その五 ダイブイン学園祭
翌日、沢田以外のメンバーがメタフィジカルのインザペンダントハウスに集まった。外のモールには、さすがに盆帰り週間だけあって、本当にぱらぱらとだが人が出ていた。普段ならまるで廃墟の様相を呈しているのだが、いかにも夏休みといった風情になっている。
夏の陽ざしが斜めに射し込んでくる店内でコヤナギは心配そうに切り出した。
「沢田さんどうなんですか?」
「昏睡状態らしいけど助かるみたいだ」
コマサは昨夜のリハーサルで、煩悩警察のメンバーと懇意にしているヤツからきいたという。やはり人間はそう簡単には死なない。だが、意外とあっけなく死ぬこともある。
「ただ、やっぱり後遺症が残るだろうって医者にいわれたそうだよ」
「どこかに麻痺が残るってことか」
正雄の問いにコマサは頷いた。
「えらいことになったな・・・ 」
能天気な陽ざしのなかに四人の影は動かなかった。「このままじゃ、沢田の追悼ライブになりかねない」などと冗談にもいえない雰囲気だった。
次に口を開いたのはコマサだった。
「どうするか決めよう」
「やろうよ。沢田さんには悪いけど、せっかくここまでやったんだからさ。それが沢田さんへのエールにもなる」
正雄は、沈んだような面持ちのコヤナギや不安げな表情のサユリを励ますようにいった。コマサは最初から「オマエら次第だ」というスタンスだったから、彼らがその気になれば従うつもりのようだ。
コヤナギは当然の疑問を口にする。
「やるのはいいですけど、沢田さんの穴はだれが埋めるんですか?」
正雄は「待て」という手振りでいう。
「アンタたちさえよければなんだけど、心強い助っ人がいるんだ」
「おい、まさか」と、コマサが口をはさむ。
「コゴローを連れてくるなんていうんじゃないだろうな?」
「なるほど、その手もあったな」と正雄はいって、「いや、冗談だよ」とおどけた。
「ギターも弾けるし、歌も歌える打ってつけの女のコがいるんだ。彼女に頼もう」
「いつ、そんなもの探したんだよ?」
コマサが怪しむと正雄は「昨日、マーチャンから連絡もらってから大急ぎで手配したんだ」といった。
「一応みんなの了解を得ないといけないと思ってたから、ここには連れてこれなかったけど、本番は明日だろ? なんとか午後からのリハーサルにきてもらうようにするよ」
他の三人は困惑を隠せなかったが、やる以上、正雄の提案を拒む理由はなかった。
リハーサルは本番同様に会場である並梵学園講堂でおこなわれた。音合わせが中心なので参加しないバンドもいた。この場に参加しなくとも明日また本番前のステージリハーサルがある。そこでは形だけだが、本番通りに進行するのだ。
今日はステージの順番などなく、準備のできたバンドから調整に入るので当事者と運営スタッフだけが上がっている。待っている連中は講堂の客席で見ているか、盆帰り中はONになっている体育館や校庭で合わせの練習をすることになる。どちらにしろ、メタフィジカルでは楽器がみんなエアなので、チューニングなどする必要は一切なかった。
正雄たちは二階席からステージを見下ろせるところにいた。コマサは自分のバンドの連中と一緒にどこかにいるようだ。見ていると次々と出演するバンドが入っては出ていく。なかにはステラのナリキリをボーカルにしているバンドもいた。
「明日はこの会場がステラだらけになりそうだな」
正雄が呟くとコヤナギが反応した。
「ウチのボーカルもステラですか?」
「どうしようか?」
「本家本元ですからね」
見るとサユリは客席に集まってくる他のバンドの連中を見て落ち着かない様子だ。
「どうした、サユリ? 顔が蒼いぞ」
「アタシ、こんな大きなステージ初めてなんで・・・ 」
「だって、ウェンズデイやったときもここだろ?」
「あのときのことは、もう憶えてません。たぶんアガリまくってたでしょうね。それに本番ではガラガラだったし・・・ 」
そういって初めておかしそうに笑った。それを見て正雄は、彼女は大丈夫だと思った。少なくとも正雄よりは場数をこなしている。問題は正雄の方だった。彼はまったく初めての経験だった。しかし、それを彼女たちの前でいうわけにはいかない。
沢田がいないいま、彼女たちの頼りは正雄とコマサしかいない。コマサはなにかといえば「オイラは助っ人だから」が口癖なので、おのずと正雄にウェイトがかかることになる。正雄が全身に力を入れて、ここに立ち尽くしていてもおかしくなかった。だが、彼には心強い味方がいたのだ。
「いた、いた」
奥の扉から降りてきたのは並梵学園の制服を着た女子高生だった。気がついたコヤナギとサユリは、その女生徒を見て腰を抜かしそうになった。
「きたか」と正雄は彼女たちに女生徒を紹介した。
「ボーカルとギターをやってくれるリリリだ」
ふたりの表情からは「驚愕」という二文字が連想された。コヤナギなどは、アワを吹いて気絶するかと思うほど落ち着きを失っていた。
「リリ・・・リ・・・ ど、どっ・・・」
その驚き様に正雄もリリリも大笑いになった。サユリはまじまじとリリリを見て、正雄に確かめる。
「ナリキリなんですよね?」
「そうじゃなかったら?」
「えっ・・・まさか、ホンモノ?」
その様子を見て、また正雄とリリリは笑った。
「ホンモノだと思うか?」
その言葉に、やっとふたりは落ち着きを取り戻した。コヤナギは胸を撫で下ろしながら、そこに座り込んだ。
「びっくりした・・・ ステラならともかく、リリリがくるとは思わなかったから」
正雄は彼女が正真正銘の本人であることなど、もちろんいえなかった。そんなことをいおうものなら、たとえ本人が目の前にいたとしても正気を疑われるだろう。
ここはメタフィジカルだ、なんでもできるところなのだ。もし、リリリであることを納得させるのであれば、なにかそれなりの証明をしなければならない。そんなものはなにもないし、正雄自身もいまここにいるリリリ本人に対しては完全に疑念を捨てたわけではなかった。
なにしろフィジカルでは、ステラは鉄道事故で死んでいることが周知されている。正雄はそのニュースをきいた記憶がある。リリリ本人から経緯をきいてはいるが、それが事実かどうかも確かめようがない。
コヤナギたちに納得のいく説明をするために、正雄はあえてリリリのエピゴンであるとことわった。本人が本人のナリキリをしているなんてことはだれにもわからない。リリリはそれを条件で参加してくれたのだ。
リリリは自分の本当の年齢を知ったことで、なにかふっ切れたものがあったのかもしれない。もう、こんな機会はないのだから、もう一度、最後のステージを踏んでみよう、そんな思いがあったのか。頑なにみんなとは会いたくないといっていたものが、意外と簡単に引き受けてくれたのだ。
「彼女はネイティブなんだ。かつてガールズバンドのギターを弾いていたことがあったらしいんだよ。ネイティブが集まるカフェで見つけてスカウトしたのさ。リリリの姿に成りきってもらうことを条件にね」
「ネイティブ」といえば、そうなる事情を健常者はききづらいはずだ。コヤナギやサユリもその一言で、それ以上の追求をする気はないようだった。ただ不審の目を向けられたのは、それを探してきたという正雄だった。
「センパイはどこにでもいきたがるんですね」
「不審者には不審者の嗅覚ってものがある」
リリリをちらと見ると、口もとに薄く笑みを浮かべて黙ってきいている。本当のところ、彼女はどう思っているのだろうか、と正雄は勘ぐった。
・・・自分はステラ本人だといいたいのではなかろうか。こればかりは本人しかわからないことだ・・・
サユリが心配そうに尋ねる。
「彼女、演る曲目なんかはわかってるんですか?」
「大丈夫、全部入ってるから。なっ?」
すると、リリリは大きな瞳に不敵な笑みを浮かべて、ゆっくりと親指を突き上げた。
コマサがやってきてリハーサルの準備ができた。コマサはリリリを見て苦笑した。
「ウェンズデイ時代のステラに成りきったのか? これなら他のナリキリとは比較されないで済むな。さすがにオリジナルだけはある」
ウェンズデイが舞台に上がって合わせのリハーサルを始めると、噂をきいた他のバンドの連中が集まってきて、急に舞台前の席は人だかりになった。彼らはステラになる以前のリリリのエピゴンを見にきたのだ。
ウェンズデイのメンバーたちはリハーサルでこんなに注目を浴びるとは思わず、一時的に冷静さを失っていたが、視線がすべてリリリに注がれているのに気づき安堵した。野次馬のなかからは「やられた」という声さえきこえた。
「なんか通しで一曲演ってみようか」
そういったのは助っ人を買って出ているコマサだった。オリジナルメンバーが硬くなっているのに、コマサとリリリだけはリラックスしきっていた。特にコマサは注目を集めているのをいいことに得意になっているようだった。
「じゃあ、『アイゴートゥピーセス』を演りましょう」とリリリが提案する。
サユリのピアノに続き、コマサのドラムが軽快にエイトビートのピッチを執る。そしてリリリが入るのだが、驚いたことに彼女は自分たちで意訳した日本語バージョンでなく、英語の原詞で歌い出した。
正雄は思わずパニックになりそうだった。サユリも手こそ止めないが唖然とした顔でボーカリストを見上げた。コマサだけが嬉しそうにリズムを刻んでいた。リリリは、まるで歌い慣れているかのごとく流暢に歌っている。身体を揺らしながらギターを弾いて、立派にパフォーマンスをしている。
正雄は彼女の演奏風景を初めて見た。あの頃でさえ練習しか見たことがなかった。いま歌っているのは、おそらくリリリではあるまいと思えた。リリリの姿をしてはいるが、ステージの癖が自然と滲み出てしまう〝ステラ〟なのだ。
聴いていた連中から歓声が起こった。彼女は楽しそうだった。正雄もつられて指使いが軽やかになった。リリリはまるで生きかえったようだ。同時に熱いものを感じたが、それを堪えるために正雄はなるべくボーカリストを見ないように努めた。
終わった瞬間、拍手喝采になった。リリリは両手を挙げて、いまのが本番だったかのようにアピールした。スティックを置いたコマサまでもが手を叩いていた。正雄は笑顔を振りまくリリリを見て「リリリ、立派になったな」と呟くのだった。
あとでコマサからきいたのだが、ステラブルーのメンバーからパフォーマンスや歌い方がステラにそっくりだったといわれたそうだ。コマサ自身も「どこで探してきたんだ?」と不思議がっていた。
「よほどのステラファンでないと、ああは似せられない」
正雄は、あえてそれに答えなかった。似せるも似せないも、本人なのだ。しかし、人間とは不思議なもので、目の前でそれを見せられたとしても先入観のせいで絶対にそう思わないのだ。
そして遂に、亜空間ライブの当日がきた。正雄たちの出番は最後の最後なので、その日は会場であるメタフィジカルの並梵学園講堂とフィジカルをいったりきたりしていた。時間までフィジカルで待っていることなど、とてもできなかった。おかげで、盆帰りで混みあうダイブスポットを一日貸し切り状態にしなければならなかった。
午前中に最後のステージリハーサルがある。それが終わると午後から第一部《誇りあるバンド天国》が始まる。学園通りや敷地内には、溢れるほどではないにしろ、人影が絶えず動いている。おそらく正雄たちと齢の近い連中なのだろう。そして、今日ここにきているということは、この亜空間ライブを目当てにしているのだろう。彼らの一番の興味は、デビュー前のステラの演奏が見られることなのではないか。
ステージリハーサルを待ちながら、正雄はコヤナギやサユリの顔を見た。彼女たちは心ここにあらずという表情で黙りこくっている。コマサは自分のバンド、クレームのリハーサルに臨んでいた。
「ウェンズデイのステージを思い出すかい?」
なんとはなしにきいた正雄に、コヤナギはニコリともせずにいう。
「思い出すわけないじゃないですか。何十年前だと思ってるんですか」
「怒ることないだろ」
「緊張してるんですよ」
「考えただけでも心拍数が上がるよな?」
「上がるどころか止まりそうですよ」
「死ぬなよ。これ以上メンバーが減ったら、もうどうにもならんぞ」
コヤナギは正雄の胸を叩いた。こういう軽口でもいわないと彼女たちをリラックスさせられそうになかったのだ。にも拘らず、少し離れたところにいるサユリは先ほどからずっと蒼白い顔色で仏像のようになったままだ。
「サユリ、大丈夫か。呼吸してるか?」
すると、やっと引き攣ったつくり笑顔を見せた。
「ステージリハーサルでそんなに硬くなってどうするんだ。本番ではもっとプレッシャーがかかるんだぜ」
「やだ、センパイ。そんなに脅かさないでくださいよ」
怒りっぱなしのコヤナギに正雄は教えた。
「だって、ウェンズデイの再現映像のあとだぜ。いやがうえにも会場は盛り上がるだろ? そこにオレたちが登場することを考えてみな」
「ああ、気が遠くなりそう」
正雄はコヤナギたちの前では気丈に振舞って、自分のプレッシャーを打ち消そうとしていた。だが、それをコヤナギは見透かすように指摘した。
「センパイ、手が震えてませんか?」
「バカいえ。武者震いだ。さもなきゃ、メタフィジカルのバグだ」
「そんなのきいたことないわ。ところであのコは、ちゃんとくるんでしょうね?」
「リハーサルにはこないと思うよ。頼んだのは本番だけだから」
「大丈夫なんでしょうね?」
「昨日のリハーサル見ただろ? あのコがくると本番のインパクトが台無しになるからな。あれ以上なにしろっていうんだ」
「彼女、慣れてたよねえ。元ガールズバンドでギター弾いてたってことは、ネイティブになる以前は健常者だったってことですよね?」
正雄は墓穴を掘らないように黙っていた。すると思い出したようにサユリがいうのだ。
「昨日のリハーサルで気づいたことがあるんですよ」
蒼白い顔のサユリが喋り出すのは、よほどのことと正雄には思えた。
「まさか、またキミの好きなエトランゼ話ではないだろうな」
「この期に及んで、なんでそんな話するんですか」とコヤナギ。
「違いますよ。あのコ、リリリにそっくりな歌い方をするんです」
コマサからステラブルーの連中がそういっていたときいていたのだが、いわれてみればサユリやコヤナギも大昔とはいえ、一時期一緒に練習してきたのだ。なにか気づいたとしてもおかしくはない。
「どんなところ?」と試しに正雄はきいてみた。
「ステラになってからは知らないんですけど、リリリは語尾を長く伸ばしたりしないでピタッと止めるような歌い方をするんですよ。あと、伸ばすところに独特のビブラートをかけるの」
「独特のビブラート?」
「ええ。声を震わせるデリケートな歌い方なんですけど、リリリは大きなバウンドをさせるようなビブラートをかけるんです。あれがビブラートといえるかどうかわからないけど、同じ歌い方するんですよ、あのコも」
「へえ」と正雄は感心する。さすがに演奏の基盤をつくっている伴奏者だけはあると思った。長い間やっていなくてもリリリの癖は憶えていたのだ。
コヤナギは正雄の顔を覗き込むようにしてきく。
「そんなところまで教えたの?」
「オレはウェンズデイどころかステラのステージを一回も見たことはないし、聴いたこともない。あのコ自身が研究してボイスクリエイターでつくったんだろ」
コヤナギとサユリは顔を見合わせた。でも、納得はしていなかった。ふたりはリリリが生きているかもという可能性を憶測から外してしまっているから、謎が解けないのも無理はなかった。
逆に正雄が謎に思っていたことが解けた気がした。昨日のリハーサルで、リリリはなぜ『アイゴートゥピーセス』を英語で歌ったのかということだ。
・・・さんざん一緒に練習してきたウェンズデイのふたりに本人であることを気づかれまいとしたのではなかろうか。たまたま、ステラブルーの連中がそれを聴いていて、ステージでやったことのある『アイゴートゥピーセス』にそっくりだとわかってしまった・・・
ステージの緞帳から見ていると、再結成ステラブルーのリハーサルが終わったようだった。正雄たちの番になると、ドラムに座ったコマサがきく。
「マーチャン、ステラ・・・じゃない、リリリは?」
「大物だから重役出勤だ。リハーサルにはこない」
コマサは顔面をクシャっと一度だけ潰した。
「まあ、いいな。どうせ音出しはしないからな」
コマサのいう通り、最後のリハーサルは段取りが中心で演奏はほとんどしないのだ。エア楽器も形だけでOFFにしたままだった。立ち位置や照明の打ち合わせなどを簡単に済ませて、その場はステージを降りた。
正雄は講堂を出ていこうとするコマサを呼び止めた。
「マーチャン、始まるまでどうするの?」
「オイラはバンドの連中と合流しようと思ってるんだけど、マーチャンは?」
「オレはここにいると落ち着かないんでフィジカルに戻るよ。ところで沢田さんのことなんだけど、どこに入院してるのかわかる?」
「見舞いにいくの?」
「心配だから・・・ 」
するとコマサは正雄に向き直って両腕を掴んだ。
「いまはやめた方がいい。まだ昏睡状態だっていうし、家族だって大変なときだろ?」
「そうか」
「まあ、死ぬようなことはないだろうから、少し様子を見たら? そのうち煩悩警察のヤツにきいといてやるよ。悪いことはいわないから、そうしろ」
正雄は黙ってコマサに従うことにした。そういうことはコマサの方が経験的にわかっていると思ったし、人間はそう簡単には死なないというサンプルを実際知っていたからだ。
フィジカルに戻ってみると、まだ昼過ぎだった。向こうと同じように強い陽ざしが容赦なく下界に降り注いでいる。唯一、違うのはエアコンのない正雄の部屋が蒸し風呂のようだった。メタフィジカルには乾いた爽やかな風が吹いている。真夏でも気温は二十五度前後に設定されている。こっちは昼下がりの猛暑のさなかだ。
昼寝もできない不快さなので、ぼんやりと外の風景を見ていたのだが、不意に壁のカレンダーに目がいった。盆休みも、もう今日で最後だ。楽しみにしていた盆帰りが、あっという間に過ぎていく。明日の夜からは、また無味乾燥の昼夜逆転生活が待っている。
それには今日のメインイベントをこなさなければならない。数時間後にはステージに立っているはずなのだが、不思議と緊張感が湧いてこなかった。余裕があるわけでもないのに、どこかにじたばたしてもなるようにしかならないという投げやりな気持ちがあったのかもしれない。
時間がこんなに早く経過していくのを実感するようになったのは、いつからだろうと考えた。生きる速度が早まっているということは、死ぬまでの距離がどんどん短くなっていることに等しい。自分の身の上にどんなことが降りかかるかわからないので、死に方だけは推測できなかった。
いずれ彼自身にも、そのときがくる。正雄は考えるのだ。人は死ぬ瞬間に、なにを思うのだろうか、と。
・・・いい人生だった、と満足するのだろうか。それとも、自分は常にリリリのようにベストを尽くしていたかと悔いを残すのか。その後には、いったいなにが待っているのだろうか・・・
そんなことをぼーっと考えていたら、いつの間にか目を瞑っていた。そして夢を見た。
青い空にコバルトの海が広がっていた。白いカモメが何羽も舞っている。正雄のすぐそばを漂うように飛んでくるものもあった。手で捕まえられそうなのだ。
だが、もしかしたらカモメは獰猛かもしれないと手をこまねいていたら、だんだん群れは遠くに飛び去っていってしまった。最後の一羽が正雄の目の前から天空高く羽ばたいていくのを見ていると、そばで見ていたリリリがいうのだ。
「逃がしましたね」
いや、もう一度戻ってくるかもしれないと眺めていると、その一羽がこちらをまるで人間のように振り返るのだ。そして、正雄の目にはほほ笑んだように見えた。そのほほ笑みはなんだか優しさに溢れていた。意味がわからないが、涙が出てきた。
リリリに見られまいとして、涙をごまかしながら拭っていたら、彼女もいなくなっていた。正雄は直感で、最後のあのカモメはリリリだったんだと感じるのだ。
こんな経験は六十数年の人生で初めてだったが、正雄は泣きながら目覚めた。どうやらこんな暑苦しい部屋で眠ってしまっていたようだ。しかし、たったいま見た夢は実に印象的だと思えた。あの白いカモメは逃げていくものの象徴なのだろうか。リリリの歌詞の《白い鳥》を彷彿とさせるところが面白いと思われた。
・・・ヘンな夢を見たな。リリリもカモメに翻弄されたのだろうか・・・
そんなことを考えて苦笑していると、コヤナギから連絡が入った。第一部の最後の演奏が始まった、というのだ。これが終われば休憩をはさんで第二部が始まる。正雄は汗びっしょりの身体をシャワーで流して、ダイブスポットに向かった。
フィジカルに比べれば、ここは極楽だと彼はつくづく感じた。楽屋口の方から入ると、すぐにウェンズデイのメンバーが見つかった。早速、コマサが声をかける。
「いま、きたの?」
「ごめん、ごめん。普段、昼夜逆転した生活しているもんで寝込んじゃったみたいだ。マーチャンたちのステージ、見られなかったな」
「大丈夫かよ。なんか疲れた顔してるみたいだぞ」
気遣うコマサに笑顔で返した。
「もう、始まってるの?」
「いや、まだステラブルーの連中がスタンバってる最中だ」
第二部はステラブルーの最盛期の再現ホロから始まる。その後に再結成ステラブルーのパフォーマンスがあって、次がウェンズデイのコーナーになるのだ。
コヤナギとサユリが奥の緞帳の陰にいるのが見えた。後姿からでも彼女たちが心細そうなのがわかる。ずっと客席の方を注視しているのだ。そこへいくとコマサは一回終わっているので、かなり力が脱けているようだった。
「リリリは?」
コヤナギが振り返った。
「あっ、センパイ。どこにいってたんですか?」
「フィジカルで昼寝してた」
「こんなときに、よく昼寝なんてできますね。無神経なんですか」
「キミは、いちいち引っ掛かるな。それより、リリリはきてるのか?」
コヤナギが指さす先を見てみると、最前列のシートに座っている女子高生の姿があった。さっき夢で見たそのままだった。黙って座っていてもアイドル然としている。まだ幕が降りているのにステージをじっと見上げている。こちら側の一番死角になるところだった。
・・・よかった、きてないかと思った・・・
「あんなところじゃ、首が痛くなるだろうに」
「それより見えないでしょ、あそこじゃ」
コマサが割り込んできた。
「リリリはステラブルーのメンバーにモテモテでさ。アイツら、ステラになる前の彼女を知ってるだろ? だから取り囲まれて散々からかわれてたよ」
見れば、そのステラブルーの連中は反対側の袖にスタンバイしている。正雄はちょっと心配になった。突然、昔の仲間に会って彼女は狼狽しなかったろうか、と。
「リリリはどんな様子だった?」
「あのコは見た目と違ってオトナだな。すごくお淑やかな喋り方であしらってたよ」
正雄には、なんとなく想像ができて安堵した。彼らにとっては、いつまでも昔のままの印象が強いのだ。そのギャップを埋めるには少し時間がかかる。
「でも、仕草がステラにそっくりだって感心してたぜ」
・・・それはそうだろう。彼女が何者か知ったら、亜空間ライブどころじゃなくなるかも。盆帰りに、死んだはずのホンモノが帰ってきたなんて・・・
そろそろ時間だ。客席は比較的埋まっている様子だった。幕が上がるときには、おそらくいっぱいになるだろうと予想された。
「どうします?」
コヤナギが不意にきいてくる。
「どうって、なにを?」
「ホコテンはほとんど満席だったんですよ」
「いいじゃないか」
「緊張の極みですよ」
「始まれば客席の照明は落ちるよ。ステージ上からは真っ暗で客の顔なんて見えっこない」
「一番前くらいは見えるでしょ?」
「客の顔が見たいの? 遠くを見るんだよ、こういうときは」
徐々に照明が落ちるなか、コマサのにやけた顔が溶暗に消えていく。幕が音もなく上がった。正面のホリゾントにホロが立ち上がる。かつてのステラブルーのステージだ。正雄は彼らのステージを初めて見た。しかし、見たことのあるシルビーバルタンのようなファッションの女性が前面に立っていた。あの日見たステラだった。客席から、ワッと歓声が上がった。
再現ホロはたいしたものだ。まるで本物がそこにいるかのような存在感なのだ。曲は〝ジャッキーデシャノン〟の『ニードルズ&ピンズ』を少しロックっぽくしたノリのいいアレンジだった。それなのに、当時のステラブルーはたいしたパフォーマンスをしていなかったらしい。ほとんど動きがないのだ。ステラに至ってはボーカル専任なのに、ただ身体を左右に揺らして歌う以外は所定の位置からほとんど動かない。
それでも客席は湧いていた。ふと、リリリの座っていたところを見ると彼女の姿は無かった。どこか、もっと見やすい場所へ移動したのかもしれない。
ステラブルーの再現ホロはそれ一曲だけだった。あまりメディアに登場しなかったのか、残された映像がそれだけだったのかわからないのだが、すぐに再結成バンドが登場した。
正雄はそれを見て、当時の記録映像がないわけではないのだということがわかった気がした。再結成ステラブルーは、まるで再現ホロそのものだったのだ。ほとんど続きを見ているようだった。
さすがに同じ曲を演る勇気はなかったと見えて、今度は〝サーチャーズ〟の『恋の特効薬』を演って見せた。同じパフォーマンスを二度演って見せても、だれも喜ばない。「この曲しかない」といって、同じ曲を二度演ったコマサのアマチュアバンド時代でさえ、パフォーマンスは違っていた。
しかし、正雄は気づくことがあった。違う曲であれ、再結成のステラは確実にリリリとは振舞いが違うのだ。ただ、身体でリズムを執っているだけのボーカルスタイルに思えるが、知っている人間が見れば、やはりリリリとは身のこなしが違うということがわかる。
「成りきるのもなかなか難しいことだな」
正雄はなに気なく、そばにいるコマサか、コヤナギに顔も見ず呟いた。
「リリリは、あんなに大袈裟に身体を傾けたりしないだろ?」
「そうなんだ?」
受け応えした声に彼は「えっ」と振り返った。そこに立っていたのはリリリだった。腕を組んで、じっと自分(!)のパフォーマンスを凝視している。その奥に、もう見ていられないといった様子のコヤナギとサユリがいる。かなりナーバスになっているようで、彼女たちの前にしゃがんだコマサがなにかアドバイスをしている。
「キミも緊張するかい?」
黙りこくって見ているリリリにいうと、彼女は正雄を見上げて少しほほ笑んだ。「大丈夫ですよ」と答えるとコヤナギたちの方にいくのだ。そうはいったが初代ウェンズデイの三人が揃ってナーバスになるのかな、と正雄はちょっと気になった。
リリリが声をかけて彼女たちを外に連れ出した。少し離れてコマサもついて出ていった。正雄もいこうかと思っていたら、再結成ステラブルーの二曲目が始まった。
偽ステラのMCで「この曲は作者不明といわれていました。私たちのオリジナルです」と紹介した。二曲目は『十七歳の風景』だった。正雄は自分がつくった歌だけに、どんな具合に演奏されるのか見てみたかった。
売れなかったとはいえ、さすがは元プロだ。非常に洗練されたアレンジで、およそウェンズデイが演った曲と同じものとは思えなかった。二コーラス目までドラムが入らず、シンセサイザーがボーカルの後ろで微かに鳴っているという静謐な展開なのだ。偽ステラも相変わらず〝東海林太郎〟のように直立で歌っているだけだった。
「なるほど、これなら続けて同じ曲を演っても退屈しないな」
しかし、やはりステラは違っている。何度、想像しても本物はこんな歌い方をしないだろうと思えた。でも、偽ステラはなにかを参考にしてパフォーマンスをしていると考えれば、本物はステージでこんな歌い方をしたのかも・・・とも思える。
リズム隊が動き出すと曲自体も躍動を始めた。徐々に盛り上げてサビでクライマックスを迎えるという劇的な演出なのだ。よく練られている。もしかしたら、このあと同じ曲を正雄たちが演って、シラケないかしらと思えるほどだった。
締めのサビは正雄と沢田がいじった歌詞ではなく、リリリが描いた通りに歌われた。世に出た『十七歳の風景』の歌詞はこっちなのだ。正雄は、このアレンジならむしろいじった歌詞の方がよかったのではないかと思えた。
壮大なエンディングで終わるとステージ上の照明が落ちて、ホリゾントに同じこの場所が浮かびあがった。既に三人の女子高生がスタンバイしていた。ステージ中央にスタンドマイクがあり、その前にギターを抱え椅子に座った、あの当時のリリリがいた。その背後、緞帳の陰に隠れるようにグランドピアノがあってサユリが座っている。向かって右側の背後にはサックスをぶら下げた三つ編みのコヤナギが立っている。コヤナギの前にもスタンドマイクが立っていた。再現ウェンズデイの登場だ。
正雄はリリリたちを呼びにいこうとしたら、もう彼女たちは袖にきていた。正雄はリリリに確認した。
「『十七歳の風景』の歌詞はどっちでやるの?」
「オリジナルの方で」
「オリジナルって、ウェンズデイのってこと?」
リリリは至って落ち着いた様子で頷く。
「そうでないと、コーラスが合わないでしょ?」
「その通りだ。ステラブルーの方では練習していないもんな」
リリリは再現された自分たちの、かつてのパフォーマンスを凝視している。その視線の先には寸分の違いもない女生徒が肩に思い切り力の入ったギターを弾いて『アイゴートゥピーセス』を歌っていた。たったいままで演奏していたステラブルーと比べると、どう贔屓目に見てもレベルの差は歴然としている。
でも、この頃のリリリは、いま見るとずいぶん清楚なイメージだった。本人が同じ外見でここにいるが、やはりどこか違う。緊張しているのか、ホロのリリリは真っ直ぐに正面を見て素直に歌っている。世間の穢れを知らない表情だ。
「リズムギターがバラバラ。やっぱり硬くなってますね。音もスカスカだし」
リリリは冷ややかにいうのだ。
「仕方ないよ。ド素人同然なんだから。でも、フレッシュでいいじゃないか」
正雄のフォローにも彼女は反応しなかった。
「外で、なにを打ち合わせてたのさ?」
「そうそう、『アイゴートゥピーセス』のエンディング前のサビでブレイクを入れますから」
「えっ、いまさら変えるの?」
「アタシが手拍子を始めたらブレイクしますんで」
「おい、冗談だろ?」
「コマサさんとセンパイはブレイクしないんで、サビを繰り返し演ってください」
「それじゃあ、オレが目立つじゃないかよ」
「それは演ってみないとわかりませんよ」
リリリは含み笑いをする。コヤナギたちを見ると、ろくにステージのアトラクションに目も向けずに小声で喋っていた。顔つきがさっきと違い、硬さはないが殺気立ったような険しさだった。それをコマサが諫めているというふうにも見える。恥ずかしいから、昔の演奏を見たくないのかと思っていたが、そういうわけでもないようだ。
ステージでは『十七歳の風景』が始まった。一曲目は、まだ軽快なポップスだったので見ていられるが、この曲はフォークだし、演奏も拙いから見ている側は少し辛いものがあった。現に客席は静まり返っている。
正雄は、大丈夫か、と思った。自分たちが出る前に客が飽きて帰ってしまうんじゃないかという危惧があった。まだ、もう一曲あるのだ。
正雄は少し慣らしておこうとベースをOFFのまま抱えて、舞台下に降りていった。見ればコヤナギもサックスを抱えているし、サユリも楽譜の準備に余念がない様子だった。コマサは、それを見てにやけている。リリリも目を瞑って身体を揺らしているのだ。本番をイメージしているのだろうか。
「センパイ、ききました?」
正雄に気づいたコヤナギが小声で話しかけてきた。
「アタシたちが一生懸命練習してきたものを本番前に覆そうとしてるんですよ、あのコ」
「オレも、いまきいて慌てて練習してるんだ。ベースなんて、どうせ聴こえないだろうくらいにしか思ってなかったからさ。おかげでヘンな緊張をしているどころじゃなくなった」
「あら、そういえばそうだわ」とノンキなコヤナギだった。
いよいよスタンバイになった。ステージに上がるときになって、リリリは「手を握りましょう」といって輪になった。そして、メンバー一人ひとりの顔を見回し、突然気合を入れるようにいうのだ。
「さあ、いこう!」
そのとき、正雄は見逃さなかった。コヤナギとサユリが「えっ」と、お互いの顔を見合わせていたのを。
正雄はウェンズデイが目立つように、なるべくステージの奥の、サユリのピアノの後ろに立った。すると、すかさずリリリの指示があった。
「センパイ、ピアノの前に出てください。アタシの後ろあたりに」
正雄は思わず「はい」と小走りで従った。横でサユリがクスクスと笑っている。
「そんなところで見えるわけがないじゃないですか」
「オレはなるべく目立ちたくないんだ」
スポットが当たると、コマサのカウントで再結成ウェンズデイのパフォーマンスが始まる。リリリはステージの中央にどんどん出ていった。正雄から見ても、まるで客席の上空で歌うのかと思うほど前にいくのだ。
正雄はただでさえメタフィジカルなのに、しかもそのうえ経験したことのないステージ上という状況に、身体が浮いているように麻痺した。もう、全体のバランスなど気にしている場合ではなかった。自分の演奏に必死で、指は自分のものとは思えなかった。
どこか虚空の彼方でサユリの伴奏やコヤナギのホーンが聴こえていたが、不意にそれらが途切れた。見れば、リリリがステージの淵で大きく手を叩いていた。ブレイクだ。
リリリが観客に歌と手拍子を催促しているのだ。声が聴こえるようになるまでリリリは何度も「もう一回!」と促しまくった。その間、コマサと正雄のリズム隊だけがピッチを保っていた。やがてサビがここまで届くほどの大きなうねりになっていった。
♪ バラバラになりそう 隠れたい いうことをきかない・・・
リリリの合図で再び全員参加のアンサンブルが始まる。スポットの逆光のなかに彼女のシルエットが浮かびあがった。サユリがいうように、リリリの歌は聴衆のエネルギーで弾んでいるようだった。一瞬、総毛立つようなカッコよさが正雄の目に焼き付いた。そして、ピアノがエンディングのフレーズを奏でるとコマサのフィルでクローズした。
凄い拍手と歓声だった。目の前に手を挙げて応える制服姿のリリリ。正雄は思った。
・・・ここまで盛り上げるとは、さすがに元プロのボーカリストだ。彼女は、いかにウェンズデイが進化したのかを見せたかったのではなかったのか・・・
「こんにちは、ウェンズデイです」
リリリのMCでメンバー紹介を始めた。オリジナルメンバーのふたり、そしてサポートメンバーのコマサと正雄を紹介し、最後、自分の番になると「アタシはステラになる前にメンバーからリリリと呼ばれていました。アタシはこの学校に籍を置いていたことがあるので、これはここの制服なんです。似合うでしょ?」という掴みから、さらに「ここで今日見にきてくださった皆さんだけに重大なカミングアウトをします」と切り出した。
館内がその言葉に静まり返ると、リリリはいうのだ。
「ひとつは、皆さんアタシがナリキリだと思っている方が多いと思うんですが、実はアタシ、正真正銘の・・・ナリキリなんです」といって笑わせた。こういう場に慣れている。
彼女はどんな気持ちで喋っているのだろう、と正雄は感じた。本当は、実はアタシ生きてます、といいたかったのではないのかと。
「もうひとつは次に演る『十七歳の風景』のことなんです。この曲は作者不明といわれておりますが、この際真相をお話ししたいと思います。実は地元で歌い継がれてきたなんていうのはつくり話で、こんな曲を知っていたバンドは無いはずなんです。なぜなら、この曲はウェンズデイのメンバーがつくったオリジナルなんですから」
薄暗い客席から低く「おお」というざわめきが響いた。
「アルバムをつくるときに、どうしてもこの曲を入れたかったんです。ただ、アマチュア時代につくった曲ということで軽くみられるのじゃないかと思いました。話題づくりという一種の戦略もあったんです」
リリリの告白は、奇しくも沢田が謎のタネあかしをしようとしていたことを知っていたかのようだった。重大なことだけに、リリリのエピゴンが公表するということを観客はどう思うのだろうか。オリジナルメンバーがいわせたと普通なら察するだろう。
だが、この雰囲気はリリリをナリキリと見ているとは思えなかった。本人がナリキリだといっているにも拘らず、いま、この場でリリリは生きていた。暗黙のうちに、だれもがそれを認めていたのではないか。ステラではないにしろ、正真正銘のリリリみたいだ、と。
そんな余韻の醒めやらぬなかで『十七歳の風景』のイントロが始まった。この曲は原曲に忠実ならば、ギターのアルペジオから入るのだ。先ほどの再現ホロのリリリに比べると見違えるほど正確なタッチだ。そして、リバーブを効かせたストロークを機に歌が始まる。
♪ 時はいつも過ぎていく 呼び止めても 追いかけても・・・
これがステラの歌い方なら、リリリは格段に上手くなった。声帯を失くしてボイスクリエイターで補っているとしても、歌唱の源は本人の経験に培われたものだろう。この頃のリリリ、いやステラの生歌を聴いてみたかった、と正雄は改めて思うのだ。
二コーラス目のサビの部分で、そのリリリの歌が揺らいできた。メンバーはもちろん、聴衆も気づいたのではないかと思うほど顕著になってきた。力を脱いて歌っているというよりも、力が入っていないのだ。
♪ ぼんやりと眺めていた曇り空 自転車を押していくうしろ姿も・・・
そのとき正雄は「はっ」とした。リリリは、この歌は楽しかったウェンズデイの頃をテーマにしたといっていた。このサビに出てくる《自転車を押していくうしろ姿》は、もしかしたら沢田のことではないのか、と。それを思い出して感極まったか。
サックスのソロになったところで、いよいよリリリはおかしくなった。ギターは、とっくの昔に弾いていなかった。後ろから見ていてもわかるほど肩が震えているのだ。首が力無く垂れている。どうしたのかと、だれもが思ったに違いない。
それが起こったのは最後のサビでだった。歌が、もう言葉になっていなかった。
「はっ・・・ はっ・・・ 」
足もとがふらついて、呼吸が荒いようだった。そして、遂にしゃがみ込む。
「リリリ!」
すぐ後ろにいた正雄が駆け寄った。コヤナギも。そして、サユリ、最後にリズムを刻み続けていたコマサがスティックを置いた。舞台脇で見ていたステラブルーの連中も様子がおかしいので上がって遠巻きにしている。リリリはステージの床に両手をついて、震えているようにも、泣いているようにも見えた。
「リリリ、どうした?」
「大丈夫か、おい」
ステージ上は突然のアクシデントに混乱を極めた。コヤナギの半狂乱のような呼びかけが講内に響いた。
「リリリ、リリリーーー!」