などを洗ってやる。
あずきを抱えて家の中に入ると同時に「ただいま!!」と近所の小学生の元気な声が聞こえてきたと思ったのだが振り返ると中学3年生になる妹がそこに立っていた。
「中学生らしくないな」
「はい?大丈夫?熱中症?二年も前から中学生なんですけどー!」
と言いながらリビングへ妹は進んでいく。
心の声が漏れてしまい一時は焦ったが、妹はそう悪いやつじゃない。
最近の女子中学生はませているとよく聞くが、兄にそっけなくなることもない、親にも反抗的ではない。
むしろ、我が家の太陽的な存在である。明るく、熱く、元気で、うるさくて、声がデカくて、バカ。
親が帰ってくる前に学校の宿題を終わらせ、夕食後は予習、復習の時間に当てる。
これが僕の日常である。
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次の週の月曜日、学校に着くと掲示板に大きく張り出された学校新聞が目に入った。
学校新聞は新聞部が学校のイベントやスクープなどを取り上げて関係者にインタビュー許可や写真撮影などの交渉をし毎週更新されている新聞らしい。
今週の新聞は『中間テスト学年1位水戸さくらにインタビュー』という内容だった。
新聞に載っている写真はふわりとした髪の毛が背中まで伸びていて、透き通るような白い肌に、全てを飲み込んでしまいそうな大きな瞳をした彼女が屈託のない笑顔でピースサインをしている写真だった。
こういうインタビューの写真は座りながら話している様子を撮影するものなのではないのかと思いながら彼女の姿に少し見入ってしまう。
好き嫌いはともかく彼女のことを学校内の多くの人は美人だと思うだろう。それぐらいに彼女は魅力的だった。
我に帰りインタビューの内容に目を通す
「水戸さんは今回で6回目の一位ですか?」
「数えてないのでわからないですけどずっと一位は獲り続けてます!」
「どれぐらい勉強されていらっしゃるんですか?」
「うーん、どうだろうなー」
「秘密ですか?」
「いや、そういうわけじゃないんですけど。とりあえずたくさん勉強しています!!」
「好きな授業とかはありますか?」
「・・・体育ですかね。」
「それはなんか意外ですね笑 理由とかはありますか?」
そこまでインタビュー内容を確認して僕は見るのをやめた。
馬鹿馬鹿しいと思ってしまったのだ。
同じクラスメイトは知っている。彼女はほぼ全ての授業で眠っていることを。
授業聞かずに勉強していないから勉強時間を聞かれて戸惑ってしまったこと。
好きな授業科目を聞かれて寝ることができない体育と答えたこと。
始業チャイムが鳴った。
騒がしくて、やけに明るいその音に僕は苛立ちを感じた。
教室内の僕の座席は窓際の一番後ろの席だ。
いわゆる主人公席とでもいうのだろうか。顔を上げると坊主頭が見える。別に前の席があの野球バカなのではない。
ただ、前の席の彼女はいつも寝ているからその前の席の野球バカの坊主頭が目に入るだけだ。
「固体から液体に状態変化するときに必要な熱を何というか? 高橋!」
化学教員の声がクラスに響き、坊主頭の彼が起立する。
「固体液体熱です!!」
やはりバカだ。クラスメイトは苦笑している。3人を除いて。
「違うわ!ちゃんと聞いておけ!!」
真剣な眼差しで答えた高橋は座らされた。
「じゃあ、次〜 水戸!」
僕の前で、すやすや眠りについている彼女が指名された。
しかし、クラスの風景は一向に変わらない。
「高橋、水戸を起こしてやれ」
化学教員の指示に従い高橋は後ろの席の彼女の肩を叩く。
「わあああっぶ!!」
彼女は体をビクつかせながら飛び起き、謎の言語を発した。
クラスの視線がより一層彼女に集まる。
皆の視線が気になったのか「なんでしょうか?」とだけ言葉を発して化学教員の顔をじっと見つめている。
ありえない。僕だったら絶対に一週間は学校に来ない。なんなら、早退してすぐにでもこの場から立ち去る。
「なんでしょうかじゃねえよ!個体から液体になるときに必要な熱はなんているか聞いてんだよ」
面倒くさそうな様子だが状況説明をちゃんとしてあげるあたり優しさが出てるなと思っていると
「微熱!!」
と甲高くうざいほど元気な声がクラスに響いた。
クラスの中心で笑いの渦が発生している。
「アホ!寝てんじゃねえよ!!」
と化学教員のドスのきいた声が響くとクラスは静まり返り彼女は肩を少し落として席に座った。
「じゃあ、鶴見答えろ」
明らかに不機嫌になっている様子を見せる化学教員に指名された僕は席に座ったまま「融解熱」と答えその場をやり過ごした。
化学の授業も終わっても、まだ多くの授業があったが頭に入りそうになかったため一日中窓の外を眺めて過ごした。
太陽が雲に隠れていった。
学校の帰り道、雨が降った。
雨宿りのために入ったお店はなんの店だかいまいちわからない。
アクセサリー店と呼ぶには物騒で店内は暗く、甘い香りとミントのような香りが混ざったような匂いがしている。店内の壁にはポスターが貼られており顔が白く塗られているバンドや頭がトゲトゲしている上半身裸の人の写真が貼ってある。
売り物には指輪などが多く売られているようだが僕の知っている指輪はこんなドクロはついていない。
「高校生? 珍しいねえ」
突然声をかけられて体が大きく反応してしまった。
「ごめんごめん!脅かすつもりはなかったんだ」
声のする方を見ると金髪で身長は僕より少し高めの中性的な顔立ちをした人がタバコを咥えて立っていた。
「あーなるほど、雨か」
と外を見て彼はつぶやいたので
「はい、すみません」
とだけ返事し、僕は俯く。
「いいよ別に!好きに雨宿りしていきな!」
その言葉を聞いて僕は少しほっとした。なるほど、彼が店員さんか。ほっとすると自然と相手の顔が見れるようになるものだ。
「気になるかい?」
なんのことだろうと思い「えっ」という言葉が既に口から漏れていた。
「た・ば・こ」
ゆっくりと丁寧に発せられたタバコという言葉。
タバコが気になっていないと言えば嘘になる。なんせ、僕の周りでタバコを吸っている人がいないため間近で見るのすら初めてである。
「気になるなら消すよ?」
「いやっ!そういう気になるではなくて興味があるというか...」
そうか。気になるというのは僕のことを気遣ってくれた言葉だったのかと今気づいた。
「あっはは!タバコに興味があるかー悪い高校生だね」
目を細めてニヤニヤしながら店員さんは楽しそうに笑っている。
「いや、別になんで吸ってるのかって疑問に思っただけです。」
「ほう、なるほど。理由かー」
店員さんは顎に手を当てて首を傾げ考えているようなあざとい仕草をしている。男だけど。
「現実逃避できるんだよ」
「現実逃避ですか?」
「そう!嫌なことを考えなくなる時間かな。まあ、高校生では嫌なことあまりないか!」
嫌なことと聞いて僕の心臓が気まずそうにしていた。どうやら僕の心には何か覚えがあるのかもしれない。
「高校生だって嫌なことぐらいありますよー」
顔に笑顔を貼り付けていつもより少しだけ高い声で答える。
「そっかそっか!ごめんごめん!あとは息抜きだね!」
「タバコが息抜きになるんですか?」
「もちろん、頑張る自分を支えてくれるものの一つだね」
その言葉を聞いて僕の目線はタバコにしか向けられなくなった。
「相当興味があるんだね」
店員さんの言葉を聞いてハッと我に帰った。
「吸いたい?」
「...」
問われて困ってしまった。今の僕では断ることができないとわかっていた。それは店員さんにも伝わったようで
「吸うのは構わないけどさ全部自己責任だよ。俺も初めて吸ったのは未成年だったよ。でも、それは自分が許したことだからいいんだ。俺の体は誰のものでもなく俺のものだからね。」
雨が上がり、僕は店を後にした。
頭が痛くて胸が苦しく喉には異物感がある。しかし、心はどこか晴れているように感じた。
次の日の朝、とある噂が流れてきた。水戸さくらは超有名な予備校に通っていると。その予備校は授業料が年間100万円以上かかると言われている。
だが、実績も大変素晴らしく日本一の大学と言われている帝東大学合格に数多くの生徒を導いているらしい。
「そういうことか、、、」
心の中から漏れた声と強く握られた自分の拳に気がついたのは朝のチャイムがなったときだった。
同時に担任の先生がクラスに入ってきた。何やら廊下で騒がしい声も聞こえる。
「キーンコーンカーンコーン!」
チャイムの音ではない。甲高い声だ。
美人が笑顔でチャイムを真似た声を上げながら走り込んできたのだ。
「恥ずかしいからやめろ!早く席につけ!」
「へーい!」
気怠げに返事をし美人は僕の前の席についた。
ラベンダーの香りが僕を包んだ。
全くもって似合わない。
「今から進路希望調査書を配るぞー期限は一週間以内に提出すること」
担任の声が聞こえ朝のホームルームが始まったことに気づく。
前の席のラベンダーとは似ても似つかないクラスメイトからプリントが配られる。
「はいこれ!」
「ども」
軽く受け答えをしプリントに目を通すと第一希望、第二希望、第三希望という言葉が一定の間隔を空けて記入されていてそれぞれの文字の下に生徒が記入する用の空欄があるようだった。うちの高校は県内でも有数の進学校でありほとんどの生徒が大学進学を希望している。
僕の進路選択は既に決定している。僕は背中を丸め机に覆い被さるような形でプリントに大学名を記入した。
帝東大学。
「ツル!どっか遊び行こうぜ」
高橋に声をかけられた。様子を見る限り暇そうな様子だ。彼は野球部に所属している。野球部といえば練習づけの毎日に日々体に鞭を打ってひた走るイメージだがどうやらうちの学校は部活動に力を入れていないため野球部も同好会に近い状態になっているらしい。ほんと暇を持て余してる野郎だ。
「ごめん、今日はちょっと家の用事があるから帰るわ」
「おお、そっか」
僕は彼に断りを入れて走って教室から立ち去った。廊下で固まって歩いている女子たちが非常に邪魔だ。仕方なく後ろについて歩いているが甲高い声がうるさくて苛立つ。
「さくら!後ろ後ろ!」
「え?あ、ごめーん!」
どうやら、集団の一人が僕に気づいて道を開けるように美人の彼女に声をかけてくれたようだ。
美人の彼女は悪気のなさそうな笑顔を浮かべ、両手を胸の前で合わせている。
僕は無言で彼女の横を通り過ぎて走り出した。
「また明日ねー!」
後ろから甲高い声が響き渡る。
「さくら、今の人と知り合い?」
「クラスメイトの子だよ。確かツルくん?」
「何それ、あだ名じゃなくて?」
「苗字がツルなんだよ。きっと。」
そんな会話まで聞こえてきて余計に腹が立つ。下のやつには興味がないってか。いやでも視界に入れてやると心に決め、家に着くなり勉強を開始した。
しかし、長くは集中することができず文章を読んでいるとつい意識が文章へは向けられなくなっていた。
気づけば頭の中で彼女の声や仕草が繰り返し上映されている。
そんな自分に、いや彼女に苛立ちが募る。
「僕はこんなにも、、、」
心から声が漏れてしまったことに気づき途中で止める。
こんな状態では勉強もできまいと思い気分転換に机の引き出しから5 mgのタバコを取り出し口に咥えた。
「カチッ」
カプセルを潰すと僕の心も弾けた。
ライターの火とタバコの先端が重なる瞬間。身体中の血が全身に巡り身が震えるような感覚がして思わずにやけた。罪悪感とか後悔ではない。心の奥底から僕の全てが解き放たれるようなそんな感覚。
ひと吸いすると頭の先から足の先まで電気が走ったように感じたがそれすら心地い。そんな体の反応とは逆に心は温かな毛布で包まれるような感覚だった。
そのとき、ガチャッとドアの扉が開かれ母が立ち尽くしている。
母と目が合う。
まるで、僕が時間を止めてしまったのかと思えるほど長い硬直。不思議と音が何も聞こえずタバコ臭いと感じていたこの空間でさえ無臭だ。母の表情も何一つ変わらない。僕の思考は止まっていないようで今日は仕事が早く上がれたのだろうかとか父はまだ帰ってきていないのだろうかなど頭の中ではこの空間とは対照的に様々な思考が巡り巡っている。
しかし、実際に時間が止まるなんてことは現実味を帯びていない。それが正しいかのように段々と母の表情は強張っていくことが見て取れた。やはり、時間は止まってはいなかった。
そして、時間が止まっていないのを確認するかのように母が僕に向かって歩いてくる。手の届く距離までは目があっていたのだがパチンッという音とともに僕の視線の先にいるのは母ではなく床に置かれた進路希望調査票になっていた。頬がヒリヒリと焼けたように熱いのを感じる。僕の手から離れたタバコを拾う母の姿を見てやっと状況が理解できた。
母に初めてビンタされ自分は倒れたのだと。タバコを持っている相手にビンタをするのは適切な対応ではないことが冷静になっていく僕の脳内で一番最初に考えられたことだった。普段温厚な母がタバコを持っている相手に対してビンタするなど余程動揺していたのだろう。
「はあ、、、」
頭の上で母のため息が聞こえる。
僕は何か言おうとしたが頭の処理が追いつかない。頭の処理が追いついていない時は下手なことをいうのはやめた方が良いということははっきりとわかっていた。
この空間はとても冷たい。まるで春から冬へと逆戻りしたのかと思ってしまう。
そして、張り詰めた空気のなか母は僕のタバコを回収して何も言わずに部屋を出て行った。
僕の体が震えている。背中から汗が吹き出しているのに。震えている。
母が出て行った後の部屋には母のため息が部屋の中を重たそうに走り回っていた。
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「お時間はどうなさいますか?」
華やかな制服に身を包んだ女の人に尋ねられる。20代前半ぐらいだろう。
「フリータイムで、、、」
顔を限界まで伏せつつ、声もできるだけ低くし応える。
「身分証明書はありますか? 高校生ですと22時までと決まっているんですが、、、」
どうやら僕の努力も虚しく散って行ったようだ。
「そうなんですね、、、じゃあ、すみません帰ります。」
家に帰れるわけもないくせにそう答えてカラオケ店を後にした。
カラオケ店が利用することができれば2000円しないぐらいの値段で1日は寝泊まりすることができたのだが高いとはいえない僕の身長と今風の顔だと言われれば聞こえはいいがこういう時には一番の弊害となる童顔そして声変わりをしてもあまり低くならなかった僕の声これらが相まって制服を着ていなくても高校生に見えてしまうのであろう。
午後9時。
いく宛もなく彷徨っているだけでは補導されて終わりである。スクールバックに詰めた制服と明日の授業の教科書たちが僕の肩をいじめている。
そのせいで、喉も乾いた。この状況に無性に腹が立ってしまう。そんなときに頭に浮かぶのはMarlboroというアルファベットを貼り付けられた四角い造形物である。
そして、既に歩いている方向は緑や白や赤といった色を用いた看板に大きく書かれた7という数字が印象的であるコンビニエンスストアがある方向だ。
コンビニエンスストアに着き入り口に近づくと自動ドアがゆっくりと自動ドアが開き店内の冷たい空気に僕は向かい入れられた。
一瞬、店内で何か買おうかと考えたがやめた。もうどうでもいいのだ。
僕は再び顔を伏せて喉の調子を確かめるようにしてレジへと向かった。
「、、、」
俯きながらレジで僕は後悔した。コンビニエンスストアで販売されているタバコには番号がふられているのだ。番号を確認するためには顔を上げなくてはならない。店員も急にレジ前にやってきて言葉を発せず俯いている客に対しておそらく困惑していることだろう。
「あの、、、番号が見えないんですけどマルボロのアイスブラスト1つお願いします。」
店員は不自然に思うだろうか。番号が見えないどころかまず顔すら上げてないじゃねぇかと。本当に番号確認する気があるのかと。番号確認するのがめんどくさいから銘柄言いやがったと。
まあ、一番最後の考え方に至ってくれているのであればむしろ好都合である。
「はーい、少々お待ちください。」
レジから甲高い声が聞こえた瞬間、僕は思わず顔を上げてしまった。
そして、店員と視線が重なったときラベンダーが咲き乱れたような感覚に僕は陥った。
目の前に水戸さくらがいる。緑の制服に身をつつみ見事に着こなしている。水戸さくらを見た瞬間は屈託のない笑顔を浮かべていたように見えたが僕と目があってからというもの屈託のある笑顔に変わったように僕は思えた。何せ今静寂の時間が流れている。今日は何度時間が止まったように感じなくてはいけないんだろうと考えていたが僕の考えを静寂の時間ごと吹き飛ばすように背を向けて動き出した。
「1 mgと5 mgと8 mgがありますけどどれにしますか?」
「えっ、、、」
流石に僕は言葉に詰まった。店員である彼女は間違いなく水戸さくらである。僕に気づいていないのだろうか。しかし、気づいていないのだったらさっき目があった時に感じた違和感は何であったのだろうか。色々な思考が頭の中をぐるぐる回るが結局結論が出るわけでもない。
「5 mgで」
この時、僕はすでに声を低く出すことなどは頭から綺麗に消えていた。
「600円になります。」
僕は財布から600円を取り出す。最近のレジは自動で会計を行なっているらしくお支払い方法を選択してくださいと機械音で語りかけてくる。
現金を選択し600
円をすぐに機械に投入してやり僕はすぐにでも店から出ようとしたのだが彼女がタバコをまだ手に持っていた。
「はいこれ、、、」
彼女に声はいつになく真面目な声に聞こえた。彼女の白く透き通るような手が僕の方へと突き出されてその柔らかそうな手のひらの上でタバコが満足そうにして寝ている。
僕はもう顔を伏せることはどうでも良くなっていて一度しっかりと彼女の目を見つめタバコを受け取り店を出た。
コンビニエンスストアの外にはよく灰皿が取り付けられていることが多い。このコンビニエンスストアも例外ではなく灰皿が取り付けられていたためそこで一服することにした。
「カチッ」
カプセルが割れる音すらもうどこか心地よく感じる。
気持ちのいい風が吹いているがその風は僕がタバコを吸うことを妨害するかのようにライターの火を靡かせる。苦労してタバコに火をつけ僕は煙を吐いた。
夜空を見上げてどこへ行こうか考える。
「たいほーー!!」
突然、僕の後ろから騒がしい声が聞こえ驚いた拍子に、肩がぴくっと上がった。そして、その声と同時にタバコを持っていない方の右手首に柔らかな感触がありそちらの方に目を向けると水戸さくらがそこにいる。
「21時27分、鶴見容疑者を未成年喫煙の罪で逮捕する!!」
彼女は右手で腕時計を確認し左手では輪っかを作って僕の右手首を捉えている。
「びっくりした。」
「えへへ」
彼女はニヤニヤしながら僕の方をじっと見ていた。
「タバコ吸うんだねー」
「うん」
「そういうことしない人かと思ってたよ」
彼女はニヤけた顔を崩さず楽しそうに僕に話しかけてくる。
「僕の何を知ってるんだよ」
僕は正直彼女がうざったくて突き放すように言葉を投げつけた。
しかし、彼女は臆することなく笑顔で口を開いた
「鶴見涼介くん。私と同じクラスで私の後ろの席。頭が良くて真面目な優等生。先生からの信頼も厚い。運動神経も良くてイケメンだから女子からも結構人気。自分から積極的に話すタイプではない。スペックが完璧に近くて無口だから周りが気を遣って話しかけられず友好関係は狭い。誰にでも気さくに話しかける高橋くんとは仲が良さそう。」
どこかのモンスター図鑑みたいな説明と思いつつも驚きを隠すことができなかった。そして、訂正したい点が複数あった。
「君の話している内容に意義を唱えたいんだけど」
「え、どこに?全部論破してあげる!」
「まず一つ別に僕は頭が良くない。そして、君にだけは言われたくない。」
「なんでよ。学年5位なんて優秀じゃない?」
「ちょっとまって、、、なんで僕の順位知ってるの?」
「そりゃあ、職員室前の掲示板に毎回テストの順位張り出されるでしょう?まさか知らない?」
職員室の掲示板にテストの順位が張り出されることは知っている。掲示板にはフルネームが記載されていてその上に順位が振られている仕組みである。
「いや、そうじゃなくて、、、僕の名前知ってたんだ」
「うん!もちろん!」
「え、でも、、、」
「あ、もしかして今日の会話聞いてた?」
「聞いてたんじゃない聞こえたんだ。」
「ふふ、あれはみんなの前では知らないふりをしたの」
「それは、、、どうして?」
「そりゃあ、絶対に噂されるもん!私これでも学校で有名らしいの。それでもってツルくんはイケメンだから色々と周りが囃し立てるに決まってるよ。」
彼女が僕の名前を知った上で僕のことをそう呼んでいることはなんだか居心地が悪かったが不思議と嫌ではなかった。
「だから、僕はイケメンじゃない。実際に、君と一緒に帰ってた子たちは僕のこと知らなかったじゃないか。」
「有名とイケメンは違うよツルくん。ツルくんが走っていった後、今の人かっこよかったねって私の友達が言ってたもん。それに、ツルくんは人と関わりが少ないから同じクラスの子ならともかく他のクラスの子からしたら名前はわかんないって。」
顔の話はともかくそれ以外は彼女の意見を聞いて正論だと感じてしまった。しかし、ここで折れてしまうことはどうしてもできなかった。
「イケメンというのはイケてるメンズの略だろう?友達の少ない僕のどこがいけてるのさ。」
「ツルくんは思ったより理屈っぽいね。やっぱりイケメンじゃないかも!でも、顔はかっこいいと思うよ!」
彼女はヘラヘラと笑いながらそう答え、僕の顔をまじまじと見てきた。
「、、、」
特に返す言葉も思いつかず、煙を吐いた。
「タバコ吸ってること私にバレちゃってるけどいいの?」
彼女は先ほどとは違い真剣な様子で話しているように見えた。それは、彼女の声が普段では聞けないような静かで冷たくそれでいて少しの光を感じさせるようなそんな声であった。
「別にいいさ。チクったって構わない。」
「強気だねぇ」
「うちの学校はアルバイト禁止だろ?だから、逆に僕は君の秘密を知ってる。」
「ぶぶー残念でした!私は学校からアルバイトをすることを認められていまーす!」
「えっでもそれって、、、」
うちの学校はアルバイトが禁止されている。だが、家庭の事情によりアルバイトをしなければ生活を営むことが困難である家庭では特別にアルバイトの許可が下りる。このことに関しては入学当初から知っており自分の家庭はさほど困窮もしていなかったためアルバイトを諦めた記憶があった。
しかし、この条件と水戸さくらの情報は結びつかない。
家庭が困窮しているなかであの有名塾に通うことは不可能に感じるからだ。
「私の家おばあちゃんしかいないの。おばあちゃんの年金だけだとどうしてもやっていけなくて。私大学行きたいし。」
ここで、僕は気づいた。僕は何もかも見えていなかった。そして、知った気になっていた。その瞬間から僕はひどい後悔の念に襲われた。僕は架空の人物を嫌悪していたのだと。自分が作り上げた問題。そいつを深く憎み、そいつに苛立ち、そいつに毎度現実というものを突きつけられた。しかし、それは現実ではなかった。自分が作り上げた問題の解答を得た瞬間にしか気づくことができなかった。自分は問題を読み間違えていたことに。僕はわかりやすく動揺してしまい言葉がひとつも出てこない。今やもう煙すら吐くことができない。
「そんなに驚くこと?」
何も話すことができない僕を見て再び水戸さくらが口を開いた。
「じゃあ、塾とかもいってないんだ?」
声がうわずってしまったかもしれない。でも、どうしてもそれだけは知りたい情報だった。どうしても今ここで確認しておきたかった。
「塾は行ってないよ!でも、この間友達の紹介で超有名な塾に行ったの!CMでやってるあの塾!とても入塾できるようなお金はないけどその塾に通ってる友達と一緒なら自習室を使っていいって!」
タバコの火が完全に消えた。やはり、全て勘違いであった。ただの噂であった。みんなが思う水戸さくらという完璧な生徒に対するイメージが先行して噂だってしまったのだろう。
「そっか、、、」
僕にはもう言葉を返す力がない。一度頭の中を整理したい。そんな気持ちでいっぱいである。
「タバコ消えてるよ?」
甘く優しい声で水戸さくらが僕に声をかけた。
「あ、うん」
僕は吸い殻を灰皿に捨てて、一度冷静になる意味も込めてもう一本取り出して火をつけた。心は別に落ち着かないし、味もわからない。
「ねぇ、私の秘密も共有しようか」
水戸さくらの秘密。僕からすれば先ほど聞いた水戸さくらの話でも十分すぎるほどの内容であった。
「どういうこと?」
僕は”私の秘密も”という言葉に引っかかりを覚えたため意味をといただすための言葉が口から既に出ていた。
すると、水戸さくらは僕に向き合い僕の右手からタバコを奪った。
水戸さくらは左手でタバコを持ち、それを口まで運び煙を吐いた。
不慣れだがとても絵になる。長く揺れる柔らかそうな髪が月明かりに照らされ煌めいている。煙のように透けてしまいそうなほど透明感のある白い肌とナチュラルなピンク色に色付いているみずみずしい唇。その唇に咥えられているタバコは一見ミスマッチのように思えるが、今まで見えてこなかった水戸さくらの大人の一面が垣間見えたように思えた。
「これで私たちは運命共同体だね。」
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「水戸さくら」
私は人気者だ。今まで生きてきて人からたびたび言われる。別に人気者になりたいわけではない。ただ、友達が欲しくて、普通に勉強して、普通に就職して、恋愛なんかも経験してみたい。こんな風に当たり前に生きていたいのだ。
小学5年生夏私の普通は終わりを告げた。
母が亡くなった。父は知らない。私が生まれるよりも前に出ていったと母から聞いた。
母は過労死らしい。母は私に普通の生活をさせるために昼も夜も働いた。昼はスーパーマーケットで働き、夜はお話しする仕事だと聞いた。私が学校から帰る時間には母も仕事から帰ってきてくれる。いつもスーパマーケットで何かしらのお惣菜を持って帰ってきては少し寝ている。持って帰ってきたお惣菜は母方のおばあちゃんがアレンジして料理をしてくれる。おばあちゃんは昔おじいちゃんが亡くなってからというもの一緒に住んでいる。近所では人気者のおばあちゃんらしくよくご近所さんからお野菜をもらっているみたいだ。
私はいつもおばあちゃんが作るご飯の香りに想像を膨らませて宿題を終わらせるそれが日課だった。
ご飯ができると3人で一緒に食卓を囲んで食べる。私が一番大好きな時間だ。
二人とも私の学校の話を聞いて褒めてくれる。すっごく幸せだった。
母が亡くなってからはおばあちゃんと二人きりだった。
寂しくはない。寂しくなんかない。だっておばあちゃんがいるから。
母との最後の会話はもう覚えていない。当たり前に明日があると思っていたから。何気ない会話を詳細に覚えているわけがない。
母が亡くなってからというもの私には友達が増えた。今までは母に会うために学校から急いで帰宅していた。しかし、今では友達と遊ぶことが多くなり家に帰る時間はどんどん遅くなっていった。
中学生になるとみんな恋愛に興味津々になる。私は人一倍恋愛に対して執着を持っていたと思う。
「水戸さくらって可愛くね?」
クラスの端から男子の声が聞こえてくる。丸聞こえだ。しかし、可愛いと思われるのは嬉しいことなので男子の集団に混ざりありがとうと言葉を返す。そのまま、会話に参加した。
中学生ともなると自分の在り方について客観視することも必要だ。このまま男子と仲良くするだけではきっと私のことを嫌う女子も出てくる。そこで、私は誰にでも分け隔てなく接した。自分の感情や意見を誰に対しても率直にいう。そんな私をみんな嫌うことはなかった。むしろ、好意を抱いてくれていた。
男子から告白された回数 5回
女子から告白された回数 3回
告白された時は心が満たされたような感覚に陥った。とっても嬉しかったのでもちろん全員OKした。ちなみに、浮気していたわけではない。全員付き合った時期は異なっている。
そして、振られるのはいつも私だ。
相手の言い分はこうだ。
さくらからの好意が感じられないと。
確かに、私は恋人たちのことを本当に好きだったのかわからない。別れ際、涙はいつも出なかった。
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「みんな着席しろー!」
学年主任の先生の声が教室に響き渡る。おかしい。普段であれば担任の先生が着席の声かけを行うはずだが。
それに、僕の前の席の水戸さくらがまだ来ていない。休み明けから遅刻だろうか。また、学校のうるさいチャイムを歌いながら教室に駆け込んでくるのだろうかと考えていた時学年主任が話し始めた。
「今日からこのクラスの生徒が一人減る。水戸さくらが学校を辞めることになった。」
僕は目の前が真っ白になった。頭が痛い。蝉の声がガンガンと頭の中で鳴り響いて耳からそれ以上の情報を入れまいとしているようだった。扇風機の風が僕に向かって吹いてくる。ラベンダーの香りはしなかった。夏休み明け、まだ暑い。そのせいだろうか額から汗が流れる。額だけではない。全身の毛穴という毛穴が開き僕の中にあるもの全部が外へ溢れ出してしまうようなそんな感覚。こめかみにドクドクと血が流れていることをこんなにも強く感じたことはない。
一度外を眺めると夏の終わりを告げる風が木々を揺らしている。太陽が雲に隠れ、木々のザワザワという声はまるで僕のことを見透かすかのように騒いでいる。
クラスメイトたちはこのことを知っていたのだろうかと考え周りを見渡したが皆唖然としている。
その日は授業がなく始業式を行い帰りのチャイムを迎えたため僕はすぐに下校した。