その三 残照のエトランゼ ①
しつこいようですが、「ボーイズラブ」の要素はありません。
明け方、最後の荷物をそれぞれのポートに運ぶために構内はごった返していた。近頃は少し身体を動かすだけで汗にまみれるほど暖かくなった。正雄は荷物の積まれたカーゴを引っ張りながら、先日の堺からきいたことを思い出した。
リリリは、いまから四十年近く前に亡くなっていた。鉄道自殺をしたらしいのだ。獄門寺駅の西側にある跨線橋から始発電車に飛び込んだという。新聞によると、彼女はどうやら妊娠していたらしい。
もちろん独身だったので、相手がだれかという騒ぎになりそうなものだが、残念ながらステラブルーというバンドは、そこまで売れていなかった。ただ、そのことでレコード会社は彼女たちのバンドの追悼盤をリリースしたという。スキャンダラスな話題性に乗ったということなのだろう。
堺は売れなかったステラブルーが茶切巣町界隈のローカルバンドみたいになってからステージを一緒にしたことがあるので、その縁でアルバムを持っているといっていた。ほとんどがカヴァーなのだが、オリジナルである『十七歳の風景』も入っている。少しだけだがゴシップ誌やワイドショーなどで、この曲の正体不明の作者とリリリの自殺の原因との関係性が疑われたこともあったそうだ。
正雄は、そういえば大昔そんなニュースを耳にした憶えがあったと思った。学生時代と違い、その頃ほとんど流行歌すら、ろくに聴いていなかった。ましてデビューしたものの、ヒットに恵まれなかったバンドのことなど気にも留めるはずがなかった。
カーラジオから『十七歳の風景』を初めて聴いた、由里子との最後の夜のことを思い出す。あの曲がかかったのは、この事件を伝えたニュースだった。まさか、それがリリリだなんてことは想像もしなかった。やっと、自分たちのつくった歌が公共の電波にのった理由がわかった瞬間だった。
・・・リリリは、なぜ自ら命を絶たなければならなかったのか? 彼女の子どもの父親はいったいだれなのか?・・・
いまどき、こんなことを考えているのは正雄くらいのものだったろう。とっくの昔に終わって、同世代にもステラブルーなんて名前を憶えている人がいない時代なのだ。沢田たちや堺の態度がリリリのことになると、どうもヘンだと思っていたのだが、知らぬは正雄ばかりだったのだ。
彼らはその後、その悲劇から立ち直っている。そうでなければ彼女の追悼ライブをやろうなんてことは考えないだろう。正雄は正直なところ、初めて知ったショックのあまり、リリリの思い出ばかりに浸っていた。ここでも世の中から数十年という遅れをとっている。
「おい、危ないぞ!」
危うく、正雄が引っ張るカーゴと擦れ違おうとした別のカーゴとが接触しそうになった。正雄は我に返り、そこに立ち止まると、擦れ違いざまにカーゴを引っ張っていた自分よりよほど齢の若い男から頭を小突かれた。
「気をつけろ」
「すいません」
「なにしてるんだ、早くいけよ!」と、正雄の後ろについていた連中が正雄に向かって怒鳴る。正雄は慌ててカーゴを引っ張り始めた。
ここは、そんなもの思いに耽っていられる場所ではない。汗と埃にまみれて肉体労働をしなければ喰えない殺風景なところなのだ。正雄は改めてメタフィジカルで会った懐かしい友人たちのことを思い浮かべた。ここにはそんな温かみもない。
唯一の話し相手だったコゴローにも、最近は近寄り難さを感じて避けてばかりいたら、彼を見なくなってしまった。こういうところが大嫌いなコゴローのことだ、辞めてしまっていてもおかしくない。正雄は、ついに独りになってしまったと思った。
ある日、休憩時間にいつものカーゴ置場で独り途方に暮れていたら、暗闇からコゴローが現れた。いつものような強面顔だったら、ちょっと怖い感じがしたかもしれない。だが、彼は笑みを湛えていた。缶コーヒーを手で弄びながら、正雄の隣に腰を降ろした。
「お見限りじゃないか」と肘で正雄の腕をつつくのだ。
「コゴローさんこそ。どこにいたんですか?」
コゴローはぐいと缶コーヒーをあおると、目じりを下げていった。
「実は突然セクションが異動になってさ。いま、〝補修〟ってところにいるんだ」
「ほしゅう?」
「うん、壊れた荷物なんかを簡単に補修して営業所に送れるようにする係なんだ」
「へえ。でも、直すのは大変でしょ?」
「直せない、直せない」とコゴローは手を振った。
「いろんな荷物があるんだぜ、直すのなんて無理でしょ? ただのアルバイトなんだから」
「だって補修するんでしょ?」
「それ以上壊さないように養生するだけさ。あとは営業所の仕事」
「どこでやってるんですか?」
「屋上の駐車場に出る手前に、請負がもらいにくる荷物を置いてるスペースがあるじゃないか。あの一角だよ」
「ああ、あんなところで?」
「冬は寒そうなところだけど仕事が楽だからな。いまはちょうどいい季節だよ。休憩時間も降りてくるのが面倒だし、帰りはクルマがすぐそこだから顔を合わすことがなかったな」
コゴローと会わなくなったのは正雄が避けていたせいばかりではなかった。居心地がよくなって、これでは当分辞められないだろうな、と正雄はコゴローを羨ましく見つめた。
「しかし、どうして急に?」
「補修セクションの一人が辞めたらしいんだ。オレはその昔、自分でリサイクルショップをやっていたことがあるから、それで白羽の矢が立ったみたいだ」
正雄はそれを初めてきいた。ミュージシャンで喰えなくなったからここにきたのだと思っていたが、その間にもいろいろあったのだろう。そういえば彼とは、それ以外の話はしていなかった。リリリや沢田と知った仲だなんてことも、コゴローの口からきいたことはなかった。
「リサイクルショップって、ブルースシンガーを辞めてからですか?」
「辞めてだいぶ経ってからだよ。獄門寺のアパートを出たあと北海道に旅に出てさ、札幌に大通り公園ってあるだろ? あそこで、さて今日はどこに泊まるかなとぼんやり考えていたんだよ。そのとき手もとにあったヘアピンで、なんとなく人形みたいな形にしていたら、通りがかったアベックが、それを売ってくれっていうのさ」
「本当ですか?」
正雄は半ば笑いながらきいた。堺が「口の上手いヒッピー」といっていたことが、まだ頭に残っていた。
「本当なんだよ。面白くなってさ、持ってたヘアピンでいっぱいつくって、地面に並べて置いといたら、みんな売れちゃった」
正雄は、いくらなんでもそれは言い過ぎだろうと思ったが、口には出さなかった。
「その客のなかに女のコの二人組がいて、なんだか知らないけど手伝ってくれてさ。それで宿もお世話になったんだけど・・・ 」
コゴローの話は、もはや正雄がきいた質問とは全然違う内容になっているようだった。このまま放っておいて元に戻るだろうかと思ったのだが、これもコゴローの常だった。いつも話が脱線していって、最後には最初とは違う話になっている。
「そのコたちと一緒に東京まで戻ってきて、その一人が家に泊めてくれるっていうんで、ずっとお世話になっちゃったのさ。そのうち、なし崩しで結婚させられたんだ」
「それが奥さんとのナレソメなんですか?」
コゴローは皮肉な顔で頷いた。
「仕方ないよな」
「奥さんはコゴローさんのファンとかじゃなかったんだ?」
「とんでもない、アイツは〝チューリップ〟が好きだなんていうんだよ」
どうでもいいが、正雄はその話に笑えた。コゴローとは対極にあるようなバンドだ。まさに縁があったとしかいいようがない出会いだと思えた。正雄には遂に無かったが。
・・・それにしてもリサイクルショップはどうしたのか? いまだにリサイクルの「リ」の字も出てこないではないか・・・
「それで奥さんの家族の援助かなんかでリサイクルショップを始めた、とか?」
「子どもができちゃってさ、オレは働くのがイヤだから女房の持ち物をフリーマーケットで売ったりしていたんだよ。そのうち売るものがなくなるだろ? オレは例のヘアピンのアクセサリーとか、プラスチックのボードに絵を描いたりして、それを売り始めたんだ」
正雄は不思議に思った。沢田の話にも、堺の話にも「子どもができた」というキーワードが出てきた。いずれも、それをきっかけに音楽から足を洗うのだ。現実を見るのかどうか知らないが、コゴローもどうやら例外ではなかったようだ。
コゴローの話はさらに続く。まだリサイクルショップを開店していないのだ。
「毎週日曜日に武蔵野自然公園でフリーマーケットが開催されるんだけど、オレはそれに合わせて作品(!)をつくるのが日課になった。あまりに売れるんで、テナントを借りて店を開いたのさ。ちょうど女房の従兄弟が使っていない倉庫を八川のはずれに持っていて、そこを借りてね」
おそらく、最も景気がいいときだったのだろう。なにをやってもうまくいく時期が、たしかにあった。正雄も、その恩恵を被ったという憶えがある。しかし、素人がつくったヘアピンのアクセサリーで店を持つようになるほど、なんでも売れた時代だったのかと首を傾げたくもなる。
「オレの作品だけじゃあ、どうにもならないから、オレは解体屋にバイトにいって、そこで出た廃棄物をもらって帰って店に並べたよ。古物商の免許を取ってさ。それがリサイクルショップを始めたきっかけなんだ」
廃棄物を直したり、手を入れたりして売ったという。コゴローがいうにはリサイクル商売は好調で、最盛期には近隣に支店を三つと、つてあって軽井沢にも季節限定で出店していたそうだ。ここまでは働くのが嫌いな男が、いつの間にかリサイクルチェーンの社長になっていたというサクセスストーリーみたいだ。
「夏は軽井沢にいってリゾート気分で商売してさ。なにしろ解体屋でもらった仏壇を並べて置いたら五十万で売れたくらいだからな。オレも家族にとっても、いい時代だったよ」
正雄が由里子を連れて外車を乗り回していたのと同じ頃だろう。いま思えば、あの景気のよさがおかしかったのだ。この現実の厳しさは普通のことなのだ。しかし、あの時代を経験した者にとっては、やはりもう一度あんないい目に遭ってみたいと思うのが人情じゃないだろうか。正雄は、それがメタフィジカルにあると信じていた。
「景気がだんだんおかしくなってきてからは散々だよ。長女はいい目ばかり見て育ったから、景気が悪くなったってことを理解して、オレにはそれほどでもないんだけど、二番目と三番目は女房がオレの体たらくをなじるのをきいて育っただろ? おまけに、ちょうど男親を不潔だと思う時期とも重なって、もうオレのことが大嫌いでね」
おまけにこの風体では、あからさまに嫌われても仕方あるまい。
「みんな娘なんですか?」
「一番下は男の子」
「何人子どもがいるんですか、コゴローさんのところは?」
コゴローは、ピック代わりの自慢の爪を伸ばした指を四本立てた。
「うえの娘二人は嫁にいったんだけど、一番下のボウズはまだ大学院にいってて、来年卒業したらオレは女房と離婚するつもりなんだ。アイツらも、もう自立しているからな」
正雄は耳を疑った。もちろん共稼ぎなんだろうが、男親がアルバイトで生計を立てているのに子どもを大学院にまでいかせているのか、と。それに突然このひとはなにをいいだすのかと思った。
「いまさらですか?」
「もう我慢の限界だよ。女房や娘たちとは、ここ何年かは口もきいてない」
「どうして?」
「アイツらにいわせると、オレには甲斐性がないそうだよ。顔を合わせても、いないものとして扱われるから、オレはいま庭でテント生活しているんだ」
別居には違いない。正雄は奥さんのいうことは、よくわかると思った。このひとは基本的に忍耐や努力が嫌いなのだ。そのうえ、話し合いとかを面倒くさがる。だが、家族は好景気のおかげで恵まれた生活ができたのだろう。その頃は、コゴローがなにをしようが充分満足していたのだ。当然、そんな時期は長続きしなかった。
「離婚してどうするんですか? 屋久島に移り住む?」
「最終目標はそこだな。ただ、その前に少しカネを貯めないといけないから、なにか商売を始めようと思ってるのさ。一緒にやるかい?」
「なにをするんですか?」
「オレのイラストが売れると一番いいんだが、なんとか売る方法はないかな?」
「自分のサイトを開けばいいじゃないですか」
「それを近藤さんがやるっていうのはどうよ? オレは絵を描くから、どんどん売ってくれればいい」
正雄は呆れた。これだから、まわりにいた連中も見放していくのだろう。
「ダメですよ、そんなの。一番大変なところを他人任せにしちゃあ。コゴローさんが先頭に立ってやらなければ」
「オレのイラストは絶対売れるよ。リサイクルショップのときもそうだったんだ。オレはつくったり、もらってきたりするの専門で店の切り盛りは女房がやってた」
・・・やはりこの男は、あくまでやりたくないことをやらないつもりらしい。だいたいコゴローさんの考えは甘すぎる。あの時代と違うのだ。ド素人が描いた絵など、そんなに簡単に売れるものか・・・
正雄は、それ以上コゴローを窘める気にもなれず、ちょっと気まずい空気が流れた。しばらく沈黙が続いた後、懲りないようにコゴローは喋り出す。
「近藤さん、ここのバイトに沢谷って女のコがいるの知ってる?」
「投入口にですか?」
「女のコだから力仕事じゃないと思うけど、キレイなコなんだよ。ここのところ見ないな」
「さあ、知らないですね」
「ちょっと前まで、よくここで休憩をとっていたよ」
「私は休憩時間には必ずここにきますけど、会ったことありませんよ」
「まだ寒かった頃だったな。ちょっと茶がかった長い髪をオレみたいにポニーテールにしててね、色白の頬を寒風で赤くしてるんだ。いつも独りでここにくるんだよ。それでちらちら、オレを見るんだ。潤んだ目で」
「怪しがられてるんじゃないですか? それに寒いから涙が出るんでしょ」
「いや、あれはオレに惚れてるな」
正雄はぎょっとした。
・・・七十歳になろうかというこの齢で、まだそんなことをいっている。まさか、それが原因で離婚しようと思っているのではないだろうな。正気の沙汰とは思えない・・・
コゴローに、よほどウェンズデイのベースの話やリリリのことをきいてみようかとも考えたが、今度こそ決心がついた。
正雄は、沢田からきいて『疑似ベース』というアプリがあるのを知った。バンドアンサンブルではキーを勝手に探して音を外すことがないらしいのだ。あとは弾き手のセンスだけという優れものらしい。もっともメタフィジカルでは、すべての楽器が「エア」なのだけれど。
彼は、この際だからメタフィジカルで練習をしようと思い、給料の出た後の休みの日に、また母校のプールサイドにきた。相変わらず侵入経路は女子更衣室以外OFFになっているので、思い切って女子更衣室から子ども用プールの方に出てみた。屋内プールの方はONになっていないのだ。
沢田がいうには、だれかが創らないとONにはならないらしい。創るツールを揃える余裕のない彼には仕方ないが、この前ここにいた女生徒がくるかもしれないという淡い期待があった。
デジタルファイルにした演奏曲に合わせて適当に指を抑えると、なるほど面白いようにフレーズをつくってくれる。演奏曲は、その昔ウェンズデイに演らせた曲目と一緒だった。
一曲目が〝ピーター&ゴードン〟の『アイゴートゥピーセス』、次に正雄と沢田、リリリの共作オリジナルで『十七歳の風景』、最後に〝シモンズ〟に〝谷村新司〟が提供した『ふり向かないで』で締めた。
この三曲だけだ。あの当時でもオールディーズな選曲だったが、ウェンズデイにはだれも演らないような曲目を演らせようという計略があったのだ。
楽譜を見る必要がないから練習は非常にスムーズだった。ただ、素人の思いつきなので毎回ベースラインが変わるのもどうかと思い、リフを考えて憶えるという作業が必須だということに気づいた。やり始めると結構面白かった。ここ何十年も味わったことのない経験に夢中になっていた。
同じ姿勢に疲れて顔を上げると空は薄いピンク色に変わっていた。フィジカルとシステム時間を合わせてあるので、外も実際こんな空なのだろう。今日はこのへんにしておこうと思い、おもてへ出た。
オリジンを切った獄門寺駅に一気にジャンプしようとしていたときに、不意に思いついたことがあった。せっかくだからバス通りにある西町の停留所を訪ねてみよう、と。それは、コゴローが昔住んでいたアパートを見てくる約束を果たすということだった。
西町バス停付近は正雄にとって、とてもいい雰囲気のロケーションだった。暮れ馴染んできた空に、ひと気のない住宅街が佇んでいるだけ。目の前には駅に続く急な坂が横たわっていて、歩いてもたいした距離じゃない。ノスタルジーに浸るにはもってこいの設定だ。
停留所の前には個人経営の雑貨屋があった。食品から日用品など、間に合わせのものはなんでも置いている。まだコンビニなどというものが定着する前の時代だ。街にはこんな店がどこにもあった。正雄たちも部活の帰りはバスに乗らずに、ここに寄ってアイスクリームなどを買い食いしたものだ。懐かしいではないか。しかし、この店もOFFだった。
雑貨屋を通り過ぎ、駅に向かって歩くと、上り坂の手前に小さな橋が架かっている。橋の下にはドブのような川が流れている。ここからの高さは五メートルほどもあり、谷間のように断崖になって藪が生い茂っていた。そこを渡ったところに西へ曲がる小さな路地がある。道はドブ川と段丘とに挟まれていて、その緩斜面になったところにアパートが軒を連ねているのがバス通りの方から見える。どれも同じような二階建てで道側に外階段がついているという造りだった。
正雄がその路地を目指して歩いていくと路地から出てくる人が見えた。ここから二十メートルほども先だろうか。彼はメタフィジカルにきて、初めて通行人というのに出会った。離れているし、もう日暮れということもあって人相まではわからないが、その出で立ちはよく見えた。こんな目立つ姿の人間はフィジカルでも、まずいない。
長めの撫でつけた髪の女性だった。髪の色が黒ではなかった。蒼白くなった空気のなかではよくわからないのだが、銀色か、灰色っぽい白髪のように見える。キラキラ光るビーズをあしらったような膝上丈のずん胴のワンピースを身に纏っていて、エナメル質の白いブーツという、まるで大昔の〝シルビーバルタン〟みたいな格好なのだ。
メタフィジカルだからこそできるファッションだろう。だとしても、あんな派手な格好の人が、なんでこんな吹き溜まりみたいな路地から出てきたのかと不思議に思った。やはりなにか、ここに思い出があったのかもしれない。そして、このマップを利用しているということは、彼女も正雄たちとほぼ同世代だと思われた。女性は正雄に気づくことなく坂を上がっていった。
入れ違いに正雄は、その路地に足を踏み入れる。もう薄暗くて、まわりの様子などもはっきりとはわからなくなっていた。ポツンポツンと道を照らす裸電球が薄気味悪いほどの寂しさだった。
おそらく、ここに並んで建っているアパートのどれかにコゴローと彼女が同棲していたのだろうなと思われたが、不思議なことにそのうちの一軒がONだった。手前から二件目のアパートの二階の一番奥の部屋の窓から明かりが洩れているのだ。
正雄は、まさかメタフィジカルに住んでいる人がいるのではないかと考えを巡らせた。そのアパートの外階段のところに郵便受けがあって、そこに名前が出ているかもと近づいたが、いかにメタフィジカルといえども老眼は矯正されていなかった。暗すぎて、なにかが書いてあったとしてもまったく読めないのだ。しかし、あそこがONになっているということは、だれかが創ったということに他ならない。
そこで正雄はあることに気づくのだ。さっき、この路地から出てきた女性が、あの部屋をONにしたのではないかと。さらに外階段を上がってみようとして「えっ」と思った。暗いからわからなかったが、外階段はOFFなのだ。あの部屋だけがONなのだった。
遠くでお寺の鐘みたいな音が響いた。システムの終了時間だ。西の空に接する地平がわずかに赤みを帯びている。
それにしてもわからない。なぜ、入れもしないアパートの室内だけをONにしているのか。もし、それを生かしたのがさっきの女性ならば、彼女にとっては意味のあることなのだろう、としか想像できなかった。
初めてのリハーサルの日には堺もきてくれた。正雄は堺の二十歳前後の頃をあまりよく知らない。だが、ひと目で彼だとわかった。面影があった。むしろ、現在の堺の方がわからないくらいだ。髪型や着ているものなどは現在とたいして変わらないが、なんといっても華奢な体形でツヤのある肌をしている。
堺から見ても正雄は同じように映っているに違いない。なにより貧相さを増幅している髪の量が、ここでは豊かなぶん、堺より若づくりに見えたかもしれない。堺は正雄を見るなり、笑いながらいうのだ。
「おいマーチャン、オマエだれだ?」
「そういうマーチャンこそだれだ」
ふたりのやり取りを見てサユリとコヤナギは大笑いだった。
「マーチャンが二人いるとわかりづらいから、オオマサ、コマサでいこうぜ」
沢田が提案したが、その呼び名を使うのは沢田だけで当の本人たちは「マーチャン」で通していた。加えて女性たちは正雄のことを「センパイ」と呼び続けた。
リハーサルは初めてなのに順調だった。エア楽器の凄さに、正雄は改めて驚かされた。それを差し引いても、各人は正雄以上に暇を持て余している連中ばかりだ。個別練習は十分過ぎるほどしているのだろう。締めに三曲を通しで演って、その日は終わりとなった。
コマサは正雄に持ってきた画像データを見せた。立体画像だったので、そこにいた全員の目に留まることになった。沢田が、まず反応した。
「ステラじゃないか、これ?」
「そう、ステラブルーの追悼盤のジャケット」
コマサは若いときから細かった目をもっと細めて微笑した。
「買ったんだ、これ?」
「ステラとは一緒にステージやったことがあったんでね」
「オリジナル盤は持ってないの?」
「それは無いんだ。オイラはその頃、ステラブルーなんてバンド知らなかったから」
沢田とコマサがそんな話をしている横で、それを不思議に思ったコヤナギは正雄に小声できくのだ。
「センパイ、コマサさんはなんで年上の沢田さんにタメグチなんですか?」
正雄は答えようともせず、あんぐりと口を開けてそのホロを見つめていた。まるで、そこに凝固した瘡蓋のようだった。あまりに様子がヘンなのでコヤナギが声をかけた。
「どうしたんですか、センパイ?」
ホロには、黒い縁取りのあるジャケットにステラブルー全員が並んでいた。真ん中の女の子がボーカルのステラなのだろう、腰に両手を当て、気取ったふうに「く」の字に立っている。他のメンバーたちより少し大きく写っているのだ。
「こ、これ・・・リリリ?」
「リリリってよりか、この頃はもうステラですけど」
「まさか・・・ 」
正雄のありえない引き攣りように、コヤナギは彼がデビュー後のリリリを知らないことを思い出した。
「これがステラですよ。可愛かったよねえ、この頃」
ジャケットのリリリはグレーのメッシュが入ったブロンドのボブヘア、膝上丈のワインレッドのラメ入りワンピースにエナメルの白いブーツという姿なのだ。正雄が先週、メタフィジカルで見たシルビーバルタンそっくりなのだ。
「オレ、彼女を見た・・・ 」
「?」
正雄の様子のおかしさに、コヤナギは沢田たちを呼んだ。
「あまりTVなんかに出たことなかったけどな。見たの?」と沢田。
「いや違いますよ。先週、ここで見たんですよ」
「えっ?」
正雄の顔に全員の視線が向けられた。沢田が、もう一度きく。
「どこで見たって?」
「ここですよ、マップ上の西町で」
「西町って、獄門寺のか?」
「そう。まさかリリリだとは思わなかったんで、派手な格好でダイブしてるヤツがいるなと思ったんです」
「この格好だったの?」
「このまま。顔までは見なかったですけど」
コマサが口をはさんだ。
「ステラに間違いないよ。こんな格好するヤツいないだろ」
「だって、リリリは死んだんだろ?」
正雄はコマサに詰め寄るようにいう。
「落ち着け、マーチャン。だから、ステラにそっくりのナリキリだよ」
「ああ、偽物ね」
沢田は納得したように頷く。今度はコヤナギが疑問をぶつける。
「なんのためにですか? ハロウィンでもないのに」
「ステラの格好で盆帰りに参加するための下見をしていたんじゃないのか?」
沢田の推理は、あまり説得力があるとはいえなかった。イベントでもないのに特定のマップ上でダイバー同士が出会うことなど、落ち合う約束でもしていない限り、ほぼありえないことをみんな知っていた。それほどメタフィジカルというところは広いのだ。
「あの・・・」と、いつもOFFの壁より存在感のないサユリが珍しく手を挙げた。
「はい、サユリ」と沢田が指さす。まるで授業中だ。
「アタシの友だちが、やっぱりここでリリリを見たっていってました」
「メタフィジカルでステラを?」
「いえ、リリリです。制服を着て体育館のそばの木立ちのなかを歩いているのを見たって」
「ステラになる前のリリリか! 学校で見たんだ?」
サユリは不安げに頷いた。
「そんなものに成りきるヤツはいない」とコマサが呟く。中学生が他愛のないイタズラで、同級生に成りきるのとはわけが違う。彼らはもう、そんなことをしようなどと考えない齢になっている。つまり、それはだれかのエピゴンではないという意味だ。
ヘンな雰囲気に全員が押し黙ってしまった。
「あっ」と、突然正雄が声をあげた。他の者たちは驚いて飛び上がった。それは怪談話の途中で、いきなり大声で「それはオマエだっ!」といって脅かす効果に似ていた。
「どうしたんだよ!」
沢田はあたりを見回しながら怒鳴るようにきく。
「ボクも学校で女生徒を見たんです。そうだ、あれはリリリだったんだ」
「ええっ!」
沢田もコマサも、いよいよ眉間にシワを寄せて厳しい表情になっている。正雄は思い出したのだ。初めて学校にいったとき、プールサイドに座っていた女生徒のことを。そのことを話すと、沢田はますます怪訝な顔つきでこういった。
「学校だの、西町だの、オマエは不審者か? なんでそんなところにいったんだ!」
「いや、学校は純粋に見てみたいじゃないですか。西町は、コゴローさんがあの辺のアパートに住んでいたといったのを思い出して、ちょっといってみただけなんです」
すると、今度は沢田の顔色が変わった。
「コゴローさんが、あの辺のアパートに住んでいたっていったのか?」
「ええ、女性と同棲していたって」
「オレも徐々に思い出してきた。その女性は、たぶんステラだよ・・・ 」
「ええーーっ!」
今度は沢田以外の全員が、声を揃えて驚愕の声をあげた。沢田はいう。
「西町の、バス通りからちょっと入ったところのアパートをコゴローさんのパトロンさんが一軒借り切ってくれて、オレたちはそこでしばらく共同生活していたことがあるんだ。ステラは、まだバンドの仕事を持っていたから一緒に住んではいなかったけど、足繁く通ってコゴローさんの世話を焼いていた。オレはそのうち、そこを出ちゃったんだけど、ステラは最後にはコゴローさんと一緒に暮らしていたってきいたな」
なんてことだ・・・と正雄は愕然とした。
・・・たしかにコゴローさんにリリリのことをきいたことはなかったが、よもやコゴローさんの同棲相手だったなんて・・・
「すると・・・」とコマサが険しい顔できく。
「ステラのお腹の子どもは、コゴローの・・・?」
沢田は少し考えてから大きく息を吐きだすと喋り始めた。
「実はステラが妊娠したのをわかったときに、相談を受けたんだ。だれにもいわないでくれっていうから、いま初めてカミングアウトするんだけど、もういいだろう」
「まさか、それが自殺の原因?」とコヤナギ。
「それはオレにもわからんが、まあきけよ。ステラはコゴローさんのことをよくわかっていた。普段から面倒を見ていたからな。子どものようなひとだといってたよ。それがコゴローさんの、あのカリスマチックな感性を生み出しているのだともね。子どもができたことで彼の才能を潰すようなことをしたくないとステラは思っていたんじゃないかな。しかも、コゴローさんは子どもができたことを喜ばないだろうとも」
「生むつもりはなかった、と?」これもコヤナギ。沢田は首を振った。
「生むつもりだった。ステラはコゴローさんの子どもを欲しがっていた。だから・・・ 」
そこで沢田は言葉を止めた。追い打ちをかけるように、またコヤナギが反復する。
「だから?」
「オレも若かった。衝動的に、ふたりのためにオレが犠牲になろうと思ったんだ」
「?」
「ステラに、オレとの間にできた子どもということにしろってね。それでステラを連れて一度はそこを黙って出ていったんだ。そのためならオヤジに土下座してでも許してもらって、家に戻るつもりでいたんだけど、大反対にあってさ」
「お父さんから?」
「そう。オヤジはステラみたいなフーテンを嫁として迎えられないと突っぱねた。オマエらもわかるだろ? どんな娘だかわからないにしろ、当時ステラはあの格好だ。しかもオレと同じように実家を勘当されていた」
正雄やコマサにはわからなかったかもしれないが、女性軍は深く頷いていた。
「もし、ウチの息子があんな格好の娘を連れてきたら、反対するかどうかは別としても、外見だけで抵抗はあるかもね。いくら芸能人だといっても・・・ 」
しかも売れていない芸能人だ、息子が騙されていると疑っても仕方のない状況だったろう。子どものいないコヤナギでさえ、この反応だ。当然、サユリも同調する。
「娘がアンドロイドを連れてきたら、好きなようにしろとはいえないなあ」
そんな極端な例えはないが、こんな自由なコマサですら、子どものこととなるとこうなのだ。沢田も、いまだからこそ当時の父親の気持ちがわかるのだろう。
「でも、もう妊娠していたんでしょ?」
正雄の疑問に対しても沢田は首を振った。
「ステラがオレとの子どもではないと告白してしまったんだよ。そんな迷惑をかけてまで世話になりたくなかったんだろう。彼女は一本気だからな」
一本気というか、健気だった、と正雄はリリリのことを思い出した。
・・・そもそも学園祭でウェンズデイをやるときも、自分のなにげない一言でその気になってしまったのだから。思い込むと後先を考えず暴走するタイプだ。まるで青春のすべてをウェンズデイに賭けているといってもいいほどだった。そのエネルギーを今度はコゴローに託そうと思っていたのかもしれない・・・
沢田が「子どもができたのでやめた」といっていたのは、このことだった。正雄は、どうりで計算が合わないわけだ、と思った。その子がいまの沢田の会社の跡取りなら、もう四十歳近くになっていてもおかしくない。
沢田の話はまだ続く。
「ステラはコゴローさんを諦めきれなかったんだ。話し合ってみるみたいなことをいって、またあのアパートに帰っていったよ。そのときステラと約束したんだ。オレはステラと別れれば家に戻してやるといわれていたから、そうしたらなんとか会社からカネを引き出させて、オレたちの理想の〝ロック村〟を創るために後方支援してやるってね」
「リリリは、それが目的でコゴローさんと一緒にいたんですか?」
正雄は内心、そうではあるまいと思っていた。リリリはウェンズデイのときと違って、ロック村の実現よりも、それを創造したコゴロー自身に惹かれていたのではないかと。
・・・たぶん、リリリは恋をしていたのだ。ロック村という建前でコゴローと一緒にいたかったに違いないのだ・・・
「本当のところはオレにもわからん。子どもができちゃえば、それだけが目的だとはいえないだろ?」
すっかりリリリに感情移入してしまったコヤナギは不信感を募らせた。
「それでステラはどうしたんですか?」とトゲのある口調できく。
「しばらくは内緒で連絡を取り合っていたんだけど、だんだんとコゴローさんに対する愚痴を口にするようになってね、彼女。口ばっかりで自分で動こうとしない怠け者だ、みたいなことをいっていたよ」
コマサが正雄に目配せをした。「ほらね」といっているようにシニカルな笑みを浮かべていた。正雄は、その愚痴ですら、コゴローに対するリリリの愛情が伝わってくるような気がしていた。とりあえず再結成ウェンズデイのベーシストを頼まないでよかったと胸をなでおろした。
「それからすぐに仲間から、どうやらコゴローさんもアパートを出て北海道にいったらしいって話をきいたんだ。その直後だよ・・・ 」
沢田はみなまでいわなかったが、正雄たちは彼のいわんとしていることが推測できた。「あの事件が起きたのは」といいたかったのだろう。「あの事件」とは、リリリの鉄道自殺のことだ。