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ブランニューイエスタデイ  作者: 犬上田鍬
7/15

その三 残照のエトランゼ ②

 沢田の話は、多少自分に不利にならないようなアレンジが入っていたとしても、ほぼ真実だろうと思えた。そうだとすれば、リリリの自殺の原因はたったひとつしか考えられない。あの男だ。正雄は、もうコゴローのことを庇う気持ちになれなくなっていた。

 ただ、正雄自身が解せないこともあった。

・・・コゴローさんは同棲相手の女性が「いま、なにしてるのかな」みたいなことをいっていた。あれはリリリのことではないのか? そうだとすればコゴローさんは自分同様、リリリが亡くなったことを知らないことになる・・・

「ステラは無念だったろうな・・・ 」

 コマサの一言にコヤナギもサユリも堪えきれずに嗚咽を漏らした。危うく正雄まで、それにつられて涙が出そうになったが必死に堪えた。それでなくとも、最近ただでさえ涙腺が緩くなってきたと感じていたのだ。

「思い出のあるところに現れるのも無理ないかもよ」

 堺の一言は、まるでリリリの亡霊を肯定しているようにきこえる。いまなら説得力があるのだ。仮に亡霊だとすると、メタフィジカルにまで姿を現すとは、よほどの執着があったとしか思えない。正雄は首を傾げた。

 冷静に考えてみると妙な話だ。しかし、見た者が正雄を含め複数いるということは、心霊現象もフィジカル並みに起こるということになる。それについては、まだ涙も乾かないサユリが友人の目撃談をきいて調べてみたといいだした。

「〝エトランゼ〟という現象を知ってますか?」

「ああ、システム上のバグや、VR依存に見られる幻覚のことだろ?」

 これは沢田が事情通の代議士からきいた話らしいのだが、まだメタフィジカル・システムというのは完全ではないという。なにかのタイミングで、ジャンプ時に残像が残ってしまったりするというのだ。また、VR依存になると、例えばマップ上で寝てしまい、夢を見た場合、メタフィジカルでの現実と区別がつかなくなってしまうことがあるらしい。それが利用時間の制限にも繋がっている。

 ありもしないものを見ることを、そうしたケースの総称で〝エトランゼ〟と呼ばれるのだそうだ。

「どっちも当てはまらないんじゃないですか?」

 ほぼビギナーの正雄は少なくとも依存症ではないし、残像ならリリリはやはりそこにいたということになってしまう。おそらく、リリリを目撃したというサユリの友人たちも同じことをいうだろう。

「エトランゼには本来の意味合いもあるんですよ」とサユリは補足した。

「本来の意味合い?」

「悪意のあるエピゴンなんかも含めてなんですけど、見知らぬ人という」

 コマサが口をはさむ。

「見知らぬ人がステラじゃ、ますますおかしいんじゃないの? オイラたちにとっては超有名人だ」

「ステラは亡くなっているでしょ? その姿を借りている人がいるらしいんですよ」

「だから悪意のあるエピゴンだろ?」

「悪意がないエピゴンもあるんです」

「意味がわからん。悪意があるからこそ、エピゴンなんだろ?」

 みんな首を傾げた。サユリは自分が調べた知識をもったいぶっているのか、急に楽しそうな表情で説明しだした。正雄は、いつも音無しの構えをしているサユリのこんな顔を初めて見たと思った。

「メタフィジカルには〝ネイティブ〟と呼ばれる人たちがいるんですよ」

「ネイティブ? エトランゼやらエピゴンやら、それはなんのことなの?」

 その意味を考えれば、もともとメタフィジカルに住んでいた人種ということになる。

・・・フィジカルの土地ならわかるが、ここはメタフィジカルだ。人が創った世界なのだ。そこに原住民がいるとはどういうことなのか?・・・

「メタフィジカルを構築するにあたって、試験的に永住するテストパイロットが必要だったんです。それは身寄りのない高齢者以外に、生まれつき身体的な障害があるとか、あるいは事故や病気などで障害を抱えてしまった人たちから選んだ。進んでパイロットになった人たちをネイティブと呼んでるんです。そのなかには自分の姿が残っていない人や、この姿ではかえって不自然だという人もいたわけです。そういう人が、すでに亡くなってフィジカルでは存在しない人の姿形をここでリサイクルしているわけです。もちろん遺族の許可を得てですけどね」

 全員が納得いったという反応を示した。

「そうか、メタフィジカルは娯楽と高齢者だけのためのものじゃなかったんだな」

「そう、マイノリティにとってはユニヴァーサルデザインでもあるんですよ」

 サユリは「どうだ」といわんばかりの得意顔だ。さっきの涙はどこへいった? ここでリリリの話をぶり返したら、どんなに面白いことになるだろうか、などと正雄は想像した。

「新しい社会保障制度は〝マイノリティ排除政策〟などとマスコミがいっているがな」とコマサがこぼす。

「または〝残照計画〟とかな」と沢田が付け加えた。

 このふたりは、どうやらこの制度に否定的らしい。しかし、先日それで言い合いになったことを思い出した正雄は、あえて聞き流すことにした。正雄はいまのところ、ここに移住することに前向きなのだ。皮肉なことに、いつでも移住できる連中が足踏みをしているのに、早く移住したい正雄のような者は条件に満たない。

「するとサユリは、ステラの亡霊はネイティブのエピゴンだと?」

「可能性はあるんじゃないですか」

 いいや、ない、と正雄は思った。リリリに関係のある場所ばかりに現れているではないか。これは偶然では済ませられないだろう。だが、亡霊とも思えなかった。なぜなら彼は自分の能力をよく知っていた。自分に霊感はないから亡霊など見るはずがない、と。


 七月に入り、現場の仕事はいよいよ過酷を極めた。ただでさえ茹だるような暑さと重労働のなかで、お中元が解禁になったのだ。途方に暮れる大量の荷物が入荷してきて、朝方には腕が痙攣するほどだった。

 休憩時間に水分補給しようと自販機の前で財布を取り出すと、財布から汗が滴っているのだ。カードなど持っていない正雄は、濡れた札が使えないので仕方なくいつも小銭を持ち歩くことにした。

 たまに、いつもの休憩場所に降りてきていたコゴローも、ここのところこなくなった。裁く量が増えるということは比例して破損品も増える。補修の仕事は養生すればいいだけとはいえ、一件に割く時間が投入口の何十倍にもなる。正雄が帰るときにコゴローのセクションの脇を通るのだが、彼は「今日も残業だ」と汗まみれの顔でウィンクしてくる。

 しかし、そんな状況になっても正雄は頑張れた。それはとりもなおさず、当面の目標ができたからだった。ここを乗り切って、八月には盆帰りするぞ、と。そして、楽しみにしている亜空間ライブ・・・。

 正雄はバンドのリハーサルが最近楽しくて仕方がなかった。リハーサルを通して少しずつ、この齢になってもなにか気づくところがある。発見することの面白さが彼を何事にも積極的にさせていた。気が重かったリハーサルの日が待ち遠しくなるほどになった。

 残りあと数回しか残っていないリハーサルのある日、ろくに楽器も持たないうちから沢田がだれにともなく喋り出した。

「亜空間ライブのことをPRしようと思って、この間コマサからホロのデータを借りてつくったポスターを事務所に貼っておいたんだよ」

「ああ、ステラブルーの追悼盤のヤツね」とコマサ。

 それをきいて正雄は率直に疑問に思った。

「亜空間ライブのポスターなんて事務所に貼って、だれが見るんですか?」

「ウチの事務所にはオレの同級生たちやバンド関係の仲間が普段から出入りしてるんだよ。だから、オマエらもこいって意味で宣伝してるんだ」

「反応はどうですか?」

「やはり、なんといってもオリジナルウェンズデイの演奏だろうな。なにしろ、まだロックにかぶれていないステラの姿が見られるんだからな」

 そうだった、と正雄は思った。当日はフィルム興しのオリジナルウェンズデイの演奏が本邦初公開されるのだ。コマサが正雄にきく。

「どうだったの、初期の彼女たちは?」

 正雄は答えようがなかった。

「実は、このときの模様をオレも沢田さんも見ていないんだよ」

「えっ、だってオマエらプロデューサーなんだろ?」

「オレたちが出られないから、リリリたちにウェンズデイをやらせたようなものなんだ」

「どういうこと?」

「オレたちはオレたちで、毎年学園祭で〝ウォーターボーイズ〟をやっていたんだ」

「ウォーターボーイズ? なんだ、それ?」

「オレたちはもともと水泳部で、男のシンクロナイズドスイミングを学園祭でやっていたんだよ」

「映画の『ウォーターボーイズ』のことね!」とコマサは手を叩いて笑った。

「マーチャンは笑うけど、すごい人気だったんだぜ。しかも観客は女子ばかり!」

「女のコはそういうの好きだからな、オカマバーとかさ」

 ふたりがそんなことを話していると、コヤナギの「えー!」という声が響いた。どうやらコヤナギたちが沢田の話に示した反応らしかった。正雄とコマサがそれに加わると、こういうことだった。

 亜空間ライブのポスターを見た乗務員が、この格好をした女性を乗せたことがあるといったそうなのだ。その女性客は、乗務員の間では有名な存在だったという。

 なぜかといえば、どう見ても人間性に欠けているからなのだ。顔も限りなく人間に近いのだが、こんな人間がいるかという造りもののような表情をしていて、彼らはこの女性客を「悲しみのアンドロイド」と呼んでいるらしい。

「ついにフィジカルにも現れたか」とコマサが冗談ともつかぬニュアンスでいった。

「ステラにそっくりなアンドロイドですかね?」

 コヤナギは怯えたようにいう。

「十年ほど前のことらしいんだ。自立型のアンドロイドなんてまだ無いだろ」

「じゃあ、ステラにそっくりのアンドロイドに似た人間ってことですか」

「アンドロイドイドか!」

 わけがわからない。正雄はきいた。

「そのアンドロイドイドは、どこからどこまでいくんですか?」

 沢田は一拍置いて、「それが獄門寺駅の北側に医療施設や企業の研究機関がある一画があるだろ? あのへんの路地に迎車で呼ばれることが多いらしいんだけど」といってヘンな笑みを浮かべるのだ。

「ときには都立霊園で待っていることもあったって」

「冗談でしょ?」

「四、五人の乗務員が乗せたことあるらしいんだが、みな口をそろえていう。夜の零時ちかくに都立霊園の西門のあたりに迎車でいって、どこにいくと思う?」

「まさか並梵学園?」

 沢田は、いやらしく微笑したまま首を振った。

「いつも同じところにいくらしいんだが、それが西町のバス停なんだと。しかも、待っててくれといって、いつも五分くらいで戻ってくると、また獄門寺の北口まで帰るそうだよ」

「いつもそのパターンなんですか?」

「いつも。あるとき乗務員の一人が、そっと後をついていったことがあるらしいんだ。ぎこちない歩き方なんだけど人並みに歩いたそうだよ。そのいった先が例のアパートだった」

「・・・ 」

 もう、だれも素っ頓狂な声をあげる者はいなかった。もし、本当のことなら間違いようのないことだ。

 沢田の話はまだ終わらない。

「いまはもう建売かなんか建っちゃってるんだけど、あの頃はまだあのアパートが残っててね、だれも住んでないから空き家なんだけどさ。そこに入っていくんだと。それで外階段を二階に上がって、一番奥の部屋までいって、そこでじっと立ってるんだとさ」

 明かりの灯っていた部屋だ、と正雄は思った。

「だれも住んでないんでしょ?」

 正雄は確認するようにきき直す。

「空き家だよ」

「夜中の零時過ぎでしょ?」

「真夜中。しかも、その部屋はかつてコゴローさん専用の部屋だったんだ」

 正雄の背筋をなにか冷たいものが一瞬、凄い速さで通り抜けていった。しばし、お互いの顔色を見合わせ沈黙していたが、コヤナギが恐る恐る口を開いた。

「人間ですかね?」

「ヒトとは思えんなあ」とコマサが茶化すようにいう。「アンドロイドイドでなければ亡霊だ」というつもりだったのかもしれないが、そんなことをいって笑えるような場の空気ではなかった。

「たしかに人間だったようだよ。乗車賃ももらったって。ただ財布を開けたり、中からおカネを出したりするのがどうも苦手なようで、財布ごと運転手に預けて、そこからとってくれといってたそうだ」

 目が不自由なのか?と正雄は思ったが、沢田はこう付け加えた。

「どうやら両手が義手なんじゃないかっていうんだ」

「そのお客は、もういないんですか?」

「最近は乗せたことがないらしい。ただ乗務員の連中の勝手な憶測で、なにか大きな事故に遭って、身体のあちこちを整形してるんじゃないかって。それが所以で悲しみのアンドロイドといわれだしたみたいなんだけど、たとえば・・・ 」

 沢田がいいかけたところを継いだのはコマサだった。

「鉄道事故か」

 再び重い静寂が訪れる。そんななかで正雄は、どうも話の繋がりが出来過ぎていないかと思っていた。

・・・沢田さんの話が事実なら、リリリは電車に飛び込んだが助かったということにもなりえる。追悼盤までリリースしているのだ、いまさらそんなことがあるか?・・・

 沢田の奇怪な乗客の話に、その日はリハーサルをするような雰囲気ではなくなった。演ったとしても、コゴローのアシッドフォークをジャズっぽく演奏するみたいな、おかしな調子になってしまう。学芸会の方が、まだましだろう。

 みんな、頭のなかでヘンなことを考えているのだ。正雄もそうだった。集中しようとしても、いつの間にかそのことを考えていたりするのだ。コマサだけがドラムを叩きながら、そのヨロヨロのアンサンブルを笑っていた。しまいに沢田が、今日はもうやめようといい出して、その日はお開きとなった。


 そして、七月に入ってから二回目のリハーサルのこと。

「悲しみのアンドロイドのことをネットでちょっと調べたんですよ」

 そういったのはサユリだった。サユリは、どうやらこういうことが好きなようだ。

「サユリさん」

 口を開きかけたサユリにコマサが間髪おかず声をかける。サユリが自分から喋り始めること自体が珍しかったので、正雄たちは耳を傾けていたがコマサだけは違った。

「その話はあとにしようや」

 まず練習をしようということなのだ。コマサだって暇じゃない。自分の商売もあれば、同じ亜空間ライブで演る自分のバンドのリハーサルもあるだろう。この前のこともある。せっかく集まったのだ、またろくな練習もしないで終わるわけにはいかない。

 正雄と沢田は顔を見合わせ苦笑した。コマサをメンバーに入れた効果が意外なところに表れたと、お互い思ったのだ。おかげで、その日の練習は締まったものになった。だてに、その昔コンペで優勝したことのあるバンドでドラムを叩いていたわけじゃない。

 それぞれの曲を演って、通しで三曲を終ったところでコマサがいった。

「はい、雑談!」

 思わず吐息が洩れた。だれがリーダーだかわからなくなってきた。

 ここでやっとサユリの出番がきた。サユリが都市伝説のサイトを覗いていたら、例の「悲しみのアンドロイド」にそっくりなものを見たという投稿があったらしい。ただ、それは都立霊園や獄門寺周辺ではなく、東京から南へ下った隣県の湘南市だった。

「湘南市の西のはずれの方に県立高校があるんですけど、そこは海沿いを走る国道に面したところに建っているんです。そのあたりで夜中に出没するらしいです。目撃者も二人や三人じゃないみたいですよ」

「湘南市?」

 沢田は首を傾げた。思い当たるフシがないというのだ。サユリやコヤナギも、リリリとそのあたりの関係はきいたことがないという。

 ただ、正雄にはあった。二十代の半ばにつき合っていた由里子という女が、たしか湘南市の美容院へ就職するといっていた。そのときにリリリの鉄道自殺のニュースを聴いたのだ。同じ湘南市というのが不思議に思える。それきり由里子とは別れてしまったのだが、これこそ偶然以外のなにものでもないだろう。

「そんなところでなにをしていたんだろうね?」

 サユリも両手を開いて「さあ」という仕草をした。

「でも、目撃者はみんな県立高校のまわりを歩いているマネキン人形のような人物を見ているみたいです。なかには、もっと東の()(しま)に近いところの歩道を歩いているのを見たという情報もありました。そのどれもがステラの格好で、ひと目で造りものの顔をしていたと。マニアックな投稿者では《あれは八〇年代のバンド、ステラブルーの自殺したボーカリストだ》と指摘したものまでありました」

「最近のこと?」

「やっぱり十年くらい前のことみたいですよ」

 どうやら、これもアンドロイドイドに違いないようだ。なぜ、そんなところに出没するのかは本人にでもきいてみるしかない。本人にきけるものならば、の話なのだが。

 正雄はその話で不意に昔のことを思い出した。由里子とその近くの海沿いのバイパスをドライブしたときに、荒天の海上を飛ぶ無数のカモメを見たことがあった。同時に、この景色はどこかで見た気もしていた。正雄はサユリの話をきいて、どこかで見た景色と思ったのは、リリリが描いた『十七歳の風景』の歌詞だと気づいたのだ。

《海沿いの帰り道 風のなか 海鳥が飛んでいたパノラマのうえ・・・ 》

 歌詞のこの部分が、あの日のあの場面を彷彿とさせた。そういえば歌詞の舞台になっているのは海の近くにある学校の窓から見える風景だ。

・・・もしかしたら、リリリも似たような景色をあの近くで見ていたのかもしれない。そう考えると、アンドロイドイドが出没したという県立高校の周辺がモデルだったという推理も成立するではないか・・・

「どうもリリリのような気がする・・・ 」

「腹でも痛いのか?」

 我に返ると狐目の男がニヤニヤ笑いながら立っていた。コマサだった。

「なに独り言をいってるんだ、顔色が悪いぞ」

「いや、具合は悪くないんだが」と愛想笑いで返した。

「冗談だよ、じゃあな」

 コマサは、どうやら正雄がサユリの話をきいて怖気づいているとでも思ったらしい。気がつけば、既に他のメンバーはメタフィジカルをイジェクトしていたようだった。

 正雄は一度スポットに戻って、さらにもう一回ダイブしようと思っていた。どうしてもいってみたいところがあった。いつもなら次のお楽しみで取っておくのだが、繁忙期の最中でやっと取れた休みだった。次はいつ取れるかわからない。盆帰りまで取れないかもしれないのだ。

 スポットで行く先の検索をした。場所は湘南市の海沿いの国道付近だ。マップ上にある県立高校でオリジンを切ろうと思っていた。問題は、いつ頃のマップを選ぶかということだ。どのアプリを使ってもマップは共有できるので、候補は星の数ほどあるだろうと思った。ところが『サマーブリーズシティ』で候補を挙げると一つしかなかった。正雄は、いつ頃のものかわからないそのマップを選択した。

 県立高校の前の歩道に立つと、妙に古さを感じなかった。もしかすると、いまでもこのままではないのかと思うほど時代を感じさせない。国道の道幅は広く、海側の歩道は向こうが見えないほどの松林に囲まれていた。片側二車線で中央分離帯があり整然としている。校舎を見上げて、これでは三階の教室の窓からでも海は見えないかもしれないと思えるほど松林は鬱蒼としていた。

 それよりも天気だった。正雄は『サマーブリーズシティ』というアプリのイメージで、常に夏の明るい陽ざしのなかを想像していたのだが、特に天候を選ばなかったらフィジカルに合わせたらしく曇りなのだ。しかも、いまにもひと雨きそうな夕立の気配のする黒雲が立ち込めている。ときおり東の空がフラッシュのように光っている。どうやら長居は無用のようだった。

 西の方へいくとバイパスに繋がっているはずだ。東に向かってなだらかな下り坂をゆっくりと進んだ。学校があるせいか、歩道もやけに広く、路肩には植え込みもあった。緑が多いだけに天気さえ良ければ、だいぶ癒されるロケーションになると思える。

 爽やかな潮風のかわりに、なんだか生暖かいヘンな風が吹いてくる。この風が止めば降り出すだろう。

 せっかく海のそばにきたのだから浜辺側に渡って海を見ることもできたのだが、そんな気になれなかった。人のいる様子がまったくないうえに、どうせ実体のないホリゾントなのだろうと思えたのだ。

 でも、いいところを見つけたと思った。次に休みが取れるときは、いや盆帰りのときにでも、もう一度きてみようと思った。そのときはもう少し出ノ島寄りにいってみようとも。


 繁忙期は三週間も過ぎた頃に収まりを見せた。業務体制は意外に早く元のシフトへと戻っていった。コゴローがいうには、以前には八月の中旬まで繁忙期の体制だった時期もあったのだそうだ。

「それを思えば、いまは楽になったよ」

「でも稼げなくなったんでしょ?」

「そうだけど、オレはそこまでして稼ぎたいとは思わないね。身体が資本だからな、オレたちは」

 仕事に対して真面目な彼だったが、意外なことをいうものだと正雄は思った。しかし、コゴローのかつての姿を知ったいまは、それも頷けると思った。身を削って働くよりもマイペースが最優先なのだ。

「お盆休みはどうするの?」

「ちょうど盆帰りの時期に休めるように、リーダーにシフトの調整をしてもらいました」

「よかったじゃないか。まあ、せいぜい楽しんでこいよ。ちゃんと帰ってきてね」

「まさか。私はまだ永住できる身分じゃないですよ。コゴローさんは?」

「オレはまだ決めてないんだ」とノンキに笑う。

 繁忙期の収束のおかげでメタフィジカルにいく回数が増えた。休みの前日などは、朝、仕事からあがると、その足でまずメタフィジカルにダイブしてベースの練習をした。

 オリジンは湘南市の県立高校に切ることが多かった。そこから海岸沿いを歩いて、海浜公園のようなところで練習をした。正雄はこのロケーションが好きだった。

『誰もいない海』というフォークソングがあったが、ほぼシーズンを迎えるという初夏のだれもいない海というのは胸が躍るほどよかった。フィジカルでは、ほとんどありえないことだ。まるでプライベートビーチの如く、すべてが正雄独りのもののように思われた。

 翌日も同じところにダイブした。その日は気が向くまま、海沿いの国道をあてもなくぶらぶらと歩いていた。夏の西日を浴びて、身も心も二、三十年は若返るような気持ちになった。

・・・これがフィジカルだったら、そうはいくまい。暑さと持病の腰痛で、とっくの昔にリタイアしていたろう・・・

 リフレッシュ休暇を満喫していて、ふと正雄はあることに気がついた。入り江が緩やかなストロークでカーブを描く、この通りに既視感を覚えるのだった。もちろん、この道は若い頃クルマで遊びにきて何度も通ったことがある。しかし、歩くのは初めてなのだ。見る景色も違う。なのに、なぜか頭のなかでイメージが湧く。

 まだ、正雄が優雅な日々を送っていた頃のことだ。由里子とあのへんをあてもなくドライブしたことがあった。あれはたしか、由里子が社員旅行で伊豆の温泉にいくので、その帰りに向こうで落ち合ったのだ。まだ由里子とつき合いだしたばかりで、正雄は興奮して前日寝られず、そのまま朝、クルマで出たのだった。

 家には取引先とのつき合いでゴルフにいくといってあった。バッグをトランクに積んで、まるでリゾート気分のような格好で家を出たところまではよかったが、台風がきていた。待ち合わせをした伊豆の駅までは降っていなかったが、由里子がクルマに乗り込んだ途端に雨がひどく降り始めたのだ。おかげで終日クルマを運転することになった。

 箱根のドライブインで昼飯にしたが、外は土砂降りで他に観光客など一人もいなかった。これでは、そのへんのファミレスと変わりがない。せっかくのデートなのに、これではぶち壊しだ。

 おまけに、由里子を冷静に分析することにもなった。外の景色もろくに楽しめず、ひたすらクルマで目的もなく走り回ってるだけだったときに、なぜか映画の話になった。

 サーファーの青春を描いた映画のTV放映があったのだ。この作品はロードショー公開当時、前評判が高かったので、彼らくらいの若者たちの間で知らない者はいなかった。

「アレ観た?」

「アタシ、映画館とかビデオで何回も観たよ」

「ユリちゃん、そんなに観たの? アレ、そんなに面白いか?」

「だって話題作だよ、アタシは一番好き」

「オレは、そうは思わなかったんだけどなあ」

「なんで?」

「仲間の一人がベトナム戦争で死んで帰ってくるところがあったじゃん? そこから、なんか暗い感じになっていくだろ?」

「そんなところあったっけ?」

「・・・ 」

 正雄は一回観て、どこがそんなに面白いのかわからなかったが、この映画が一番好きで何回も観ている由里子がストーリーを憶えていないというのはどういうことなのか?

 このとき正雄は、この女は話題になった映画だから、傑作に違いないと自分の評価もなしに思い込んでいる、と感じたのだ。

・・・俳優を見て映画を観ないファンはいるが、コイツは映画館にいって長い行列に並びたがるミーハーだ。噂に左右される究極の俗物だ・・・

 それをいえば、若い頃の正雄などミーハー以外のなにものでもなかった。しかし、ろくに好きでもないものを他人に自慢したがる、その軽薄さが気に入らなかったのだ。その後のシラケたこと。

 寝なかったので、ものすごい睡魔に襲われ始めて散々だったことしか記憶に残っていない。熱海のあたりで、眠気覚ましに海沿いの国道脇にあるファミレスでお茶を飲んでいるときに雨が小降りになり始めた。もう夕方で、言わずもがなの帰路になるとお互い思っていたところだった。まるで、ふたりのことを呪った嫌がらせのような一日だった。

 唯一、鮮烈に憶えていることがあった。東京に向かって海沿いのバイパスを走っているときだった。開けた視界に暗雲が早送りのような勢いで流れていく。夏場だったので、まだ十分明るい時間帯なのだが、天気と寝不足のせいで時系列がわからなくなっていた。

 ふと視線の先を見ればカモメがクルマのすぐ上空を飛んでいた。何羽も、なかにはこちらに向かって突っ込んでくるような個体もあった。こんなに低いところをカモメが飛んでいるのを初めて見たと思った。

 その場所が、この先のバイパスだった。正雄は実際にきて、やっぱりここだ、と思った。

 そう、それはリリリが昔、作詞した『十七歳の風景』の世界なのだ。防風林に囲まれた歩道の上空には歩道橋も見える。海上にはカモメだか、シラサギだかわからないが、白い鳥が舞っているのも見える。リリリは、この風景を見ていたのだと正雄は想像した。

・・・そう考えれば、この通りにアンドロイドイドが出没することに納得がいく。おそらく、それが亡霊でなければ、このマップは彼女が創ったのではないか。そのために現場を見にいっていたのではないのか。リリリは、ここに自分の記憶を再現しようとしている・・・

 なにか切ない想いに突然襲われるのだった。


 そして盆帰りまであと一週間ほどとなったある日のこと。いつものように同じコースをしばらく歩いていくと視界の端の方に、なにか、ちらちらと動くものが入ってくるのだ。反対側の歩道の後方を振り返って見た。

・・・人だ。女子高生だ。この学校の生徒か?・・・

 正雄はマップ上で人に遭遇することの稀なことを忘れていたわけではなかった。だが実際、いま自分のすぐ後ろを独りの女子高生が歩いているという事実が、単なる偶然の仕業としか考えられなかった。

・・・出たよ、またエトランゼか? 沢田さんにいえば「オマエは正真正銘の不審者だな」といわれかねないな・・・

 ほくそ笑んでもう一度、振り返ったときにその制服に見憶えがあることに気づく。

・・・あの制服は、あのイケてないジャンパースカートは母校の女子の制服ではないのか? まさか・・・

 正雄は立ち止まり、ゆっくりとその女子高生を凝視した。道路を隔てた右斜め後方から近づいてくる、その女の子も正雄がこちらを見ているのに気づいたように、少し速度を落とした。

 身長は百六十センチに満たないほどだろうか、華奢な身体にショートカットの髪型。風に揺れる前髪の下の大きな目が訝し気に瞬きをしている。制服だけじゃない、この女子高生は、たしかに見たことがあると正雄は思った。

 なんてことだろうか。アンドロイドイドでもなければ、ステラでもない、紛れもないリリリ本人だったのだ。死んだはずの人間がメタフィジカルを彷徨っているのだ。正雄は自分の目の前で起こっていることに驚いて腰を抜かすというより、死んだというのは本当なのだろうかと、そっちを疑った。

「リリリだろ?」

 女の子は、最初正雄が自分に話しかけたとは思わなかったらしく、まわりを一瞬見回していた。だれもいないことを確認すると、再び正雄の方に視線を戻す。髪がその娘の顔を覆うほど強い風が吹いてきた。

 正雄はもう一度、彼女の名を呼んだ。

「リリリ!」

「?」

 女の子は、きょとんとした表情で正雄を見ている。ゆっくりと道路を渡って正雄に近づいてくるのだ。もはや、こんな亡霊はないだろうと正雄は確信した。ただ、エピゴンでないとはいいきれない。

「オレだよ、近藤だよ」

 リリリは正雄のすぐ近くまでやってきていた。フィジカルだったら彼女の匂いすらわかるほどそばまできて、やっと一言いった。

「センパイ?」

 リリリの久々の声色には、まるで聴き憶えがなかった。彼女はこんな声だっけ、とかそういう問題ではない。なにかアナウンスでもしているような感情に欠けた声だったのだ。だが、正雄に対するこの呼び方は紛れもなくリリリでしかなかった。正雄は笑顔で大きく頷いて見せた。

 彼女は大きな目を開いて小首を傾げるように、しげしげと正雄を見つめた。もう口笛を吹くように尖がらせた唇には微笑の兆しが浮かんでいる。そしていった。

「きたんだ?」

「え?」

「ここにきたんだ?」

 正雄はメタフィジカルに「きた」ことをきいているのだろうと思った。現に目の前にいるのだ、そんなわかりきったことをきくだろうか、とも思ってきき直した。それとも、彼女のいう「ここ」とは、この場所のことをいっているのか。

 そんなこと、どうでもよかった。とりあえず、ずっと会いたいと思っていたリリリに、遂に会えたのだ。ききたいことは山ほどある。まずは当然のことを確認したかった。

 キミは生きていたの?と。



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