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ブランニューイエスタデイ  作者: 犬上田鍬
12/15

その四 冬眠とサマーブリーズ ②


 八月も二週間が過ぎて、いよいよ盆帰り週間が始まった。交代で休暇をとるシフトが敷かれ、日増しに現場の人数が減っていくのを感じていたが、遂に正雄も明日から五日間夏休みをとれることになった。ここのところコゴローを見ていなかったので、正雄は休憩時間に彼のセクションにいってみた。

 メタフィジカルで催される亜空間ライブをPRしようと思っていた。沢田やコマサがメンバーに入れることを拒んでいたが、見るくらいならいいだろうと思ったのだ。せっかく往年の仲間が集まるのだ、知っていて教えないのは正雄としても不本意だった。ところがコゴローの姿はなかった。どうやら先に休暇をとっているらしかった。

 あのとき、リリリも無理は承知で誘ってみた。彼女はあまり乗り気でないような様子だった。それはそうだろう、自分の追悼の意味もあるライブになんていきたい者はいない。幽体離脱体験じゃあるまいし、自分の葬儀に参列するようなものなのだ。

 だが、ウェンズデイの初めての演奏をホロで再現したアトラクションがあるといったら、それには興味を示した。たぶん、どこかで会場に姿を現すはずだと思えた。

 盆帰りの初日は特に予定がなかったので、正雄は地元の仲間とよく散策した近くの川べりにオリジンを切った。ここも懐かしい場所だった。あの頃のようにヒグラシの声が遠くで聴こえている。ひょっとしたら、だれかに会えるかもしれないという期待もあった。

 いまもこの場所はあるが、ロケーションがまるで変ってしまっていた。土手道はアスファルトで舗装され、河川敷は整地してグラウンドになっている。護岸工事が施されて、歩道橋のような橋がいくつも渡された。遊歩道には花が植えられ、もはや公園と化している。

 あの頃は、まだまだワイルドだった。堤に人が通った轍があり、それが道だった。土手には夏になると草がなびいて、河川敷は藪で隠れていた。藪に足を踏み入れようものなら、そこはなにがいるかわからない辺境の地だった。

 繁みをカラフルな羽根を引きずったキジが歩いているのを見たことがあるし、梅雨時などはヘビがうようよ生息して足の踏み場もなかったことがあった。

 彼らの盆帰りのアドレスでは見た目はその頃のままだが、まさかヘビまでは再現していないだろう。それでも正雄は目が足もとを注視してしまうことに苦笑した。

 夏の陽ざしが土手道に斜めにあたる夕刻、気持ちのいい風が伸びた草の群れをなぎ倒していく。川の反対側にある丘陵の斜面に建った家々の窓に西日が反射してキラキラと輝いていた。

 身も心もあの時代に戻ったように躍動した。ここなら昔のように、なんでもできると感じた。時間がくればフィジカルに帰らなければならないが、永住権を取ればずっとここにいられるのだ。

・・・あと何年かかるのだろうか。永住権を取るまでオレは健在でいられるのだろうか・・・

 正雄はそんなことを考えている自分に、また苦笑せずにいられなかった。せっかく参加できた盆帰りじゃないか、フィジカルのことなど忘れて楽しめばいいのだ。なんのためのリフレッシュ休暇なのか、と。

 しばらく上流へ歩いていくと川は大きく右方向へカーブを描き、正面にも丘陵の壁が立ち塞がるように見える。カーブのRにさしかかると藪の陰で死角になっていた景色が一望できた。そのあたりで正雄は奇怪な風景を見ることになる。唯一、メタフィジカルにいるということを自覚させられるような光景が広がっていた。

 対岸に巨大な宇宙人土偶のようなオブジェが佇み、それが喋っていた。どうやら、どこでどんなイベントが開催されているという告知をしているようだった。その足もとからは何本ものアドバルーンが上がっていて、その幟は個々のイベントの紹介をしていた。

《今年こそ雌雄を決する因縁の対抗野球試合 〇日都立高グラウンドに集合!》

《ホンモノそっくり! ミス・エピゴーネンコンクール 〇日某所にて開催!》

《いまならいえる! 告白カフェ ノスタルジックに営業中!》等々・・・

 巨大土偶の目前をまるで怪獣映画のように飛行船が通り過ぎ、そのボディにもなにかのイベントのタイトルが描かれている。スペクタクルだが、これも盆帰り独特の風景なのだろうかと正雄は奇異に感じた。

 幟の一本に盆帰りの五日目に開催される亜空間ライブの告知があった。そのタイトルが《ダイブイン学園祭》なのだ。正雄は直感で沢田が考えたのだろうと思った。

 それに目を奪われていたので気づかなかったが、こちら側の土手には結構な人が出ていた。みな二十代くらいの若者に見えた。ハゲや白髪混じりはいない。彼らはそこにしゃがんで、それらのイベントを品定めしているようだ。正雄も通行の邪魔にならないように一段下がった草むらで膝を抱えて座り、じっくりと眺めた。

 彼の盆帰りの予定は、ほとんど決まっていた。明日は同窓会がある。特になにかがあるわけではないのだが、再会を祝した懇親会を一日中やっているという、お決まりのセレモニーみたいなものだ。そこで亜空間ライブのPRをすることになっていた。参加する連中はそれが重要な場になるのだ。

 三日目はリリリと出ノ島でデートすることになっていた。盆帰りを楽しみにしていた彼の気持ちをさらに高揚させる日だ。四日目は再結成ウェンズデイの会場リハーサルがあり、そしてクライマックスの亜空間ライブ。なんとエキサイティングな夏休みなのだろうか。


 そして三日目、正雄はリリリと待ち合わせをした湘南市の県立高校の前にオリジンを切った。今日もいい天気だった。初日は仕事明けだったので夕方メタフィジカルにダイブしたのだが、二日目は午後からにした。自分の生活サイクルはこの齢になるとそう簡単に変えられないし、みんなと会うにはそのくらいの時間がちょうどよかったのだが、今日は正午だった。日増しに時間が早くなる。

 出ノ島に向かって緩やかな下り坂になった歩道をリリリがゆっくりと降りてきた。リリリは割とラインがタイトな涼し気なワンピース姿だった。素足にシンプルなデザインの古代ローマ人が履くようなサンダルだったが、それが似合うオトナの女性に変化していた。姿形は十六歳のままなのに、このギャップはなんなのかと不思議に思わせた。

「今日もリリリできたな」

「どういうこと?」

「ステラの格好もするんだろ?」

「あれは自分の記憶を探るためにステラ時代の場所を訪れる際だけです。ステラの格好なんてしてきたら目立ってしょうがないでしょ?」

 正雄は「それがさ」と含み笑いで応える。

「昨日は同窓会だったんだけど、例の亜空間ライブのPRに参加する連中が乱入してきて、そいつらがみんなステラの格好をしてるんだ。壮観だったぜ」

「アタシよりステラっぽかったりして? じゃあ、かえって目立たないかしら」

 リリリはまた自虐的なニュアンスを込めて鼻で笑った。

「オレはリリリのままがいい」

「アタシは、そのセンパイがいい」

 正雄は自分を指さして「これ?」という身振りをした。つまり、二十代の頃の正雄ということなのだ。

「垢抜けない坊主のアスリートはイヤか?」

「そんな格好でダイブしようなんて思ってないでしょ」

 慣れてくると次第にあの頃の彼女に戻っていくようだった。リリリは昔からストレートな性格だったが、正雄も齢のせいか、見た目に反して飾らなくなった。あの頃なら恥ずかしくていえなかったことも、いまは率直に口に出せる。

「昔、一度だけキミと待ち合わせをしたことがあったよな?」

「憶えてますよ。初めてロックコンサートに連れていってもらったときですよね」

「あのときに比べるとキミはチャーミングになったな。八川駅前の人通りの多いところに大声で、おーい、センパーイって駈けてきたのが別人のようだ」

 リリリは口を手で覆って破顔した。「いじわる」といって軽く肩を叩いた。

「子どものときのことじゃないですか」

「そうだよな、オレたちはまだ子どもだったんだよな」

 急になんだかセンチメンタルな空気になった。リリリは、また眩しそうな目で出ノ島の方を見ていた。今日はこの素敵な女性と過ごせるのかと思うと夢のようだった。同時に彼女はフィジカルではどうしているのだろうかと、それも気になった。

「フィジカルのオレはこんなイケメンじゃないんだぜ。頭は薄いし、痩せて貧相なうえ、カネもない。いまだにアルバイトで生計を立てているありさまだ」

 リリリは冷ややかなまなざしで正雄を見ると、すぐに笑顔を取り戻した。

「それがどうしたっていうんですか、五体満足で生活しているんでしょ? そんなことをいえば、アタシなんかもっと惨めだわ。フィジカルではセンパイとも会えないもの。バラバラになって、隠れたい、死んでるみたいって」

 おどけてそんなことをいってはいるが、あの頃の直情型のリリリだったら激昂だったのかもしれない。たしかに彼女はオトナになっていた。柔らかな物腰でいわれると、かえって凄味が増すようだ。

「するとキミはフィジカルで、そのナントカボディを使っているの?」

「もう何年も前にフィジカルの生活は捨てました。アタシはいまここに住んでるんです」

 正雄の頭のなかを一瞬、サユリの言葉がめぐった。

「メタフィジカルを構築するにあたって、試験的に永住するテストパイロットが必要だったんです。それは身寄りのない高齢者以外に、生まれつき身体的な障害があるとか、あるいは事故などで身体障害を抱えてしまった人たちから選んだ。進んでパイロットになった人たちをネイティブと呼んでるんです」・・・

「キミは、もしかしたら・・・ネイティブ?」

 リリリは頷いた。

「驚きましたか?」

 正雄は驚いていないということを繕うのに苦労した。驚かないわけがなかった。しかし、そのせいでいろんな謎が解け始めた。

「正直、オレはエトランゼだと思ってたんだ。ここで見かけた話をすればフィジカルの連中はキミが生きているなんてことを信用しないからな。そんなことをいえば、オレがだれかにバカされているか、依存症だと思われるだろうな」

「そう思う人たちには、そう思わせとけばいいんですよ。アタシが生きていようと死んでいようと、その人たちには関係ないことですから」

 リリリは、あっけらかんといった。彼女のエピゴンからは、その微妙な感情が見えてこなかったが、ショックを受けている様子も反発しているようにも思えなかった。

「ここにキミの家があるのかい?」

「家というか、メタフィジカルはフィジカルとは生活様式が違いますからね。食事も睡眠も摂らないんです、目に見える形では」

「生活拠点みたいなものもないの? たとえば今日はどこからきたのさ?」

「アタシの実体があるところという意味では〝冬眠街〟ですかね」

「トウミンガイ?」

 初めてきく言葉だった。この世界のことを世間一般では、高齢者がリタイア後のつい棲家すみかということで〝残照街〟といっているのを知ってはいたが。

 リリリは解説を続ける。

「冬眠街はフィジカルでいえば病院みたいなところです。アタシが事故のあと、最初に目覚めたのもそこでした。ネイティブにとって、健常者のダイブスポットのような機能があります。フィジカルとメタフィジカルを繋いでいるの」

「なんで〝冬眠街〟なんて言い方をするんだろうね?」

「アタシたちは実際、冬眠していたんです」

「えっ?」

「アタシの場合は事故のあと、身体中をいじって、ここに適応できる形態にしたわけじゃないですか。その間、本人は冷凍睡眠をしているんですよ」

「目覚めたときにはメタフィジカル向きの形態になっているっていうこと?」

「見た目はね。実際、生活するためにはアシストボディを使って何年もリハビリをしないといけないんですけれど」

 正雄は、人間は簡単に死なないものだと認識を新たにした。時代劇みたいに一太刀で命を奪うなんてことは、実際そうは無いことなのだろう。そこで新たな疑問が湧いた。

「ということはだ、オレたちがここに永住をする場合にも一度は冬眠街に入らなければならないということになるな?」

 リリリは「その通り」というように頷く。

「ここで暮らすためにはそんなに時間がかかるのか」

「適応した形態に改造するためには仕方ないですけど、リハビリはアタシほどかからないんじゃないかな。現にこうして頻繁にスポットからいったり、きたりしているでしょ? センパイたちは慣らされてるから」

 リリリはリハビリのためにボディが必要だったということなのだ。ちょうど記憶を失っていたから、その治療も兼ねて、かつて彼女が関わりのあったと思われる場所に出没して訓練していたのだ。

 おそらく冬眠街と呼ばれるところは、獄門寺駅の北側にある国や企業の研究施設の一角にあるのだろうと思われた。たしかリリリはボディの回収場所が、あの辺だといっていたことを正雄は憶えていた。

「それと同時にマップ創りにも貢献したんです」

「なるほど、ここにそれを再現することで一石二鳥効果を狙ったということか。それで少しはなにか思い出せたのかい?」

 リリリは、まるで諦めているかのように首を振った。

「いつ頃からの記憶がないの?」

「はっきりとはわからないんですけど、獄門寺のアパートのことは憶えてません」

 正雄は沢田やコゴローから、その頃のことをきいていた。教えてやろうか、どうしようかと考えあぐねているとリリリの方からいうのだ。

「詮索はやめましょう」

 正雄は笑って応えた。どうでもいいことだ。リリリの自殺の原因と子どもの父親がだれかということは気になるが、それを知ったとしてどうしようというのか。

・・・リリリはここに安住の地を見つけたわけだし、子どもを失ったことを忘れてしまっている。それでいいじゃないか。それを明らかにして、わざわざ彼女を不幸のどん底に(おとし)めなければならない理由はどこにもない・・・

 防風林が途切れて海岸線が見えてきた。リリリに促され、今日は浜辺に整備された遊歩道を歩くことにした。きれいなタイルが、はるか出ノ島の方まで続いている。砂地と違い、広くて歩きやすかった。

 陽光降り注ぐ浜辺には日向ぼっこをしているカップルが数組、波間に目をやればマリンスポーツを楽しんでいる若者たちの姿がはるか沖合にまで漂っていた。フィジカルなら、さぞ暑かろうと思うのだろうが、メタフィジカルで見るものは妙に長閑に寛いでいるように見えた。

 あれはホリゾントやエトランゼではないだろう。さすがに盆帰り週間だ。いつもの空っぽの景色とは違い、穏やかだが活気づいている。

「彼らもネイティブなんですよ」

 リリリは砂浜に屯っている若者たちを指さした。

「盆帰りできた連中じゃないんだ?」

「なかにはそういう人がいるかもしれないけど、センパイはせっかくきたのに観光地や娯楽施設になんかいきますか?」

 いわれてみれば、たしかにそうだ。もし、いきたいところがあって、夏休みのような余裕があればフィジカルで実際にいけばいいのだ。せっかく昔に戻れて、やり直しがきくのであれば、いくところは自ずと決まってくる。

「〝イハトボ〟って知ってます?」

 不意にリリリはきいてきた。

「いはとぼ?」

 どこかできいたことのあるような言葉だった。

「それはメタフィジカル用語なの?」

「違います。一種の理想郷みたいなものです」

「〝ザナドゥ〟とか、〝桃源郷〟とかの?」

「そうそう。アタシたちはそれをみんなで創ろうとしているんです」

 リリリのいう「アタシたち」とは、ネイティブのことを指しているのだろうと正雄は察した。

「ここに? ここはオレにとって十分、理想郷だけどな」

 正雄は不意に、コゴローや沢田たちがやろうとしていたコミューンのことが頭に浮かんだ。たしかリリリも、いや、もうステラだったが、熱心に取り組んでいたときいたことを思い出す。

「キミはフィジカルで、できなかったことをここでやろうとしているのか?」

 振り向いたリリリは、まるで正雄を見下ろすようなアングルに思えた。海風がショートカットの前髪を吹きあげ、なにやらクールに見えている。

「いったい、なにをするんだよ?」

「なんでもいいんです。生きがいのあることをできる世界を創りたいんです。音楽でも、絵画でも、なにもない人は自分が住みたい街を創ればいいの。フィジカルでできなかったことをここで全部できるような世界」

「残りの時間を悔いが残らないように過ごすためってことか」

「残りの時間?」

 リリリは首を傾げるようにした。

「センパイは前から余生みたいなこといってますけど、冬眠街で永住できる身体に改造すれば、システムがダウンでもしない限り死ぬことは無いんですよ」

「えっ」と正雄はリリリの顔を食い入るように見つめた。

「無限に生き続けるってこと?」

「まれに自然死ってことがあるみたいですけど、アタシたちは自殺もできません」

 正雄は唖然とした。ここにくれば時空を超越して、若さも取り戻せる。そればかりか、無限に生きられるのだ。もはやネイティブと呼ばれる人たちは既成概念に縛られない生き物なのかもしれない、と正雄は思った。そして残照街にあるのは永遠の〝残照〟なのだ。

「じゃあ、そこでキミはなにをやるのさ?」

「アタシはそれができる環境を創るの。まずは楽しく過ごせる場所を」

「音楽はもうやらないの?」

「音楽は私にとってのマイルストーンだったってことに気づいたんです。アタシはきっと、これをやるためにここにきたのだわって。いまはそれに生きがいを感じています」

 正雄にはリリリのいっていることが、あまりよく理解できなかった。

・・・意味はわかるが、ここは既になんでもできる世界になっているじゃないか。これ以上、どうしようというのか・・・

 ただ、やはり彼女の根の部分は変わっていない。思い込むと一途に突進する。それが昔は野望でギラギラしていたが、ここでは景観のせいか、美しさにキラキラ輝いて見える。

「茶切巣町時代にコゴローさんがいい出したんです。毎日、やりたいことだけをやって暮らせるコミューンを創ろうって」

「そのイハトボとやらのこと?」

 リリリは頷いた。「イハトボ」とはコゴローが尊敬していた作家〝宮沢賢治〟が岩手県のことをイメージした理想の国の名前だという。コゴローは自分たちでどこかに土地を買って、そこに自給自足できるコミューンを創るのが夢だといったらしいのだ。

 彼は当時、あの界隈では独特の磁力を発してシンパを増やしていった、勢いのあるカリスマだった。個性の強さに気嫌いするコマサのような連中もいたが、一度、コゴローのブルースに魅了された者は、まるで教祖のように彼を崇めたてたのだろう。

 そんな影響力のある頃のコゴローが、たとえ戯言だったとしても、一言いえば共鳴を受ける者がたくさんいたのだ。ステラも、そのなかの一人だったに違いない。

 正雄にもわかる気がした。たしかにコゴローの歌には中毒になるような独特の引力がある。こんな個性のある人は並の人間ではない、と。ましてや、影響を受けやすい年頃だ。そして、メロディはコゴローのものだとしても、あの世界観は宮沢賢治のものだったのだ。

 いつか彼がいっていたことが不意に浮かび上がってきた。

「オレの一番好きな日本を代表する作家の詩に曲を付けたものだ」・・・

「アタシたちはいつしか、まるでコゴローさんの思いついた〝イハトボ計画〟を実現することに使命感を持つようになってしまったんです」

 リリリの話は続いていた。

「同じ夢を持った者たちが実現のために共同生活を始めて・・・ 」

 しかし、コゴローは自分が先頭に立って、そんなことをやろうと思っていなかった。だれかがやってくれれば、それに加わろうという程度のことだったのだ。そのことを思い出したのか、どうか知らないが、リリリは急に口を閉ざした。

「共同生活を始めたのが獄門寺のアパートだろ?」

 正雄は口をはさんだ。

「そのへんから記憶が朦朧としているの」

 そのあたりで、なにかリリリの記憶をとばすような出来事があったのだろう。そうだとすれば、沢田の話にあったコゴローの子どもを身籠ったことしか考えられない。

「でも、みんな同じ目的を持って生きているんだっていう一体感があって、それがすごく頼もしかったのを憶えているんです。もう一度、ここでその活気を取り戻せたらって」

 それは人並みな懐古趣味ではないのだろう。彼女の場合は、こんな状況に至っても前向きに生きようとしているのだ。やり直しのきく世界で、やり直すのではなくて、やれなかったことをやろうとしているのだ。それが彼女にとっての生きがいなのだ。正雄は〝イハトボ計画〟はともかく、リリリのそんな生きざまに感銘を受けた。

「リリリ、オレもここに移住しようと思っている一人なんだ。もし、オレになにか手伝えることがあれば、なんでもいってくれ。いつ移住できるかわからないんだけど」

「まだ、ずっと先のことでしょ? それまでにでき上がっちゃいますよ」

 リリリは軽く受け流してくれた。

・・・こんな素敵なコをコゴローさんはなぜ捨てようとしたのか、このコと家族になることより自由を選んだ理由がわからない。現にコゴローさんは、結果として破綻しているが、家族を持ったではないか。それがリリリではダメだったのか・・・

 だいぶ出ノ島に近づいた。もう海上には島と、それを繋ぐ架橋が見えてきた。よくできていた。正雄が現実に見たものと、まったく変わらないと思えた。

「ホリゾントとは思えないなあ」

「ホリゾントでもOFFのオブジェでもありませんよ。あそこにはいけるんです」

「創ったのか? キミが?」

 得意げにほほ笑むリリリは、正雄にちらと視線を向けると、どんどん先を歩きだした。たしか、このあたりにもステラ似のアンドロイドが出没していたときいた。彼女がこれを創るために実地調査にきていたことの証しだ。

 正雄はリリリをゆっくりと追った。リリリは歩き方からして昔と違う、と感じた。遠い昔、彼女とアマチュアロックコンサートを見にいったときも、こんなふうになった。あの日のリリリは、まるで出かけるのが嬉しくてはしゃいだ子どもみたいだった。

 いま、目の前を歩いている女性は洗練されたしなやかさそのものだ。それも創られたものだとすれば、さすがにメタフィジカルだといわざるをえない。

 正雄はいまきたところを振り返った。海岸伝いに遊歩道が続き、その一帯は公園のように整備されている。防風林をはさんで国道が西に向かって緩やかなカーブを描いていた。

 人影は相変わらず疎らで、そこに地中海の陽ざしが降り注いでいたが、不快な暑さではなかった。先ほどからセミしぐれのBGMも聴こえている。心地いい風が海の方から吹きつけるさまは長閑で平和な、ある夏の午後という情景だった。『サマーブリーズシティ』というアプリのタイトルの意味がわかる。

 こんな日が、たしかに昔あったのだと感慨が湧いた。配送センターでの日々の労働が、まるで悪夢のように思えた。ここと、どっちが現実なのかもわからなくなる気がした。

・・・ここでリリリと暮らせたら、どんなにシアワセだろうか。しかし、ここに移住できるメドは全く立っていない。いや、いいのだ、これだけでもシアワセ過ぎるくらいだ・・・

 それにしてもメタフィジカルとは不思議なところだ。県立高校前からここまで、いったい何キロ歩いたのか知らないが、持病の腰痛も出なければ疲労感もなかった。乗り物に乗っているような感じでもないのだが、スムーズに景色が流れていく。止まれば景色も止まり、歩けば前に進む。普通の感覚だが、なぜか身体が自分のものとは思えなかった。

 そんなことを考えていたら、リリリが近代的な造形の建物の前で正雄を待っていた。

「アクアリウムだろ、ここ?」

「ここからいきましょう」

「ここからどこに?」

 戸惑う正雄をリリリは促した。

 館内は真っ暗で水槽だけが青く浮かび上がっていた。その中を何種類ものサカナが泳いでいる。見物客は正雄とリリリだけだった。まるで窓のそとは海底のような錯覚に陥る。逆に自分たちがサカナの好奇の目に晒されているようだった。

 水槽の青い光が、奥へと進むリリリの後姿を映していた。通路がやがて拓けたように明るくなった。通路自体が透明な丸いドームになっていて、そこから見えるのは今度こそ海底だった。海の底を歩いているのだ。

「スゴイ設備だな。これもキミが考えたの?」

「どこかの動物園でこういう設備があるのを見たことがあって、ここのアクアリウムから出ノ島を海底で結ぶ遊歩道に使わせてもらおうと思ったんです。素敵でしょ?」

「これ、出ノ島まで続いてるの? 素敵なんてもんじゃないよ、フィジカルでもやればいいのにね」

「実際はこういうわけにはいかないでしょ。このドームから見える景観だって借り物だし」

 いわれてみれば、あの辺の海底がこんなにキレイなわけがない。海水浴客で荒らされまくった砂地のはずだが、ここから見えるのは海藻の合間を泳ぐ魚群だ。ところどころにサンゴの林が見えたりしている。それらが水面からの光線で幻想的な風景をつくっていた。

「半魚人とかも泳がせれば?」

 リリリは愛想笑いで無反応だった。やはり彼女はオトナだ。

 ドームは緩やかに上り坂になって、最後の階段を上がったところは防波堤のようだった。振り向けば、出口はかなり年季の入ったトンネルになっている。そこはどうやら、もう出ノ島の岸壁のようだった。外海に面した側なので目の前は全方位水平線という、日常ではありえないロケーションが広がっていた。

「これは爽快だな」

 リリリはさらに防波堤の先端に歩いていく。コンクリートの地面に映る影が陽の高さを物語っていた。水面は照り返しで眩しいくらいに輝いている。映画のワンシーンに紛れ込んだみたいだ。

「どこまでいくのさ?」

 突端に立ったリリリは髪を掻きあげながら手招きで呼んでいる。まさか海に飛び込むなんていうのじゃないだろうな、と正雄は一瞬不安を覚えた。いくら、かつて水泳選手だとはいえ、もう何十年と泳いでいないし、海とプールでは全然違う。しかも、ここは現実世界ではないのだ。なにが起こるかわからない。

 正雄がリリリのそばによると、それが起こった。声も出ないくらいの衝撃的なものを見たのだ。目の前の海面を巨大な物体が跳んだ。 

「⁉」

 飛沫がかかるほど近くではなかったにしろ、あれだけ大きく見えるということは相当巨大な物体だ。真っ黒い岩石のように見えた。それが水中から現れ上空に飛び出すと、しなって海面に落ちていった。

「なんだよ、アレ? いきもの?」

「シロナガスクジラですよ」

 それは海面に体の一部を露出していた。すべすべした光沢面と、でこぼこした岩盤の面とがあるようだ。優に二十メートル以上はあると思えた。それが徐々に沖の方に遠ざかりながら潮を吹いた。最後には尾鰭が海面を叩く様子が見えて、やっとそれがクジラなのだと認識させられた。

「おい、キミはなんてことをするんだよ。オトナのやることか、これが?」

「初めて見た? アタシがここにきているという合図なんですよ。クジラが跳ぶのを見て作業を手伝ってくれる仲間が集まってくるの」

 リリリは嬉しそうに振り向く。

「いまはお盆の最中なんで、作業はお休みなんですけど」

「今度はそこにアザラシの大群でも並べるか?」

 正雄は防波堤の法面に積んである波消しブロックを指さす。

「春先になったら、沖に氷山を浮かべてみようかとも思うんですけど」

「シロクマつきの?」

 ふたりは顔を見合わせて大笑いした。

「アタシはここが好きなんです。ここに座って、ぼーっと水平線を見ているとリラックスできて、ますます創造力が喚起されてくるの」

「キミの心が癒されるところなんだね」

 正雄には、リリリのやりたいことがぼんやりとだが、少しわかってきた気がした。彼女は正雄が考えているここでの安穏とした受け身の生活と違って、快適に過ごせる生活環境を彼女なりの考えで提供しようとしているのではないかと思えた。ここではそれができるのだ。リリリは、彼女の世界を創ろうとしている。

 空が青かった。防波堤に腰かけて沖を見ていると、また例の歌詞みたいな白い鳥が飛んでいく。ふたりはしばらく水平線を追いかけるように眺めていたが、正雄は徐々に気兼ねがなくなって、ついきいてしまうのだった。

「コゴローさんは昔どんなだったの?」

 リリリは髪をうるさそうに払うと答えた。

「憧れだったわ。あんな凄い歌を歌えるひとって初めて見たの」

「沢田さんもいってたな」

 彼女の視線は海の彼方から離れなかった。

「オレは昔のコゴローさんがどんなだったか見てみたいよ」

 そういうとリリリはやっと、こっちを向いてくれた。

「一緒に働いてるんですよね?」

「うん」

「あのひともご家族がいるんですか?」

 今度は正雄が海と空の狭間を見つめた。

「コゴローさんは子だくさんでね。女の子が三人に一番下が男の子。その子も今年、大学院を卒業するっていってたな」

 ここでは、あえて離婚するという話はしなかった。だが、リリリの反応は想像以上に不穏になった。

「一番下の子が・・・ 大学院を卒業?」

「働くのが嫌いなコゴローさんが、きついバイトをして大学院を出してやるんだってさ。所帯を持つと変わるものだろ?」

 しかし、リリリが訝しんだのはそこではなかったようだ。

「一番上の子は、じゃあもう結婚していてもおかしくないですよね?」

「ああ、そんな話はしたことないけれど、沢田さんがジージになったくらいだから、孫の一人や二人いてもおかしくないだろうな」

「ジージってお祖父さんのこと?」

 そうか、リリリは俗世間離れしたメタフィジカルで半生を過ごしているのだ、そんな言葉は知らないかもしれない、と正雄は新鮮に感じた。ところが、頷く正雄にリリリの反応はいよいよおかしかった。いままでしなかったような思いつめた表情になっている。

「どうしたの?」

 正雄の問いかけにも、リリリはまるできこえないかのように動かない。やがて、その不安げな表情のまま、きき返すのだ。

「センパイ、ヘンなこときいていいですか?」

「?」

 リリリは急になにか改まって、いいにくそうな様子だった。

「なによ、フィジカルのこと?」

 正雄は、せかすようにきいた。彼女はあからさまなつくり笑いを浮かべた顔でいうのだ。

「センパイはいくつになったんですか?」

 なにをいっているのかと思った。リリリより一学年上級なだけじゃないか、と。

 しかし、リリリの表情はお茶らけたことをいうようには見えなかった。様子がヘンなので、正雄はあまり深刻にならない程度に自分がお茶らけた。

「キミより年上」

 リリリは、また海の方に向き直ると悟ったようにいった。

「お祖父さんになるってことは、六十歳くらい?」

「六十四歳になるよ。本来なら来年から年金か、ここへの移住ができる齢だ」

「どうりで・・・ センパイがここに移住するのは、もっとずっと先の話と思っていたんですけど、じゃあアタシは六十三歳になるのね」

 正雄はこのとき初めて気づいた。リリリは自分の齢を知らなかったのだ。

「キミは・・・ 」

「そう」と頷く彼女の顔からは、先ほどまでの困惑の色が消えて穏やかさが戻っていた。

「アタシは冬眠していた期間がせいぜい数年だと思っていたんです。自分は、いってもまだ三十代くらいだろうと思ってました」

・・・冷凍睡眠させておいて、このシステムができあがるのを待っていたということなのか。このシステムは、いったいいつごろから計画されていたのだろうか。リリリの事件からは四十年近くが経っている。その間、リリリは眠り続けていたことになる・・・

「冬眠から目覚めてどのくらいになるの?」

 リリリは少し首を傾げるような仕草をしてから、「十年くらいかしら」と答える。

「ここの生活が長いんで、時間の観念がないんです、アタシ」

「でもリハビリでは、フィジカルをボディとやらで歩き回ったりしたんだろ?」

 リリリは首を振った。

「主に夜間のリハビリだったから、街並みが変わっているのはわかっていたけど、まさかそんなに時間が経っているとは思わなかったわ。冬眠街のワーカーさんやトレーナーさんも、みんな教えてくれなかったの。そんなこと気にしなくていいって」

 齢をとっているという先入観が、リハビリに影響するとでも考えたのだろうか。精神的に衝撃を与えたとしたら自分のせいだ、と正雄はまた自分を責めた。だが、もう繕いようもなかった。

「ここにいればそんなこと気にしなくていいじゃないか。無限に若いのだから。オレは昨日の同窓会で友だちからアンチエイジングのサプリを勧められたけど、いまは六十歳といっても昔と違って若いぜ、みんな」

 気休めにそんなことをいってみたが、リリリを見ると再び無表情になって揺れる海面を見つめている。彼女の顔に照り返した光が映って、まだらの模様が踊っていた。なんだか疲れているようにも感じたので、せめてもの気遣いで声をかけた。

「リリリ、帰ろうか」

「そうね。そろそろ時間ですものね。アタシは、もう少しここにいます」

 正雄を見上げる彼女の笑顔は妙に力なく、そして寂しげだった。

「オレはライブのリハーサルで明日もここにくるから、よければ見においで」

 彼女は返事をしなかった。せっかくのデートだったのにちょっと気がかりなまま、リリリと別れた。


 フィジカルに戻った正雄に、とんでもない知らせが入った。コマサからだった。

「マーチャン、きいたか?」

「なにを? なにかあったの?」

「沢田が倒れたんだよ」

「えっ、倒れた? なんで?」

「脳溢血らしい。昨日の同窓生の集まりで極度に興奮したみたいだ」

「そんなバカな・・・」とはいったが、沢田ならありそうなことだと思った。たしか彼は血圧が高いのが気がかりのようなことをいっていた。

「煩悩警察は〝ホコテン〟の出演を辞めたってさ」

 コマサのいう煩悩警察とは沢田がギターを弾いているバンドのことだ。脳溢血で倒れたのならそれどころじゃないが、〝ホコテン〟とはなんなのかと思った。まさか歩行者天国ではあるまい。

「亜空間ライブは二部制になっていて、一部が《誇りあるバンド天国》、略して《ホコテン》なんだよ。こっちは昔、バンドを組んでいた連中ならだれでも出られる。オイラたちのクレームや煩悩警察なんかはこっちに出る予定だった」

「どこかできいたことがあるようなタイトルだな」

「二部がステラの追悼ライブ《ダイブイン学園祭》になっていて、ウェンズデイやステラブルーなんかはそっちに出るんだ」

「略して《ダイガク》か」

「いや、そっちは略称なんてないけど」

「なるほど」

「なるほどじゃなくて、どうするよ?」

「ギターをだれかに頼むか・・・辞めるかだな」

 コマサがいうには、いまさら頼めるヤツはいないという。そうかといって、あれだけリハーサルを重ねてきたものを「辞める」と簡単に割り切れない。

 せっかくオリジナルウェンズデイの再現ステージがあるのだ。オリジナルメンバーが集まった再結成ウェンズデイがその後に登場するなんて演出は、この機会を逃したらもう絶対にない。

「オイラは助っ人だからなんともいえないけど、コヤナギやサユリたちはどう思うかな」

 彼女たちだけじゃない、こんな最高の舞台にめぐり合った正雄本人が辞めたくなかった。その昔、沢田から誘われたバイトを諦めて悔いを残したことが頭をよぎった。コマサだって、そうはいうけど本心は演りたいに決まっていると思えた。

「マーチャン、エアギターだから、ある意味だれでもできるだろ?」

 正雄はコマサに確かめた。

「マーチャンが演るってか?」

「冗談だろ。オレが演るくらいならマーチャンが演った方がましだ」

 マーチャンでなくマーチャン、というおかしな会話は、このふたりならではだった。

「ドラムはだれが叩くんだよ? オイラは叩きながら弾けるほど器用じゃないぜ。手がいっぱいあるタコと違うんだ」

「タコは勝敗占いをできても、音楽が理解できないからな」

「おい、タコなんかに頼ってる場合じゃないだろ」

 こういう切羽詰まった場面に臨んでも幼なじみだと、ついついノンキなやり取りになるのはお互い懲りないところでもあった。

「エアギターだからなんとかならないかな」

「エアギターっていっても、やっぱりある程度センスがあるヤツじゃないとぎこちないぞ」

「困ったな・・・ 」

 このふたりが考えても埒が明かなかった。とりあえず明日のリハーサルで、コヤナギたちを含めて対策を講じようということになった。

「それはそうと沢田さんの容態はどうなのさ?」

 直近に迫ったライブの心配は当然だが、正雄は沢田の方も心配だった。

「これからクレームのリハーサルがあるんだけど、知ってるヤツがいるかもしれない」

 コマサは、そういって切った。


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