その二 ステラの面影 ①
キーワードにある「ボーイズラブ」は、なにかの間違いです。そういう内容の作品ではありません。私が誤ってエントリーしたのだと思いますが・・・
ステンドグラスを模したウィンドに囲まれた店内は、昼間だというのに薄暗かった。窓際の席でも外の様子がまったくわからない。白い泥で塗りたくったような壁に無造作に切り出して油に漬けておいたような木材の柱、天井には剥き出しの梁が組んである。椅子やテーブルも一つとして同じものがない手作り感満載のインテリア。
・・・これがオシャレだったのだろう、あの頃は。いまは、なんだか密室に幽閉されているような気分で息が詰まりそうだ。インザペンダントハウスは昔からこんな感じだった・・・
茶切巣町にくるのはいったいいつ以来か、と正雄は考えていた。あまりに時間が経ってしまっているので茶切巣町の駅に降り立ったときには、なんの感慨もないことに驚いたくらいだ。
高架のホームから降りて繁華街の方に出ると、片側二車線の道幅程度のロータリーが横たわっている。正面にはお洒落なショップが軒を連ねるモールの入口、東側は大手の百貨店が建ち、その裏は小さな飲食店や風俗店などがごちゃごちゃと混在するいかがわしい路地が並ぶ。おそらく、この街は正雄たちが遊びにきていた頃そのままなのだろう。綿密な資料と考証に基づいて創られているのだ、間違いなくこれが当時の茶切巣町のはずだ。
ただ、妙なのは薄曇りにも拘らず、街全体がモノクロのように地味な印象なのだ。まるである朝、目覚めてみると街にはだれもいなかった、というSF映画のオープニングみたいな雰囲気だった。
正雄が持っている違和感は、あの頃の記憶を彼自身がノスタルジックに書き直してしまっているからなのではないかと思えた。特に彼は田舎者だと思っていたから、ここのように洗練された街には気おくれして独りでくる気がしなかったので、それほど馴染んでいないのかもしれない。
インザペンダントハウスに独りで乗り込むなんてことは夢にも思わなかった。メタフィジカルとはいえ、人は変われば変わるものだ。失うものはなにも無いから開き直って、かえってどこにでもいける気分だった。
チリンチリンと鐘が鳴ってドアが開いた。正雄にはすぐに、それが沢田健一だとわかった。もっとも店内には他に客がいないし、店員すらいなかった。彼らが待ち合わせのためだけに使った場所だから、そこにくる他者はよほどの偶然でもない限り、ありえない。
ティアドロップのサングラスをかけた沢田の色黒のうえに厚い唇はあの当時のままだが、あらためて会うとストレートなロングヘアの黒人みたいだった。彼が髪を伸ばしたときは、まるで芸能人のイメージだったものだが、いまではなんだかホームレスのような印象すらある。
これはアルバイト先の自称「ブルースシンガー」コゴローにもいえることだった。コゴローは完全に時代に取り残されているのだが、沢田はどうなったのか。現実社会で見る沢田の姿が想像できなかった。
「よう、しばらく。何年ぶりかな?」
「もう忘れるほど昔のことですよ」と正雄の口もとは綻んだ。
そういう正雄も、ちょうど大学を卒業して、家業に戻った頃の姿をしていた。天然ウェーブの前髪を降ろして沢田のように中分けではあるが、いまでも気に入らない額の三本皴を隠してくれている。彼が一番キラキラしていた頃だと判断して、この姿を選んだのだ。この姿なら怖いものなしだと自信が持てるのが不思議だった。
「まさか沢田さんから連絡もらえるとは思ってもみなかったので。あれから、どうしていたのですか?」
「あれからって、いつのアレだよ?」
「大学時代に家出したでしょ?」
沢田は半分笑いながらサングラスをはずして、正雄の向かいに腰かける。裸眼の沢田を見るのは部活のとき以来だ。沢田は学生時代から極端に度のきついメガネをかけていた。ふたりが所属していた水泳部の練習のときは、泳ぐから当然はずさなければならない。そのとき正雄が感じていたように相変わらず小動物のような罪のない眼だった。
「オマエ、いったいいつの話をしているんだよ。忘れるほど昔じゃないか!」
正雄は、このとき初めて気がついた。「忘れるほど昔」とは冗談でいったつもりだったが、実のところ彼にとっては、ついこの間のことのように思われていたのだ。若い頃のままの生活環境で今日まできた正雄には、時間の経過が鈍く感じられていた。正雄は自分自身の感覚を笑って誤魔化すしかなかった。
「いや、私はいろいろあって結婚もしなければ、子どもも当然いないでしょ? 若い頃の意識そのままなのですよ」
「独身なの? オレはもう孫がいるよ。セガレの子ども」
「じゃあ、もう息子さんが会社を?」
「とんでもない、アイツはどうも頼りなくてね。もう三十歳過ぎてるというのに」
正雄は内心、かなりの動揺をしていた。フィジカルなら顔に表れていただろうと思った。自分は、もうどのくらい他人に遅れをとっているのか、もはや取り戻すことなどできないくらいのギャップがあるではないか。これが正雄と他人との埋めることのできない感覚の違いなのだろう。
「どこからきたの?」
沢田は、およそ〝ジージ〟とは思えないツヤのある額を長髪の分け目から覗かせた。
「どこからって、ダイブした場所ってことですか?」
「出口だよ。インザペンダントハウスにいきなりオリジンを切ったのかい?」
「いや、ちょっと懐かしい風景が見られるかなと思って駅からきました」
「懐かしかった?」
「微妙ですね」と正雄は首を傾げて微笑した。
「正直なところ、私はこういう流行の先端みたいな場所が苦手で、あの当時はそんなにきたことがなかったものですから」
「そうか、オレは近くに住んでいただろ? だからよく憶えている。ここを創るときにはオレもちょっと関わったんだぜ」
沢田は少し自慢げにいった。彼のこういうところは昔から変わっていないと正雄は思い出した。なんにでも口を出したがる。
「街を創るのは盆帰り専門の『サマーブリーズシティ』というパーソナルマップのアプリを使えば簡単なことだけど、細かいところは拘りのある者でないとわからないからな。例えば八〇年代の街並みを再現してもらうといっても、幅が十年あるだろ? その間に景観だって徐々に変わるよな? 見る者によっては変わる前がいいとか、後の方でないとしっくりこないとかキリがないじゃないか、だから両方創ってしまおうとかね。だからオレが拘りたい場所は、その通りに創ったのさ」
「そんなことができるのですか?」
「なんでもできる。オマエが今日、ダイブしたアドレスはオレが創ったパッケージだ。ダイブする者が、コンテンツでどのパッケージを選ぶかってことだけだ」
なるほど、と正雄は感心した。世界はフィジカルとメタフィジカルの二重構造ではないのだ。人が百人いれば、百個の違う世界が存在する。まさにパラレルワールドの実現だ。彼が駅に降りたときに不自然に感じたのは、もしかしたらそのせいかもしれない、と思った。ここは知らないうちに沢田の意識が反映されているということなのだ。
「建物によって、なんだかくすんで色褪せたものがあるじゃないですか。あれはどういう意味があるんですか?」
「あれは上面しかない見世物だ。中身が創っていないから入れない建物だよ。マップ上では固定(OFF)と呼ばれているのだけど、だれかがいじれば可動(ON)にできる。オレは、家出時代に住んでいたアパートからよく通った街道沿いの銭湯や、あの当時ここを舞台にした青春ドラマに出てきた沿線の自然公園駅周辺のスタンドや電話ボックスなんかを生かした」
「すると沢田さんは年金より移住を選択するクチですか?」
今度は沢田の方が首を傾げた。正雄よりも深刻そうな表情だった。
「まだ、そのときまで間があるからわからないけど、いまの時点では永住できないな」
「だって、そのために拘ったのでしょ?」
「スポットから遊びにくる程度ならこれでいいけど、オレには会社があるから」
沢田はフィジカルで茶切巣町をテリトリーとするタクシー会社を経営していた。その会社をまだ息子には任せられないという。
「息子さん、反撥して家出しないですかね?」
反応が少し遅れたが、たぶんその途端に破顔したのだと思えた。そうでなければ、かなりデリケートなことを正雄はいってしまったかと後悔したかもしれない。どうやら、そうではなかったようだ。
「それは皮肉か? オレはそういう理由で家出したんじゃないぜ」
苦笑ですんだが、正雄にとって、いまさら沢田の家出の理由などどうでもよかった。そんなことより、どうしていまになって正雄に連絡してきたのかがわからなかった。連絡先などは、正雄がいまでも辛うじてつき合いのある、当時の後輩のだれかからきいたにしても、メタフィジカルで会うのであれば盆帰りのときでいいじゃないかと思ったのだ。
「オマエ、メタフィジカルは初めてかい?」
「ええ。沢田さんは?」
「盆帰りは今年で三回目だよ。それまではネットワークが拡がっていなくて一部のヤツらしか利用していなかったらしい」
「私も、沢田さんからお声がかからなければ知らなかった。慣れないと最初はヘンな感じですね」
「感覚が、だろ?」といって微笑を浮かべる。
「そう、なんていうのか、ちょっと遅れるような感じですかね」
「ふり向いても、画が追いついてくるのがコンマ何秒か後になるよな? これは仕方がないらしい。感覚器官と認識機能との間に、もう一つクッションが入るわけだからな。あまり長時間ここにいると、ここの感覚に慣れちゃってフィジカルに戻ったときに陸酔いみたいな状態になるってきいたことがある」
正雄も大昔だが、陸酔いの経験はある。船から降りても陸地が揺れているような感覚が抜けないのだ。
「だからダイブは三時間単位なのか」
「落ち着かないかもしれないけど、あまり延長はしない方がいいぞ。オマエだって、もう若くないだろ。体調を戻すのに時間がかかる」
「なにいっているんですか、学年は上ですけど齢は一緒でしょ?」
「そうか」と笑いながら頷いた。沢田は早生まれの上級生だったのだ。
「実はオレ、血圧がかなり高いんだよ。メタフィジカルでヘンに興奮したりするとヤバいかもしれない。オマエ、大丈夫か、糖尿とか痛風とかないだろうな?」
「若い頃に腰を痛めた後遺症がありますけど、そういうのはありませんね。節制してますから。沢田さんと違って」
「どれだけ長生きするつもりなんだよ」
「メタフィジカルでは、なにかそういう持病のある人に悪影響があるんですか?」
沢田は両腕を上げて見せた。見た目は若いが、所詮年齢には勝てない。沢田の高血圧は、彼の気性からなんとなくわかる気がした。
「まあ、あんまり気にするな。そういうことで、あまり時間をとると陸酔いがくるから早速だが・・・」と、沢田は座りなおした。ふたりだけの店内なのに、まるでヒソヒソ話でもするかのような身構えをするところを見ると、なにか重要なことらしい。
「実は去年の盆帰りのときに、やっぱり何十年かぶりに会ったヤツから〝ウェンズデイ〟のライブフィルムを持っているっていわれてね」
「ウェンズデイ?」
正雄がこの名前をきいたのは、いったいいつ以来だろうか。それこそ忘れるほど昔に沢田と一緒にプロデュースしてやった、女の子三人組のフォークユニットだった。プロデュースといえばきこえはいいが、学園祭のために彼女たちをコーチしたのだ。コゴローが気に入ってくれた『十七歳の風景』も、彼女たちのために正雄と沢田がつくった曲だった。
「ライブフィルムって、もしかして学園祭のってことですか?」
「ウェンズデイは学園祭でしか演ってないから、そういうこと。あの年の学園祭の記録フィルムをそいつが持っていてよ。ヤツは、あのとき実行委員でね、アマチュアフォークコンサートの担当だった」
「よく、そんな古いフィルムが残っていましたね。見られるのですか?」
「オレが譲ってもらって業者に頼んでデジタル変換してもらった。それを今度は3D変換して、今年の盆帰りにウェンズデイの再結成コンサートをやろうと思っているのさ」
3D変換すれば、メタフィジカルでは普通の人物と同じになる。極端にいえば、この世界では死んだ人も生き返るのだ。
しかし・・・と正雄は思った。たとえ、そのときの様子をすべて再現できたとしても、関わった何人かには思い入れがあるから見たいとは思うが、そんなに需要があるとはとても思えなかった。
「そりゃ、オマエ、見たいヤツはいっぱいいるだろうよ。なにしろ我が校出身の最も有名なロック歌手だからな。特にオレたちの世代は、みんな知っているだろ? 世間ではあまり売れなかったかもしれないけど、オレとオマエにとっては自慢だ、そうじゃないか?」
「・・・?」
正雄には沢田のいっていることが、まったく意味不明だった。まるでウェンズデイが芸能界デビューしていたような話し方だった。ウェンズデイは学園祭一回コッキリのユニットだったのではなかったのか? あんなド素人のフォークユニットが、まかり間違ってもデビューなんてことはありえない、と正雄は思っていた。さすがに沢田も、正雄があまりに要領を得ない顔をしているので気づいたようだ。
「オマエ、まさか・・・知らなかったの?」
「知るも知らないも、いったいなんの話をしているのだか・・・ 」
沢田は途方に暮れたようだった。どこから話せばわかってもらえるのか、と何回も喋りだそうとしては溜息をついた。挙句の果てに出た言葉がこれだった。
「ウェンズデイがなんだかは知っているよな?」
「いい加減にしてくださいよ、忘れるわけがないでしょ? 我が校出身のロック歌手って、まさかウェンズデイのことですか?」
「違うよ、ステラだよ、ステラ!」
「ステラ? なんですか、それ?」
「〝ステラブルー〟を知らないのか、オマエは?」
「ステラブルー・・・ 」
どこかできいたような名前だが、どこできいたのか記憶になかった。
・・・たしか〝グレートフルデッド〟のアシッドフォーク調のブルースにこんな曲があったが、それをユニット名にしたのだろうか? いや、まさか爽やかフォークが売り物だったウェンズデイが、グレートフルデッドだなんて・・・
正雄は、ますます混乱した。
「降参するのでウェンズデイと、そのステラブルーとやらの関係を教えてください」
「本当に知らないのか」と沢田は呆気にとられていたが、やがて口を開いた。
「ウェンズデイにいた蒲池真理って女のコは憶えているよな? 彼女、あの後この界隈でやっていたセミプロの連中とバンドを組んで。それがステラブルーさ」
「蒲池・・・ああ、憶えていますよ。たしか、〝リリリ〟って呼ばれていたギター担当のコでしょ? あのコ、バンドやっていたんですか?」
「そう、そう、リリリ。彼女がプロデビューして〝ステラ〟と名のったのさ」
正雄は、あまりの驚きに表情もつくれなかった。あのとき、ろくにギターも弾けなかった女のコがプロになっていたとは・・・と。
「なにを隠そう、ステラをバンドに紹介したのは、このオレなんだ」
また沢田の得意顔を見ることになった。ここは数か月早生まれの先輩を立てて驚かなければいけないと正雄は判断して、そこはスムーズに表情がつくれた。沢田の顔が広いことは当時から知っていたから、その程度のことはやるだろうくらいの察しはついていた。思った通り、沢田は正雄の驚嘆の具合で満足そうな笑みを浮かべた。
「いつ頃デビューしたのですか?」
「八〇年代半ばくらいだったんじゃないか? オレもよく憶えてないけど」
それなら知らなくても無理はない、と正雄は思った。物凄く景気がいい頃だ。仕事も忙しかったし、いままでしたことのないような豪勢な遊びに夢中で、TVやFMなどに目もくれなかった時期だ。仕事だか遊びだかのボーダーもわからなくなっていて、朝から晩まで飛び歩いていた。必要最低限の情報は新聞やAMしかはいらない営業車のカーラジオから得ていて、それ以外の歌番組などにうつつを抜かしている場合ではなかったのだ。
「ロックバンド? ヘヴィメタですか?」
「いや、当時〝シャネルズ〟や〝ヴィーナス〟ってオールディーズを演るバンドが結構いて、ステラブルーもそんな感じだった。『ニードルズ&ピンズ』とか、『忘れたいのに』なんかをロック風のアレンジで演ってた。何回か、ぎゃらん堂や羅摩談でライブを見たよ」
「リリリはギターを弾いていたのですか?」
「ステラといえよ。彼女はギターとボーカルだ」
正雄にとって、リリリがステラだろうと、そんなことはどっちでもよかった。ただ、たったいまきいたばかりの呼び名を口にすることに抵抗があったのだ。
「もともとはさ」と沢田は、また声を潜めた。
「武蔵野自然公園の野外音楽堂で開催したアマチュアロックコンサートの音合わせのバイトに、オレが彼女を起用したことがきっかけなのさ」
正雄は、それをきいて思わず「あっ」と声をあげた。
「沢田さん、それ私が高校三年のときでしょ?」
「そうだったかな?」と沢田は首を傾げた。どうやら自分のこと以外には興味がまったくないらしい。
「そうですよ。そのバイト、最初に私に持ってきたじゃないですか」
「ええっ、そうだったの?」と、まるで他人ごとだ。
「私が、あの当時まだ坊主頭で、ロックを演っている連中は長髪が相場だったでしょ? それで恥ずかしいから断ったんですよ」
「じゃあ、なにか? 坊主でなければオマエがやっていたとでも?」
正雄は照れ臭そうに頷いた。
「ま、吝かではなかったです」
もし、正雄が沢田の誘いを受けていれば、ひょっとしたら〝ステラ〟は正雄だったかもしれない。ここでは、そうだった場合の世界も創ることができるのだろう。正雄本人が望みさえすれば、の話だが。
「でも、私じゃなくてよかったです。私ではステージ上の派手なパフォーマンスは無理ですし、リリリは目立ちたがりでしたからね」
「そうかもね。それに女性ボーカルは華がある。だけど、あのバンドは時代のアダ花になったな。似たようなタイプのバンドが他にいくらでもいたし、女性ボーカルなんて星の数ほどいた。なにか突出した個性もなかったし・・・ 」
「それでよくデビューできましたね?」
「もともとステラブルーはステラ抜きでデビューする予定だったらしくて、ツテがあったみたいだ。まあ、そういうのが星の数ほどいたということは流行りだったってことだし、ド素人ではないので、レコード会社としてもソコソコいけるだろうという目論見があったのだろう」
沢田の話は、まるでコゴローがここにきた経緯に似ていた。場所も同じここだし。そこで正雄は、はたと思い浮かぶことがあった。コゴローが千葉から連れてきたというバックバンドのことだ。たしかボーカルをコゴローの代わりに入れてデビューした、といっていたはずだ。
「沢田さん、それってもしかして」といいかけたところで、沢田も喋りだしていた。
「会社の方に戻らなくちゃいけないから、用件だけいっておくけど」と沢田が正雄を呼び出した理由を手っ取り早く説明した。
要は、この町出身のステラブルー結成四十周年を記念した亜空間ライブを開催するのだが、そこに3D変換した再生ウェンズデイとともに再結成ウェンズデイも出演させたいのでオリジナルメンバーとして加わってくれないか、ということなのだ。結成時、フォークユニットだった当初のメンバーにも声をかけているという沢田らしい手回しのよさだった。
「私はなにをやるんですか?」
「ボーカルを執らせてやるよ」
「えっ」
「あとベースとドラムが必要だけど、オマエ、ベースくらい弾けるだろ?」
「いや、ちょっと・・・ 」
「打合せするから、また連絡する」
沢田の姿はもう店内から解脱していた。正雄は慌てておもてへ出てみたが、そこには死んだように色褪せて空っぽのモールがあるだけだった。
不思議なことだが、思いもかけずリリリが正雄と入れ替わった世界が実現しそうだった。それにしてもオリジナルメンバーに声をかけているなら、なにも正雄がボーカルを執る必要はないではないか、といまさらのように疑問が湧いてくる。どうせ再結成するならリリリが歌うべきだろう、と。
それはともかく、正雄はせっかくメタフィジカルを体験するのだから、ついでにいってみたいところがあった。コンソールを立ち上げて、マップ上のサーチポインターを獄門寺市に合わせた。次の瞬間には獄門寺駅の南口改札にジャンプしていた。
ここもがらんとしたものだが、やはりだれかが可動ONにしたのだろう。申し訳程度の小さなロータリーも、これだけなにもないとだだっ広いスペースに見える。昔、毎日のように通った駅だ、さすがに懐かしかった。いまのこの駅は再開発で巨大な駅ビルになってしまったが、あの頃は沿線のローカル駅の一つに過ぎなかった。
よく立ち寄った駅前の書店や帰り際にお茶を飲んだ喫茶店などはOFFになっている。外から眺めると店内の様子が見えるところなどは背景ではないということだろう。正雄と同じように、ここに思い出があるだれかが生かしたのだ。おそらく、それは正雄と同じ高校の卒業生なのではないかと思えた。正雄はさらに詳細マップから自分の卒業した高校にジャンプした。
〝並梵学園高等学校〟。ここが正雄の出身高校である。正門は立派な石造りで、矍鑠とした銘版が嵌め込まれている。フェンスに沿って歩道を歩いていくと鬱蒼とした並木の陰に学園通りもある。道を隔てた反対側は公立大学、この道を戻ると都立高校もあるのだ。それらの卒業生たちも盆帰りには、このマップを利用するのだろうか。
クルマ専用の通用門まできたとき、どうやら校内がONになっているらしいことに気がついた。だれかいるのだろうか。正雄は守衛室の前を通ってなかに足を踏み入れた。広々としたアスファルトの敷地の正面には講堂がこちらを向いて構えている。通路を挟んで左手に二、三年生の本校舎、右手が渡り廊下を隔てて一年生の校舎だ。
本校舎の昇降口に入る左側の、中庭とのフェンスがある前には掲示板が立っている。正雄はそこに立ち、掲示板を見上げた。当然ながら、こんなものはOFFだろう。くすんだ色合いは実物もこんなものだった。
あの日、ここにポスターが貼ってあった。それを熱心に見上げている女生徒がいたのだ。その光景を彼はよく憶えていた。学園祭で開催されるアマチュアフォークコンサートの出場者募集のポスターをじっと見つめていたのが、リリリこと蒲池真理だった。あれから彼女たちとのつき合いが始まったのだ。
正雄は講堂の裏手を回り、プールがある方へと進んだ。右手の渡り廊下を奥へといくと当時の体育館、その背後に温水プールのある建屋があった。昔のままだった。やはり、だれか正雄と同じくらいの世代の卒業生が生かしたに違いないと思えた。
現在の学園は敷地の外を通る国道の拡幅工事でだいぶ変わってしまったと、フィジカルでここを訪れた後輩からきいたことがある。もはや正雄の記憶のなかにしか残っていないと思っていた場所が、ここに存在していた。懐しさに思わず頬が緩んでくる。
点々と聳える松の木立の間を辿れば、かつて知ったプールだ。プールを囲むように防音ガラスのサッシがあり、こちらから見ると、その後ろ側に小児用の浅いプールがあるのだ。そこは露天の、本当に夏場しか使えないものだった。ただし、こんな浅いプールに浸かるのは、せいぜい小学校の低学年までだろう。高校生の膝くらいしか深さがなかった。敷地内に併設の付属小学校が使っていたのだ。当時は練習が終わると、よくそこでフリスビーや日向ぼっこなどをしたものだった。
正雄は、その子ども用プールにだれかが腰かけているのを見つけた。最近、つとに視力が悪くなった正雄にも、それが女の子だとわかる。当時の女子の制服を着ているからだ。
・・・冷静に考えると、おかしな話だ。せっかくメタフィジカルにきているというのに、あんな流行遅れのジャンパースカートの制服姿なんて・・・
プールの正面は敷地の一番奥にあるグラウンドに面していた。正雄はそこに回り、プールの建屋のなかに入ってみようと思った。だれかいるということは、プールでは泳げないにしろ、ONになっているということだ。
正面の扉は開いていたが、受付などがある管理室は壁紙のようにOFFだった。右手の男子更衣室も同じように二次元の壁だったが、左側から入る女子更衣室は生きていた。なかにいるのは女生徒なのだから、ここを通って入ったことは明らかだ。
しかし、正雄は女子更衣室に入るのを躊躇った。昔なら女子がいなくても大喜びで忍び込んでいたのに、さすがにこの齢になると、たとえだれにも咎められないとわかっていても足が動かない。
ことによるとメタフィジカルの監視システムかなにかが記録しているかもしれないし、他にだれかいるかもしれない。外へ出て、他になかが覗けるところはないかと探した。たしか、隣接する体育館との間に通路があり、プール側は一部フェンスになったところがあったことを思い出した。
正雄はなかにいる女生徒は、おそらく水泳部に在籍していたことがあるのではないかと思っていた。この校内の様子からすれば、正雄とほぼ同じ時期をここで過ごした生徒であろう。ひょっとすると知った部員かもしれない。話しかけようとは思っていなかったが、少なくともそれがだれかだけを確認したいと思ったのだ。
反対側に回ってみると、あろうことかフェンスは当然のようにOFFになっていて、隙間から覗けるような状態ではないのだ。フィジカルでは、こんなことはありえない。このへんがメタフィジカルの面倒なところなのだろう。
鐘が鳴っている。放課を知らせる鐘ではない。システムを管理している時計が利用時間の終了を知らせているのだ。なんと残念なタイミングなのだろうか。しかも、ついさっき沢田から「延長はするなよ」といわれたばかりだ。まるでドラマだ。今度ダイブするときには、沢田にON/OFFの切換の仕方を教わろうと正雄は思った。
毎日のようにコゴローの歌を聴いている。最初はクセのある歌い方や独特なメロディに頭が切り替えられないでいたのだが、いまはまるで新しいポップスのように馴染んで病みつきになってしまった。
やはりプロになるべき素質があったのだろう。これらの作品がきちんとレコーディングされていたならと思うと、こんなに狭い日本のなかでもどれほどの才能が埋もれているかわからないと再認識できる。
アルバイトの休憩時間に、いつものカーゴ置場に座り込んで、そんな話をすればいよいよコゴローを調子づかせるのだ。一方、コゴローは正雄の『十七歳の風景』がえらくお気に入りのようで、ことあるごとに「ちゃんと録りなおそうよ。スタジオ借りてさ」といってくる。正雄は逆に、コゴローの作品群をこのまま埋もれさせるのはもったいないと思っていたから「コゴローさんの曲もやりましょう。私にアイデアがあるんですよ」と勧めていた。しかし、お互いに自分の曲には一向に興味が湧かないらしく、いつも話はそれ以上進まないのだった。
話が途切れたところで、正雄は思いついたようにメタフィジカルへいった話をした。
「母校を訪ねてみましたよ」
「母校? VRに創ったの?」
「盆帰りを習慣づけるアプリがあるんです。もともとは地図を具象化するアプリらしくて、それをもとに創ったらしいです。あの当時の獄門寺市そのものが再現されていますよ」
「そうか、近藤さんの母校は獄門寺市だったっけ。オレも昔、女と住んでいたアパートが獄門寺駅のそばにあったけど、もしかしたらあるのかな?」
「間違いなくあると思いますよ。ただ、なかまで入れるかどうかわかりませんけど」
「南口のバス通りに小さな川があってね、途中で分れて西の方に流れていくんだけど、その川沿いに建っていたよ。たしか西町ってところだよ」
「ああ、ちょうど段丘になった下のところですよね。あっちにいったことがないのですけど、バス通りは通学路だったのでなんとなくわかります」
「小汚い二階建てのアパートでさ、でもあの当時はアパートといえばあんなものだったから。オレは毎日、絵を描いていたよ」
「そんな才能もあるのですか!」
コゴローは、だらしなく眉毛を八の字に下げた。
「実はオレ、ギターを弾くよりも絵を描いているときの方が好きなんだ。そんなたいそうな絵じゃないよ、イラストみたいなものだけど。それがなぜか隣近所の人にウケて、描いてくれ、描いてくれって、よく頼まれたものだよ」
コゴローは根っからの表現者なのだろう、と正雄は思った。シンガーソングライターで絵を描くのも好きという人は意外に多い。両方ともクリエーティブという共通点がある。
「今度いったときに、そのアパートを見てきてあげますよ。コゴローさんの絵が残っているかも・・・ それとも今度の休みに一緒にいきますか?」
するとコゴローは苦笑いで手を振った。
「実は、あそこにはあんまりいい思い出がない」
なるほど、その女性と別れた場所でもあるのか、と正雄は勘ぐった。
「まさか、いまの奥さんと出会ったから別れたとかってわけじゃないでしょ?」
別に他意があるわけでもなかったのだが、気安さから思わずそんなことが口から出た。
「違う、違う。女房と出会ったのは、ずっとあとだよ」
コゴローは気にするふうでもなく、意外と口数多く語った。
「女と一緒に暮らすようになって、すぐディスコブームでライブハウスはディスコティックになっちゃった。オレが出る幕はなくなってアパートで絵ばかり描いていたら、その方が楽しくなってきてね。たいしたことないけど、それで少し小遣い稼ぎになっていたし」
「隣近所の人が描いてもらったお礼かなんかで?」
「そう。ところが女の方も同じように仕事がなくなっちゃって、オレたちは〝四畳半フォーク〟の世界さながらになった」
「彼女はなにをしていた人なんですか?」
「オレと同じ。バンドでボーカルをやっていたのさ」
「ミュージシャンだったんだ? じゃあ、ライブハウスで知り合ったのですか?」
「そんなものだな。プロのくせにオレのブルースにゾッコンで、まるで追っかけみたいだった。アイツはレコード会社に専属したこともあったけど、もうアイツらが演っているような音楽もウケなくなってきて、バックバンドみたいなことをやって凌いでいたよ。ボーカルが要らないから、アイツはクビ同然だ。それでバイトをしだしたのさ」
「ゾッコン」の真偽のほどはわからないが、同棲したくらいだからまんざらでもなかったことはたしかだろう。いまのコゴローの容姿からはとても想像できない。しかし、やはりプロの世界は厳しいものだと正雄は思い知らされた。早々にアシを洗って、家業に戻った沢田は賢いといわなければなるまい。
「それじゃあコゴローさんは彼女にバイトさせて、ほとんどヒモ状態だったってこと?」
コゴローは両手を広げて首を傾げるようなマネをした。そういわれても仕方ない、といった仕草で目を大きく瞬かせた。
「ヒモというか・・・まあ、実質的にはそうだけど、一緒に暮らし始めたときからお互いを束縛することはやめようって暗黙の了解みたいなものがあってね。アイツは好きな歌を歌って、オレは絵を描く。アイツが歌をやめてガソリンスタンドだか、スーパーのレジ打ちだかをやるのは自由だ。そういう生き方には干渉しないってね」
しかし、次の瞬間には眉間にシワを寄せて、信じられないことを言い放った。
「ある日、アイツはこんなことをいいやがった。アンタも働いて、だって。このオレに」
「・・・ 」
正雄は、それをどう受け止めたらいいのか、わからなかった。コゴローがどういうつもりでいったのか、まったく理解できなかったのだ。
コゴローは、さらにその後なにか補足的なことをいってくれるのかと思ったが、不機嫌そうに黙り込んでしまった。これだけの情報だと、正雄でなくても、おそらくだれもがその女性のいっていることが正しいとしか思わないだろう。むしろコゴローが怒ることが不可解だった。
しばらくヘンな沈黙があり、またコゴローが喋りだした。
「アタマにきたけど、オレは面と向かっていえないタチだから。口喧嘩になれば女の方が強いだろ? だから次の日、アパートを出たのさ」
コゴローの言い分だと、いかにもその女性に原因があったようだが、どうしても正雄にはコゴローの方がサイテーだとしか思えなかった。中学生の子どもじゃあるまいし、先行きのことを考えなければおかしいし、同棲するほどだったのだから、ある程度の愛情くらいあったろうに、と。新しく好きな人ができたから別れた、という理由の方がまだ納得がいく。
朝方、カーゴの荷物をすっかり片づけてしまった正雄たちは、最終便が入ってくるのを待っていた。トレーラーが着くポートに立って、外を眺めていると空気が次第に白っぽくなっていくのがわかった。
「やっぱり朝はまだ冷えるね」
コゴローの言葉は正雄にとって新鮮に響いた。休憩時間にきいた不埒千万な話の同じ人間の言葉とは思えなかった。そんなことにお構いなしで、コゴローはさらに喋る。
「朝はいいな。なんだか扉がゆっくりと開いていくようなイメージがある」
コゴローにとって、このアルバイトは収容所で強制労働させられている囚人みたいに思えるのだろう。正雄にも、その気持ちはわかった。常に夜の闇ばかり見ながら働いているのだ。逃げられないところに閉じ込められているような気にもなる。
「仕事上がりで駐車場に上がっていくときは、もう扉が全開だよ。朝陽を身体全体に浴びてさ、朝飯を食って気持ちよく眠りに就く・・・ 」
もうすぐ仕事が終わる時間がくることを見越してコゴローは目じりが下がりっぱなしだ。ところが、すぐにその表情は曇った。
「目が覚めると、もう夕方だろ? 扉はピタッと閉じているのさ」
コゴローがいう「扉」とは、自分の気分のことなのだ。月曜日や雨の日が憂鬱だという歌があったが、彼らにとって夜がくることは憂鬱な重労働にいかなくてはならないことに繋がっていた。正雄は、そんなコゴローの言い草にただ微笑を浮かべているだけだった。
家に帰り、いざ寝るときになると、どうしてもコゴローのテープに手が伸びるようになってしまった。一日一回は、これを聴かないと気が済まないのだ。最初に持っていたゴツゴツした馴染みづらいものという印象が、いまはまるで正反対の禁断症状のように、その音楽性に魅入られるのだった。
しかし、やはり神様は天才に全人格を与えているわけではなかったのだ。コゴローにもウィークポイントがあった。いまでこそ家族を抱えて責任ある身だから、収容所の強制労働だろうと耐えてやっているが、若い頃には異常に「自由」ということに拘っていたのだろう、と彼のしてきたことや、歌の内容などからわかる。
それに正雄が気づいたのは、コゴローの作品をじっくり聴くようになってからだった。某大作家先生の詩に、ビートルズの『カムトゥゲザー』や『ヒアカムズザサン』にインスパイアされた曲調のポップな作品とか、驚くほど美しいメロディを持ったバラードに混じって、どう考えてもこれはコゴロー自身の言葉で書いたものだという歌を発見したのだ。
それはまるで彼自身の現在の境遇を歌っているとしか思えない作品だった。そのタイトルが『何者も君を占領できない』なのだ。
♪ 重い扉を閉める前の古びた階段を探してみよう
断片的な思想でなにかを描きだす力が残るとすれば
鏡の前の自分によく似た人に気づこう
長い髪が絡みついて 尻尾のようにぐるぐる巻きついている
忘れるはずのない顔を見つけよう
感覚よりほかには証しはないし まして自分に有益なこともない
人生はあまりにも長過ぎるのじゃないかと思うんだ
どこで目覚めても昼と夜はわかれているようだし
ただあっちこっちと忙しく走り回って大騒ぎしても
またもとの迷路へと戻ってしまう
どんなにあがいてもボクらは死ぬように眠ってしまうのだろう
何者も君を占領できない・・・