その昔 ウェンズデイのシーズン ①
あれは正雄が高校二年のときのこと。
ゴールデンウィーク明けの初夏の陽ざしが降り注いでいた。昇降口の薄暗がりからおもてへ出ると木々の緑は濃く、アスファルトに焼きつけられる影は真っ黒だった。時折強い季節風が吹きつけるのがわかるのは、向こうの掲示板の前に立っている女の子の髪やスカートが翻っていたからだ。
正雄はズックの爪先を叩きつけて履くと、弁当を片手に持ってその女の子を見た。彼女は我を忘れたように掲示板に釘づけになっている。よく見ると、連休前の新入生歓迎コンパにきていた女生徒だった。
正雄の所属する水泳部には毎年たくさんの女子部員が入る。そのほとんどがマネージャー志望なのだ。彼女たちは十一月初頭の学園祭の水泳部の催しのために入部するのだ。しかし、ほとんどの者が学園祭まで残っていなかった。去年は一人もいなくなってしまった。今年も十人以上の女子部員が集まったが、いったい何人が残るか心配していたところだった。
そのなかで、ひと際目立っていたのが蒲池真理という女生徒だった。背丈はそんなに大きくないが、ショートカットの髪型から覗く大きな目、つんと上を向いた形のいい鼻、口笛を吹くように半ば開かれた唇が、なにかTVに出ているアイドルのようにバランスよく並んでいた。いやでも目を惹く容姿だった。
いま薫風に髪をなびかせているのは、その真理だった。昼休みになったばかりで、校舎の外を歩いている者はまだいない。昼食も摂らず、真理はいったいなににそそられて掲示板を食い入るように見つめているのだろうかと気になった。
正雄は気づかれないように大きく迂回して彼女の背後に立ち、掲示板を覗いた。そこにはポスターが一枚貼ってあるだけだった。
《並梵祭恒例アマチュアフォークコンサート出場者募集 並梵祭実行委員会》
どうやら真理は、このポスターに興味を惹かれているようだ。正雄には、そんなにそそられるような内容とは思えず、ひたすら目を凝らしていた。正雄の目線より少し低いところにある真理の後頭部が、どうやら気配を感じたようで回転した。振り向いた真理は仰ぎ見て、それが正雄だとわかると相好を崩した。直射日光をもろに浴びたような眩しさだった。
「あっ、センパイ」
「なに見てるの?」
きくまでもない。貼ってあるポスターはこれ一枚だけなのだ。真理は、そのたった一枚のポスターを指さしていうのだ。
「これに出ないんですか?」
「オレが?」
「新歓コンパでやっていたじゃないですか」
「ああ、〝扇風機〟?」
「扇風機」とは、新入生歓迎コンパや合宿の打ち上げなどで正雄と一学年上の沢田とが組むフォークデュオの名前だった。『シクラメンのかほり』のような長い前奏を延々とやって、歌いだしの最初の音をはずしてひっくり返るとか、〝シモンズ〟や〝ベッツイ&クリス〟のような高音の歌をそのままのキーで酸欠になりながら音痴に歌うというコミックユニットのようなことをやって楽しませるのだ。
「出るわけないだろ、あんなはしたない歌が通用すると思っているのか?」
正雄はくるりと踵を返して歩きだした。その後ろを小走りに真理がついてきた。
「出ましょうよ、フジミモーテルの歌で。アタシ、歌いますから」
「フジミモーテルの歌」とは、〝吉田拓郎〟の『結婚しようよ』の替え歌で、正雄たちは『結合しようよ』といっていた。自分の髪が伸びて陰毛と繋がったらフジミモーテルで結合しようよという猥歌の類だった。そんな歌を歌うという真理に正雄は思わず笑いそうになった。こんな小娘が、なにを生意気に・・・と思ったのだ。
「出ません!」
「なんで?」
「ほかの出場者に失礼だろ? 宴会芸のレベルで出るのは」
「じゃあ、もっとまともなことやれば? フジミモーテルの歌やシモンズの物まねなんかじゃなくて」
「オレたちはアレしかできないんだよ。だいいち、学園祭の当日は水泳部のメインイベントがある」
「ああ、そうか」
「キミだって、それ目的で水泳部に入部しようとしてるんだろ?」
真理は首をすくめて舌を出した。
「だって、みんなが水泳部の男子シンクロは面白いっていうんだもの」
「あのコンパにきてた女の子の大半がそれだよ。それで、普段はまともな練習をやらされるんで、みんなシーズン前に辞めていくんだ」
「シンクロだけじゃないんですか?」
「そんなわけあるか! オレたちは一年中、『白鳥の湖』の練習ばかりやってるんじゃないんだぜ。あれはオフ前のお遊びでやってるだけなの」
「アタシ、マネージャー希望なんだけど」
「泳ぐヤツよりマネージャーの方が多くてどうするんだよ。やるんなら選手に限る」
「センパイもシンクロやめてフォークコンサートに出ましょうよ」
「オレはシンクロが演りたいんだ。一年で唯一、女の子にモテる場だからな」
真理は「この!」と叩く仕草をした。その後、しばらく黙って歩いていたが、真理は正雄の後をずっとついてきた。
「センパイ、どこいくの?」
「プールだよ。オレはいつもメシをプールサイドで喰ってる」
すると、彼女は抑揚のない口調で「そんなにプールが好きなんですか」という。まるで母親が呆れて子どもを諭しているようだ。
「昼休みはプール掃除があるんだ」
「水泳部がやってるの?」
「そうだよ、驚いたか? キミたちも入部すればやるハメになる。あれは下級生の義務だ」
正雄は諦めて帰るかなと少し後ろを見たが、真理はブツブツいいながらも下を向いてついてくるのだ。そして、また突然聞き分けのない子のようにいい始める。
「ねえ、出ましょうよお!」
「だから、無理だっていってるでしょ?」
正雄はあの日、可愛い娘がきていると思ったが、こんなしつこい女だとは思わなかった。えらいヤツに見込まれたと気づいたが、もう遅い。
「どこまでついてくるんだよ? 女子更衣室の掃除やるか?」
「やだ! フォークコンサートに出て!」
わけがわからない。真理はもう、ほとんど自棄になっているようだ。
「そんなにいうんならキミが出ればいいだろ?」
「だってアタシ、ギター弾けないもの」
「教えてやろうか?」
勢いでそうはいったが、実は正雄も簡単なコードを握れる程度だった。〝扇風機〟のパフォーマンスでは、そんなテクニカルなことは必要なかったのだ。ところが真理はそれを真に受けた。可愛い顔をいままで絞った雑巾みたいにしていたのが、途端にこの五月晴れのように溢れんばかりの笑みで頷くのだ。
「うん、教えて!」
「ええ?」
困ったことになった、と正雄は後悔した。
プールにいくと、いつも通り屋外の子ども用のプールサイドで沢田が日向ぼっこをしていた。坊主頭をコンクリートのプールサイドに直に転がして、痛くないのかと思える。
正雄と似たような体形だが身長は沢田の方がやや高かった。色黒で極度の近眼の沢田はルーペのようなメガネをかけている。正雄と同じ種目で練習時はいつも隣同志のコース、共通の趣味がロックだった。正雄より一学年上の副将をしている。
管理室を通ってプールサイドに出ると、一緒についてきたと思っていた真理がいない。やっと帰ったかと胸をなでおろして沢田に挨拶をした。
「ちわっす」
沢田は寝ころんだまま手を挙げた。
「もうメシ食ったんですか?」
「三時限目に喰った」
「早いなあ、練習まで持ちますか?」
「オレはいつも練習前に菓子パン買ってくるんだ」
そういった沢田はメガネの奥の小さい目をこれでもかというくらい見開いた。視線は正雄の背後にあるようだった。正雄が振り向くと、女子更衣室の方から真理が現れた。しかも、管理室にいつも置き放してある沢田のギターを持っている。
「どちらさん?」
新入生歓迎コンパでは一番目立っていた可愛さだ、知らないはずがない。沢田は、とぼけたのだ。
「一年の蒲池です。先輩方よろしくお願いします」
真理はそういうと、ちょこんと頭を下げるのだ。沢田は微笑を浮かべて正雄を見た。
「オマエが連れてきたの?」
「ついてきたんです。ギターを教えてやるっていったら」
「オマエは人さらいか」
「このコは水泳部に入るのを辞めて、学園祭のアマチュアフォークコンサートに出ることにしたらしいんです」
「もう辞めるのか」
沢田は眉間に皴を寄せて真理にいう。さらに正雄に向かって窘めた。
「オマエがそんなことだから新入部員が入らないんだよ」
「いや、彼女は最初からシンクロのマネージャー目当てだったみたいで・・・ 」
「きっかけなんてなんでもいいんだよ。入りさえすれば」
すると真理は、きっぱりといった。
「いいえ、絶対入りません」
真理のあまりにも簡潔な態度に正雄も沢田も唖然とした。
「だからギター教えてください。かわりに女子更衣室の掃除をしますから」
こう明け透けにいわれると沢田も「ダメだ」とはいえなくなったようだった。
「最初からこんなコが水泳部なんかに入るわけがないと思ってたんだよ」
正雄は別に、彼女にギターを教えてやってくれと沢田に頼んだわけではなかったのだが、いつの間にか沢田が主導権を執って教え始めていた。その様子を正雄は横で見ながら弁当を食べていた。
「沢田さん、彼女は『結合しようよ』が演りたいらしいですよ」
「じゃあ、Cだな。これがCのコードだ。握ってみな」
「コード?」
「和音のことだよ。Cはドミソの和音だ」
「へえ・・・ コンセントは?」
「コンセント? そんなものは・・・キサマぁ!」
たぶん真理は冗談でいったのだろうが、沢田には通用しなかった。むしろ正雄が口の中のものを咳き込んで吹き出しそうになったくらいだった。
真理は沢田にいわれるままに指をネックにおいて弾いたが、音が出なかった。
「弦をしっかり押さえないと」
「ぎゅっと押さえるんですか? 痛いんですけど」
「その痛みに耐えるのが第一段階だ」
「痛いうえに更衣室の掃除でしょお・・・ 」
「いやなの?」
「やります」
ふたりのやり取りをきいていると、まるで漫才のようだった。正雄は、いいコンビだ、このまま〝扇風機〟でもやれると思った。
真理が、もう指が攣りそうだというので、沢田がギターを持ち替えて『結合しようよ』を弾いて見せた。沢田の歌が終わると真理はおもむろにいうのだ。
「このまえ聴いたときは面白かったんだけど、なんか下品な歌ですね」
「これを学園祭で演りたいんだろ?」
「ええ~・・・ 」
正雄も沢田も目を細めたところで、部員たちが掃除にやってきた。子ども用のプールでギターを弾いている三人を見つけて集ってきたが、沢田が追い払って真理にいうのだ。
「掃除の時間だ。蒲池は約束通り、女子更衣室をやってもらうからな」
「♪ 約束通り~ 女子の更衣室を~ 掃除しようよ~」と口ずさみながら、渋々立ち上がる真理に沢田は声をかけた。
「明日も掃除にこいよ」
翌日も、昼休みに真理はプールサイドにきていた。正雄が顔を出すと、もう特訓が始まっていた。正雄は彼らの対面に座り、熱心にコードを追いかけている真理にきいた。
「ほんとに『結合しようよ』を演るの?」
いま練習しているのは『結合しようよ』のコード進行だった。元歌は比較的にわかりやすいコードばかりで、サビさえやらなければ真理の小さい手でも握れた。
「とりあえず練習だよ。選曲は、そのあとだ」
答えたのは沢田だった。真理はコード進行と指使いを憶えるのが必死で、それ以外のことに対応できる余裕はなかった。そのうちに部員たちが掃除にやってくると特訓は終わりになる。やっと真理の声をきくことができた。
「沢田さん、ギター持って帰っていいですか? ウチでも練習したいの」
沢田は一回頷いたが、すぐに呼び止めた。
「そのギターで本番も演るのか?」
「ダメ?」
「ダメじゃないけど、まがりなりにも大舞台に立つつもりなら、自分のギターくらい持てよ。買ってもらえるだろ?」
真理は難しい表情を一変させて笑顔を見せた。この顔が、正雄にとって印象的だった。掲示板の前で正雄を振り向いたときと同じ輝きを放っていたのだ。素敵な娘だと思った。
女子更衣室にいこうとする真理をもう一度、沢田は呼び止めた。
「オマエ独りでエントリーするつもりかい?」
真理は小首を傾げるようにした。無理もない。彼女のなかでは、まだなにも決っていないのだ。漠然と学園祭のアマチュアフォークコンサートに出たいという気持ちだけが彼女を衝き動かしているのだ。
突っ立って思案している真理に、正雄はアドバイスしてやろうと思った。沢田がいわんとしていることはわかっているつもりだった。
「仲間を連れてこいよ。その方が心強いだろ。オレたちは、当日なにもしてやれない」
すると沢田が正雄の横腹を肘で突いた。
「オマエ、おいしいところを持っていくじゃないか」
正雄は照れ臭くて頭を掻きながら舌を出した。見れば真理の姿は、もうなかった。正雄と沢田はいつの間にか彼女の後押しをしようとしていた。
翌日、真理はプールサイドに姿を現さなかった。もう諦めたのか、と正雄は思った。
「三日持たなかったですね」
ギターを抱えている沢田は照り返しの眩しい水面を見ていった。
「今日はスリーフィンガーを教えてやろうと思ってたんだ」
「コードは全部憶えたんですか?」
「『結合しようよ』の? 憶えたんじゃないかな。熱心なんだよ、彼女」
もったいない、とでもいいたげだった。
次の日も、その次の日も真理はこなかった。やはり、やめたようだ。気分屋の娘だから、なにかまた新しい興味の湧くことを発見したのかもしれない。
「しょせん、女子高生の思いつきさ。長続きするわけがない」
ついに週末まで真理は現れなかった。正雄はどこかで昼休みを心待ちにしているところがあったのだが、また変化のない日常に戻っただけだ、と自分にいいきかせた。おそらく沢田も同じような心境だっただろう。
ところが翌週の月曜日、真理は数日ぶりに現れた。自分の新しいギターを抱えて、仲間も連れてきた。彼女は正雄たちが出した宿題をやっていたのだ。
沢田は嬉しいくせに、わざと素っ気ない表情をしていうのだ。
「どちらさん?」
真理は、あの素敵な笑顔で沢田の肩を叩いた。
「いじわる! 仲間を連れてこいっていったじゃないですか」
真理の連れてきた二人は、真理の妙な華やかさに比べると及びもつかない地味なコンビだった。大柄で三つ編みにメガネの女生徒は管楽器のケースを持っていた。小柄でお嬢様のようにオールバックにした長い髪を後ろで編んだ色白の女生徒もその後ろにいた。
「やっとメンバーを見つけたんです!」
沢田は目ざとく大柄の娘の持ち物に興味を示した。
「それはサックスじゃないの?」
真理が二人を紹介する。
「彼女は小柳ルリ子。吹奏楽部でサックスを吹いているんです。こっちが南小百合ちゃん。サユリにはピアノを弾いてもらいます」
どういう編成なのだろうと正雄が沢田を見ると、彼は既に途方に暮れた様子で固まっていた。たぶん沢田本人が、どうするつもりなのかききたいと思っているのだろう。仕方がないので正雄が真理にきいた。
「この三人でフォークをやるわけ?」
「いいでしょ?」
「いいんじゃない」とはいったが、どんな演奏を目論んでいるのか予想がつかなかった。
「なにか、演りたい曲があるの?」
「選曲はセンパイたちに任せますよ。なにかアタシたちにできる曲を探して」
「なんだって・・・ 」
正雄は、もう一度沢田の方を見た。沢田はダンマリを決め込んでいた。
「あとメンバー探してきたんだからグループ名も決めて」
丸投げだった。正雄は呆気にとられたが、それまで存在を消していた沢田が口を開く。
「小柳ルリ子さんに南小百合・・・ あと、えー・・・どちらさんだったっけ?」
「蒲池です!」
とぼけていう沢田に真理は眉を吊り上げた。面白い娘だ。
「ルリ子に小百合に真理、わかります? 三人の共通点」
「きいたことのある名前ばっかりが揃ったな。どうだい、〝高一御三家〟っていうのは?」
「それをいうなら〝高一三人娘〟でしょ?」と正雄が突っ込んだ。
「違いますよ、みんな名前にリがつくんです!」
「なるほど、それで〝リリーズ〟か!」
「なんで、そういうことになるんですか」
真理は、こんな沢田のくだらない一言にも、いちいち真顔になる。感情を上げたり下げたり、疲れないのだろうか。また、正雄が突っ込む。
「それをいうなら〝リリリーズ〟ですよ」
「やだよ、そんなダサいの。だいいち三つ子みたいじゃない」
真理の反応に一同、大笑いになった。
「〝女扇風機〟は?」
「もう、いい」と真理は沢田の提案に怒ったように言い放った。仕方なく正雄と沢田はまじめに考え始めようとした矢先に、憤慨していたはずの真理がいまさらのようにきくのだ。
「だいたい、なんで扇風機にしたんですか?」
「オレたちのこと?」
不意をつかれたので正雄は少し戸惑った。真理は小首を傾げて見ている。そんな純粋な仕草に正雄は胸がときめいた。正雄が彼女に見とれているので、沢田が答えた。
「別に深い意味なんてないよ。フォークグループらしい、なにか風流な名前にしようってことで、涼しそうだから〝扇風機〟か、〝冷蔵庫〟でいいやって。ただそれだけのことさ」
「れいぞうこ?」
真理の怪訝な表情に、他の女生徒たちは堰を切ったように、また笑い出した。
「オマエら、扇風機の妹グループで〝冷蔵庫〟はどうよ? 〝庫〟は子どもの〝子〟で」
「それでいいと思ってるんですか? まじめに考えて!」
沢田は結構真剣に提案したつもりだったようだが、即座に却下された。その日はそれ以上、このテーマは進まなかった。掃除が始まる前に練習しようということで、沢田はせっかく管楽器があるのだからとチューニングの仕方を教えた。
正雄は、グループ名はともかく、選曲を任されるだろうというイヤな予感がしていた。プール掃除からの帰り際、沢田から「オマエが考えろ」といわれ、予感は的中した。ギターの実践レッスンは沢田が一手に引き受けているようなものだったので、正雄は断れなかった。そんな予感は必ず当たると自分のポジションを恨むしかなかった。
正雄は考えあぐねた。仲間うちでは、自分が最もいろんなものを聴いているという自負があったのだが、まさか自分の引き出しに無いものを求められようとは予想したこともなかった。
ピアノとギターはわかる。しかし、これにサックスが絡むとなると、そんなフォークソングに思い当るフシがないのだ。
とりあえず家に帰ってから、彼女たちに似合いそうなものを探した。扇風機で演った高音物まねのシモンズが、すぐに思い浮かんだ。シモンズのベストアルバムをなんとはなしに聴いていたら、お得意の美しいハーモニーの『ふり向かないで』という曲に管楽器が入っているのに気づく。まず、これをカセットテープに録った。
沢田は、学園祭のフォークコンサートの持ち時間が十五分らしいから、三曲ぐらいをメドに選曲しろといっていた。他になにかないだろうかとレコードやカセットテープなどを物色しているうちに、バリエーションも考えた方がよくないかと思い始めた。似たようなありきたりのフォークソングを三曲演っても退屈ではないかと思ったのだ。
二曲目は洋楽にした。軽快なメロディならポップスがよかろう。もともとサックスなど入っていないのだが、正雄が好きな曲に強引にサックスを入れてしまえばいいと考えた。そうだ、アレンジすればいいのだ、と。そこでお気に入りの〝ピーター&ゴードン〟の『アイゴートゥピーセス』を録音した。
もう一曲必要だったが、思いつかなかった。いくら無理矢理サックスパートをつくればいいとしても、馴染まなければかえって妙なものになる。思案のしどころだった。その間、いろんなものを聴きまくったがインスピレーションが湧かなかった。
翌日、正雄はプールにいって沢田に相談した。沢田は自分の仕事に熱中していた。
「今日こそスリーフィンガーをやらせるからよ。選曲は決まったか?」
「シモンズとピーター&ゴードンでいこうと思ってるんですけど」
「また、古い曲だな。彼女たち知らないんじゃないか?」
「知ってる曲は他のグループがいくらでも演るでしょ? およそ、だれも演りそうもない曲でド肝を抜くんですよ」
「なるほど」と沢田は意外にあっさりと乗ってきた。
「シモンズの『恋人もいないのに』とピーター&ゴードンの『愛なき世界』か」
「いえ、ピーター&ゴードンは『アイゴートゥピーセス』でいきます」
「おっ、いいじゃないか。でも、サックスなんて入っていたか、アレ?」
「バックのストリングスをサックスで演らせればいいかなと」
沢田は面白そうに口角を半分上げて「シモンズは?」ときいてきた。
「『ふり向かないで』」
「そんな曲、オレも知らないよ。シャンプーのコマーシャルの曲?」
正雄は、聴いておいてくれと昨日録音したカセットテープを沢田に渡した。
「もう一曲なんですけどね・・・ 」
管理室の方でどやどやと足音がした。彼女たちだった。真理が真っ先に沢田のところにやってきた。
「リリリーズがきた!」
「だれがリリリーズなんですか」
真理のこの反応が面白くて、正雄と沢田はことあるごとに「リリリーズ」といってはからかっていた。そのうちコヤナギやサユリも真理のことを〝リリリ〟と呼ぶようになり、それが彼女の通り名になった。
「沢田さん、サユリがね、面白いものを持ってきたんですよ」
見るとサユリがピアニカのような鍵盤楽器をケースから出して見せた。ただ、空気を送り込む口がついていない。
「これ、小型のエレクトーンなんです。〝ポータブルエレクトーン〟っていって、いろんな音色が出るんですよ」
サユリの説明に興味を示した沢田は、弾いて見せろといった。電源が必要な楽器なので、一同は管理室に移動する。ポータブルなだけあって鍵盤自体が小さいうえ、スケールも高いところから低いところまで三オクターブほどしかなかったが、音色の豊富さは驚異的だった。鍵盤の上にスィッチがたくさんついていて、その一つ一つに音色が対応している。
しかも、単音の楽器とピアノのような和音ができる楽器と二種類が選べて、これを組み合せば無限と思えるほどのバリエーションがある。
「これは凄いな。オレも欲しいよ」
「電源さえあればどこにでも持っていけるしね」
感心したのは沢田や正雄たちの方だった。沢田は、キーボードがあるのだからこれでチューニングしてみろとリリリにいいつけた。三人の音合わせの様子を見ながら正雄は、どうやら自分が目論んだような選曲が、これでうまくいきそうだと嬉しくなるのだった。
中間試験が始まる頃になっても、彼らは昼休みになるとプールに集まって基礎的な練習をした。相変わらずグループ名は決まっていなかったが、選曲は正雄の提案通りに決まり、三人にはカセットテープで憶えるように指示してあった。
問題は楽譜だった。ピーター&ゴードンは意外と簡単に手に入ったが、それより新しいシモンズの方は少し時代が違っていることもあって、かえって探せないのだ。加えてボーカル担当のリリリが英語の歌を憶えられないといいだした。これではどの曲もリハーサルできない。
「シモンズはオレがコードを探す」と沢田はいった。聴いてギターで合わせて探すのだそうだ。正雄には想像を絶する面倒な作業に思えたのだが、サユリがキーボードでトレースしてサポートすればなんとかなるかもということになり、ふたりは作業に入った。試験一週間前から部活動ができなくなるので、ふたりは放課後もプールで楽譜づくりをしていた。
一方のピーター&ゴードンは、正雄のイチ推しだけあって、簡単に諦めてもらいたくないという気持ちがあった。正雄はリリリにいった。
「オマエ、自分で和訳して歌詞をつくっちゃえ。楽譜に歌詞がついてるだろ?」
「アタシが? エ~、できない」
「英語の辞書があるだろ」
「無理、無理!」
リリリはダダっ子のような言い方をするので、ここは甘やかせてはいけないと思った。沢田やサユリが頑張っているのだ。
「オマエはフォークコンサートに出たくないのか? みんな、だれのために一生懸命やってると思ってるんだ」
「でも・・・ 」
「デモもストもない!」
リリリは恨めしそうな目つきで正雄を見ると、口を尖がらせて「はい」といった。意外と素直だったので正雄も驚くほどだった。だが、これをきっかけにリリリのスィッチを入れてしまったと気づいたのは、だいぶ後になってからだった。
本格的なリハーサルに入るのは試験が終わってからということを決め、それまでに沢田班の楽譜とリリリの訳詞と、そして正雄の残りの一曲をそろえる宿題をそれぞれが持って帰ることとなった。
たぶん、他のメンバーもみんなそうだったのではないかと思われたが、中間試験に身など入るわけがなかった。少なくとも正雄の結果は惨憺たるものだった。
試験の最終日は午前中に終わり、彼らは早速プールに集まった。水泳部の練習は明日からなので、比較的その日は時間があった。
まず沢田班から『ふり向かないで』の楽譜についての説明があった。大まかではあるが、わかる範囲で楽譜ができあがっていた。コード進行は沢田が探したのだが、譜面の大半はサユリが書いたらしい。彼女はおとなしい娘だが、立派に機能しているようだ。リリリの人選はバカにできない、と正雄は思った。
「オマエが面白い曲を見つけてきたおかげで苦労したよ」
「いい曲でしょ?」
「オレはこの曲をたぶん忘れないと思うよ。どれほどテープを聴き直したかわからない」
沢田の苦労は正雄には想像できなかった。ひょっとしたら沢田は試験を受けていないのではないかと思うほど入れ込んでいたようだから。同じことがサユリにもいえた。ふたりは口をそろえていうのだ。
「これ、いい曲だよ」
一方のリリリはルーズリーフに手書きの歌詞を書いてきて、それを正雄に見せるのだ。女の子らしい、妙な丸っこい文字で何度も消し直した黒ずんだ跡があちこちにあった。正雄と沢田はそれに目を通した。
《私は彼女が通りを降りるのを見るとき とても不確実になり、とても弱いと感じる
私は目が別のもののように思われる しかし彼らは私のいうことを聞くようでない
そして私はバラバラになり隠したい バラバラになりほとんど死んでいる
(中略)
私は決して彼女が見えないと知っていてもいつもの場所へいく
彼女はとても私の内側を傷つけた いまは彼女が満足したことを望む
そして私はバラバラになり隠したい バラバラになりほとんど死んでいる
バラバラになって泣いている・・・ 》
「オマエ、これを歌うの?」
「だって、自分で訳せっていったじゃないですか」
「これをそのまま歌うの?」
沢田が読みながらクスクス笑っていた。
「意味がわからん。日本語ですらない」
正雄は笑う気にもなれなかった。
「この歌詞でいいと思うのか、オマエは? まず自分でどういう状況の歌かわかったか?」
リリリが答える前に沢田がいう。
「軽快な猟奇殺人事件の歌だな、これは」
「アタシもそう思った。主役はマゾヒストの被害者。そうですよねえ?」
顔を覗き込むようにするリリリを沢田が小突く。
「そんなわけあるか。そうだとしても、これ歌えるか?〝サザンオールスターズ〟でもこんな早口には歌えない。意訳するんだよ」
「いやく?」
「これは直訳だろ?」
どうやら、リリリには沢田のいっていることがわからないようだった。つまり、メロディに乗るような言葉に直せということなのだが、沢田には彼女がとてもそんなことができるとは思えなかったのだろう。
「近藤、オマエやってやれ」
「え~~~! でも・・・ 」
するとリリリは意地の悪そうな笑みを浮かべた。
「デモもストもないっ!」
正雄は途方に暮れた。
「そんなバカな・・・ 」
正雄はリリリに偉そうにいった手前、できませんとはいえなかった。できれば彼女たち自身の手で、自分たちの言葉で歌ってほしいと思ったのだが、おかしなことになってしまった。実際、原詞を見てみるとリリリの訳もあながち間違っているとは思えない気がしてくる。これはエライことになったと思った。
結局、その日はそれ以上に話を進めることができなかった。時間があったので『ふり向かないで』の譜面をそれぞれが書き写して、次の練習の機会まで個々で練習しておくということで解散した。正雄は無駄に時間を潰したと思った。
帰り際にリリリが昇降口のところで正雄たちを待っていた。
「センパイ、今度は楽器の練習をやるんでしょ?」
「もう、いい加減に音合わせをやらないと間に合わないぞ」
そういった沢田は気づいたように正雄を見た。
「?」
「どこで練習するんだよ?」
リリリが大きく頷く。
「そうなんですよ。アタシたち、どこで練習すればいいのか」
正雄はやっと気づくのだ。もう、昼休みにちょっと集まってプールサイドで練習するなんてわけにはいかなかった。音を出すのだ。
「温水プールの建屋の中なら防音になっているからできるかもしれないが、昼休み程度の時間じゃとても無理ですね」
正雄と沢田は温水プールの天井を仰ぐようにした。遮光ガラスを通して陽ざしがこぼれてくる。いよいよシーズン本番だ。
水泳部の練習も明日から始まるから放課後というわけにもいかない。部活が終わった後では、いったい何時になるかもわからないし、だいいち貸してもらえそうもなかった。
「顧問の先生に頼んでも、たぶんダメだといわれるな。だいたい、なんでオマエらがフォークコンサートの練習を手伝っているんだってことになる」
沢田のいうことはもっともだった。リリリは不安そうな顔で正雄をじっと見ている。こういう表情の彼女は、またキレイなのだ。この娘は黙って立っているときの方が魅力的だと思えた。普段は、まるで子どものリリリに惹かれないことが幸いだった。
翌日の部活後のことだった。正雄たちの学校の水泳部は都内でも有数の強豪校とはいえなかったが、北多摩地区に限っては常に優秀な成績を収めるくらいの力はあった。OBたちは第何期黄金時代を迎えつつある、と評価をしてくれていた。当然、練習は野球部と並びシャレにならないほど過酷だった。練習が終われば、初夏といえども日が暮れる。
その日、プールを出て部室に戻ろうとする正雄の前にリリリが現れた。もう七時になろうとしていた。正雄と沢田を待っていたらしいのだ。
「なんだ、オマエ」
「知らせておきたいことがあって。沢田さんは?」
「まだいると思うよ。いままで待ってたの?」
湿って重い夜気が降りた薄暗いプールの昇降口の蛍光灯の下で、妙に明るい表情のリリリを見ていると疲れを忘れるようだった。いまの正雄には彼女たちがやっていることをサポートして、リフレッシュしているようなところがあった。いつものシーズンとは違っていることはたしかだった。
やっと沢田が顔を出した。沢田はプールの更衣室で着替えて、脇に停めた自転車で帰るので、部室にいくことはまずなかった。もうワイシャツ姿なのだ。
「なんだ、オマエ?」
リリリは手で口を覆って笑い声がきこえないようにしている。なにがおかしいのかと正雄たちが彼女に注目していると、リリリはいうのだ。
「同じこというんですね、センパイたち」
正雄と沢田はお互いの顔を見合わせた。
「それよりなんだよ、用って?」
「練習する場所が見つかったんですよ!」
「エッ!?」
リリリの話によると、コヤナギが所属する吹奏楽部が水曜日だけは練習をしないので音楽室が借りられるらしい。いままで、あまり活躍する機会がなかったコヤナギの尽力でできたことだ。メンバーに管楽器奏者を入れたリリリの先見の明があったということか。
「よかったじゃないか」
満面の笑みで大きく頷くリリリは、本当に年端のいかない子どものような無邪気さだった。よほど嬉しかったのだろう、リリリは練習場所など、ほとんど関係のない正雄たちにも報告して喜んでもらおうと思ったに違いない。
「だからセンパイ、早く歌詞!」
イヤなことを思い出させると正雄は途端に気が重くなった。
「ああ、わかった。なんとかしてやるから、もう少し待ってろ」
なるほど、練習環境が整ったので早く課題を出せと催促にきたのでもあったのだ。助け舟を乞おうと沢田の方を振り返れば、もう夜の闇に姿を消していた。リリリも、いつの間にか寂しげな向こうの水銀灯の下を走っていくのが見える。冷たい連中だ、と正雄は孤独感に苛まれるのだった。
その帰り、駅の階段を上がったところで意外な人物と正雄は遭遇した。まるで取って付けたようなタイミングだった。その男は、いま夢中でロックバンドをやっている正雄とは幼なじみの堺雅俊だった。
小学生のときは三日とあけずに遊ぶくらいで、お互いを「マーチャン」と呼ぶ仲だった。「マーチャン」同士でも、細身で長身に見える正雄に対して当時の堺は百四十センチそこそこで、地元の同級生たちは正雄を「オオマサ」、堺を「コマサ」と呼んで区別していた。
中学になるときに正雄はいまの私立校に進むことになって疎遠になってしまったのだが、同級生たちからコマサが有名私大の付属高に進んだときいていた。英語の成績が、ほぼ学校でトップだったらしい。そういうことが会った途端、瞬間的に正雄の頭のなかを巡った。
「マーチャン、助けてくれないか」
「どうしたの?」
駅前の街灯の明るさが、きょとんとしたコマサの顔を妙に白っぽく見せていた。正雄がことの経緯をざっと説明したら、コマサはもともと細い目を横に引っ張ったように長く伸ばして笑顔になった。
「『アイゴートゥピーセス』の日本語訳をオイラにやれってか?」
「ダメ?」
「ちょうどよかった。それならオイラの頼みもきいてくれ」
「オレができることなら、なんでもする」
コマサは、これからバンドの練習があるから今日はダメだが、改めて後日、地元の喫茶店で会う約束をしてくれた。
数日後の昼休み、正雄はリリリに歌詞とともにカセットテープを渡した。カセットテープには合わせで練習するために、コマサがそれぞれの曲のテンポを執りやすいようにドラムでリズムを録音してくれていた。持つべきものはバンドをやっている友だちだ。
リリリは歌詞にざっと目を通して、いつかの正雄のようにいうのだ。
「これ歌うの? サザンオールスターズより早口じゃないですか」
「生意気いうな。ここまで訳してあればどういう歌かわかるだろ? あとはメロディに乗るようにオマエたちの言葉に直せよ」
「ええ、だって・・・ 」
「だっても、あさってもない! ここまでやってやったんだぞ。それまでオレがやるとオマエらのやり甲斐がなくなるだろ?」
「そうかあ」と今日もリリリは素直だ。この子どもっぽいようなところがなければ、正雄は「つき合ってくれ」といったかもしれないと思った。別の意味で彼女をつき合わせることを考えてはいたのだが。
「あと、ちょっと頼みがあるんだけどなあ」
リリリは大きな瞳で正雄を見上げた。吸い込まれるような瞳孔に、曇り空から洩れるわずかばかりの陽ざしが増幅して輝いているようだった。
「このリズムのテープをつくってくれたヤツが夏休み明けにコンサートをやるんだけど、そのチケットを買ってくれないかな?」
「ええ、なんでアタシが?」
「心配するな、コヤナギやサユリの分もある。あと下々の分で二枚ばかり」
「なんですか、下々って」
「ほかに友だちがいるだろ、二人くらいは」
リリリは得意の唇を尖がらせるような顔をして地鳴りのように唸っていたが、算段がついたのかゆっくりと顔を上げた。
「わかりました、協力します。でも、センパイは?」
「オマエにだけ頼んでおいて、オレはいかないなんていえるか?」
「じゃ、いく!」
リリリは小さく手を叩いて飛び上がって喜んでいる。そのうち正雄のワイシャツの袖を引っ張るようにして飛び跳ねだした。まるで幼稚園児だ。そんなに嬉しいのだろうか。
「おい、破れるだろ!」
収まったと思ったら、今度は預かった五枚のチケットをじっと読んでいるようだった。
「ロックコンサートなんですか?」
「うん。地元の高校のロックバンドが集まるらしいんだ」
「アマチュアロックコンサート?」
「そう、ウチの学校からも出るヤツがいるかもしれない」
「学園祭の方には出ないの?」
「学園祭の方はフォークだろ? ウチのコンサートはロック禁止なんだ」
「なんでダメなんですか?」
「わからんが、たぶんうるさいからだろうな。ロックは市民権を得ていないからな」
「アタシも聴いたことないわ」
「ビートルズくらい聴いたことあるだろ?」
「ビートルズってロックなの? 『イエスタデイ』とか、『ヘイジュード』とか」
正雄はどう反応していいのかわからなかった。
「『ヘルタースケルター』とか、『ヘイ、ブルドッグ』とか・・・ まあ、いいよ。いってみればロックがどんなものかわかる。レコード貸してやろうか?」
そういってから、しまったと思った。想像したようにリリリは満面の笑みで大きく頷いた。絶対に断るということをしないのだ、この娘は。
夏休みになってから、すぐ正雄たち水泳部は合宿に突入した。ほかの部活はどうだか知らないが、水泳部は学校のプールで寝泊まりして一日中練習に明け暮れるのだ。温水プールなので屋根があるぶん、合宿練習するにはもってこいの環境だった。朝、起きるとそこにプールがあるというわけだ。
正雄にとっては一年で最も気が重い一週間だった。ハードな練習スケジュールが朝から晩まで組まれ、ピークでは一日一万メートルを超える。家に帰る必要がないから気が抜けないのだ。
ある日、午前の練習が終わり、昼食後夕方の練習までの休憩時間のことだった。更衣室に敷きつめた体操部から借りたマットの上で数人の部員が横になっていると、管理室の方から声がきこえた。
「おーい、センパーイ」
リリリの声だった。沢田と連れだっていってみると三人組がきていた。昇降口の簀子の上に靴を脱いで並んで立っていた。昼下がりのギラギラした校庭をバックに、楽器を持って真っ赤な顔をしている。もう、梅雨は明けたような陽ざしだった。
「なんだ、リリリーズじゃないか。どうしたんだ?」
「リリリーズじゃありません、ウェンズデイです」
「ウェンズデイ?」
三人は「ねっ」とお互い顔を見合わせた。彼女たちは毎週水曜日に練習することから、グループ名を〝ウェンズデイ〟に決めたという。
「いいじゃないか、可愛い名前だと思うよ」
「いいでしょ?」
「あと実力が伴っていればな」と沢田が皮肉のようにいう。
「夏休みも音楽室でやってるのか?」
するとリリリは思案するような素振りをした。
「それが、そのつもりで集まったんですけど・・・ 」
彼女の話によると七月いっぱいは吹奏楽部が部活で使うらしいのだ。コヤナギもこれから練習にいくという。
「八月にコンクールがあるし、学園祭でも演奏会をするんです」
「一日中やってるわけじゃないだろ?」と沢田。
「それが七月中は〝通い合宿〟っていって、朝から夕方まで練習するんです」
「やるなあ、吹奏楽部も」と正雄の方を見た。
「ウェンズデイの練習場所がないのか」
「それもそうなんですけど、どこかでやったとしてもコヤナギが参加できないでしょ?」
「仕方ないじゃないか。その間は個人で練習するようだな」
「ここで練習できないですか?」
リリリの突拍子のない提案に、さすがの沢田も慌てた。
「バカいえ、合宿中なんだぞ」
「いま休憩時間なんでしょ? その間だけ」といってリリリは拝むように手を合わせる。
「ここで寝泊まりしてるんだ、どこで練習するんだよ」
「女子の更衣室はどうですか? また掃除しますから」
なるほど、水泳部は男子と女子で別々に活動していた。いま女子の水泳部は合宿していない。彼女たちは午前中で練習を終えるので、使おうと思えば使えないことはない。
「どうします?」
正雄は沢田の顔色を窺った。
「オレたちは休憩時間だからな、やたらと大きな音を出したりするなよ」
どうやら暗黙のうちの了解をとったということになった。だが、そのおかげで正雄と沢田は休憩時間もろくに休憩できなくなった。やはり他の部員に気を遣わなければならないし、顧問の先生にも内緒だから、いざというときには彼女たちに練習をやめさせなければならない。
なにより育ての親である彼らふたりは、ウェンズデイの出来が気にかかっていたのだ。そのために彼らは寝床を更衣室から管理室に移すことになった。更衣室よりは近いが、板張りの床は寝心地がいいとはいえなかった。安普請の造りだから、女子更衣室の話声などはきこえないにしろ、楽器の練習などはよく聴こえるのだ。
その日の午後も彼女たちが練習しているのを聴きながら横になっていた。沢田はどれだけ体力があるのか知らないが、ウェンズデイに付きっきりで指導している。
・・・女子更衣室に入れるのが嬉しいのかもしれない。いずれにしても沢田さんにとっては最後のシーズンだから、思い残すことなくやっておきたいのだろう・・・
正雄が「オマエたちの言葉で歌詞をつくれ」といった『アイゴートゥピーセス』を演っていた。いましも午後の微睡みに沈みそうになりながら、その歌を聴き寝言のように呟くのだった。
「・・・できたじゃないか」
♪ あのコがやってくる 不安で震えてくる
見ないようにしてもボクの目は釘付け
バラバラになりそう 隠れたい いうことをきかない
BABY キミがそばを通ると・・・