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ブランニューイエスタデイ  作者: 犬上田鍬
14/15

その後 去年の八月の一週間

 フィジカルは、もう冬になっていた。この半年の間に正雄の身のまわりは、またしても大きな変化を遂げていた。盆帰りのすぐあとに母親が亡くなって、信じられないほどの莫大な遺産が入ったのだ。母親は九十代の半ばを過ぎていた。正雄が六十五歳になろうとしているのだ、無理もない。

 その日、正雄は久しぶりにコマサの店を訪れていた。

「オフクロはさ、九〇年代初頭のバブル景気の崩壊がウチみたいな零細企業に及んできたときに、もうこれは元のような景気にもどらないと見込んでいたんだ。たぶん、オレに会社を任せたらカネを使い果たして潰すと思ってたんだよ。結局その通りになったけど、あのときはだれがやっても会社は潰れた。それで、せめて自分だけは老後を贅沢に過ごそうと高級ホテルのような老人ホームに入るためのカネを貯めこんでいたんだ。一時期はちょっとした企業並みの収益を上げていたにも拘らず、オレには給料をとれないといってたよ。信じられないだろ? セガレがギリギリのところで生活しているっていうのに」

「オフクロさん、老人ホームに入ってたの?」

 コマサはコンロの前に立ってこちらを見ていた。正雄は首を振った。

「齢が齢だったから自分で手続きができなかったんだけど、オレに頼むにしてもカネがあるってことを知られたくなかったらしい。そのうち寿命が尽きた。いたずらに大金を寝かせていたんだ」

 コマサはカウンターの奥で苦笑いをした。

「しようがないじゃないか、マーチャンのカネじゃないんだから」

「セガレの給料をカットしてまで高級な老人ホームに入りたいと思うか、フツウ? オレが四十歳になると、もう仕事がないから就職しろといわれた。オレももう続けられないと思ってたから渡りに船で職探しをしたけど、そんな簡単に就職できる年齢じゃないから、それからはバイト生活だ。朝から晩まで宅配の仕事をやって、挙句に腰痛でもう無理だと思ったから夜間の構内作業に回してもらったんだけど、それを横目で見ながら涼しい顔で、おカネがすべてじゃない、なんていい続けてたんだぜ」

 コマサは、ついに声を出して笑った。

「いいじゃないか、そのおかげで宮仕えの同級生たちと同じように、もう働かなくてもよくなったんだろ?」

「こんなことは、ドラマでしかありえないと思ってたんでホントに驚いたよ。冷静になると、いまさらこの齢でそんなカネもらったって遣い方もわからない。ずっと貧乏だったからな。ついに結婚もできなかった。まあ、オレが結婚しなかった理由はそれだけじゃないんだけどね」

「モテなかったからだろ?」

「それもある。たしかにカネがなかったという理由もある。ただ、最大の理由はオフクロとうまくやっていけるヨメをもらう自信がなかったということさ。オフクロはオヤジさえ牛耳ってたからな。ヨメとオフクロの諍いに巻き込まれて、すぐ離婚することになったと思うよ」

「そんなことは実際、結婚してみないとわからないって」

 コマサの言葉に正雄はそれ以上、母親のことをいうのはやめた。だが内心は、いかに自分の母親が自身のことにしか興味がなかったかをコマサにはわからないだろうと思っていた。

「しかし、カネまわりがよくなったら、なんか途端に小ぎれいな身なりになったな。去年きたときよりも若返ってないか、マーチャン?」

 正雄は、ふさふさになった白髪交じりの頭髪を掻き上げた。

「いやあ、やっと自分が気に入ったものが着られるようになったし、去年の盆帰りに会った友だちからアンチエイジングのサプリメントを勧められてね。そのときは余裕がないから断ったんだけど、遺産が入ったんで試しにやり始めたんだ」

 するとコマサは思い出したように手をポンと叩いた。

「盆帰りといえば、あのあとさ、ウェンズデイを見てた連中が入れ代わり立ち代わりウチにきて、リリリはどうしたんだってきくんだよ」

「そういえば、亜空間ライブでリリリが突然イジェクトしてから会ってなかったっけな」

 正雄がコマサと会うのは、去年の盆帰り以来だった。あのあと、母親の葬儀やら相続などの後始末で、あっという間に半年が過ぎ去った。正雄は、あれからそんなに時間が経ったのかと気づいた。

・・・リリリは、もうアイドルだ。それが目の前であんなことになれば、だれしも気になる。それはちょうど、ステラの自殺の原因を面白半分に知りたがるのと同じだろう・・・

 あのとき、リリリは突然ステージ上でしゃがみ込み、なにか苦しげな息遣いをし始めたと思ったらイジェクトしてしまった。客席はどよめいて、やがて大騒ぎになった。ボーカルがいなくなったウェンズデイは、これ以上続けることができず、正雄が緊急事態を告げて打ち切らせてもらったのだ。

 その直後に正雄はリリリを追いかけた。おそらく彼女は、デートをした出ノ島付近にいるだろうと思ったのだ。案の定、辛うじて陽光が残る出ノ島の防波堤に独り腰かけているリリリを見つけた。

「あのコは、リリリは逆行性健忘という病気だったんだ」

 コマサは、ここで正雄がいう「リリリ」とは、リリリのナリキリという意味と取っていた。本人であるとは夢にも思っていない。

「どんな病気なの?」

「彼女は脳に損傷を受けて、それが原因でネイティブになったんだけど、そのときの前後の記憶を失くしていたんだよ」

「記憶喪失か」

 正雄は頷いた。

「ただ、その病気はかなりの割合で治るらしいんだ。リリリはステージに立っていて、失くした記憶が突然蘇った、といっていたよ」

「治ったのか? よかったじゃないか。でも、なんであんな苦しそうだったの?」

 正雄は首を傾げる仕草をした。

「わからないけど、思い出した瞬間にもの凄い眩暈がしたらしいよ。ステージが上下に揺れるようなほどの」

「それにしてもイジェクトすることはないだろう?」

 正雄は苦笑いするしかなかった。それを説明するには最初から話さなければならない。彼女がネイティブになる、そもそもの発端からということだ。

「ききたい?」

「なにをいまさら・・・ どうせ今日はヒマだから」

「これは本人からきいた話だからな、まともに受け取るなよ」

「どういう意味だ?」

 正雄は笑って「まあ、きけ」とコマサを宥める。

「その昔、あのコがロックにのめり込んだきっかけをつくった人がいたんだ。高校の先輩でね。その先輩にあるとき、アマチュアロックコンサートをやるから、その音合わせのバイトをやらないかと誘われたそうだ」

「八川市民会館のヤツ?」

「それは武蔵野自然公園の野外音楽堂だったらしい」

「ああ、オイラたちも出たことがあるよ」

「それが始まりで、彼女は学校も辞めて先輩のバンドのローディみたいなことをやっていた。普段はGSなんかでバイトしながら、ミュージシャンを目指したんだ」

「高校を辞めたの? それはまた気合いが入っていたんだな」

「そんなときに彼女にチャンスがめぐってきた。先輩の知り合いのバンドがボーカリストを探していたんだ。先輩の紹介で彼女はそのバンドに加入することになる」

「それがガールズバンド?」

 正雄は「待て、待て」という手ぶりでコマサを黙らせる。

「そのバンドはトントン拍子にメジャーデビューすることになって、彼女は自分の希望を叶えることができた。ところがこの業界には流行り廃れがつきものだ。彼女たちのバンドはディスコブームに圧されて開店休業状態になってしまった」

 コマサは難しい顔をして、その話をきいている。

「昔のよしみで彼女たちのバンドに活躍の場を提供してくれたのが、例の高校の先輩とコゴローさんだった。彼らの口利きで彼女のバンドは茶切巣町にあったライブハウスで演奏するようになるんだ」

「えっ?」とコマサはヘンな声を上げた。

「コゴロー? リリリはコゴローとも関係があったの?」

「その先輩経由で知り合ったらしいんだ」

 正雄は先を続ける。

「彼女はそこでコゴローさんに強い影響を受けて、すでに自然消滅状態になっていたバンドを捨ててコゴローさんのコミューンに参加するようになるんだが、そこでコゴローさんのシンパだった高校の先輩と特別な関係になるんだな」

「特別な? 男女の関係ってことか?」

 正雄はなにもいわず、コマサを指さした。「その通り」という意味だ。

「そのうち彼女は先輩の子どもを身籠ってしまった。先輩はもちろん彼女と結婚するつもりだったんだけど、リリリはまだ若かった。やりたいことがあったんだ。もともと一途で情熱的な彼女が、それを曲げて家庭なんかに収まるわけがなかった」

「どうしたのさ?」

「先輩の家を出てコゴローさんのコミューンに戻った」

「なんでよ?」

 コマサも沢田も、コゴローでさえ、子どもができたことを契機に夢を諦めた。だがリリリは違った。夢を追い続けようとしたのだ。

「子どもはどうしたんだ? 生まなかったの?」

「コゴローさんが計画していたイハトボというコミューンで、自給自足の生活をしながら育てるつもりだったらしいよ」

「ええ、ホントにそんなことを考えていたのか、ヤツら?」

「少なくともリリリはそのつもりだったようだ。ところがコミューン自体もその頃には計画頓挫状態で、残っていたのはコゴローさんと彼女だけだった。おまけにコゴローさんはご存知のように生活力皆無のひとだから、最初は憧れのひとと一緒に生活できることを喜んでいた彼女も、日が経つにつれて我慢の限度を超えたらしい。あるときゴロゴロしているコゴローさんに、アンタも家賃の足しになるくらいは稼いでよ、みたいなことをいったんだって。そうしたら怒って出ていっちゃった」

「そんなことだろうよ、やっぱりコゴローだ」

 コマサは皮肉な笑みを浮かべていう。

「コゴローさんは、そのままあてもなく北海道を目指して旅に出たらしいんだな。当然、リリリが妊娠していることなんて知る由もなかった。知っていたとしても、コゴローさんにとっては所詮他人事だ」

「ちっ」とコマサは不愉快そうに舌打ちをした。

「マーチャンはコゴローと一緒にバイトしていたんだろ?」

「オレはオフクロが死んでから辞めたけど、コゴローさんは去年の盆帰りの時期に辞めてたみたいだ」

「やっぱり続かなかったんだ?」

「いやあ、コゴローさんはあの職場が気に入ってたみたいだけど、盆帰りのあと職場にきてないんで連絡したら、コゴローさんのセクションが人員不足だから契約社員でやらないかって会社から誘われたんだって」

「バイトと違うの、それ?」

「保障もあるし、有休もボーナスもあるらしい。もっと若けりゃ、昇給もあるって」

「辞めることないじゃないか」

「そこがコゴローさんらしいところなんだよ。もう、子どもに手がかからなくなったし、奥さんと離婚もして自由だから、いまさら縛られたくなかったんだってさ。誘いを断れば職場にいづらいだろ? それで辞めたんだって」

「まあ、気持ちはわからんでもないが・・・ オイラも縛られるのがイヤだったから、自分でこの商売始めたんだけど」と、コマサはちょっと歯切れが悪くなった。彼はコゴローを毛嫌いしているが、ポリシーの根底の部分では通じるところがあるのかもしれない、と正雄は思った。そうでなければ、見た目がこんなに似ているわけがない、と。

「じゃ、なに? また旅に出たとでも?」

 正雄は笑った。

「生活しなければいけないだろ。若いときと違うんだ、いくらコゴローさんだって。いまは夜中のオフィスビルの掃除屋のバイトをやっているっていってた」

「へえ」とうわの空で相槌を打つと「コゴローはともかく、リリリはどうしたんだよ? コゴローに捨てられてから」と話を戻した。

「リリリは強いコだ。独りでなんでもやろうとする覚悟がある。だが、そのときだけは彼女の精神状態が違ったんだ。お腹に子どもがいるだろ? しかも、いままでまわりにいた頼りになると思っていた人たちがだれもいなくなってしまったんだ」

「リリリは実家があるんだろ?」

「彼女はミュージシャンになるために高校を辞めたことで親に勘当されているんだ。子どもを産むために実家に戻るくらいなら、子どもの父親である高校の先輩のところを出たりしないだろうし、いまさらそこに戻れない。コゴローさんと同棲をしていたわけだからね」

「どうしたんだよ? まさか・・・ 」

 コマサは自分の憶測に言葉を詰まらせた。正雄はそれに頷くようにいった。

「衝動的に自殺しようとしたんだ。ところが彼女の生命力は、それを許さなかった。彼女は助かったんだけど、子どもはダメだった。そのときに脳に損傷を受けたらしい」

「それが原因で記憶喪失になっていたのか」

「久々にステージに立ったことで、自殺をしようとしたときのことを鮮明に思い出したらしいんだ。それでステージの上に居たたまれなくなってイジェクトしたんだって。彼女は、その頃のことを思い出すと自分を消してしまいたくなるっていっていた」

「大昔のことじゃないか。だれにも、そんなことのひとつやふたつあるだろうよ、なあ?」

「ところが彼女のなかでは大昔じゃないんだ。彼女は長い間、ネイティブになるための改造待ちで冬眠していて、目覚めたのはつい十年前ぐらいなんだそうだ。彼女にとって、その十年間だって記憶が無かったわけだから、四十年近く前もほぼこの間(!)なんだよ」

「そんなものかなあ」とコマサは油まみれの換気扇を片肘ついて見ている。

「オレにはわかる気がするんだ」と正雄はフォローするように話しだした。

「数年前のことなんだけど、姪が結婚することになってね。都内のホテルだったんで、クルマを停めるところがわからなかったんだよ」

「ゴチャゴチャしているところがあるもんな。しかも一方通行だったりして、また一回りしてこなくちゃならないようなところが」

「そうなんだよ。そうしたら姪の担当じゃない別のウェディングプランナーの女のコが、たまにクルマでくることがあるので案内してくれるっていうのさ」

「親切なコだな。よっぽどヒマだったんだな」

「そのとき、そのコとちょっと喋ったんだけど、通勤でクルマの方が早い場合があるっていうから、どこからくるのかきいたら湘南市だっていうんだ。ちょっと杏里に似た、すらっと背の高いコでね」

「杏里はマーチャンの好みなの?」

 コマサはニヤニヤしてきく。

「好みなんてもんじゃない、ド真ん中だ。ただし、若い頃だけどね」

「どうでもいいよ」と相好を崩す。

「実は大昔、オレは杏里に似た女のコとつき合っていたことがあってね。そのコは親戚の美容室を継ぐために湘南市にいくことになって、それで別れたんだけど、彼女にそっくりなんだよ」

「そのウェディングプランナーに?」

 正雄は頷いた。

「似たようなコはどこにでもいるもんだと思ってたんだけど、湘南市というのが引っ掛かってたんだ。そのあと世間話のつもりで、なんとなくウェディングプランナーになった理由をきいたら、そのコのお母さんから、手に職を持っていれば後々、身の助けになるからといわれて資格を取ったというのさ」

「お母さんもウェディングプランナーなの?」

「お母さんは美容師だっていうんだ。彼女の実家は湘南市で美容室をやってるんだと。なんでも、お母さんが独りでやっているような店らしいんだけど」

「えっ」

 コマサは、いままでききながす程度のつもりだったのだろうが、ここにきて急に眉間に皴を寄せた。正雄は続ける。

「オレは昔、その杏里似の彼女にいったことがあるんだ。美容師になるかどうか迷っていたみたいだから、手に職を持っているんなら、それを生かした方がいいって。もしかしたら、このコは彼女の娘なんじゃないかって思った。彼女は、オレがいったことをそのまま娘にアドバイスしたんじゃないかって。もしかしたら、オレの娘か、なんて疑ったりして」

「名前、きかなかったの?」

「胸に名札が付いてたから見たんだけど、身に憶えのない名字だった。どうやら、少なくともオレのタネではないようだと思ったんだが」

 コマサは「なに、バカなことを」と大声で笑う。

「でも、わからないよ。親戚の養子になって名前が変わったのかもしれないし」

「なるほど。そういえば、そのコがお母さんとよくいくっていう国道沿いのレストランは、その彼女と何回かいった店だったなあ」

「いったい、どっちなんだよ」と話をきいたコマサは呆れた。

「だいたい、その話はなんのつもりなんだ?」

 正雄は話の要点がずれてしまったことに「そう、そう」と手を叩いて笑った。

「つまり、こういうことさ。オレは普通の六十代の人と違って、結婚もしていなければ、子どもを育てたこともない。マーチャンはわからないかもしれないけど、オレはまだ気持ちが二十代後半のまま、地続きなんだよ。意識が年齢相応に変わってないんだ」

 コマサは、ますます意味不明という表情になった。正雄はさらに続ける。

「だから、ひょっとしたら自分の娘かもしれない女のコと肉体関係を持つなんてことがありえたわけだ。そのコの母親が昔、自分がつき合っていた彼女かもしれないと疑って初めて、それだけの時間が過ぎているということを再認識させられたんだよ。オレにとっては、その頃はまだ、ついこの間という感覚なんだ」

「すると、リリリもそんな感覚で空白の期間を思い出したってことか」

「しかも、リリリは自殺のことより、その先輩との間にできた子どものことを思い出してしまったんだ。その子がどうなったかは容易に想像がつくけど、それがステージ上で突然、蘇ってきたらしいんだ」

「そうか、不意にそれを思い出せばショックだよな。もの凄い立ち眩みもするだろうし、自分を消したいという気持ちもわかる気がするなあ」

 コマサはカウンターの向こうで腕組みをして、やっと深刻そうな顔つきになってくれた。そして、やにわに顔を上げるとこういった。

「マーチャンはリリリにセンパイって呼ばれてたよな?」

「リリリだけじゃないけど?」

「いや、コヤナギやサユリたちは学校の後輩だからわかるよ、そう呼ばれるのは」

「なにがいいたいんだ?」

「リリリの子どもの父親という、その先輩っていうのはまさか・・・?」

 正雄は慌てて顔の前で手を振った。

「バカいえ、あのコがオレのことをセンパイというのはコヤナギたちがそう呼ぶからだ。もし、その先輩がオレだったら気まずいだろ?」

「そうか? オイラはいまのマーチャンの話は、どうもステラのことのような気がしてならないんだけど」

 やはりコマサは気づいていたようだ。だが、正雄は真相を語らなかった。

「だからいっただろ? 本人からきいた話だから、まともに受け取るなって」

「つくり話だっていうのか?」

「あのコは正真正銘のリリリのナリキリだぜ。自分でいってたろ?」

「リリリが後々、ステラになって自殺したところまでも本人のつもりで語っているっていうのか?」

 今度は正雄が意味ありげな笑みを浮かべてコマサに問いかけるのだ。

「じゃあ、マーチャンはどう思ってるんだい? リリリはホンモノだとでも?」

 コマサは、また難しい顔になって唸った。

「そこまで成りきっているんなら・・・ もう病気だな」

「だろ?」

 ふたりの「マーチャン」は大笑いした。コマサは一応それで納得したようだったが、冷静に考えれば、そんな経験をしていないナリキリなら眩暈を起こすほどのショックを受けるわけがない。イジェクトする理由はないということがわかる。だが彼は、そこまで突っ込んではこなかった。

 そしてコマサは思い出したようにいった。

「リリリのことをききにいろんなヤツらがきたっていっただろ? コヤナギとサユリもきたんだよ、暮れに」

「ここに?」

 コマサは顔面を上からマンリキで潰されたような笑顔でいう。

「どこのオバサンがきたのかと思ったぜ。娘の友だちの親御さんかな?なんて」

「オバアサンだろ?」

「いや、いや、そんなに齢とっているようには見えなかったけど、やっぱりメタフィジカルとのギャップがな・・・ 」

「そりゃ、しょうがない。向こうだってそう思ってるだろうよ。お互い様だ」

 コマサはそのときに撮ったという画像を見せてくれた。正雄には小さすぎて、どちらがだれだか全くわからなかったのだが、少なくとも見憶えのないご婦人たちの写真であることに間違いはなかった。そして、リリリのことを一番心配しているのは彼女たちかもしれない、と気づいた。

 コマサはいう。

「コヤナギとサユリがいってたんだけど、本番前にリリリがみんなの手を握って、さあ、いこうっていっただろ?」

 正雄も、そのことはよく憶えていた。途端にコヤナギとサユリの顔色が変わったからだ。

「コヤナギたちがいうには、昔、リリリが気合いを入れるときによくいった文句なんだそうだよ。学園祭のウェンズデイがステージに出る前にもいってたって。こんなことまで知っているのかなと思ったって」

「そういえば」と正雄も思い出した。

「リリリがしゃがみこんだときに、コヤナギが大声でリリリの名前を呼んだだろ?」

「マーチャンだって、サユリだって、彼女の名前を呼んでただろ? オイラはうしろで見てたからよく憶えてる」

「コヤナギは、リリリのナリキリをずっと〝あのコ〟っていってたんだよ。リリリと認めていないというよりか、所詮ナリキリだろうと思ってたんじゃないかな。ステージ前に、そのリリリ独特の言い回しをしたことで瞬間的にホンモノと錯覚したのかもしれない」

 コマサはそれをきくと腕組みのまま、考え込むような仕草をした。そして、いうのだ。

「それで思わず〝リリリ〟って呼びかけたと? ステラはホントに死んだのかな?」

「生きているなら、なんで死んだなんて報道したんだ? まさか追悼盤を売るためにか?」

 するとコマサは首を傾げるしかないのだった。

 そこから彼らは、しばらく無口になった。ただ、ふたりの表情は穏やかなものだった。あらためて盆帰りの余韻に浸っていたのか。店の引き戸の擦りガラスの向こうを人影がいったりきたりしている。光陰寺のこの界隈は、まだ賑やかな時間だ。

「今年の盆帰りも楽しみだな」

 コマサは立ち上がって正雄のお猪口に酒を注ぐ。正雄は受けながらコマサにきく。

「今年もやるのかな?」

「ホコテン?」

 正雄が頷くと、コマサは首を傾げた。

「ああいうことを企画したがる沢田がいないからな。沢田はどうした?」

「意識は戻ったけど、だれにも会いたくないっていってるらしいんだ。奥さんにきいたら、車椅子でまともに喋ることもできないって。まだ介護されるような齢でもないし、本人も家族に迷惑をかけたくないってことで、どうやらメタフィジカルに移住するつもりみたいだ」

「そんな姿をオレたちに見せたくないと思ってるんだな。じゃあ、盆帰りに会える」

 コマサは無邪気な笑顔を見せた。

「皮肉なものだな」と正雄は、どうでもいい御品書きを眺めた。

 コマサの店の壁という壁には店を訪れた有名人のサイン色紙やら、彼らが青春時代に聴いたアナログ盤のジャケットやら、プライベートのスナップショットがベタベタと貼ってあり、その隙間を縫うように御品書きがある。なにが注文できるのかわからないところが客を選ぶ常連の店になっているのだ。それを見ながら正雄は呟いた。

「絶対に移住はしない勢力の旗頭だったひとが移住を決めて、ずっと移住を希望していたオレが居残るなんて・・・ 」

「マーチャンは年金を貰うことに決めたの?」

「いざ、すぐにでも移住できる身分になったら、どうもこの世(!)が名残惜しくなったのかな。オレは今回、初めて盆帰りに参加したんだけど、いままでにないエキサイティングな瞬間を過ごさせてもらったと思って、去年の八月の一週間のことは忘れられない。でもメタフィジカルは、たまにいくからいいんであって、毎日が盆帰りみたいだと、かえって退屈するのじゃないかって思い始めてさ。オレは若い頃なにもできなかったから、まだやり残したことがいっぱいあるような気がしてしょうがないんだ。フィジカルでしかできないことが」

 すると、コマサはカウンターに両肘をついて正雄の方に乗り出していうのだ。

「ウチの娘がグアムに遊びにいったときに、帰ってきてこういうんだよ。あそこに一週間いたらアルツハイマーになるって」

「どういうこと?」

「最初の二、三日は見るものも珍しいし、遊ぶこともたくさんあるからいいんだって。そのあとは、もう常夏の陽ざしのプールサイドで日向ぼっこばかりで、なにも考えなくなるんだと。若くしてボケそうだって」

 正雄は、コマサが移住に乗り気でない理由がわかった気がした。

「去年の盆帰りでオイラは思ったよ。楽しい時間なんて、そんなに長続きしない。限定された一週間だから楽しいのであって、せっかく世間の煩わしさから逃れてマイペースで生活できると思った途端に正気を失うかもしれない。そんな危険な匂いが『サマーブリーズシティ』にはあるのかもな」

「そうかもしれないな」

 正雄やコマサは経験則からそんな感想を持つのだが、リリリや沢田はあそこで暮らしていかなければならないのだ。それを思えばリリリは立派だ、と正雄は感じる。

・・・彼女にはメタフィジカルをいかに生きがいのある環境にするかという使命感がある。実行力があるといえば、同じことが沢田さんにもいえる。リリリと沢田さんはいいコンビじゃなかろうか。ふたりがメタフィジカルを創造することは、つまりイハトボを具象化することに繋がるのだ・・・

・・・ただ、リリリは沢田さんに負い目がある。子どものことを沢田さんがどう思っているのか知らないが、彼女は沢田さんに対して自責の念があり、顔を合わせられないと思い込んでいる・・・

 正雄は、去年の盆帰りの最後のときのことを思い浮かべるのだ。あの防波堤で、リリリを見つけたときのことを・・・


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