その二 ステラの面影 ②
普段から薄暗いところにいるので、インザペンダントハウスのような暗いところにくるのに正雄が心躍ることはなかった。しかし、せっかく沢田が創ったものだし、先輩から指示された集合場所なので、おとなしく参加するしかない。今日は再結成ウェンズデイの一回目の打ち合わせなのだ。
相変わらずがらんとした店内に、最初にきたのは正雄だった。すぐに沢田が現れて、その後から女性の二人組が入ってきた。
百八十センチ近くもある長身で細身の沢田はネルのシャツに色落ちしたジーンズという、あの頃のスタイル。女性の一人は長い茶髪にひょろりと背が高く、正雄好みのタイプだったが化粧は厚かった。グレーのパーカーにブーツカットのコーデュロイという当時のサーファールックだった。もう一人はナチュラルな髪形に色白の、いかにも清楚な女子大生という雰囲気だ。モスグリーンのカジュアルスカートにボーダーのブラウスという爽やかないで立ちだった。こんな格好の女の子たちが、あの頃はたくさんいた。
フィジカルだったら、それがオリジナルメンバーの二人だとはわからなかっただろう。ここに姿を現すということは通りがかりの別口の客ではありえない。そんな偶然は、このメタフィジカルに限って確率的にもほぼないのだ。関係者だとすればウェンズデイの二人以外には考えられなかった。
彼女たちも、おそらく自分たちが一番気に入っていた時代の姿をしてきたのだろう。女子高生当時の、なんだか垢抜けない小娘ではない。彼女たちにとっても、正雄の姿はそう映ったであろう。テーブルに座るなり、いきなり笑い出した。
「センパイ、しばらくです」
正雄は、こんな娘たちを知っているはずはないと戸惑いながらも軽く手をあげて「やあ」といった。そんな正雄を見て、沢田は面白そうにきいてきた。
「どっちがどっちだかわからないだろ?」
「わかる気がしませんよ、あの当時だったとしても。まさか沢田さんの奥さんじゃないでしょうね?」
「バカいえ。こっちのケバいのがコヤナギだ」と沢田が隣りに座るサーファーの女性を紹介すると、その女性は沢田の肩を叩いて「なにがケバいんですか」と嬉しそうなのだ。
たしか〝コヤナギ〟こと、小柳ルリ子はウェンズデイ当時、髪を三つ編みにしたちょっとふくよかな大柄の女の子でサックスを吹いていたことを思い出す。
「コヤナギさん、メガネかけてたよね?」
「この頃はコンタクトにしていたんです」と自分の顔を指さした。
正雄は、その同じ顔を指さして「その頃は、どの頃なの?」ときいた。すぐに沢田が「いつでもいいじゃないか」と割り込んできた。
「すると、こっちの育ちのよさそうなお嬢さんがサユリさん?」
途端にコヤナギが突っ込む。
「どうせアタシは・・・ 悪かったですねえ」
でも顔は笑っていた。
もうひとりの南小百合は鍵盤楽器の担当だった。あの当時からおとなしくて、リーダー格だったリリリと比べると、目立たないことではまるでいないのも同然だった。長い髪の額を上げて後ろで編み込んだお嬢様しかしない髪形だったので、ショートカットにした風貌はずいぶんと印象が違う。
「すると、あと一人は・・・」と正雄が沢田の顔色を窺うと場は静まり返った。なんだかヘンな空気だった。
「なにいってるんだ、オマエは。シャレにならないよ」
沢田の言葉に女性二人も顔を見合わせて、ぎこちなく笑った。
「えっ?」と正雄は思ったが、そうか、リリリはこれないのかと勘ぐった。それとも、一度プロになった人間を、いまさらアマチュアのフォークユニットに誘うのは気が引けたということなのか。
いずれにしろ、正雄はこのときの様子から一瞬で、リリリはこの企画に参加しないのだと悟った。その方が助かると胸をなでおろした。なにしろ楽器の演奏にはまったく疎い正雄は、その道のプロがいるだけで相当気疲れするだろうと憂欝だったのだ。
そこから、しばらくはお互いの近況報告などで時間を費やすこととなった。コヤナギは付属の大学を卒業後、保母さんを何年かやって大学のサークルの先輩と結婚したという。フィジカルでは榊原と苗字が変わり、いまは高齢者の施設でヘルパーのパートをやっているといった。
一方のサユリは卒業後、法律事務所の弁護士秘書をしていたが、縁があって結婚し、フィジカルでは今年、孫が生まれると正雄にとって想像を絶する話をした。もっと驚くことに、娘が結婚した年に亭主と別れていて、いまでも南姓のままだと淡々と話すのだ。
正雄がなんの進歩も変化もしないうちに他人は次々に年輪を重ねていく。置き去りにされた感を否応なく思い知らされる辛い時間にもなった。それどころか、正雄だけがむしろ退化しているような気さえしてくる。
・・・これだから昔の仲間とは会いたくなかったのだ・・・
そうなると、もう一人のウェンズデイは、いまフィジカルでなにをやっているのだろうか、と思いを馳せずにいられなかった。まだ音楽関係の仕事を続けているのだろうか。彼女のことだ、きっとそうなんだろう、と正雄は思った。
やっと、ここから本題に入る。まず、沢田から前に正雄に話したことと同様の経緯の説明があった。女性軍にはある程度の根回しをしていたらしく、必要以上の抵抗はなかった。
「亜空間ライブに参加するバンドのほとんどがロックを演るだろうから、オレたちが演る曲と被ることはないと思う。ウチはフォークユニットだからな」
その割にはベースとドラムを入れる予定のようなことを沢田はいっていた。なにを演奏するつもりなのか、と彼らは興味深くきいていた。沢田の説明はさらに続く。
「トリビュートの意味合いもあるので、再結成ステラブルーの連中は当然あの頃のナンバーを演るだろう。他のバンドもステラブルーの曲を演る可能性が高いのだが、悲しいかな、ステラブルーはもともとオールディーズのカヴァーが中心だったので、ほとんどオリジナルが無いんだ」
正雄は、ステラブルーも出演するのか、と思った。
・・・オリジナルメンバーが集まるのだろうか。なるほど、リリリはそちらに参加するのだ。だったら、ウェンズデイを再結成する必要がどこにあるのだろう。ステラブルーが演ればいいことじゃないのか・・・
「もっとも有名なオリジナルは作者不明の曲として、ちょっと話題になったことがある『十七歳の風景』なんだが、これはあまりノリのいい曲ではないので、演るとすればステラブルーくらいだと思うんだ」
そこで正雄は前から疑問だったことを思い出した。
「いまさらかもしれないんですけど、そもそもなんでこの曲は作者不明ってことになっているんですか?」
正雄以外の三人は額に縦皴を寄せるがごとくの訝しげな表情をして正雄を見つめるのだ。最初に口を開いたのはコヤナギだった。
「ステラがラジオでそういったからですよ。この曲はもともと私たちの地元で言い伝えのように歌い継がれている曲だって」
「ラジオ? リリリはDJもやっていたの?」
「違いますよ。ゲストで出た番組で」
沢田が、さらに補足をする。
「アイツらがアルバムを出すときにプロモーションで音楽番組に出たことがあるのさ。新人紹介みたいなコーナーがあって、そこで曲紹介のときに、そう説明したんだ」
なるほど、たしかにメディアの力は凄い。たったそれだけで作者不明の曲ってことで有名になるとは・・・と正雄は感心した。しかし、曲自体の評価よりも、そんなことでしか話題にならないのはなんだか情けないとも思った。
「センパイはステラブルーのことをあまり知らないみたいですね?」とコヤナギに突っ込まれてしまった。
「いや、ホントに申し訳ないとは思うのだけれど、その頃オレはほとんど音楽なんか聴いている暇がなかったんだよ」
追い打ちをかけるように沢田が付け加えた。
「コイツは、ついこの間までステラがデビューしていたことも知らなかったんだぜ」
「えー、うっそぉ!」
コヤナギとサユリは見事にハモって叫んだ。フィジカルでは六十歳を過ぎたオバアチャンとは思えない。
「オレは考えているんだけれど」と沢田は視線を上げてもっともらしくいい出すのだ。
「この亜空間ライブで、実はこの曲の作者は我々だということをカミングアウトしようと思うんだ」
どうやら沢田は『十七歳の風景』を演るつもりらしかった。そこで正雄は意見した。
「ステラブルーが演るのなら私たちはウェンズデイのナンバーを演りましょうよ」
「そのつもりだよ」と沢田は素気なくいった。
「フィルムおこしのオリジナルウェンズデイの演奏の後に、そっくり同じ曲目を再結成ウェンズデイが演るのさ。ただバンドで演るので、だいぶ変わると思うんだ。そのなかに『十七歳の風景』もある」
そうだった、と正雄は認識を新たにせざるを得なかった。『十七歳の風景』は沢田のいう通り、もともとステラブルーのオリジナルじゃない。ウェンズデイのために正雄と沢田とリリリが共作したものだったのだ。それを学園祭で披露したのが世に出た最初だった。
「すると、同じバンド形態で同じ曲を演るっていうわけですか?」
「ステラブルーとウェンズデイのアレンジでは違うよ。ウチはサックスが入る」
「なあ」と、コヤナギに目配せした。沢田は意地でも演るつもりでいるらしい。
「いっそのこと、ベースとドラムもステラブルーのメンバーに協力してもらったらいいんじゃないですか?」
「お返しにステラブルーにコヤナギを貸し出すのか? それこそ意味がないよ。同じものを二回演奏するようなものだ。オマエはやりたくないのか?」
「やります、やります」と正雄は慌てた。ろくに手伝ってもいないのに意見ばかりすると、沢田のムシの居所が悪くなってきそうだった。
「曲目は決まったとして、ベースは近藤がやるにしても、問題はドラムだよ。ボーカルはオレがやるから」
それをきいた正雄は唖然とした。
・・・このひとはアルツハイマーなのか。つい、この間の話では「ボーカルはオマエにやらせてやる」といわなかっただろうか・・・
だが、正雄はそこで突っ込まなかった。ベースを弾きながら歌う自信がなかったのだ。そんな器用なことができるとは到底思えなかった。そこで、はたと思い浮かんだ。
「沢田さん、昔やっぱり茶切巣町界隈でやっていた〝クレーム〟ってバンドを知らないですか?」
「クレームなら知っているよ。亜空間ライブに出演するぜ」
「出るのか・・・ 」
正雄が残念そうにうなだれると、沢田がさらにいう。
「バンドコンペで優勝した埼玉代表だろう?」
「そう、実は東京都下の出身者ばかりなんですけど、東京地区では競争率が高いから、わざわざ埼玉地区から出た」
「ああ、そうなんだ。それが?」
「クレームのドラマーの堺は私の幼なじみなんですよ」
「クレームのドラマーって〝コマサ〟じゃなかったっけ?」
「コマサは堺のことです。堺雅俊っていうんですよ」
「そうなんだ。知っているよ、コマサなら。幼なじみなんだ?」
正雄は笑顔で頷いた。
「私も正雄でしょ? 昔はお互いのことを〝マーチャン〟って呼んでいたんですよ」
「えっ?」といって沢田は笑い出した。
「おい、マーチャン、なんだい、マーチャンって?」
今度は女性軍も笑い出す。正雄は気にせず、さらに説明する。
「他の同級生たちは区別がつかないんで、背が高かった私を〝オオマサ〟、小さかった堺を〝コマサ〟と呼ぶようになったんですよ」
「なるほど。それで、コマサに頼めるのかい?」
「だって亜空間ライブに出るんでしょ、ヤツらも? 両方やらせるっていうのは・・・ 」
「いいんだよ、そんなの。オレだって、その当時組んでいたバンドでも出るんだ」
正雄は再び唖然とせざるをえなかった。このためにフル回転で盛り上げようとしているのだろうか、と思った。さすがに企画している側だけのことはある。
「実はね、沢田さん。堺にはウェンズデイもお世話になったことがあるんですよ」
これにはウェンズデイのふたりも知らなかったらしく、驚いて正雄に視線を集めた。
「ウェンズデイはリズムを執るのにサユリの伴奏か、リリリのヘタクソなリズムギターしかなかったでしょ? アンサンブルをまともに演ったことないド素人をテンポがわからないままやらせるのは難しいと思って、私がつくったデモテープから逆にリズムのテープをつくってもらったのが堺なんです」
すると思い出したようにサユリもコヤナギも「ああ、あった、あった」と頷いた。
「これに合わせて練習したらっていったよな? その代わりにアイツらのコンサートのチケットを買わされたんですけどね。キミたちにも買ってもらったでしょ?」
女性ふたりは顔を見合わせて、首を傾げた。どうやら憶えていないらしい。憶えているわけはないな、と正雄は思った。なにしろ五十年近く前の話なのだ。しかし正雄は憶えていた。そのコンサートにリリリを連れていったのだ。
その話をきいていた沢田は難しい顔をして口をはさんだ。
「リズムのテープを録るのに『十七歳の風景』以外の二曲はわかるけど、『十七歳の風景』はオマエがデモテープつくったの? 適当に弾き語りかなにかで?」
「メトロノームでリズムを執って。弾き語りもなにも、まだ歌詞がついていなかったし、曲つくったときに沢田さんにも聴かせたでしょ、こんなのどうですかって。あのテープ」
「そうだっけ? しかし、メトロノームって・・・」と沢田は、ほのぼのとした笑みを浮かべる。
「一回演っているから、コマサなら演ろうと思えばできるか」
「きいてみますよ。アイツらも出るのなら話は早いと思うな」
「問題はその後だな。今度はチケット買うってわけにいかないだろ?」
冗談のようにいう沢田に正雄は笑って返した。
「まあ、話してみないとわからないんで・・・ あと、ベースなんですけど」
「ベースはオマエでいいだろ?」
「まあ、きいてください。たぶん亜空間ライブに出る予定がなくて、当時ここや羅摩談なんかで演っていたひとがいるんですよ」
「だれ?」
「コゴローってひとを知っていますか?」
途端に沢田の表情が曇った。
「コゴロー? 煩悩寺コゴロー? オマエ、コゴローさんを知っているの?」
「いま一緒にバイトしているんです」
「あのひと、このへんにまだいるのかよ?」
「いますよ。頼めばベース弾いてくれるかもしれない」
「嘘だろ?」
正雄が笑顔で首を振ると、沢田は生唾を呑み込むようにして黙ってしまった。
「ダメですかね?」
「いやあ・・・ 当時のコゴローさんのことを知っているのか?」
「けっこう人気があったって自分でいってましたけど」
コゴローのことになってから沢田はニコリともしなくなった。顔色も、地黒なのにも拘らず、なぜか白っぽく見える。
「けっこうなんてものじゃないよ、もうカリスマだった。いつも取り巻きみたいなのをぞろぞろ引き連れてさ、オレも一時期、行動をともにしていたことがあるんだ」
「ええっ」
正雄は、イメージはしていたが、まさかそんなに凄いひととは思ってもみなかった。
「なにがそんなに凄かったんですか?」
「ギター一本でステージに立って淡々と歌うんだけど、フォークの域じゃないんだよ。もう、身体から滲み出てくるような独特のオーラがあって、あれは完全に彼の世界なんだ。あのオリジナリティには対抗できるヤツがいなくて、みんな彼のファンになる。ステラなんかもコゴローの影響でつるむようになったんだ」
「リリリも、その一派だったんですか?」
「派閥とかじゃなくて、いわゆるコミューンなんだ。気の合った連中が好きなことをやって暮らす生活共同体みたいなものが自然とできちゃってね。アパート一軒借り切っちゃって、オレもステラも居心地がいいし、コゴローさんと喋っていると刺激を受けるから、それでいつの間にか共同生活が始まった。ステラはコミューンの生活のためにバンドを続けていたようなものだよ。稼いだギャラを全部注ぎ込んでいた。ほとんど教祖みたいな存在だったな」
沢田の形相は徐々にほぐれてきて、いまや微笑さえ浮かべている。
「そのうちにコゴローさんの提案で、どこかに自給自足できる〝ロック村〟みたいなものを創ろうってことになったんだけど・・・ 」
いいかけて沢田は言葉を濁した。
「最初は、コゴローさんに惚れこんで生活やら仕事の面倒を見てくれていたパトロンがいてね、その人のお父さんはこのへんの商店連合会の理事長をしていたから、顔が利くんだよ。でも、セガレが家業もろくにしないでコゴローさんにうつつを抜かしていることが気に入らなくて、いろんなことで都合をつけてくれなくなったのさ。それで面白くないパトロンさんはコミューンを自分が好きだった屋久島に創ろうっていい出して、独りでとっとといっちゃった。オレたちは自分たちで生計を立てなくてはならなくなったんだけど、パトロンさんのあとを継いでマネージャーみたいなことをしていた人が、みんなで貯めた資金を持ってトンズラした」
「どうしたんですか、それで?」
「コゴローさんは、いつも涼しい顔で、大丈夫、なんとかなるさなんていいながら、相変わらずノホホンとしているわけだ。そのうち、みんな生活のためにバイトを始めたことがきっかけでバラバラになっちまった。コゴローさんは突然北海道にいくとかいい出すし、オレも最後までついていくつもりだったけど、このタイミングで当時つき合っていた女が妊娠してね、黙ってコミューンを出ていくしかなかった」
「それで家業に戻ったんですか」
沢田は、きまり悪そうに頷いた。
「オレは勘当同然で家出していたんだけど、子どもができたら家族を養わなければならないだろ? オヤジに土下座して家に戻してもらったんだ。バイトじゃ、とても喰っていけないもの。若かったんだよ、オレたち。自分たちの力でなんでもできると思っていた」
意外なところで人は繋がっているものだ、と正雄は感じた。こうして正雄とコゴローが出会ったことを思えば、なにか因縁めいたものすら感じる。
沢田は、それでも自分の判断が間違っていなかったと毅然というのだ。
「いま思い返すとコゴローさんというひとは、やりたくないことは絶対やらないというポリシーの持ち主だったから、自分がコミューンのリーダーでみんなを引っ張っていくなんていう意識は毛ほどもなかったと思う。生活できなくなってきても、まるで他人ごとのようだったからな。まあ、いろんな経験をさせてもらったから、若気の至りとはいえ無駄ではなかったと思ってるんだ。ただ、散々世話になっていながら見捨てたことをいまでも申し訳ないと思っているよ。だからコゴローさんには顔向けできないんだ、オレ」
急に情けない声を出したりする。このひとはおそらく息子が同じようなケースに陥ったら、やはり勘当するのだろうな、と正雄は思った。過去は過去として簡単に切り捨てられるところはコゴローに通じるところがあるような気もした。
いまのコゴローは違う。沢田がいうような性分はあるにせよ、家族のために我慢をするということを学習したのだろう。正雄は、あえてそれはいわないことにした。
「わかりました。私がベースを弾きます」
正雄は諦めたようにいった。せっかく凄いメンバーになりそうだったのに、沢田の心情ひとつでダメになるのは残念だった。
ただ、冷静に考えてみるとコゴローがおとなしくウェンズデイに参加してくれるとは、やはり思えない。協調性のない気分屋だから、バンドでやれるのならレコーディングをエスケイプするようなことはしなかったろう。仕方がないと自分にいいきかせた。
これで大筋のラインは決まった。あとは正雄が堺の都合を確認すれば、早速リハーサルに入れるところまできた。
そんなところで雑談になった。正雄は、これが済んだらまた獄門寺あたりを少しぶらつこうと思っていたのだが、沢田が興味深い話をしだした。
「コヤナギやサユリは年金どうするの? もらうの、それともここに移住するの?」
コヤナギは亭主が生きている間は年金生活をするつもりだといい、サユリは孫の顔ぐらい見たいから、生まれたら考えるといった。年金制度の選択肢は途中から切り替えることも自由なのだが、メタフィジカルへ移住した場合に年金受給に戻すことはできないのだという。それは正雄もきいたことがあった。
沢田は、そのシステムを解説する。
「ついこの間、知り合いの代議士の先生にきいたんだけど、そもそも年金制度はもう何年も前に破綻しているんだよ。ウチのセガレなんかはもらえる保証はないが、払わないわけにはいかないだろ? そこで考案されたのが徴収したその資金源でメタフィジカルに高齢者の世界を創ることだった。移住した者は自分の好きなところに住んで、好きなことだけをやって生活すればいい。フィジカルでは不自由な身体でも、メタフィジカルでは若い肉体を取り戻せる。おカネを遣うことは一切ない、衣食住すべてがタダなんだ。しかもフィジカルとの接触も自由にできる。サユリが孫の顔を見たいと思えば、こちらからフィジカルに戻ることはできないのだけれど、通信手段はあるし、相手がスポットからダイブしてくれれば会える。わかりやすくいえば介護の人手がいらない老人ホームみたいなものさ」
正雄は、その例えは当たらないと思った。むしろ経済的に保証された、先ほどの話のコミューンみたいなものじゃないだろうか、と。
「なぜフィジカルに戻れないのかというと」と沢田は意味ありげにヘンな笑みを浮かべる。
これは正雄も考えたことはなかった。
・・・たしかにフィジカルに肉体を置いてあるのだから、戻れないことはないはずではないのか。どうして戻れなくする必要があるのか。戻れば経済的に困窮するから、とかいう理由なのか・・・
「メタフィジカルに移住するということは永住することなんだよ。メタフィジカルのなかにはフィジカルにある場所は大抵あるから、どこでも自由にジャンプできて永住といっても拘束感はないんだ。ただフィジカルにだけジャンプできない理由は、すでに社会生活できる肉体が存在しないからなんだ」
「ええっ?」
三人は眉をひそめた。代表して、当然の質問を正雄がする。
「肉体が存在しないって、どういうことですか、死んでるわけじゃないでしょ?」
「死んだらメタフィジカルにも存在しないよ。ここで生活するのに不要な肉体の部位が献体されるらしい。臓器の移植には年齢制限があるので、アンチエイジングの研究に使われるって話だ。当然、移住の際に同意させられるんだけど、それは本人でなくても家族でもいいんだ」
「じゃあ、逆にフィジカルでは生きていけなくなると」
「生存に必要な部位はあれども普通に生活はできない」
もっともらしく沢田はいった。
「まあ、超高齢社会に突入したこの国は、介護という非生産的な取り組みに予算を割かなければならないわけさ。年寄りが増えれば年金制度だって崩壊する。だれだって、そこに注ぎ込まれる資金をもっと有効に遣いたいと思うだろ? それがメタフィジカルの第二の人生のアイデアに繋がったんだよ。そこで、やりたくてもできなかったことをやり、やり直すことができる。移住した高齢者たちは仕事がわりにマップ創りをしなければいけないのだけれど、これはノルマもなにもない自由なものだ。《新しい昨日を創る(ブランニューイエスタデイ)》というのが移住の売り文句なんだ。高齢者にとっては魅力のある世界に思えるじゃないか。ベースとなるシステムさえ創ってしまえば、あとの運営には必要以上の予算を割くことはない。国にとっても高齢者にとってもメリットがある、と考えているんだな」
そういう沢田は、若い頃にそんな理想を求めてコミューンに参加していたにも拘らず、それが実現するいまになって、移住を渋るのはなぜか。
「事情通の連中たちの間では、これを〝残照計画〟と呼んでいるらしい。移住するところは、いわく〝残照街〟だ。人生の残りの時間をここで終わらせるという意味があるようだ。なんだか国の都合のいい政策で高齢者が排除されているような気がしてしようがないし、正気のうちはそんな老人ホームみたいなところにいくのにオレは抵抗があるね」
「でも現実的には、そのうたい文句に偽りはないわけでしょ?」
「肉体をアンチエイジングの研究材料にされるんだぜ?」
「家族も承知のうえのことだし、実際、肉体は必要ないわけだから」
「フィジカルに戻れないんだぜ、オマエはそれでいいのか?」
「選択肢があるのだから、選んだ自分の責任でしょ?」
「将来的には七十五歳以上の高齢者は強制的にそこに追いやられるんだぞ」
「そんな法案が成立するかどうかは別としても、日本の未来を考えれば、それも仕方ないかもしれない」
沢田と正雄の言い合いは、まるで水掛け論だった。どこまでいっても平行線のままなのは、懐疑論者の沢田と現実の苦労から逃れたい正雄の移住への憧憬とのぶつかり合いだった。
やがて、脇できいていた女性軍は呆れたように「時間だから」といって退散の準備を始めた。お互い納得のいかないまま、時間切れということで後味の悪い打ち合わせになってしまった。正雄はこれをきっかけに、沢田への忖度の気持ちを中止して、もう一度、コゴローにウェンズデイへの参加を頼んでみようと思ったりするのだった。
正雄は同級生にきいて、仕事が休みの日に堺雅俊が光陰寺でやっている居酒屋にいった。駅前を東西に二分する国道に沿ってモールが連なっている。その途中を西に入る通りのずっと奥の角に、堺の店があった。ここは有名な役者や大物シンガーソングライターが、まだ駆け出しの頃に住んでいたということもあって、茶切巣町ほどではないにしろ、若者で賑わっている街だ。
初めてきたのだが、本当に小さな店だった。居酒屋というより昔ながらの小料理屋という店構えだ。引き戸には準備中の札が掛かっていて、なかを覗くと空っぽのようだった。午後五時前、まだ早かったのだろう。
どこかで暇を潰そうと近くのスーパーに向かった。とりあえず小用でも足しておくかと思ったのだ。こんな狭い通りでも人の流れはけっこうあるものだ。あちこち目移りするものにいちいち首をグルグル回して歩いていると、前からきた小太りの男がニコニコしながら近寄ってきた。
「よお!」
「???」
正雄は目を疑った。そいつはまさか自分に喋りかけているとは思わなかったのだ。満面の笑みで握手を求めてきたときに、どうやらそれが堺だということがわかった。
「よくオレだってわかったな?」
「いや、オオマサがいくからよろしくって連絡もらってたから」
どうやら堺の店を教えてくれた同級生が前もって連絡していたらしいのだ。「オオマサ」とは正雄の昔の呼び名である。それにしても正雄は堺の変わりように驚いていた。彼から話し掛けられなければ絶対にわからなかったろうと思った。長いクセ毛を後ろでポニーテールに結び、いかつい髭こそないが、まるでコゴローの生き写しのような風貌なのだ。
「最後に会ったのはいつだっけ?」
堺は店の引き戸を開きながら、まるで昨日会ったばかりのような人懐こさで接してくる。
「二十歳前後くらいのときじゃなかったかな。たしか女のコと一緒にクルマに乗っていたのを見たよ」
「ヨメかな?」といって、また顔をクシャクシャにして豪快に笑うのだ。
店内はカウンターのみで五人も入ればいっぱいというほどの狭さだった。これなら堺独りでも十分切り盛りできる。しかし、採算は取れるのだろうかと心配になった。
「呑めるんだろ?」といって堺はジョッキに生ビールを注いでくれた。「お疲れ」と乾杯をするやいなや、早速火を入れてなにかつくり始めた。
「ウチの餃子は評判がいいんだ」
「じゃあ、せっかくきたんだ、喰っていかないとな」
正雄独りだとさすがに広々とした店内だが、壁中に六、七〇年代のロックのアナログ盤のジャケットが貼ってある。これはただの居酒屋じゃないと正雄は見た。
「なるほど、マーチャンのところはマニアが集う居酒屋なんだな」
「マーチャン」とは堺のことである。堺は手元から目を離さないで微笑を浮かべている。正雄は、堺は好きなことをやって楽しく日々を送っているのだろうなと感じた。
「いつから始めたのさ?」
「もう十年ほどになるかな」
「たしか楽器屋に勤めていたよな?」
「うん。バンドやりながらバイトをしてたんだけど、子どもができちゃって正社員になったのさ」
面白いものだと正雄は思った。
・・・沢田もコゴローも、音楽をやっていた連中はモテるとはきいていたが、子どもができたことがターニングポイントになるらしい。もし、自分がそんな場面に立たされたらどうするのか想像がつかない・・・。
「娘も独立したし、ヨメもいなくなって、やりたいことをやってみようと思い立ってね」
「ヨメがいなくなった?」
「うん、亡くなったんだ」
正雄は絶句した。もちろん堺の奥さんには会ったこともないのだが、もう十年も前のことだから、堺はあっけらかんとしたものだった。ただ、こういう場合、正雄はどんな顔をしたらいいかわからなかった。
「いや、それは知らないこととはいえ・・・」といいかけて、あとが続かなかった。
「気にするなよ。隠しても仕方ないことだからな」
堺は相変わらず微笑を湛えたままなのだ。その顔を見たとき、正雄は思い知らされることになる。その昔、お互い「マーチャン」と呼び合い、遊んでいた同じ子どものなれの果てがここにいるのだ。しかし、一方は若い頃のままの意識でいるのに、もう一方はなんと人間味があるのだろうか。この深みのある表情は人生経験の違いからきているからとしか思えない。
堺は正雄に比べて、もう何段も上のステージを生きている。同じ「マーチャン」でも、何十年という歳月を経て、いまはまるでルックスもクォリティも違う二人の人間になってしまった。そんなに時間が経ってしまったのだ。その衝撃が彼を絶句させたのだった。
「はい」とカウンター越しに堺は正雄の前に自慢の餃子を降ろした。
「ところで、なにか用があってきたんだろ?」
正雄は今年の盆帰りに開催される亜空間ライブで再結成するウェンズデイを手伝ってもらえないかと率直に頼んでみた。
「それ、オイラのバンドも出るの知ってた?」
「うん。実はライブの運営スタッフに関わっているひとがウェンズデイのメンバーで、クレームも出るからちょっとサポートを頼めっていわれたんだ」
「オイラの知っているひとかな?」
「オレの学校の先輩なんだけど沢田っていうんだ。沢田さんも自分のバンドで出るからサポートメンバーみたいなものなんだけどね」
「沢田? もしかして〝煩悩警察〟のギター弾いていたひとかな? アイツ、マーチャンの先輩なの? 同じ齢かと思ってたけど」
「沢田さんは早生まれなんだよ。ところでそのボンノーケーサツ? それ、バンド名?」
「煩悩寺コゴローのバックバンドだったから、そういう名前にしたみたいだ。コゴローは知ってる?」
正雄は、ここでも驚かされた。コゴローは、そんなに名の知れたひとだったのだ。
「知っているもなにも、いま一緒に働いているんだよ」
「えっ、コゴローは東京にいるの?」
まるで沢田と同じ反応を示す。正雄はコゴローと出会った経緯を話した。
「実はウェンズデイのベースを頼もうかって思ってたんだけど」
途端に堺は、酸っぱい梅干を口に入れたときのような表情をした。
「沢田ならいいけど、コゴローとは一緒にやりたくないなあ」
「なんでよ?」
「マーチャンは昔のコゴローのことを知ってるか?」
「オレは最近知り合ったばかりだから」
「あのひとは才能があるかもしれないけど、まわりの人間を不幸にするひとでもあるよ。沢田なんか、そばにいたんだから一番そのことがわかっていると思うんだけど」
堺がいうことには、音楽で名を上げようと思って努力している種類の人間の演奏と違い、コゴローというのはその場が楽しければそれでいいというスタンスらしい。そればかりでなく、音楽を手段とした新興宗教の教祖みたいなところがあって、その思想は享楽主義の自己破滅的なものらしいのだ。それはたしかに沢田も表現こそ違え、そういうコミューンを創ろうとしていたとはいっていた。
「口の上手い根っからのヒッピーなのさ、あの男は。ステージでも酔っ払っているのか、ラリっているのか知らないけど、気分次第で曲の調子を勝手に変えたりして、ウケてるのはグルーピーだけでバックバンドを散々困らせてたよ」
「バックバンドって、その・・・煩悩警察?」
「いや、あのひとはもともとバックバンド引き連れていたんだけど、愛想をつかされて自分のグルーピーにバックバンドをやらせたんだ。それが沢田の煩悩警察だ。元のバンドはなんとかいう長い名前で、千葉では有名だったらしいけれど、コゴローとバンドを組んでデビューする予定がダメになって、それで茶切巣町に流れてきたってきいたなあ」
そのへんの経緯は正雄もコゴロー本人からきいて知っていた。管理されることや、きっちり演奏することに抵抗があるのも本当のことらしい。
「そのバックバンドが後のステラブルーだよ」
なに?と、正雄は耳を疑った。コゴローは、そんなことをいっていなかったはずだ。ただ、たしかにベースとボーカルを加えてデビューしたとはいっていたが。
その疑問に堺が答える。
「そのバックバンドはちょっとの間、インスト専門の演奏をしていたよ。ただ、やっぱり〝サディスティックス〟や他のフュージョンバンドみたいなレベルには達していなくて、それでボーカルを入れて当時流行っていたロカビリーやオールディーズを演るバンドでデビューしたんだ」
「そうか、そこでリリリを、いや、ステラをボーカルに据えたのか。今度のライブにも出るらしいじゃないか」
「だれが? ステラが?」
堺は驚いたようにいうのだ。
「ステラブルーがだよ。沢田さんがいっていた」
「ああ、なんだ。びっくりさせるなよ」
堺の様子を見て、正雄はリリリが参加しないことは暗黙の了解なのかと思えた。
「ステラはやっぱりこないのか」
堺は押し殺したように笑いながら「なにいってるんだ、オマエは」と呟いた。
「だれかが成りすましでステラの代わりをするだろ」
メタフィジカルは、なんでもできるところだ。なにも本物のステラが参加する必要はない。外見だけ借りれば、だれでもステラになれる世界なのだ。
「でも、ステラに会いたかったなあ」
「知っているの、彼女のこと?」
「オレはウェンズデイ時代の彼女のことはよく知っているけど、プロになった後のことはまったく知らないんだよ。デビューしていたことすら知らなかったんだ」
「ステラはウェンズデイのメンバーだったの?」
堺は、細い目を思い切り円形に近づけるほどに見開いて驚いた。
「ウェンズデイは、高校の学園祭でやったアマチュアフォークコンサートに出るためにステラがつくったユニットなんだよ。オレや沢田さんは彼女たちをサポートしたんだ」
「そういうことか・・・」と、堺は正雄が誘いにきたことをやっと納得したようだった。
「わかった、そういうことならぜひオイラにやらせてくれ」
「助かるよ」
「とんでもない。ステラの出身ユニットでドラムが叩けるなんて光栄だ。ホントだったら、こっちから頼んでやらせてもらうところだ」
堺のこの態度の変化を見て、今度は正雄が驚く番だった。昔一緒にステージに立った仲間が、彼女のためにひと肌脱いでくれるほどリスペクトされているとは、と。
「だけどコゴローのベースだけは、なんとかならないものかね?」
「そんなに評判悪いならコゴローさんには話をするのやめるよ」
正雄は、いよいよベースの練習をしなければいけないと覚悟を決めるしかなかった。
「評判はともかく、あのひとには毒があるってことさ。それをみんな知ってしまったんだ。一緒にリハーサルをすればわかるよ、いかにいい加減かってことをね」
堺は細い目で笑っているようにも、警戒しているようにも取れた。コゴローのシンパではないので、かなり辛辣ではあるが、客観的に見ればほぼ事実なのだろうと思えた。
「やっぱりステラにもコゴローさんに対する嫌悪感みたいなのがあるのかね?」
すると堺は急に真顔になって正雄を見つめるのだ。
「どういうこと?」
「ステラはこないんだろ?」
「ステラがこない?」
「いや、マーチャンも沢田さんも遠回しにステラは絶対こないみたいなニュアンスだからさ。その理由にはコゴローさんのことがあるのかなって勘ぐっただけだよ」
堺は正雄の言葉をきいて、訝しげな顔つきになった。
「マーチャン、オマエ・・・ もしかして知らないの?」
「ステラがこれない理由をか?」
堺は、ついに口を「あ」の形のままにして固まってしまった。しばらく呼吸をしている様子もなかった。同時に正雄は、こんな場面は沢田からリリリがデビューしたことをきいたときにも見たと思った。
沢田がしたのと同じように堺は生唾をゴクンと呑み込んで、やっと声を発した。
「オマエ、そんなことも知らないで、よく亜空間ライブに参加しようと思ったな。マーチャンとステラがそんな関係だったのならオイラもいい辛いんだけど、今回の亜空間ライブのテーマは、まがりなりにもメジャーデビューを果たしたステラブルーの結成四十周年記念ということと、そのボーカリストだったステラの追悼の意味合いも兼ねているんだ」
「ツイトウ?」
「そう、スイトウじゃないよ。ツ・イ・ト・ウ」
「ツイトウって・・・ まさか・・・ 」
何回も何回も、堺のいった単語を正雄は頭のなかで反芻した。どう考えても、その意味はたった一つしかないと思えた。やがて正雄は、なにも考えられなくなった。リリリは正雄が知らない間に、この世からいなくなっていたのだ。