その昔 ウェンズデイのシーズン ③
「これ、英語ですか?」
沢田のバンドなので、さすがにリリリも聴き耳を立てていたのだが、理解に苦しんだようだった。
正雄は以前にこの曲のオリジナルを沢田から聴かされたことがあるので知ってはいたが、初めて聴く者にとっては取っつき難いのだろう。日本語でロックをやっているのだ。『アイゴートゥピーセス』を直訳で歌うようなものだ。
しかも歌詞はかなり過激な内容だ。このバンドのファーストアルバムは発売中止になっていた。こういう場所で、こういうバンドの曲を演るところがいかにも沢田らしいと正雄は思った。
「日本語だよ。〝頭脳警察〟っていう日本のバンドだ。物凄い早口の曲だ」
「サザンオールスターズより早口」
思わず笑ってしまったが、リリリは至って真剣にステージに注視していた。同じようにほとんどの観客が、この個性的な演奏にどう反応していいのかわからないようだった。
二曲目も頭脳警察のコミカルな歌で前よりは歌詞がわかると正雄は思っていたが、やはり聴きなれないということはそんなに簡単に解消されるものではなかった。沢田独特のリズムの取り方でギターを弾きながら歌うのだが、エキセントリック過ぎて笑っていいのかもわからない。
唖然として聴いていたリリリは呟く。
「ランボーとか、シェイクスピアとか、文学的なのかと思ってたら、なんですか、バイドクとかテンカンって」
「頭脳警察のオリジナルじゃないんだ。フランスの女性シンガーソングライターのカバーだよ。それをまた沢田バンドがカバーしたんだろ」
「シンガーソングライターって〝ユーミン〟みたいなの?」
「ユーミンは梅毒や癲癇の歌なんか歌わない」
「そうだよねえ。勉強になるわ」
リリリの、いちいち面白い反応に正雄は笑うより感性に惹かれるようだった。
「なんで沢田さんは、もっとみんなが知ってるようなのを演らないのかしら」
「そういうのを目指していないんだろ」
「どういうのを目指すの?」
「沢田さんのことだから、どうせ捻くれた考えなんだよ、きっと。オマエら、こんなの知らないだろうって」
リリリはここで久々に笑顔になった。正雄の当てずっぽの推理が的を射たようだった。
「面白いですね。ウェンズデイもでしょ?」
ウェンズデイの選曲は正雄がやったのだが、それはあえていわないことにした。そう考えると、たしかに沢田のやりたいことがわかる気もした。
沢田のバンドは、もう一曲、これも頭脳警察を演って降りた。
「どれだけ頭脳警察が好きなんですか、沢田さん」
「きいてみな」
「それに、なんであんなに黒いの?」
「バンドと関係ないだろ。日焼けしやすいんだよ、あのひとは」
「だって屋内プールじゃないですか。しかも遮光ガラスだよ。それなのに学校の黒板より黒いんじゃない?」
「笑わせるな、オマエは」
正雄は彼女の言い草に大笑いした。リリリは、沢田になにか八つ当たりでもするかのように突然ヘンなことで突っかかってきた。もしかしたら、自分の歌詞をいじられたことに恨みを持っているのかもしれない。
やがてステージ上の照明が落ちて、場内が明るくなった。おもてに出てみると、もう暗かった。八時に近かった。客たちはぞろぞろと駅の方に向かって出ていく。
正雄はリリリとここで別れるのはもったいないと思い、夕食を奢ってやると誘った。彼女は例の調子でしばらく考えていたが、そこに沢田が独りで出てきた。
「ああ、いたいた。もう帰っちゃったのかと思った」
「もう帰りますよ」
「メシでも喰おうぜ。奢ってやるから」
沢田がそんなことをいうのは初めてだった。長いつき合いのなかで後輩に奢るどころか、たったの五十円も返したことないのに、さすがに現役を引退するとなると、もう大学生のOBみたいな気分になるのだろう。
「いいんですか、バンドの方は?」
「あとで合流するからいいんだよ。それより、せっかくオマエらがきてくれたんだからメシぐらい喰わせないわけにいかないだろ」
人は変われば変わるものだ、と正雄は思った。親がうるさいからと難しい顔をしていたリリリも、一時間だけという約束で無理やり連れていった。
そこから駅に向かう途中のファミレスに三人は入った。席に座ると沢田は早速リリリにきいてきた。
「どうだった、オレたちの演奏は?」
リリリは、またさっきの調子で唸っていたが、やがて感想をいった。おそらく彼女が初めて体験したロックコンサートの、嘘のない率直なところだったのだろうと思えた。
「わかるのとわからないのがありましたけど、ライブってカッコいいなって思いました。アタシたちも、あのくらい聴いてる人を乗せられたらいいのにって思うんだけど、フォークじゃねえ・・・ 」
「バカいえ、せっかくいい曲を近藤が選曲してくれたんじゃないか。あとはオマエらの演奏次第だよ」
するとリリリは突然、眉間にシワを寄せて正雄を睨みつけるように見た。
「ちょっとぉ、ウェンズデイの選曲、センパイがやったの?」
正雄はニヤニヤの表情で舌を出した。リリリは沢田に訴えた。
「このひとね、ああいう捻くれた選曲は沢田さんの考えだ、みたいなこというんですよ」
沢田は笑いながら「オレも捻くれてるかもしれないが、コイツの捻くれ具合は相当のものだぞ。他人が絶対演らないものを演らせるに限るっていうのが持論だからな」といった。
「でもリハーサルして、あの選曲でよかったじゃないか」
「いまとなってみればね。ここまできて曲を変えるなんていわれても困るわ」
リリリはロールパンをむしりながら、飄々としていう。
「沢田さんは頭脳警察っていうバンドが好きなの?」
「よかっただろ、オレたちのパフォーマンス」
沢田は、まるで自信満々に見えた。曲はもちろん、こういうバンドを初めて聴く者がどう思うかなどという考えは最初から無い。
「いいのか、悪いのかわからないですよ。だって聴いたことないもの。上手いのかどうかもわからないし」
リリリの、気遣いを知らない率直過ぎる感想に、正雄はフォローを入れた。
「頭脳警察のレコード貸してあげたらどうですか。ボクは一番個性的だったと思いますよ。ただ、上手い連中がい過ぎてね。演奏もパフォーマンスも」
「ものはいいようだな。トリだったしな」
沢田は急にしんみりした。先ほどの振る舞いとはうって変わって、やはりどこかに心残りなところがあったのかもしれない。
「やるたびに今度はこうしよう、次こそは・・・と思うんだけど、なかなかな」
そういって皮肉そうに笑った。
「どのくらいやってるんですか、バンドは?」
「まだ一年も経ってないよ。客の前で演ったのは五回目」
「えっ、そんなに演ってるの?」
・・・ということは水泳部のあのキツイ練習をしながらやっていた時期があるということだ。丸坊主でステージに立っていたことがあるわけだ・・・
「そんな大袈裟なものじゃないよ」と沢田は照れ臭そうに笑う。
「オレが入り浸っていたライブハウスには、毎月アマチュアバンドだけを紹介する企画の日があってね。それでオレも参加したくてバンドを組んだんだ。知った顔のヤツばっかりの前でリハーサルするようなもんだ。今日みたいな大きなウツワで、しかも不特定多数のお客さんの前で演るのは初めてだよ」
それをきいたリリリが質問する。
「今日の最初に演奏したバンドは知り合いなんですか?」
「最初のバンド? どんなヤツらだっけ?」
「ほら、ピンクフロイドの『狂気』をやってブーイングされた」
正雄は思い出して、鼻で笑った。
「最初からアレでしょ? もう、リリリが大笑いで」
「だって、ちょっと緊張し過ぎでしょ?」
あのとき、あんなに大ウケしていたのに、いまは至って真剣な顔のリリリだった。一方、沢田は「なんでブーイングされたの?」と、まったく知らなかったようなのだ。
「聴いてなかったの?」
リリリは信じられないという表情をした。この反応が、また面白いのだ。
「オマエなあ、今度自分たちが演るときにわかるよ。他人の演奏なんか落ち着いて聴けないよ。知らないヤツらの前で、しかもトリだぜ、オレたち」
「やっぱり緊張した?」
「順番待ってる間中ずっと。心臓はバクバクだし、冷汗は出てくるし、もう地獄だ」
リリリは沢田の話をきいているうちに、どんどん顔色が蒼ざめていった。催眠術にすぐかかるタイプに違いない。非常にわかりやすい単純さだと正雄は思った。
「試合で自分のコース台の前に立ったときみたいですか?」
「そうだな、そんな直前の状態じゃなくて、自分の出番を待っているときに近いかな」
わかる!と正雄は思った。いまは、もう慣れてしまったが中学生の頃は、あのなんともいえない気持ちがイヤだった。
見ている側には、たくさんあるなかの一組のレースに過ぎないのだが、競技する方は過剰に意識してしまう。飛び込み台は下から見上げるより上から見降ろす方が高く感じるのと同じようなことだ。
「やだ、センパイたち、なんでそうやって脅かすようなこというの!」
沢田も正雄もいやらしい笑顔を浮かべてリリリを見る。
「今日の最初のバンドみたいな突拍子のないことをしなければ大丈夫、目立たないから」
正雄は励ますつもりでいったのだが、リリリは一瞬だけ「えっ」という顔をした。
「目立たないのも困るけど・・・いくらなんでも、あんなに音痴になりますか、フツウ?」
正雄はまた大笑いした。あのときとは逆に、いまはリリリの方が笑えないようだった。
「でもアタシ、安心しました」
急に神妙なもの言いになった彼女の顔を彼らは覗き込んだ。
「あの程度でもステージに上がれるんだって思うと肩の力が抜けるわ」
「そうだよ、その調子だよ」と正雄が肩を叩くと、沢田もいった。
「そいつらより上手く演ればいいだけのことだ、簡単だろ?」
「またプレッシャーがかかるようなこという。沢田さんって、なんであんなに底意地が悪いんだろうねってウェンズデイのみんながいってますよ」
「なんでよ」と慌てる沢田をよそに、正雄は独りでにやけていた。なんていいコンビなのだろうかと。そして、なんて楽しい時間を過ごしているのだろうかと。これがいつまでも続いてくれたらいいのに、と。
九月下旬にあったシーズン最後の東京都の記録会が終わると、今度は正雄たちの学園祭に向けたシンクロナイズドスイミングの練習が始まる。水泳部の活動としては唯一、女子と一緒の行事なのだ。今年は《ダイブイン並梵祭》というテーマを掲げたが、演る内容は例年と変わらず『白鳥の湖』なのだ。
これには現役最後のイベントだからということで沢田たち三年生も参加した。彼らにとってはシーズンの重圧から解き放たれたリラックスした時期になる。
休憩時間にコーチやマネージャーをやってくれる女子部員たちとパフォーマーである男子部員たちが固まってはしゃいでいるとき、正雄が乾燥室を覗くとベンチにのけぞった沢田が独りでいた。〝ジョンレノン〟みたいな髪型になった沢田に近寄った。
「ウェンズデイは大丈夫ですかね?」
「もう、オレが教えることはないよ」
沢田は意外に素っ気なくいって、なぜか小声になった。
「リリリが凄いんだよ」
「上手くなった?」
「まあ、それなりにな。それよりリハーサルの力の入れようがさ。納得できないと何度でもやり直すの。さあ、いこう!なんて気合いを入れて」
「へえ」
「オレがああしろ、こうやれ、というレベルじゃなくなったと思って、もういかないことにした。あのコのリーダーシップは、たいしたものだよ」
「あのとき、沢田さんが脅かしたからじゃないですか?」
沢田はそれには反論せず、壁に向かってほほ笑んだ。間違いなくリリリは、正雄が連れていったアマチュアロックコンサートを見て変わったのだろう。本番が近づいてきて、あんな恥は晒したくない、と思ったのかもしれない。それが彼女の指導力を覚醒させた。
あのときのリリリのことを思い出すと正雄も壁に向かって笑顔になる。正雄たちが見ているのは乾燥室の真っ白い壁ではなかった。
「どこで練習してるんですか、彼女たち?」
「ここがもう使えなくなったんで、いま合わせのリハーサルは順番を待って音楽室で演ってるだけだ。あとは個々で」
「なんだかここで練習していたのが、ずいぶん昔のように思えますね」
沢田は身体を起こすと「なっ」と正雄に頷いた。
ウェンズデイが夏の西日のあたるこの部屋でリハーサルをしていた日々は、正雄にとって忘れがたい記憶だった。いつだったか、真ん中でギターを弾くリリリが女神のように見えたことがあったな、と。
「リリリがさ」と沢田が口を開く。
「オマエと一緒にコンサートを見にきてくれるんでしょっていうのさ」
「無理でしょ?」
「オレもそういったんだ。そうしたら、もう大変だよ、ヘソが曲がっちゃって。それ以来、口もきいてくれないの。だから、いきづらくなったってこともあるんだけどさ」
そういって笑ったが、正雄にも想像ができた。
「相変わらずガキみたいなところは直らないですね。ウェンズデイは、そもそも扇風機が出られないからってことで始まったんだから」
「そうだったの?」
意外なことに、沢田はウェンズデイのすべてを見ていたものと正雄は思っていたが、そのきっかけを知らなかったのだ。
・・・もう、ウェンズデイは一本立ちしたんだ。彼女たちの演奏を見ることは、おそらく今後一度たりともないだろう。本番ですら・・・
正雄は最初のことを思い出した。あの掲示板の前でリリリに会わなければ、こんな有意義なシーズンを送ることはなかったろう、と。いや、まだ終わったわけじゃない。学園祭でのお互いの健闘も楽しみだし、これからもっとエキサイティングなことが起こるかもしれないじゃないか。そう考えると顔の綻びが止められなかった。
学園祭までの間、正雄はリリリを始めウェンズデイの面々と会うことがなかった。しかし、彼は《ダイブイン並梵祭》を成功させるために、日々、シーズンと同じように練習に打ち込んでいたせいで、彼女たちのことを考える暇がなかった。たまに思い出しても、ウェンズデイだって頑張っているんだからオレも頑張るぞ、と励みにしていた程度だった。そうして彼らの時間は、あっという間に過ぎていった。
学園祭が終わった十一月の初旬、だいぶひんやりとした空気のなかをいつものようにプールに向かおうとしていた正雄は、渡り廊下を歩いていくリリリの姿を見つけた。昼休みになったばかりの、この時間はまだ出歩いている生徒は少ない。彼女は独りだった。
「リリリ!」
正雄は学園祭のフォークコンサートでのウェンズデイの出来をききたかった。ところが彼女は、まるできこえないかのように校舎の陰に通り過ぎてしまった。
・・・なんだ、アイツ。無視しやがって・・・
正雄はあとを追った。リリリは一年生の教室がある校舎へと入っていった。
「おい、リリリ」
正雄がもう一度うしろ姿に声をかけると、彼女はちらっとだけ振り返った。そのときの、なんだか冷たい視線に正雄はふと思い出した。自分がウェンズデイのステージを見にいかなかったことを怒っているのか、と。正雄は、それ以上追いかけることはやめた。
プールにいって、それを沢田に確認しようにも、沢田はもうプールにきていなかった。彼は《ダイブイン並梵祭》を最後に、水泳部を完全に引退していた。沢田はこの時期、形だけでも受験モードにシフトチェンジしなければならないのだ。
正雄は突然、孤独になったような気がした。あまりにいろんなことがあって、楽しすぎたシーズンのリバウンドだった。これからが青春の醍醐味だと思っていたのに、と。
その後、リリリとはどこかで見かけることはあっても言葉を交わせなかった。正雄は別に自分に非があるとは思っていなかったが、なぜか後ろめたさのようなものがついて回った。もちろん、あの開けっ広げの性格だったはずのリリリから声をかけてくることなどなかった。リリリは妙によそよそしかった。
あるとき、渡り廊下でばったりとコヤナギに出会った。彼女は正雄とわかると相好を崩して「いやだ、センパイじゃないですか」と、かつてのリリリのようにぽんと胸を叩いた。
正雄は「エッ」と思った。ウェンズデイのメンバーは全員、正雄や沢田に対して、あまりいい感情を持っていないのではないかと憶測されたから。
「しばらくじゃないですか。全然会わなかったですよね」
そういえば、あれ以来ウェンズデイの連中とは、無視されたリリリを除いて、顔を見かけることがなかった。それどころかコヤナギと面と向かって話すのは、ひょっとしたら初めてかもしれなかった。ウェンズデイのことはリリリがフロントマンだったせいで、彼女以外のメンバーに正雄がなにかいうことなど、ほぼ皆無だった。
正雄は努めて平静を装った。
「そういえばそうだよな。もう、ウェンズデイは終わっちゃったしな」
コヤナギは、なにか意味ありげなヘンな笑みを浮かべるのだ。ただでさえ垢抜けない図体の大きな小娘が、こういう表情をするとなおイヤな予感がした。
「どうだったんだよ、ウェンズデイは? 上手くできたのか?」
「まあ、普通でしたよ。練習通り」
正雄が期待していたなかでも一番面白くない答えだった。やってよかったのか、どうかという重要な部分が抜けているではないか。
「また来年もやるのかい?」
すると、コヤナギは忠告のようにいうのだ。
「どうかな。でも、あまりウェンズデイのことは話さない方がいいですよ、特にリリリの前では」
やはり、リリリは正雄たちが見にいかなかったことを根に持っているようだった。本当にガキのようなヤツだ、と逆に腹が立ってきた。
「仕方ないだろ、オレたちも並梵祭に参加していたんだから」
「だって、ききましたよ」
「なにを?」
コヤナギがいうには、ウェンズデイの出番の時間帯に極端に会場から人が減ったのだそうだ。リリリが、アマチュアフォークコンサートを催していた会場である講堂の前で、水泳部のマネージャーをやっている同級生に会ったらしいのだ。
その子は、水泳部の《ダイブイン並梵祭》の方に異常に人が集まり椅子が足りなくなって集めて回っているところだという。よくきけば、そもそも二回公演のところを入りがいいからということで四回公演に増やしたというではないか。これでは、こっちの催しに人が集まるわけがない。
「オレたちが邪魔をしたと思い込んでいるのか。それで腹を立てているんだな」
「そうですよ。もう、リリリなんか終わってから泣いてましたよ」
「いや、そんなつもりは全然なかったんだけど・・・どうりで口もきいてくれないわけだ」
「リリリに会ったんですか?」
「会ったというか、無視してるから見ただけだけど」
「怖いよ、あのコ。はっきりしてるからね。一度嫌いになると徹底的なんだから」
やはり正雄は学園祭を境に、独りになってしまったような気になった。
そして日々は過ぎた。年が明けた練習初めに卒業を控えた三年生たちが遊びにきた。ところが、そのなかには沢田の姿がなかった。正雄は、沢田とコンビだった前主将にきいた。
「沢田さんはどうしてるんですか?」
「沢田?」
前主将は急に正雄の肩に手をまわし、自分の顔の前に寄せるようにした。そして小声で後輩たちにきこえないようにいうのだ。
「いずれわかることだから教えてやるけど、アイツよ、推薦入試のときに面接でエライことをいったらしくてさ、推薦落ちたんだ」
「ええっ!」
正雄が思わず声を立てたので前主将は「しっ」と口の前に指を立てた。
「学生の自治活動についてきかれたら、けっこう自分の考えを喋ったらしいんだけど、アイツは、ほら、過激だろ?」
それは想像できた。歯に衣着せぬもの言いで、いままで水泳部を締めてきた男だ。正雄も練習で隣りのコースでなければ、また音楽という共通した趣味がなければ、ちょっと近寄り難いところがあったかもしれない。
他の部員たちにはどう見えたか知れないが、正雄は中学からのつき合いのなかでこのひとの良さを知っていたつもりだった。後輩の教育係であり、頑固一徹に睨みを利かせているが、一方では相談役でもあった。水泳部を引っ張っていく主将の後ろ盾になり、ときには憎まれ役を買ってでもやる、という侠気に後を継いだ正雄としては理想の副将像を見ていたのだ。
いま思い返すと、そうした彼独自の行動は他の部員とヘンに馴れあいにならないためにやっていたのかもしれない。買いかぶりかもしれないが、彼なりの副将像をきちんと描いて演じ続けていたとも思えた。
ひょっとしたら、もう会えないかもしれないという状況になって、正雄は初めて人をリスペクトする、という気持ちになった。
ところが、春休み中の練習に卒業生たちが集まることがあって、そこに沢田もいた。正雄は沢田に再会できたことを顔には出さないが、内心喜んでいた。髪を肩まで伸ばし、サングラスをかけた彼におよそ現役時代の面影はなかった。
「沢田さん、大学いってるんですか?」
プールの前の松林で正雄の問いかけに、ニヒルな笑みを浮かべて応えた。
「一大の経営学部になんとか潜りこんだよ」
一大は日本一の学生数を誇るマンモス大学だった。沢田は推薦で落とされてから必死で受験勉強をしたようだ。もともと成績は悪くなかったので、一大あたりなら余裕で入れたのかもしれない。
「そのルックスは、まさか水泳をやっているわけじゃないでしょ?」
「水泳をやっているように見えるか?」
「どう見ても水泳部ですね」
「だろ?」といって、お決まりのように胸を拳で突いた。ひょろっと背の高い沢田は、長い足をもどかしそうに引きずって歩いた。
「軽音でもやってるんですか?」
「軽音楽? いや、サークルはやってないよ。バンドをやってるんだ」
そういえば去年、リリリと見にいったコンサートに出ていたのを思い出した。
「今年もアレやるんだけど、あれは高校生主体だろ? 今度はオレたちが企画した大学生やセミプロの連中中心のコンサートを五月頃、武蔵野自然公園内にある野外音楽堂でやるんだよ。オマエ、音合わせのバイトやらないか?」
「えっ、ボクがですか?」
正雄は意外だった。まさか沢田に誘われるとは思わなかった。光栄だったのだが、懸念材料があった。
たしかに扇風機などで正雄の歌唱力については沢田がよく知っているし、正雄自身も、上手いと思ったことはないが、声量と音を外さない自信はあった。
ただ、音楽をやっている連中は長髪がお約束だ。正雄のような坊主は、ほぼ皆無だろう。正雄は口にこそ出せないが、それが恥ずかしくて仕方なかった。でも、やりたい気持ちはあったのだ。
正雄は返事に迷った。五月といえば本格的にシーズンに突入する大事な時期だ。しかも、今年は正雄にとって最後のシーズンだ。髪なんか伸ばしている場合ではない。それを見透かすように沢田はいうのだ。
「いいよ、考えといてくれれば。いますぐの話じゃない」
「わかりました」
「ウェンズデイの連中はどうしてる?」
「それが・・・」と正雄はコヤナギからきいた話をした。
「あれ以来、ずっと無視されっぱなしで。最近は見かけることもなくなりました」
「オマエが避けてるからだろ?」
「そりゃ、避けたくもなりますよ。あんな怖い顔で睨まれたら」
沢田は大声で笑った。たしか、ウェンズデイのリハーサルの最後の方では沢田もそうされていたといっていた。
「オマエから声をかけてやれよ」
「なにいってるんですか、沢田さんにできますか?」
「オレはもう卒業しちゃったからな。だって、またやるんじゃないの、あのコたち?」
「どうですかね」
「オマエのサポートが必要になるかもよ」
「もう一本立ちさせましょうよ」
その話は、それ以上続かなかった。そのときはそれで終わった。
後日、正雄は沢田から誘われた件の返事をするために彼に電話した。やってみたいという気持ちを諦めきれなかった。坊主頭は抵抗があったが、断ると後悔すると思った。
だが、電話口に出た沢田の母親は「いま、いないんですよ」といって、すぐ切ってしまった。そのときは様子が妙に素っ気なかったのだが、またかけ直せばいいくらいにしか思っていなかった。
ずっとあとになって水泳部の同僚からきいたのだが、なんと沢田は将来のことで父親と諍いがあって家出したという。正雄にとって最後のシーズンが始まっていたし、自分の進路のこともあって、やがて沢田のことなど頭の中から消えていくのだった。
新学期が始まって正雄は異様なものを見ることになる。それはリリリの姿だった。なにか心境の変化があったのか、ショートカットで可愛かった髪をまるでスポーツ刈りのように短くして、しかも金髪に染めていた。いくら正雄が避けていたとしても、いやでも目立つのだ。もう絶対、声などかけられない。
もちろんツッパリにかぶれた女生徒のなかには特徴的な髪型の子は何人もいたが、リリリのルックスはひと際目を惹いた。まさかリリリはグレたのか、と正雄は思わずにいられなかった。もしそうなら、原因は自分と沢田ではないかと罪悪感が頭をよぎった。
シーズンが始まる頃には、それも気にならなくなった。もちろん、部活動が佳境に入ってきたということもあったのだが、リリリを見かけなくなって、そのうち存在自体を忘れていったからだった。
そんなある日、偶然に講堂の前でコヤナギに出会った。
「おう、元気かよ?」
するとコヤナギは、またしてもあの不穏な笑みを浮かべていうのだ。
「アタシは元気ですけど、センパイ知ってます?」
「なにをだよ?」
「リリリですよ」
そこで正雄は久しぶりに彼女のことを思い出した。そういえば彼女にいったいなにがあったのか。
「なんでアイツ、金髪になんかしたの?」
すると、コヤナギは呆気にとられた表情でいうのだ。
「遅いですよ。もう四月からアレじゃないですか」
「それはオレも知ってるけど、ズベ公にでもなったの、彼女?」
「ロックですよ、ロック」
「ロック?」
「ウェンズデイ終わってからロックに目覚めて、バンドを始めたらしいんです」
それは正雄も意外だった。影響を受けやすい子だとは思っていたが、まさか自分でバンドを始めるとは思ってもみなかったのだ。
「アタシやサユリも誘われたんですけど、ピアノとサックスではねえ・・・ それにアタシたちは別にロックが演りたいわけじゃないので断ったんです」
「怒ったろ?」
するとコヤナギは屈託なく笑った。
「怒りはしないですけど、その後なんとなくつき合いづらくなっちゃってね。そうしたら、いつの間にかバンドをやり始めてたんですよ」
「それであんな髪型にしたのか?」
「そうみたいですよ」
そういってコヤナギは歯切れ悪そうに上目づかいで正雄を見た。それが正雄には、リリリをロックにかぶれさせたのはアンタだといわんばかりに思えた。
「おい、まさかオレのせいだっていうんじゃないだろうな?」
「でも、きっかけぐらいは与えたでしょ」
ロックのレコードを大量に貸したのは事実だ。それがきっかけだといわれれば否定はできない。しかし、決して正雄はリリリに無理矢理ロックを聴けといった憶えはないのだ。
「アイツは一途だからな。やり始めたら徹底的にやらないと気が済まないんだろうな」
コヤナギは大きく頷いて、こういった。
「だから学校辞めたんです」
「学校を辞めた? リリリが?」
コヤナギが、もう一度頷くと正雄は全身の力が抜けるように呆然となった。驚くとか、悲しむとか、そういう次元ではなかった。
彼女に無視され始めたことをわかっていても、同じ学校の生徒なのでリリリを身近に感じられていたのだが、もはや彼女は独りでいってしまった。正雄は、いままでにない喪失感を持った。リリリとのいろんなことが次々と思いだされた。
いつだったか、リリリが直訳した『アイゴートゥピーセス』の歌詞を見て、これがどんな状況の歌かわかるかといったことがあった。避けてはいるが、可愛い彼女が気になっているいまの自分の境遇にそっくりじゃないかと思うのだ。バラバラになりそうな気分を実感していた。
コヤナギがサユリにきいたところによると、都立霊園の西側にある国道沿いのスタンドでツナギを着てクルマにガソリンを入れているリリリを見たらしい。
「スタンドでバイトしながらバンドをやっているのか」
「学校辞めて、家にも帰ってないみたいです」
「ええっ、そこまでのめりこんでるの?」
「なんか、お父さんとそのことで大ゲンカしたらしくて・・・ 」
正雄はいまさらのように後ろめたさが湧いてきた。どうやらコヤナギがいうように、リリリをロックに目覚めさせたのは自分であることを自覚したような気になったのだ。正雄の表情の変化はコヤナギにも察することができたようだった。急に気遣うようなことをいいだすのだ。
「アタシもサユリもセンパイのせいだとは思ってないですよ」
「・・・ 」
正雄は返す言葉がなかった。
突然、真っ青な空が目に映った。強い南風にコヤナギの三つ編みの髪が揺れている。去年は、これがこんな大柄な子ではなかった。
風に乱れた髪型こそショートカットだったかもしれないが、華奢な可愛い女の子だったのだ。大きな眼で正雄を捉えると「センパイ」といった。あそこの掲示板の前に立っていた日のことが、まるで大昔のように思えた。それがリリリだったのだ。
もうリリリも、沢田もいない。まさか、こんなことになるとは一年前のあのときには想像もしなかった。正雄の頭のなかに、リリリが意訳した歌詞の一節が響くのだ。
♪ Good-by Baby 今度会うときまでベストを尽くそう
キミがいなけりゃ ボクはいつもひとりぼっち・・・